アイ・ラブ・ユーでころして

金環 玖

アイ・ラブ・ユーでころして

「お待たせしました」

 コトリ、と僕の前に湯気の立ったカップが置かれる。鼻をくすぐる、炒られた豆の香ばしい匂い。

 心地よいそれをひとしきり楽しんでカップに口を付けた僕は、一瞬後にむせた。僕にはまだ早い代物だったようだ。

 備え付けのミルクを黒い液体に遠慮なく注ぎ込んでいると、カランと店先でベルが鳴った。

「ごめん、待たせちゃった?」

「……姉さん」

 入口から現れたのは、見慣れた姉の姿であり、今日の待ち合わせの相手だった。コートを脱いで、そのまま僕の前に腰を下ろした姉さんは、手元のメニューに視線をやった。

「アキは何飲んでるの?」

「コーヒー。ブラック」

「ふうん。いつもココアなのに、どういう風の吹き回し?あっ、すみません。ミルクティーのホット一つ」

 注文を終えた姉さんは、身体を楽しそうにゆらした。

「アキからお誘いなんて珍しいね。どうしたの?」

「別に。前から気になってたここ、一回来てみたかっただけ」

 ちらり、とコーヒー牛乳を口に運びながら前をうかがう。

「ごめんね、せっかくのカレシとの時間を邪魔しちゃって」

「えっ!?そ、そんなこと一言も言ってないじゃない!と、いうか、そんな時間ないし!」

 とたん、二人掛けのテーブルががたりと揺れ、目の前の白い頬が真っ赤に染めあがるのを冷静に眺める。あいかわらず、からかいがいのある人である。さんざん顔を赤くした後、姉さんは一息ついて店内を見回した。

「……うん。でも、確かにいい雰囲気。プラネタリウムカフェ、だっけ?」

 それにつられて、僕もまわりに目を向けた。

 姉さんの言葉通り、ここは星と宇宙をモチーフとしたカフェである。壁には天の川や銀河の写真が飾られ、星座早見盤を象った時計がこじんまりとした空間を彩っている。流れているのは、きらきら星をアレンジしたピアノミュージック。運ばれてきたカップには星座の絵があしらわれており、細かい部分にまでこだわりが感じられる。

 夜には星をイメージしたカクテルを出すバーに変わるそうだから、さぞかしロマンチックなことだろう。とはいえ、姉さんはともかくとして、高校生の僕は一発退場になってしまうので、昼の訪問と相成ったわけだけど。

 そして、このカフェの一番の目玉は、部屋の中央に置かれたプラネタリウムだ。1日4回、決められた時間に映し出される星空を目当てに、コアな天文ファンの中にも通う者が多いと聞く。

「ふふ。いかにも星オタクのアキが好きそう」

「悪かったね、星オタクで」

「ううん。悪くないよ。こんな素敵な場所なのに、アキが教えてくれなかったらずっと知らないままだっただろうし。……えっと、あの」

 そこまで言って、姉さんは落ち着かなさげに手元に目を落とした。たっぷり10秒は待った後、こちらを向いた姉さんは、真っ赤な顔ではにかみながら告げた。

「……アキ、ありがと」

 思わぬところからの感謝の言葉に、なんだかこちらまで恥ずかしくなって目をそらす。姉さんのこういうところが、ときどきたまらなく苦手だ。お茶に付き合わせて、礼を言うのはこちらの方だというのに。

 それを口に出そうと前に向き直ると、当の姉さんは頬杖をついて、ぼんやりとどこかを見つめていた。その揺らめく瞳の奥に、誰かの影が見えた気がして、思わず剣呑な声が出る。

「……アイツとはうまくいってるの?」

「えっ、あ、何?アイツって……」

「カレシ。今、アイツのこと考えてたでしょ」

「うぇっ!?ち、ちが」

「あー、アイツも星、好きだもんね。今度一緒に来よう、とか思ってた?」

「……さすが、アキには何でも分かっちゃうね」

 困ったように笑う姉さんの姿に、チリと胸が焼ける。

「どうなの。あのカリハラとかいうアホっぽい奴と」

 カリハラ。姉さんのサークルの2個下の後輩で、暫定コイビト。春に入部した先で姉さんに一目ぼれし、半年間の猛アタックの末、つい1か月ほど前、見事その座に納まった男だ。以前、家で一度顔を合わせた時に、「キミがあの『アキくん』ッスね~!」とやけに馴れ馴れしく接してきたのを覚えている。

