第33話 たくさんの感謝を込めて

 セリカの顔で感情を表出するエリザの表情は、奇しくもセリカが抱いていた笑顔と重なっていた。

 かくれんぼを楽しんでいた時の笑み。

 鉄斗たちと遊んでいた時の笑顔。

 その顔で、エリザは鉄斗たちと交戦している。いや、まさに遊んでいるのだろう。


「剣が届かん!」


 斬撃を放つアウローラは、その脅威的回避性能に狼狽していた。どれだけ剣を振るおうとも、まるでそういうシステムが働いているかのように回避される。


「ふむふむ、どうした? ワラワが生きていた頃の魔術騎士は、もっと苛烈であったぞ」


 ぐあッ! という悲鳴を上げて彼女は吹き飛ばされる。その間に指示していた強力なルーン魔術を、鉄斗はピュリティの力を借りて発動したが、


「ぬるい」


 子どもが投げたボールを、大人が難なく投げ返すように。

 炎のルーンはエリザの見えない壁で反射され、鉄斗たちを襲った。まともな防御すらできずに食らい、地面へと叩きのめされる。


(くそ……どうする)


 倒されるのは構わない。何度だって立ち上がってみせる。

 しかし今までの敵と違って、解決策が存在しない。そもそもこれは負け惜しみ。

 往生際の悪いあがきだ。負けが確定している段階での、無意味な闘争。


(何か手を打たないと……彼女に呼び掛けるとか)


 当然のようにセリカの意識が消滅する前提で話を進めていたが、彼女の意識が残っている可能性もゼロではない。魔術構成を現代風に言い表すとすればプログラムだ。ハッカーやシステムエンジニアがコンピューターで入力する言語の塊だ。

