茶んづけ?

芳賀 概夢@コミカライズ連載中

自主企画「夏だよ 一つのプロットで文体見せ合いっこ!」参加作品

茶んづけ?

 俯けば額からにじみたれる滴は、眼鏡のレンズを走り不機嫌を煽ってくる。不快な湿気に包まれながら、いやだいやだと心で唱えていたが、手の平に触れた取っ手の冷たさがわずかな救いになってくれた。

 しかし、生意気にもその取っ手、ガチャと鳴いて回ることを拒んでくる。

 ああ、わかっていた。わかっていたが、少し忌々しい。もっと早く帰れれば、この辛い時間も楽しい時間になるというのに。どうにもできない現実に、心がつつかれ続けているような気分だ。「仕事」「残業」「生活費不足」……うるさい、うるさい、わかっている。

 ざわつく心。だからと言って、騒がしく駄々をこねるわけにはいかない。気分と同じように重々しく、ゆるりと静かに扉を開ける必要がある。


 遠くでアブラゼミが鳴いている。夜中だというのに非常識なその鳴き声が耳につく。それを打ち消すぐらいの溜息は許されるだろうか。いや、許してほしい。家の中に、このため息を持ち込みたくない。

 ふうと吐き、いつも通り鞄へ手を突っ込み中を探る。


 と、今度は取っ手が軽快な音と鳴らして身を震わせ、扉が軽々と内側に開いた。

 目を丸くしていると、そこからカラッとした心地よい風を伴いながら、涼しげな笑顔が現れる。


「お帰り、アキちゃん! おつかれさま!」


 無精髭を携えたオッサンに「ちゃん」はやめろと眉を顰めるも、まばゆい明かりに口元は緩んでしまう。現金なもので、すでに身も心も軽い。部屋からの科戸の風が、不快な空気も、不機嫌な心気も吹き飛ばしてくれていた。


「ただいま。明日、学校なのに、まだ起きてたのか」

「うん。これでもミカ、妻……だからね」


 いまだに「妻」に慣れないのか、自分で言いながら俯き加減になる。それがまた愛らしいのだが、こういう時に褒めると手痛い照れ隠しを食らう。オッサンの上に体力がない今、張りのある肌による平手は命にかかわる。


 涼しいリビングに入ってネクタイを外し、皺だらけのスラックスを脱ぐと、ミカがすぐに受け取ってハンガーへ直通。1LDKのベランダ付近につるされる。湿気を取るためか、クーラーの風でぶらぶら、ぶらぶら。

 次に身に着ける時までには、ネクタイもスラックスもしっかりと皺が伸ばされていることだろう。そして明日の朝には、また会社で「センスがよくなった」と褒められるネクタイやスラックスが用意されている。

 つい先日までの独り暮らしでは考えられないことだった。


「アキちゃん、ご飯にする? お風呂にする? それと――」

「ご飯で」


 誘惑的な言葉を遮る。ミカがリップでケアされた艶やかな桃色の唇を尖らすが、こればかりは致し方ない。

 このシチュエーション、独り身の時にはあこがれた浪漫だった。否、一個人の問題ではなく、まさに連綿と続く全世界の独身男性の浪漫であるはずだ。

 が、毎日それが続くと、ミカと違い体力的につらいのだ。

 せめて中休みはさせてほしい。そうは思うのだが、あの言葉を聞いてしまうと箍が外れる。そのままなら噴きださない炭酸飲料も、刺激を与えれば噴きだすものだ。長かった独り身時代にたまりにたまった炭酸は、まだまだ気が抜けていない。


「今日は胃が重いし、ささっと手早く食べられるものなんかあるか?」

「う~ん……あっ! まかせて!」


 ピンクの水玉で飾られたパジャマの肢体をくねっとまげて、上目使いでにっこり若々しい花を咲かせる。満面の笑みをひまわりに喩えた人は天才じゃないかと思う。まさにそれ。むしろ、その笑顔が太陽だ。今が夜中であることを忘れそうなぐらい、眩しい笑みがそこにあった。

 これだけで生きててよかったと思うのは単純だろうか。


 台所でミカが動き回る物音を聞きながら、いつの間にか手に渡されていたパジャマのズボンをはく。水色の水玉。色違いのお揃いも最初は恥ずかしかったが、どうせ二人しか見ないのだから気にすることはない。

 袖がまだ張りついているワイシャツを脱ぎ捨てる。上は下着でいいだろうと、そのままテーブルにつく。すると、とたんに全身が重くなる。椅子におろした腰に重石が付けられたようだ。足から根が生えて、もう動くことができない気がする。


 これはもう、このまま寝てしまおうか。そう思った時にトントンと、まな板を叩く包丁の音が聞こえてくる。リズミカルなら眠気を誘うかもしれないが、まだまだぎこちない、危なげなリズムで目が覚める。

 それも仕方ないだろう。このつたない音楽家がリズムを習い始めてすぐ、先生たる母親が父親とともに他界してしまった。それから一人でリズムを刻むも、まだまだ日が浅い。

 だから、この演奏家が危なげなくリズムが刻めるようになるまで、両親の代わりに見守ろうと思っていた。それがどこをどう間違えたのか、養子ではなく夫婦という形で見守ることになったが、根本的には変わらない。願うことは一つだけだ。


「できたよ! だし醤油を使ったお茶漬け! それと、キーンと冷えたビールです!」

「ビール……よく一人で買えたな」

「えへへ。酒屋のおばちゃんとは知り合いだからねー」


 テーブルに並べられた茶碗には、金色のだし汁に浮かぶご飯。その上に湯気で踊る刻み海苔、炒りごま、鮭フレーク、梅干し、そして刻まれた白髪ねぎがのっていた。白髪ねぎの形は、まあまあ整っている。初めのころから比べたらすごい進歩だ。


「上手になったな」

「ネギ切っただけだよ! それに……」


 そういって、自分の分も用意していた茶漬けに箸をつけた。そして小首をかしげて低くうなる。顔に「不満」と書いてあるかのようだ。


「ママもパパが遅くに帰るとお茶漬け、作っていたんだけど……ママのと違うんだよね、なんか味が……なにか足らない!」


 そう言われて食べてみるが、味は十分にうまかった。だし汁が効いていて、具材があまり入っていないのに箸が進む。だが、ミカは褒めても納得しない。


「ねぇ、アキちゃん。練習したいから、これからもたまにお茶漬け、作っていい?」

「……『茶漬け』は好きだからいいけど。やっぱり『ちゃん付け』はそろそろやめないか?」

「うわ~。アキちゃん、オヤジギャグだ!」

「違う。オッサンに『ちゃん』はおかしいと」

「……なら、『ご主人様』とか?」

「それは何ごっこだ。普通に『アキオ』でいいよ」

「うっ……。じゃあ……アキオさん……」

「…………」

「…………」

「……顔真っ赤だな」

「――!!」


 やはり、ミカの平手は痛かった。




 ――数年後。

 茶漬けの味にミカが満足できた頃、ちゃん付けもされなくなっていた。

 ただ、「アキオさん」と呼ばれることもなかった。





 代わりに「パパ」と呼ばれるようになっていたからである。

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