「もう、口が悪いよアキ。急にどうしたの」

「いや、うまくいってるならいいんだけど。ただ、最近姉さん元気ないなって思ったから」

 ……綺麗な星の下なら、口も少しは緩むんじゃないかって。

 もごもごとそう言うと、姉さんは目をまたたかせた後、少し複雑そうな顔になった。「心配かけちゃってごめんね」と前置きしてから、ぽつぽつと語り始める。

「……うん。ちょっとね、ケンカ中なんだ、今。カリハラくんって、いっぱい『好き』とか『可愛い』とか言ってくれる人で。それが嫌ってわけじゃ、全然ないんだけど。でも私、自分の気持ちを口に出すの、あんまり得意じゃないから」

「うん」

「私もなんとか、彼の気持ちに応えてあげなきゃって思って、けど考えるだけで恥ずかしくって、とても無理で……なかなかできなくて」

「うんうん」

 僕は深くうなずいた。筋金入りの照れ屋な姉さんにとって、ささやかれる愛の言葉、ましてやそれを自分が口にするなんて拷問にも等しい行為だろう。

「たしかに、夜にアイツと電話してるときの姉さん、好きとかあんまり言わないよね」

「ちょっ、盗み聞きとか趣味悪いよ!」

「!……う、うちの壁が薄いの、姉さんだって知ってるでしょ。聞かされるこっちの身にもなってよ」

 あぅ、と恥ずかしさでもだえる姉さんに、話の続きをうながす。

「それで、ついにこの前『なんで言ってくれないんだ』『オレのこと好きじゃないの』って言われちゃって。こっちもムキになって言い返して、口げんかになって……今、ちょっと気まずい感じ。でも、それだけだよ」

 この話はもう終わり、とでもいうように姉さんはカップに口をつける。

 ……それだけ、か。姉さんが言っているのは、おそらく1週間前のあの日のことだろう。あの日、姉さんはただいまも言わずに部屋に閉じこもって、ひとり押し殺した声で泣いていた。ああ、とてもよく、覚えている。

 僕が黙り込んだので、その場に沈黙が訪れる。重く沈み込むようなそれを破るように、声が店内に響いた。

「間もなくプラネタリウムの投影のお時間となります。映し出されるのは、本日0時ごろの星空です」

 マスターの声と共に、徐々に店内の照明が落とされ始める。事前に調べておいた時間に、待ち合わせの時刻を合わせておいたおかげだ。

「それでは、美しい星空をごゆっくりお楽しみください」

 しばらくして照明が全て落ちると、辺りは闇に閉ざされる。

 だんだんと目が暗闇に慣れるにつれ、ぽつり、ぽつり、と光の粒がそこかしこに現れ始めた。そうして映し出されたのは、なるほど、これは見事な冬の星空だ。

「わあ……すごい綺麗だね」

 視界を覆いつくすほどの星々に、姉さんが歓声をもらす。その明るい声が、少し無理をしているように聞こえたのは気のせいじゃないはずだ。僕はぐっと奥歯を嚙んだ。

「姉さん。オリオン座がどこにあるか分かる?」

「オリオン座?あっ、うん、たぶん。……ええっと、あのリボンみたいな形、だったよね?そのくらいは私でも分かるよ」

 そう言って天井を指さす姉さんに、重ねて問いかける。

「じゃあ、オリオン座の神話は知ってる?」

「神話……そこまでは知らないかな」

「分かった。じゃあ、僕が教えてあげる」

 僕は自分の席を立って、姉さんの横に寄り添った。上げたままの指を手に取って、耳元でそっとささやく。

「オリオン、っていうのはギリシャ神話に登場する、腕のいい狩人の名前なんだ。さっき見つけたリボンの結び目にあたる3つの星は、オリオンが腰に巻いたベルトの宝石。だから、リボンの半分が上半身で、反対側が下半身にあたるんだ。リボンのそばに、頭の星と、こん棒を振り上げた右腕、毛皮を持った左腕。下半身からは足が伸びている。これで、オリオン座」