 そして、プログラムには必ず脆弱性やバグが存在する。魔術もそうだ。どれだけ丁寧に術式を編んでも必ず綻びが存在する。時には、使用者の予期しない弱点が。

 正攻法ではバグは引き起こせない。術者がよほどの怠慢をしていない限り、致命的なエラーをそう簡単に引き起こすことはない。事前に潰しておくからだ。

 だから、予期せぬ動作を引き起こす必要がある。

 単純な術式破壊ではなく、意表を突いた。


「セリカ!」


 鉄斗は立ち上がりエリザに向かって叫ぶ。バカらしい行為だ。しかしバグは得てして、そういう間の抜けた行為によって引き起こされるものだ。


「深層心理に訴える……ふむ、悪くない試みじゃな」


 エリザはバカにしなかった。……驚きをもたらせていない。


「しかし、タイミングはいささか悪い」


 そう告げた瞬間、鉄斗はエリザのキックを腹部に受けていた。瞬間移動したかどうかすらあやふやだった。凄まじく速い。認識する前に攻撃を受けている。

 それほどのスピードながら、ダウンはしない。加減されている。いつ殺されてもおかしくないのに。

 そして、それは光明にも繋がる。鉄斗は踏ん張って殴り掛かった。エリザは難なく受け止める。


「遅いぞ、少年。ふむ? 注意を引き付けておいて――」


 投げナイフがエリザの顔に命中する寸前で、柄を掴まれる。派生して放たれた閃光に対しても彼女は涼しい顔だ。目を瞑って、アウローラの剣を避ける。鉄斗を拘束したまま。


「セリカ、出てきて!」


 そこへピュリティが氷弾を撃ち込んだ。エリザの右肩と左足に命中したが、氷漬けになった部分から氷が棒状に伸びて逆にピュリティの身体へ着弾する。


「術式を解析し、再利用する。そのアイデアは悪くはないのぅ」


 エリザは説教するかのように三人を見回した。アウローラは念動力のようなもので身動きが取れなくなる。


「しかし未熟、という評価しか浮かばぬ。まぁ、環境が悪いか。素材はこれほど良いのに。……つまらぬ組織に属していたようだ。おお、貴重な幼少期を……」

「貴様が、私を語るな……!」

「言葉こそ勇ましいが、練度が足りぬの」


 アウローラは行動できない。拘束が強まって苦悶の声を漏らすだけだ。

 鉄斗は左手で殴り掛かる。エリザは身体を硬質化させて実力差をもう一度見せつけた。

 左手の骨にひびが入る。苦痛がそこから溢れ出す。

 光弾が右肩と左わき腹に打ち込まれて、鉄斗は膝を突いた。

 そのまま動かなくなる。


「ふむ、諦めたか?」


 エリザは鉄斗の顔色を窺う。鉄斗は目を閉じていた。


「分不相応を弁えて、抵抗の意志を閉ざしたか?」

「……あんたの中には、セリカの知識も残っているんだろう?」

「うむ」

「じゃあ、俺がどういう人間なのか、わかるはずだ。どうして戦うかも」

「そうじゃな。そうかもしれぬ」


 エリザは鉄斗に同調したうえで、


「しかし不屈だとして、どうする? 諦めぬから……否、お主の言葉を借りれば、諦めているからと抗ったところで、どうしようもない事象も存在する。イカロスが翼をもがれたようにな」

「そうだ、わかってる……」


 ロウの翼で空高く飛べると信じていたイカロスの末路を語る。

 どれだけ精神的な強さを持っていたとしても、解決できない事項というのは必ず存在する。

 諦めなければ成功するのなら、諦める人間はいなくなる。しかし現実はそうじゃない。

 みんな諦めている。夢を叶えた人間より、夢を捨てた人間の方が圧倒的に多い。


「ああ……同じことをしていても、無理だ」

「であれば」

「違うことを、するだけだ……!」


 鉄斗は再起した。エリザに向かって体当たりをするが、彼女はひらりと躱す。しかし鉄斗は止まらない。どころか戻らない。

 そのまま背後に控えるイリーナの元へと直進する。


「む?」

「おい、あんたは!」


 イリーナは防御壁を構築した。鉄斗は壁に激突するが、その見えない壁を両手で押した。

 びくともしないが、関係ない。違うことをしている。


「何事ですの? あなたの相手はエリザ様でしょう?」

「違う! 俺はセリカを助けたいだけだ!」

「わからず屋ですこと。セリカは望んで生贄となったのです。私は母親。ならば娘の願いを叶えるのは当然のことでしてよ」


 イリーナは無感情の眼差しで鉄斗を射抜く。どの親戚とも違う瞳だった。

 何も感じていないように見える……いや、それはおかしい。

 娘の死を悲しんでいならともかく、何も感じていないのは不可解だ。

 なぜならこの儀式はヴァイオレット家の悲願だったはずだ。もしセリカに何の感情を抱いていないとしても、歓喜の念は持っていても不思議ではないはずだ。

 反吐が出るが、そういうシステムも人間には組み込まれている。

 しかしこの無感情は……バグだ。


「あんたは娘のことを……ぐあッ!」

「ワラワを前にして背中を晒すとはいい度胸をしておる」


 エリザの光弾で背中を浅くえぐり取られる。血が迸る音が聞こえたが、鉄斗の視界にエリザは入らない。


「生命の危機であるのに振り返りもせずと。いいぞ。実にいい。むッ」

「貴様の相手は私たち姉妹だ!」


 アウローラがエリザの相手を買って出た。剣を振るうのは一人――だが、その剣の煌きは先程よりも増している。ピュリティが魔術的バックアップをしているのだ。そのロジックはエリザには筒抜けで、大した時間稼ぎにはならない。

 それでも確かに、時間はできた。鉄斗は壁を押す。動かなくてもいい。動くから押しているわけではないのだ。


「あんたはそれで満足なのか!?」

「母親として」

「母としての定型なんてどうでもいい! あんたは娘を失って悲しくないのか? 当然だと受け入れるのか! 俺は嫌さ! セリカは何か悪いことをしたのか!? 何もしてないだろう!」

「知っているでしょう。悪事を働いたから、罰を受ける。殺される。……そう単純な世界ではないことを。むしろ……実態は、その逆であると」

「知ってるとも! だから、しょうがない。……そんな言葉で片づけたくないな! だとしても、どうにかする! どうにかしようと抗う! それが俺だ!」

「立派ですわね。それが、なんでしょう。私には何も響きませんわ」


 見えない壁の方が逆に動き出した。鉄斗は踏ん張ることができずに後退させられる。でも、押し続ける。理由はもはや語る必要性がない。


「そうだ、それがおかしいんだ!」

「何ですって?」


 鉄斗の指摘に壁の動きが止まった。


「あんたは悪辣な方法で、家の悲願を成就させた! なのになぜ、無感情に振る舞ってる!? もしそれが望んだ結果なら喜んでいいはずだ! もしこれが望まない結末だったとしたら、嘆いているはずだ! なのにどうして感情をシャットアウトしている!? 喜びも悲しみもせずに、どうしてここにいる!」

