まほろばの花火
泉坂 光輝
まほろばの花火
古い格子戸が開く軽快な響きと共に、窓辺の水槽で泳ぐ金魚が涼やかな水音を立てた。先程まで縁側に影を落としていた
騒がしい夏虫の声に反し、近付く彼の足音はとても静かだった。真綿のようにふんわりと歩くその姿は、どこかこの世のものではない不思議な感覚に陥れる。しかし、この古い町屋の軋む床板は、その危うい姿さえも鮮明に映し出していた。
「おかえりなさい、アキオさん」
居間の入り口でその名を呼ぶと、夫はゆっくりと顔を上げる。
「ただいま。どないしたん? 出迎えやなんて珍しいやん」
「うん、今日は花火の日やで」
「まぁ、そやと思た。楽しみにしとったもんな」
そう、整えられた髪をくしゃりと崩しながら、彼は苦笑いを零した。
八月十日。毎年この日、京都府
今朝、彼は流れるニュースに耳を傾けながら、ゆくりなく私に告げた。
一緒に花火を見よう、と。
「花火の前に何か食べる?」
「うん、そやね。軽いもんあったら呼ばれよかな」
今度は優しく微笑む彼の言葉を受けて、私は台所へと足を運ぶ。
花火が打ち上がるまで、あと十五分弱。いつもよりも早く帰宅した彼は、どことなく疲労を感じているようで、大きな欠伸と同時に身体をほぐすように伸びをした。
小さな炊飯器から握った三角形のおにぎりを、ごま油で熱したフライパンに静かに乗せる。ぱちぱちと水分が弾ける心地のよい音と、薄く塗った醬油の芳ばしさが重なって、緩やかに食欲をそそる。
居間で寛ぐ彼を見遣ると、既に纏っていた仕事着は脱ぎ捨てられ、シンプルなTシャツ姿へと変わっていた。
焦げ目の付いたおにぎりを椀に置いて、細かく刻んだ柴漬けをたっぷりと乗せる。そこに、刻み海苔と九条ねぎを落とし、上から温かい白だしを注ぎ入れた。
出来上がった京風茶漬けに、良く冷えた雁ヶ音ほうじ茶を添えて、彼の前にゆっくりと差し出した。
「柴漬けのお茶漬けに、宇治のほうじ茶か。京都尽くしやな」
「京都ゆうたら、お茶漬けやろ?」
「まぁ、そやな」
ええくらいの軽さや、と、彼は左手で茶碗を持つ。そして右手で螺鈿細工の施された箸をつまみ上げると、椀の持った左手の小指に箸を挟み、滑らかに持ち直した。
和食を頂く際の基本的なマナーでもあるその動作を、彼は当然のようにこなしてみせる。
音も立てない滑らかな手つきでおにぎりを崩し、絡み合った漬物と共に口へ運んでいく。
「うん、見た目も味も抜群やな」
箸に添えるしなやかな指と、自然と伸びた背筋。そして、揺らがない真摯な眼差し。
箸を携える夫の姿は、とても美しい。まるで茶を嗜む茶人のように洗練されたその仕草が、箸を取ったその時だけ、和服を纏っているような錯覚を起こさせた。
私は彼の姿を見つめながらゆっくりと彼の前に腰を下ろす。
その瞬間、花火の咲く鋭い音が響き渡った。
光る窓の向こうを一瞥した彼は、柔らかい表情で告げる。
「さすが、源氏ろまん。綺麗な紫や」
その言葉に、私はゆっくりと窓の外を見遣る。
宇治は、源氏物語と縁の深い場所である。所以、この「宇治川花火大会」では「源氏ろまん」をテーマとし、紫式部にちなんだ紫色の花火が宇治の夜空を美しく彩っていく。それは、奥ゆかしい京都の風雅を見せるようでもあった。
源氏物語は「宇治十帖」で終幕を迎える。その結末は、人の世の儚さを謳っているものだと私は感じていた。ゆらゆらとした危うい夢の浮橋のように人の心は不確かで、次々と移ろいゆく。そして、ひとたび夢から覚めてしまえば、目の前の幸せは簡単に消えてしまうものなのだ。
そして花火が開く度に、彼らが巡ったこの宇治という町に、たくさんの想いが溢れだし、息づいていくのだ。
だから私はこの町が好きだ。
「ほんま、源氏ろまんやね」
私は、窓の外を眺めながら口元を緩める夫の横顔を視線でなぞる。
すると彼は変わらない手つきでまた一口、うっすらと紫色に染まったお茶漬けを頬張った。
私たちが生きる今日でさえも、京都の長い歴史の中では花火が咲くような一瞬の出来事なのかもしれない。だからこそ、私は彼のいるこの幸せをずっと大切にしていたい。
そう、強かに願っている。
まほろばの花火 泉坂 光輝 @atsuki-ni
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