 凛々しい青年の姿が、輝く星々の中に浮かび上がる。一緒にそれをなぞりながら、僕はさらに続ける。

「オリオン座には、こんな話があるんだ。オリオンがいつものように森で狩りをしていると、そこで月の女神であるアルテミスと出会う。アルテミスは、月、そして狩猟を司る女神でもあったので、狩人のオリオンとたちまち意気投合して、仲睦まじく狩りに出かけるようになった。

 でも、アルテミスの双子の弟で太陽神のアポロンは、それを良く思わなかった。

 ある日のこと、姉弟である島に狩りに来ていたアポロンは、沖にいるオリオンを獣と偽って、アルテミスに射かけるように言った。

 そして、アルテミスの放った矢は見事命中。その後、愛する人を自身の手で殺してしまったことを知ったアルテミスは、たいそう嘆き悲しんだ。その姿を見かねた神々の王ゼウスは、アルテミスが乗る月の馬車の通り道に、星座としてオリオンを天にあげたんだ」

 僕が語るむかしむかしの物語に、姉さんが悲痛な声を上げる。

「ひどい、アポロンはなんでそんなこと」

「一説には、『処女神だったアルテミスの純潔性を失わせないため』とも『音楽の神でもあったアポロンと乱暴者のオリオンはそりが合わなかったため』とも言われている。でも、アポロンは寂しかったんじゃないかって、僕は思うよ」

「寂しい?」

「そう。アルテミスとアポロンは、いつも二人そろって神々の会議に出席し、アポロンの奏でる琴に合わせてアルテミスが踊りを披露するような仲の良い姉弟だった。

 一心同体の太陽と月。そんな生まれた時からずっと一緒だった姉が、どこの馬の骨とも知らない男の元へ行ってしまうのは、何より寂しかったんじゃないかな。……僕には、アポロンの気持ちが痛いほどわかるよ」

 姉さんの細い腕を握る指に、ぎゅうと力をこめる。

「あの男は姉さんにふさわしくない。姉さんのことを全然わかってないアイツなんて」

「……アキ?」

「ねえ、姉さん。姉さんは本当にカリハラのことが好きなの?告白されて、断れなくて、優しい姉さんが無理して付き合ってるだけじゃないの?」

「いっ!アキ、離して」

 おっと、つい力が入りすぎちゃったみたいだ。重ねていた手をどけると、姉さんはおびえたように視線をさまよわせた。

「アキ、どうしたの?なんか、怖いよ」

「姉さんを一番分かってあげられるのは僕だよ。姉さんのことは、いつまでも僕が照らしていてあげる。アルテミスのように、僕の鳴らす琴の音で一生舞い続けていればいいんだ」

「あ、アキ……」

「姉さん。僕、アポロンと同じ事をしようと思うんだ」

 そう笑いかけると、ひゅっと姉さんの喉が鳴った。

「そ、それ、どういう」

「言葉通りの意味だよ。姉さんを騙して、カリハラを射かけさせるんだ。姉さん自身の手で」

「そんなこと……」

「できないって思ってる?だってほら、」

 今この瞬間にだって、それが行われているかもしれないのに?

 きらめく人工の瞬きの下で、姉さんの頬にそっと指を滑らせる。そこは可愛そうなほど血の気が引いて、青くなってしまっていた。

「だいたい、アイツの『好き』なんて信用できないよ」

 震えるそこを指で温めてあげながら、姉さんの耳にささやく。

「あんなチャラ男、どうせ口だけでいつか姉さんのこと捨てるに決まってる。姉さんは遊ばれてるだけで」

「アキ」

 凛とした声が、僕の言葉を遮った。姉さんは涙目になりながらも、きっと眉をつり上げて僕を睨みつけた。

「カリハラくんは、そんな人じゃない」

「そんなの分かんないよ」

「分かるよ。……カリハラくんは、すごく優しい人なんだよ。付き合ってなかった時だって、私が気持ちを整理できるまで、ずっと返事を待っててくれた。付き合ってからも、私の事、すごく大事にしてくれて。あ、愛されてるなって感じるから。