「あなたには関係ありません――」

「あるね! 俺はセリカの友達だからだ! そして、セリカに俺の話をしたのは、あんただからだよ! どうしてよりにもよって無能で疎遠で裏切り者であるはずの俺の話をセリカにした!? なんで俺をこの場に呼んだ!? 俺がいなくても儀式は成立したはずだ!」

「ただの気の迷い。そして、儀式の成功確率を高めるため、ですわ」

「嘘をつけッ!!」


 鉄斗は壁を殴りつけた。砕けたのは壁ではなく拳。しかし言葉は壁を貫いてイリーナへと届いている。


「あんたはセリカを大切に育てたはずだ! セリカはメキシコのドラッグカルテルで拾ったんだろう! メキシコ政府は麻薬戦争でカルテルと戦っている! そこに外部の魔術師が介入することを好ましく思わなかったはずだ! メキシコの守護者に反発も受ける! なのに、セリカの記憶の中であんたはいの一番に駆け付けた! 最初からマークしてたんだろう! それは否定しない。けどな、セリカはあんたのことを愛していた! 恭順や錯覚じゃない! 本当の親愛だ! そんなものを獲得するためには、本気で愛さないと無理なんだよ! そして、本気で愛していたのなら、悲しまないはずがないんだ! だから、魔術で感情にふたをしてるんだろう! ふたを開けてしまったら、一族の総意から外れてしまうから!」

