【企画参加】あなたは、いつまで食べてくれるのだろう

飛野猶

あなたは、いつまで食べてくれるのだろう

 ガチャリと鍵が開く音。続いて、ギィという金属が擦れる音がした。

 今まで何度も何十回も何百回も聞いてきたから分かる。あれは、マンションの角部屋にあるうちの玄関ドアが開いた音だ。

 それに『ただいま』という疲れたような男性の声が続いた。

 その声を聞いて、キッチンにいたミカは茹でたササミを刻んでいた包丁を置く。エプロンで手をふくと、廊下へと出た。


 玄関には見慣れた男性が一人、壁に手をついて革靴を脱いでいるところだった。背広を着た、くたびれた中年男性。夫のアキオだ。


 ミカは彼の姿を目にとめて、ほっと表情を緩ませた。安堵の気持ちが心に満ちてくる。

 ミカの姿に気づいてアキオも、疲れて一層たれ目がちになった目じりを細めた。


「ただいま」

「おかえり」


 そう、いつもの言葉を交わす二人。

 それに続く言葉も、いつものものだ。


「お仕事お疲れ様。ご飯にする? それとも、少し休んでからにする?」


 アキオからカバンを受け取り、ミカはそう彼に尋ねた。


「うん。ちょっと休みたいけど……でも、腹へってるなぁ」


「わかった。じゃあ、晩御飯にするね。すぐ準備できるから、座ってて」


「悪いね、君も仕事で疲れてるだろうに」


 そういうアキオにミカは笑って応える。


「大丈夫よ。私は体力だけが取り柄だから」


 アキオが書斎に使っている部屋に彼のカバンを置いてミカがキッチンへと戻ると、アキオがリビングの椅子に腰かけているのがカウンターごしに見える。

 部屋着に着替えるのも面倒くさいのだろう。ネクタイと上着を隣の椅子の背もたれにかけただけで、ワイシャツ姿のままテーブルに突っ伏していた。


「ちょっと、そのまま寝ちゃダメだって。いま、部屋着持ってくるから着替えて」


 アキオからは、つっぷした格好のまま「あとでいいー」とくぐもった声が返ってくる。


「もう……」


 仕方ないなあと呟きながらも、仕事頑張ってるんだなと思うと微笑ましいような、それでいてどこか切ないような気持になってくる。

 とりあえず、お腹がすいていたと言っていたから、夕飯の準備をしよう。


 夕飯は、消化の良いものでなければならない。

 ミカは用意してあったものを茶碗に入れると、アキオの前に差し出した。

 顔を上げたアキオは、湯気があがるソレを見て目を細める。


「お茶漬けか。いいね」


 アキオは、出会ったころからお茶漬けが好きだった。インスタントのお茶漬けのもとをかけて、湯を注いだだけの簡単なものが特に好きで。

 なんでも、塩分が高いからと言って子どものころはあまり食べさせてもらった反動で、大人になってからよく食べるようになったらしい。


 アキオはレンゲとお茶漬けの入った茶碗を手に持つと、一さじ掬う。そして、ふーっと二三度息を吹きかけて冷ましたあと、口に運んだ。


「うん。やっぱ、この味だよね。うまい」


 先ほどまでの疲れが吹き飛んでしまったかのような満足そうなアキオの笑顔を見て、向かいに座るミカの顔も自然と笑顔になる。


「あっつ……」

「急いで食べちゃダメじゃない。お替りならまた作るから、ゆっくり食べて」

「うん。わかってる」


 そんな、夫婦の何気ない会話。何気ない日常。

 しかし。

 ミカは祈らないではいられない。

 この幸せな日常が。

 彼が目の前で食事をしているこの日常が、これからもずっと続きますように。

 一日でもいいから長く続きますように、と。


 アキオが食べているものは、実は普通のお茶漬けではない。少し形が残る程度に煮た粥にお茶漬けのもとと湯をかけて、刻んだササミをあえたものだ。

 昨年、彼はガンで胃を切除した。そのため小さくなった胃には極力消化の良いものしか入れてはならないと、主治医にはきつく言われているのだ。特にこんな夜遅い時間には、固いものを食べさせるわけにはいかない。


 切除手術後も放射線治療と抗がん剤治療を続けてはいるが、ガンすべてがなくなったわけではない。肺への転移も見つかっている。主治医には余命も宣告されていた。


 それでも、まだやり残した仕事があるのだと、彼は痛み止めを打ち、体調に折り合いをつけながらも仕事に出かける。もう、残された時間はそう多くはない。だから、ミカも彼の好きなようにさせていた。この世に悔いは残させたくなかった。


(神様。どうか……明日も、彼は仕事に行けますように。そして、ちゃんと私のもとに帰ってこれますように)


 お茶漬けをおいしそうに食べるアキオを見ながら、ミカは心の中で祈った。

 あと少し。

 もう少し。

 彼を連れて行かないで。

 神様、お願い。


 思わず瞳が潤みそうになったが、ここで泣いてしまってはアキオにいらぬ心配をかけてしまう。ミカは空になったアキオの茶碗を見て、彼に手を伸ばした。


「お替り、いる?」

「ああ。お願い」


 アキオから茶碗を受け取るとミカは立ち上がってキッチンへと向かう。


 いつもの日常。

 でも、かけがえのない日常。

 これからも。

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