 ……ずっと私、『好き』って気持ちは、言わなくても伝わるって思ってた。たしかにそうかもしれないけど、でも、それだけじゃダメなんだって。

 だから私からも、自分の気持ちをちゃんと伝えたい。私が今までたくさんもらった『好き』を、カリハラくんに返したいの」

 たどたどしくも自分の思いを言葉にのせる姉さんに、静かに返す。

「迷惑じゃ、ないの?」

「……いっぱい『好き』って言われるのは恥ずかしいけど、でもそれ以上に、とっても嬉しいから」

 真っ赤な顔で、姉さんは心の底から幸せそうにほほえんだ。

「じゃあ、姉さんはカリハラのこと、好き?」

「す、好き。大好き!」

「カリハラといると幸せ?」

「幸せ!ちょっと、ドキドキしすぎちゃうけど」

「僕が嫌だって言っても?」

「……うん。いくらアキでも、私の大切な人にひどいことしたら、ぜったい許さないよ」

 そう答える姉さんのまっすぐな瞳に、迷いはない。僕はほっと息をついた。……これなら大丈夫だろう。

「……出てきてもいいよ、『オリオン』」



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 もう、我慢できない。

「み、ミツキさん~~~~~~~~」

 いてもたってもいられなくなったオレは、店内が明るくなると同時に、死角になっていたカウンターの影から飛び出した。

「えっ!?か、カリハラくん?」

 ぐちゃぐちゃの顔で現れたオレの姿に、ミツキさんは目をまんまるに見開いた。その横でアキくんが露骨に嫌そうな顔をする。

「うわ……顔くらい拭いてきなよ」

「ううっ、ミツキさんがそんな風に思ってくれてたのに、オレは、オレはっ……」

「え、えっ!?な、なんで、カリハラくんがここに」

 状況を呑み込めていないミツキさんが、きょろきょろと助けを求める。男泣きするオレが役に立たないと判断したのか、アキくんがため息をついて話し始めた。

「……僕、実は今日、待ち合わせの時間より早めに来てたんだ。せっかくプラネタリウムがあるなら、先にどの星座があるか確認しておいて、姉さんに解説してあげようと思って。そしたら……」

 鼻をすすりながら、オレはつい1時間ほど前の出来事を思い出す。オレが、最近見つけたお気に入りのカフェで、星空とコーヒーを楽しんでいた昼下がり。カラン、というベルの音に視線を向けた先には、なんとミツキさんの弟であるアキくんの姿があったのだ。

「ぐす、いや、アキくんも星が好きってことは聞いてたけど、まさかこんなところで会うとは。しかも、話を聞いたら、この後ミツキさんも来るっていうもんだから……」

 絶賛喧嘩中のミツキさんと顔を合わせるのはよくないだろうと、オレが挨拶もそこそこに店を出ようとしたところ、アキくんに勘づかれて、結局すべてを洗いざらい話すことになった。

 ミツキさんがなかなか好きと言ってくれないこと。自分ばかり好きなのではないかと不安なこと。そして、それが原因で仲違いしてしまったこと。

『まぁ、ミツキさんがそういうの苦手な人なのは分かってますから。オレが我慢すればいいだけの話ッス』

 そうしてその場を去ろうとしたオレに何か思う所があったのか、アキくんはこう言ってオレを引き留めたのだ。『待って。僕に考えがある』

 こうして作戦会議の結果、オレとアキくんによる極秘ミッションは実行されたのだった。

「盗み聞きはダメ、って言われた時は正直焦ったよ。しかも、直接本人には言えなくても、僕になら本音を漏らすんじゃないかと思ったのに、なかなか言ってくれなくて困ったから……途中から、ちょっと強硬手段に出ちゃった。どう、病んでる演技、なかなかよかったでしょ?」