「……噂通りの頑固者、ですわね」


 殴ろうとした壁が消えて、鉄斗はバランスを崩す。どうにか体勢を戻してイリーナを見つめる。

 彼女は呆れていた。笑ってもいる。

 感情のセーフティが外れていた。髪を最初に見せたように払う。高慢な態度だ。それでいて、どこかズレている。


「せっかく隙を窺っていましたのに、台無しですわ」

「あんた……いや、あなたは」


 イリーナは魔術を発動して、問い詰めようとしてきた親戚の男を吹き飛ばした。


「あなたとあなたの父親というものはどうしてこう、大局的な視点というものが欠けているのでしょう。時には、多少の傷を受ける覚悟で行動しなければなりませんわ」

「傷なら――」

「自分自身以外で、ですわ。退きなさい」


 イリーナはアウローラと交戦中のエリザの元へ歩み寄る。エリザはアウローラの剣を受け止めて、光弾を散弾状に放ったが、アウローラに命中する前に透明な壁がガードした。


「あなたも離れなさい」

「ふむ、イリーナ・ヴァイオレット。この身体はよく反応しておるな」

「反応しているのは、セリカだけではありませんわ。ふふ、実に精巧な術式でした。おまけにどこかの誰かさんが無断で仕込んでいたおかげで、より強固なものへ変わりました」

「あなた……ふん」


 クルミが驚き、そして動き出した。隷属していたかに見えたヴァイオレットの姉妹が歩調を合わせ始める。


「謀をするつもりなら、最初から言えばいいじゃない」

「意気地なしに求める助けはありませんわ」

「盲目的信者を手助けするつもりはなかったけどね」

「お前たち、何を!?」


 ウェルスが愕然として叫ぶ。従っていたと思われた二人があっさりと立場を変え、エリザ・ヴァイオレットと対峙しようとしているのだ。驚かない方が難しい。


「何を? おばあさま。それは」


 イリーナは杖をエリザに向けた。自分の娘の身体を操っている魔女に。


「簡単なこと、だわ」


 クルミを杖を握りしめ、二人同時に魔術を放つ。


「ふむ」


 エリザは感心したように呟いて――。


「……何だ?」


 鉄斗は身体を酷使して、訝しむ。

 変化が生じたからではない。

 特筆した改変が行われなかったからだ。


「これは」


 クルミがイリーナと目を合わせる。二人ともクールなように見えて、どこか焦っているようにも見える。


「義姉君が考案した術式を用いました。理論は正しいはずですわ」


 義姉君とイリーナが呼ぶ人物はたった一人しか思い当たらない。

 ……結局のところ、スミレは鉄斗が思った通りの人間だったのだ。例え自らが儀式に参加しなくても、儀式を破壊する計画を立てていた。

 しかしそんな母親の忘れ形見が、効かない。有能な魔術師が開発した術式を、同じくらい有能な義妹たちが行使したにも関わらず。


「二重発動よ。互いの術式に干渉したとしても、撃ち消すのではなく、相乗効果が発生するはず。なのに……なぜ?」


 クルミが呆然と疑問を漏らして、


「なぜ? か。お主らは肝心なことを忘れておる」


 エリザが笑みを浮かべたまま言葉を引き継ぐ。


「ワラワがそのような怪しき魔術を感知せぬと本気で思ったか? 自らの魔術に酔いしれて、防御への対策を怠った」

「そんな……!」


 そこで初めてイリーナが驚愕に包まれた。彼女は優秀な魔術師。だからこそ、エリザの説明の真意を理解できるのだろう。

 クルミも目を見開いている。対して、義理の娘たちの謀反が失敗したと知ったウェルスは上機嫌だ。


「出来損ないの娘たちが、偉大なる姉上を打ち負かせるはずがなかろう!」


 耳障りな笑い声が響く。アウローラやピュリティが顔をしかめるが、ことさら奇妙なのはエリザ自身も眉を顰めたことだった。

 彼女はすぐに表情を切り替えて、笑みを作る。


「悔やむ必要はなかろう。後一人いれば、ワラワも負けていた。術式自体はとても素晴らしい。これほど綺麗で強固な魔術を目にしたのは久方ぶりじゃ」


 しかしそんな慰めは何の意味もない。成功しなければ。セリカを取り戻せなければ。

 だが、逆に言えば、例えこの術式が成功しなかったとしても、セリカを取り戻すことさえできれば意味があったことになる。母親の意志を継ぐのは息子の役目、などと大口を叩くつもりもない。

 ただ、何度も言うように。


「まだ終わってない……」


 鉄斗は拳銃の銃把を強く握りしめた。


「ほう? 諦めぬ、と?」


 エリザはやはりどこか感心を感じさせる声音で問う。


「逆だ。諦めてる。クルミ姉さんやイリーナさんだって、そうだろ?」


 今度は鉄斗が訊ねる。と、二人はもう感情を閉ざすことも、抵抗の意志を無くすこともなく答えた。


「当然、ですわ。私は母親です」

「家族が殺されるのを黙ってみてるわけにはいかないし」

「愚か者め! エリザ様に刃向かうなどと――」

「素晴らしい!」


 突如として響き渡った歓声に、ウェルスの言葉は中断させられる。

 歓喜の内容よりも発した当人の方が問題だった。エリザ・ヴァイオレット本人が、今の今まで敵対していた人間が喜んでいたからだ。


「良いぞ、実に良い! こういうのを待っていたのじゃ!」


 まるでセリカのような無邪気さでエリザは喜んでいる。そして、喜怒哀楽を激しく表現した。失望感を滲ませて、


「正直なところ、ワラワは落胆していた。今の世に」

「そ、そうでありましょう! エリザ様! 魔術が真なる評価をされず――」


 とまくし立てるウェルスを一蹴するかのように。


「死者を呼び出すほど落ちぶれていた進歩無き世界に」


 鋭い言葉で、指摘する。エリザは死者。どれだけすごい魔女でも、死人だ。

 過去の英雄に縋って、現在及び未来を改変する。それは、後の世代に世界を託した身であれば、酷く情けなく思う行為なのかもしれない。


「ワラワは天寿を全うした。後世に魔術とこの世を任せた。なのにこの体たらくはなんだ? 自らの手で解決できぬと、死人を掘り起こす? 未来ある若者の肉体を上書きして? これが愚かでなくて何と言う。情けなく恥ずべき行為と呼ぶ以外に、なんと呼べばいいのだ? ヴァイオレットがここまで没落しているとは思わなかったぞ」

「ひっ……!」


 予期せぬ糾弾を受けて、ウェルスは畏縮する。

 エリザは目を瞑った。別の場所を俯瞰するかのように。


「なるほど、確かに今の世は混沌だ。しかしワラワには好ましくもある。ワラワは不満だったのじゃ。魔術一強とも呼べる時代がな」

「で、ですがそれは……!」

「実に素晴らしいではないか。多くの者が研鑽を積み、あらゆる技能を習得し、着実な進化を重ねておる。魔術が落ちぶれ、かつては敵同士だったものが同盟などを結んでいる時点で、この凋落は必然だったのじゃ」


 エリザが君臨していた時代には、魔術同盟など存在しなかった。良くも悪くも魔術が世界を支配していた時代だからだ。

 しかし今は違う。魔術師は狩人に狩られ、弱くなった。かつては獲物であり道具でしかなかった人間たちは強力になっている。

 その変化をエリザは好意的に受け止めている。……儀式をしたところで無意味だったのだ。ヴァイオレット家は無意味な儀式に長い年月を費やした。その時間があれば、もっと発展できた可能性もあったのに。


「さて、しかしこのような与太話、お主たちは興味なかろう。ワラワそのものではなく、この肉体の持ち主を救うために戦ったのであるから」

「いや、それは……」


 クルミが戸惑う。鉄斗やアウローラも同じように。

 そして、いつの間にか自分の身体が完治していることに気付く。エリザは呼吸をするかのように回復魔術を施していたのだろう。


「とは言え、だ。先程たっぷり語った通り、ワラワはこの世界に生きる人々に若干の失望を抱きつつもそれに勝る大いなる希望を持っているが、しかし……今の世に、悪しき者が蔓延る気配を感じている。魔獣がいた時よりはマシだが、それでも脅威であろう」

「イゴールの、ことですか」


 思わず忘れない相手のことをぽつりと呟く。ピュリティを狙った男。

 何かとんでもないことを計画している助手。


「う、ん? ああ、そうだな。それそれ」


 エリザは頷いた。彼女ほどの大魔女になれば、今世界に渦巻く策謀も一瞬で把握できるのだろう。ネットで検索するほどの気軽さで。


「歪んだ努力だが、我が子孫たちの努力の証をただ捨て置くのは惜しい。この通り、ワラワは大魔女であるからな。少しばかりルールから逸脱するが、こうして現界した以上、はいさようならとおめおめ帰還することもできぬ」

「でもそれは」

「急くな、若者。ワラワは大魔女じゃ、つまり、旧来の人格を保持しながら現存することなど他愛もない」


 さらりと。エリザは鉄斗たちの希望に沿った形で、自らの望みも叶える方法を提言する。


「本当に、そんなことが?」

「無論だとも。むしろなぜそれが可能だと思わないのか? できるだろうと模索せんのか? 魔術師とはそういうものじゃ。ふふ、結局のところ魔術師が科学者、とやらに劣り始めたのはそれが原因じゃろうな。自らで限界を決めておる。飽くなき探求心を捨て、想像することを止めた。その間に人間たちは夢想を続けた。発展力で敗北するのも当然じゃ」


 エリザは自分なりの結論を述べると、杖を一振りした。


「ほれ、起きろ。少し変われ」


 そう自身に向かって呼びかけて――


「……嘘」


 エリザ……セリカの目が見開かれる。


「どうして、私……」

「セリカ!」


 我先にと抱き着いたのはイリーナだった。何らおかしい光景ではない。

 母親が愛する娘に抱き着く図。鉄斗の脳裏をよぎるのは幼い頃、スミレと抱擁を交わした情景だ。


「私……私は、失敗しないようにって……。今度こそ、誰も死なせないからって……」

「ええ、そうです。あなたは成功しましたわ」


 セリカは歪な形ではあったが、成功させた。

 多くの攫われた子どもたちの無念を晴らしたのだ。

 このような方法でしか儀式を止められなかったことは反省すべきだが、それはセリカではなく周りの人間が行うべきことだ。


「どうにか、なったようだな」


 アウローラが完全回復を果たして鉄斗の隣へ移動してくる。


「ああ、そうだな。完璧ではないけど……」


 望み以上の結果を手に入れられた。ウェルス・ヴァイオレットは呆然自失で膝をついている。周囲の親戚たちもどうすればいいか判断を迷っている――否、ここで抵抗の兆しを見せれば問答無用でやられると悟っている。