 いたずらっぽく笑うアキくんに、オレは内心冷汗をかく。上手かった。上手すぎて、何回かストップをかけに入ろうか迷ったほどだ。

「ちょ、ちょっと待って!じゃあ、カリハラくんは最初から全部聞いてたの?」

「うん。そういうこと」

 全てを理解したミツキさんの顔が、徐々に染め上がっていく。

「じゃ、じゃあ、あれも、これも……」

「『カリハラくんはそんな人じゃない』」

「うっ……」

「『愛されてるなって感じるから』」

「あうぅ」

「『好き。大好き!』」

「~~~~~アキのばか!嘘つき!」

 顔から湯気を出しながら、ミツキさんが抗議の声を上げる。

「嘘はついてないよ。言ったじゃん、『姉さんを騙して、カリハラを射かけさせるんだ。姉さん自身の手で』って」

「あ~、なるほど!いやもう、ミツキさんの思い、オレのハートのど真ん中をぶち抜いてまじで死ぬかと思いました!刺さりすぎて、幸せすぎて、クリティカルヒットってかオーバーキルッスけど」

 えい、とアキくんが矢を射かけ、オレが胸を押さえる真似をする。いよいよゆでだこのようになったミツキさんは、「ちょ、ちょっとタイム……」と言って、ふらふらとお手洗いへ歩いて行った。

 後には、オレとアキくんの二人が残される。すると、すすすっと、アキくんがオレの横にやって来た。かたわらの共犯者へ、オレはねぎらいの言葉をかける。

「アキくん、ありがと。あと、オレたちのごたごたに巻き込んじゃって、ごめんな」

「ううん。僕がそうしたい、って思っただけだから。……それに」

 アキくんは少し言いよどんでから、小さくつぶやいた。

「最初は、アンタが姉さんを無理やり付き合わせてるんだと思ってた」

「!そっ、スか……」

「いい機会だと、思ったんだ。もし今日、少しでも姉さんが嫌だとか無理してるとか言ったら、無理やりにでも別れさせるつもりだった。でもそれは、僕がそう信じたかっただけで」

 ほとんど独白に近いようなアキくんの告白に、じっと耳を傾ける。

「ほんとに、嘘はついてないんだ。アポロンの気持ちが分かるって言ったのも、ほんとう。夜空に行けるのはオリオンとアルテミスだけで、いつだって、置いていかれるのは僕の方なんだ」

 寂しがりのアポロンは少し悲しそうに笑う。それにつられて、オレもぼんやりとオリオン座の神話を思い返した。

「……オレはね、オリオンの悲劇は、アルテミスもアポロンもお互いの思いを伝えなかったのが原因だと思うんスよ。アポロンの『本当は寂しい』『捨てないで欲しい』、アルテミスの『心配しないで』『アポロンのことも大事だよ』って気持ちが伝わっていたら、こんなことにはならなかった」