 ヴァイオレット家の儀式は、無事に成功した。ただし、結果は彼らの思い通りとはならなかった。

 鉄斗たちにしてみれば紛れもない敗北だが……いや、セリカが無事でさえあればいいのだ。


「重要なのは過程じゃない。そうだろう、鉄斗。私のピュリティを守る計画は君のせいで……おかげで、ご破算になった。しかし私は悔しくない。嬉しかった。予期せぬことではあったし、自分の無力さに打ちひしがれたりもした。何の意味もなかったのではないかと。……それでも、抗いたかったから抗った。もう少しうまくいかなかったのかと思い返すこともあるが……もたらされた最良の結果に、文句をつけるつもりはない。例え自分が全く役に立たなかったとしても、良かったんだ」

「そうだな。元より無能だ。何の役にも立たずに終わっても不思議じゃない」


 鉄斗は武器をホルスターに仕舞い、踵を返そうとする。今は親子団らんの時間であると考えたからだ。ピュリティはセリカの様子を近くで確認しているので呼びかけはせず、二人でその場を去ろうとした。


「お兄ちゃん!」

「セリカ? うおっ」


 セリカはイリーナから離れて、鉄斗の背中に抱き着いてくる。驚く鉄斗が振り返ると、セリカは満面の笑みを裂かせた。


「聞こえたよ、お兄ちゃんの声。私を助けようと頑張ってる、声」

「大した役にも――」

「それは謙遜というものじゃのう」


 突然エリザの口調に代わり、鉄斗の心臓が飛び跳ねる。無邪気な笑顔は意地の悪そうな笑みに変わっていた。


「ワラワがセリカを素直に開放したのはお主たちの戦いあってこそじゃ。無論、無用な命を消費するような愚策は行わぬ。ワラワが生きていた時代ではそのような愚行がまかり通っていたが、ワラワは大魔女。低能魔術師が行うようなことはせぬ。しかし、しばらくの間この子が死んだと思わせるつもりじゃった。反省を促すためにな。だが……ふん、素晴らしい子どもたちがいたものだ。これではいつまでも意地の悪い真似はしていられぬよ。もっと誇るがいい、無能。お主は正真正銘有能であるワラワを感心させ、計画を打ち砕いたのじゃ」

「俺だけの力じゃ……みんながいたから」

「もちろんそうじゃ。間違っても自分ひとりの力だと驕るでない。戦士である以上、時には一人で戦うことも必要じゃが、それは最終手段じゃ。精進せい。ワラワは常にお主たちを見守っておる……ふふっ、セリカが駄々をこね始めた。可愛らしい子孫じゃ」