 そこで、神妙な顔で話を聞いている頭をぽんと叩く。

「でも!アキくんはアポロンじゃないし、ミツキさんはアルテミスでもない。そうでしょ?だいじょうぶ。ちゃあんとアキくんのこと分かってるっスよ、ミツキさんは」

 にっと笑いかけると、アキくんがわずかに目をみはる。そのまま、猫の毛のように手触りのいい髪をかきまぜてやると、その瞳がくすりと笑った。

「へえ。カリハラって意外とイイ奴なんだね」

「なっ!?い、意外と!?」

「だって、見るからに何も考えてなさそうじゃん」

「ちょくちょく気づいてたけど、アキくんけっこ~オレに辛辣ッスよね!?」

「そんなことないよ。だって事実だもん」

 すました顔でのたまうアキくんを横目に、オレはさも今思い出したかのように話を切り出す。

「あ、そういや、なんでアキくん飲めないのに、ブラックコーヒーなんか頼んだんスか?」

「はっ!?い、いきなり何」

「もしかして、オレが飲んでたの真似して―――」

「な、そ、そんなわけないし、全然ちがうし!」

「ふ~ん」

「ぐぅっ……」

「もう、二人でずいぶん楽しそうだね」

 オレがアキくんとじゃれ合っていると、ちょうどミツキさんが帰ってきた。まだ顔は赤いけれど、会話ができる程度には回復したみたいだ。

 そんな彼女の元へ、硬い表情のアキくんがつかつかと歩み寄る。そして、勢いよく頭を下げた。

「姉さん、ごめん!勝手にこんなことして」

 弟の突然の行為に、ミツキさんは一瞬虚を突かれた顔をする。それから、ふっと表情を和らげた。

「いいよ、アキ。顔上げて」

「……姉さん」

 ミツキさんが、優しい手つきでアキくんの頭をなでる。

「アキが私のためにやってくれたことだ、って分かるから。私が言葉に出せるようになるまで時間がかかると思って、このままじゃ私たちの仲がもっとこじれるんじゃないか、って心配してくれたんでしょ?ちょっと、方法は強引だったかもしれないけど。でも、結果的にカリハラくんに伝わってよかったから、怒ってないよ」

 アキくんは、姉に負けないくらいの赤い顔でミツキさんの手を受け入れていた。照れた顔は姉弟でよく似ている。

「ごほん」

 しばらくの後、オレがわざとらしく咳をすると、アキくんははっと思い出したように飛びのいた。

「あ!っと……ぼ、僕はこの辺で。あとはお若い二人でよろしくどうぞ。姉さん、後で払うから僕の分つけといて!ごちそうさまでした!」

「あっ、ちょっと、アキ!」

 ばたばたと、アキくんが急いで荷物をかき集める。上着をひっかけて入口へ走り抜ける瞬間、オレの耳に声が吹き込まれる。

「もし、僕の姉さんを本当に悲しませたら、ただじゃおかないからね」

 ばっと振り向いた時にはもう遅く、手を振ってドアの外に消えていく姿をオレはぽかんと見つめるしかなかった。

「もう、お若い二人って。……どうしたの?」

「いや、けなげなナイトだなあって」

「ふうん……?」

 やきもち焼きの可愛い騎士様からの宣戦布告に、オレはなんだか微笑ましい気持ちになった。あの様子だと、彼が対抗心を燃やす男が、その実彼の立場をひどくうらやましいと思っているなんて、露にも気づいていないのだろう。

 まったく、オレがなぜ恋人の弟の顔と名前をこんなによく覚えているのかを考えてほしい。いや、仲良しの弟との出来事を嬉しそうに報告してくれる彼女に悪気はないんだろうけど。

 本当は、このカフェにだって、オレがいちばんに連れてきてあげたかったのに。なんてまあ、絶対言ってなんかやらないけどな!



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 あらためて席に着いて、ミツキさんに向き直る。キャストが一人減ったところで、仕切り直しだ。さて、仲なおりをはじめよう。

「うぅ、冷静になるとまた恥ずかしさが戻ってきた」

「ミツキさん、カオ隠さないでくださいよ」

 そう言って顔をのぞき込むと、彼女はふいと目をそらしてしまった。

「もう、重い女だって思われたくなかったのに」

「え~?それを言うなら、半年間同じ人にアタックかけまくってたオレの方がよっぽどッスよ」

「……あはは。確かにそうかも」

 オレが茶化すと、ミツキさんはやっと力が抜けたように笑った。ふっと緩んだ空気に、どちらからともなく頭を下げる。

「ごめんなさい。私、ずっとカリハラくんに甘えてた」

「オレも、試すようなことしてごめんなさい。片思いの期間が長かったから、好きなのはオレだけなんじゃないかって不安になっちゃって……待つのは慣れてるつもりだったけど、オレもまだまだッスね」

 オレは頬をぽりぽりと掻いた。

「でも大丈夫ッス、しばらくは今日もらった言葉で生きていけます!」

 そう言って親指を立てるオレに、ミツキさんは慌てたように身をのりだした。

「きょ、今日は不可抗力みたいなものだから!今度またちゃんと、伝えるから!い、今は無理だけど、がんばって、すぐに、言えるようになるから……!」

「い、いやいやいや!オレもう今日の分だけで胸いっぱい、ひん死、ッスから!これ以上はまじで死んじゃいますよ。ミツキさんのペースでいいですから」

 勢いづくミツキさんを制しながら、おだやかに語りかける。

「……オレ、こんなナリだから、よく軽いヤツだと思われがちで。だから、その分『好きだ』って、できるだけ口に出すように心がけてるんです。でも、いつのまにかそれがやりすぎになってて、ミツキさんに余計な気を遣わせちゃって……あ~、オレカッコ悪いッスね。ミツキさんの前では、包容力のあるカッコいい男でいたかったのに。いや、こんな目ぇ腫らした顔で言うのも今さらですけど!」