 孫を見守る祖母のような笑みを浮かべ、エリザはセリカへとバトンタッチする。今度はまさに孫娘のような無邪気さが表出した。彼女はもう、と怒っている。


「せっかくお兄ちゃんとお話してたのに! エリザおばあさまったら!」

「そう怒るなって」


 セリカは年相応の怒りを噴出させている。その光景は求めていたものだ。

 それが正しいはずだと、信じていたもの。イリーナは微笑んで、ピュリティも安堵している。

 アウローラは少し怪訝そうな表情を作っているが、水を差すようなことを言わない。


「お兄ちゃん」

「何だ?」

「ありがとう……!」


 放たれる感謝の気持ち。

 いつものように謙遜することは簡単だった。いや、謙遜ではない。それは事実だと思っている。

 しかしこの時ばかりは、素直に受け取ることが正しい気がした。


「どういたしまして」


 鉄斗は正しい選択をする。

 クルミへと目を馳せる。彼女も、喜びをかみしめていた。

 何かを思い出すように。大切な記憶を。



 ※※※



 ショックを受けたクルミがあちこち彷徨った果てに辿り着いたのが、公園だった。既に日は暮れて、夜になっている。

 しかし魔術によって誰一人、中学生の少女である自分を補導するような人間は現れない。

 色褪せた世界の中でひとりぼっちだった。


「お母さん……」


 母親は自殺していた。

 母は自分を忘れてなどいなかったのだ。

 あの日に放たれた暴言は本気などではなかった。今ならわかる。

 追い詰められている時の人間は、ああいう風に八つ当たりしてしまうことがある。

 悪意があったわけじゃない。気付いたら口を衝いてしまうだけなのだ。

 なのに幼い自分は真に受けて、ヴァイオレット家に誘拐されて。

 それを自分のせいだと思い込んだ母親が、自殺してしまった。


「どうして、なの……? 私が何かしたの?」


 この世の理不尽が許せない。

 自分の大切なものを奪う現実が許容できない。


「こんなに辛いなら、生きていたくなんてないよ……」


 ならいっそ死んでしまえばいいと、ベンチに立てかけてある杖を見る。

 そのための力は、ある。嫌と言うほど教わった。

 杖に手を伸ばそうとして……不意に、女神の姿が脳裏を駆ける。


「スミレ義姉さん」


 クルミに優しく接してくれた義姉。辛い時、いつもそばに寄り添ってくれた人。


(ううん、きっと、きっと、儀式のスペアとして私を育てたんだ。だから私に優しくして……)


 などという負の感情で衝動的な考えを回そうとして、止める。

 まさにこれが、クルミの不幸の発端になった八つ当たりだ。

 そもそもこの理論は破綻している。スミレは別にクルミに優しくする必要なんてないのだ。

 なぜなら順序が逆だから。スミレの儀式が失敗した時の保険が自分なのだ。

 そこまで考えて、気付く。なぜ、スミレは日本に来たがったのだろう。


「義姉さん、まさか」


 正直なところ、儀式を失敗させる方法は簡単だ。拒絶すればいい。

 表面上は受け入れるように装っていても、深層心理で拒絶反応が出れば儀式は失敗すると、クルミは結論付けている。ヴァイオレット家の親族たちは口に出していないが、恐らく皆わかっているのだろう。これは絶対に成功しない儀式なのだ。

 しかしそれは、この悪循環が永遠に絶たれないことを意味している。誰かが犠牲にならない限り、被害者は、自分のように誘拐される人間は増え続ける。

 その悪循環を断つためにはどうすればいいか。簡単だ。儀式を成功させればいい。


「いや、嘘……だって……」


 急速に膨らんでいく想像にクルミは押しつぶされそうになる。

 スミレは自分なんかよりずっとすごい魔術師だ。この儀式の欠点を知っていて、またどうすれば儀式が成功するかもわかっている。

 彼女ほどの実力者なら、絶対に失敗させる方法など即座に見抜けるはずなのだ。なのにあれほど不安を滲ませているのは、儀式の前にどうしても日本に行きたいと望んだのは……。


「あ、う……ああ……」


 涙がぽろぽろと落ちて膝を濡らした。

 どうしてなのか。なぜ何も悪くない人が犠牲にならなければならないのか。

 母親の死もショックだ。

 そこに義姉が死ぬつもりでいるなんて情報を加えたら、もうどうしていいかわからない。


「やだ……何で、母さん、義姉さん……!」


 もはや何も考えられなくて、悲しさに咽び泣く。

 人目を気にせずに。そもそも誰もいないのだから、気にする必要もない――。


「見つけたぞ」

「……っ!?」


 突然声を掛けられて、クルミは身体を震わせる。

 見知らぬ少年が立っていた。クルミよりは年上の高校生だ。


「君があいつが言ってた、妹、だよな。義理の、だったか?」


 彼は無造作に近づいて来て、ハンカチを差し出す。


「有能な魔術師でも迷子になるのか」


 そのセリフで思い浮かんだ人間はただひとりだ。


「あなたが、和也……?」

「一応そうなるな」


 クルミはハンカチを弾き飛ばした。悪いことだと思う理性を羽交い絞めにして感情が暴走する。


「いいよっ、来ないで! スミレ義姉さんを誑かした男なんて……スミレ、ああ……ああああ!」


 また涙が洪水のように止まらなくなる。一体自分はどうなってしまったのだろう。

 混乱するクルミの前でハンカチを拾いなおした和也は、特に怒り出したり、不満を顔に出したりはしなかった。


「話なら聞けるぞ。それ以外はどうしようもない無能だがな」

「うるさい……うっ、く……」

「スミレについてだろう。あいつが死ぬつもりだって気付いたんだな」

「あなたは、知ってたの?」


 義姉はそこまでこの男に打ち明けていたのかと思ったが、違った。


「いや。でも、なんとなくわかる。あれは諦めてる顔だった」


 そう言って和也はハンカチをもう一度差し出す。


「良ければ、話してみたらどうだ」


 クルミはこくんと頷いて、ようやく気付いた義姉の真意について話した。

 話を黙って聞いていた和也はなるほどな、と相槌を打ち、


「それで、君はどうしたいんだ?」


 質問を投げかけてくる。その問いでようやくクルミは自分の気持ちと向き合えた。


「どうしたい……? そんなの、そんなの――決まってる! スミレ義姉さんを助けたい!」


 すらすらと自分の気持ちが出てくることに驚きを覚える。母親の死はショックだった。二度とあんな気持ちを味わいたくはない。前回は対応を間違って取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったが、今回はまだチャンスがある。