「カリハラくん……」

「でも、オレの言葉をミツキさんは信じてくれた。オレの『好き』って気持ちはちゃんと届いてたんだ、って。それが分かっただけで、オレは、十分嬉しいッスよ」

 ミツキさんの目を見つめながら、するり、と彼女の指に自分のそれを絡める。触れた場所から伝わる温かなぬくもりに、オレはなんだかまた泣きたい気持ちになった。

「オレは欲ばりだから、やっぱり口に出してほしいって思っちゃうけど。それでも言葉がなくたって、こうやって触れあって、目を見れば、ミツキさんがオレを想ってくれてること、しっかり伝わります。だから、ミツキさんはぜんぜん無理しなくていいんスよ」

「……でも、それじゃ今までとおんなじだよ」

 ミツキさんはぐっと唇をかんだ。

「ああもう!わ、わたしだって」

 突然腕を引っ張られて、気がつくとミツキさんの顔が目の前にあった。どきん、と心臓が跳ねあがる。

「み、ミツキさん!?」

「つき!」

「へ?つ、月?」

「っ!……つ、『月が綺麗ですね』!」

 まつ毛が触れ合いそうな距離で、彼女が必死に言葉を紡ぐ。リンゴのように染まった頬。うるんでとろりと溶けだしそうな瞳。ハの字に下がった眉。震える唇。

 ぐらり、とオレは全身の血が沸騰する錯覚を覚えた。いくらここがプラネタリウムカフェといっても、月が展示されているわけではない。だからそう、これはとっても有名で、ベタなあの言葉だ。かの文豪が奥ゆかしい日本人のために訳した【I love you】。

 ああ、彼女は、たしかに月と狩猟の女神なのかもしれない。恥ずかしがりの女神が精いっぱいで放った愛の矢に、完全に不意討ちで射抜かれたオレは心の中で白旗をあげた。降参だ。だからオーバーキルだって言ったのに。至近距離で食らったはじめての『愛してる』が、こんな破壊力だなんて聞いてない!

「か、カリハラくん……?」

 目を閉じて動かなくなったオレに、しとめた張本人が不安そうに声をかける。

「……ミツキさん、さっきのオリオン座の神話、覚えてます?」

「う、うえっ!?」

「オリオンとアルテミスの話は悲劇だと言われてますけど、実はオレ、そうは思わないんスよね」

 なんでもない風を取りつくろいながら、オレはぞくぞくと全身がわななくのを感じた。

 さあ、いじらしいアルテミスの愛の言葉にいったいなんと応えよう。力いっぱい抱きしめる?『ミツキさんも綺麗ッスよ』と口説く?いやいや、それじゃあまりに勿体ない。せっかくだから、オレもかの小説家の有名な言葉を借りるとしよう。彼女にふさわしい、遠回りな【I love you】を。

「オレは、オリオンは幸せだったんじゃないか、って思うんスよ。だって、愛する人に殺されるって、世界で一番大切な人に、自分の最期を託す、ってことじゃないですか?オレにとって、これ以上にしあわせなことなんて、ありません」

 そう、愛するあなたの手にかけられるのなら、本望だ。

 ひとことひとこと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。まるで、弓に矢をつがえて獲物に狙いを定めるように。

 忘れてもらっちゃ困るが、オリオンだって凄腕の狩人だったのだ。

「え、ええっと、つまり……?」

 あっけにとられるミツキさんの頬を両手で包み込んで、女神の心を射止める一撃必殺の矢を放つ。



「あなたのためなら、『死んでもいいわ』ってことっスよ!」



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