 しかし、どうすればいいのだろう。クルミの頭はまだぐちゃぐちゃだ。

 対して、和也は冷静だった。


「なら簡単だ」

「そんな簡単じゃ――」

「簡単だよ。スミレに嫌だ、と思わせればいい。そうすれば儀式は失敗する」

「でも、義姉さんは終止符を打つために本気で――」

「そんなことは関係ない。俺は方法を口にしただけだ。成功確率がどうだとかそんなものはどうでもいい。違うか?」

「で、でも」

「だって失いたくないんだろう? スミレを、死なせたくはないんだろう? だったら、どれだけ可能性が低かろうと、やるべきことをすればいい。簡単だ」

「そんな無責任な……」


 と言いつつも、クルミは少しだけほっとしていた。成功するか失敗するかは後回しだ。もちろん、他にもっといい方法があるかもしれないので、模索は止めない。けれど、新しい方法が見つかるまでは、できる手段を講じること。それが成功への秘訣なのだ。

 考え出せば至極当然の結論だったが、不思議と彼に言われるとそれが素晴らしいアイデアのように聞こえてくる。

 それに、彼は方法を提案するだけに留まらなかった。


「責任は取る。俺も努力してみるからな」

「あなたも?」

「当然だ。俺はあいつとは友人だ。まぁ友人にさせられた、というべきだが。君からも言っておいてくれ。俺はどうしようもない無能で、修練を重ねたぐらいで強くなれるはずはないと」


 その返答を聞いていて、気付く。なぜ義姉が彼に恋心を抱いたのかを。

 しかし、やはり、ダメだ。義姉は彼に相応しくない。

 ……少なくとも、今は。


「ええそうでしょうね。嫌ってほどわかりますよ、あなたが無能だってことは」

「辛辣な物言いだが、正解だ。その勢いであいつの考えを変えてくれ」

「嫌です」

「なんでだ?」

「嫌って言ったら嫌なんです! 人に頼る前に、自分で変えてみたらどうですか? ほら、だってこれから実践することも、まさにそれ、でしょう」


 クルミはベンチから立ち上がって嫌味を言う。しかし彼はせいぜい苦笑するばかりで嫌がるそぶりを見せない。

 その対応に、救われる。……泣いている場合じゃないのだ、今は。

 だから、強がらないといけない。彼の力を借りて。


「ほら、行きましょう! 姉さんのことです、きっと心配しているはずですから!」

「迷子になった奴が言うセリフじゃないな」

「いいから、ほら!」


 心の底でありがとうと言いながら。

 スミレの元へ、帰っていった。赤上鉄斗の父親と。



 ※※※



「元より期待してはいなかったが。いやはや、楽はできないね」


 ノートPCを眺めていたイゴールは肩を竦めた。あのイレギュラーが身内の騒動に巻き込まれて死ぬかもしれないという期待はあまりしていなかったが、それでも僅かな驚きは抱いている。


「しぶといな、赤上鉄斗。父親そっくりだ。では……こちらから仕掛けましょうか」


 イゴールは背後で壁に寄り掛かっている侍へ視線を送る。彼はほくそ笑んだ。


「ようやく俺の出番か、胸が躍るね」

「事前に計画していた通りに。今は……とにかく、目を逸らさなければなりませんからね。ツィク、君もだ」

「うん、頑張るね、イゴール!」


 ツィクと侍は暗闇の中に消えていく。イゴールは暗い部屋の中で、天を仰いだ。


「世界は、変わらなければいけないからね……」


 誰もが、常に思っていることを呟いて。

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セレクション バケモノ少女と無能魔術師 白銀悠一 @ShiroganeYuichi

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