【企画参加】本日特売品
淡島かりす
本日特売品
「今日はね、葱が安かったんだ」
出迎えるなりの第一声がそれか、とアキオは半分呆れながらも、妻の満面の笑みが嬉しくて口角が緩む。
残暑が厳しいとはいえ、夕方ともなると涼しくなってきた九月の下旬。仕事の疲れも気温差のせいで普段より多く感じる。
「それはよかったな。ただいま」
「おかえりなさい」
妻のミカは、自分が出迎えの挨拶もしていなかったことに気がついて頬を赤らめた。
結婚して二年目の初秋。去年は引っ越しがあって、ゆっくりと季節を楽しむ暇もなかった。去年の九月の気温のことなど、綺麗さっぱり忘れている。
「ご飯食べる? お風呂は少し時間かかるけど」
「腹が減って死にそうだよ。サッと食えるもん用意出来るか?」
「いいよぉ、分かった」
のんびりとした返事をして、ミカは台所へと向かう。
それを追いながら、アキオはネクタイを外した。
室内は程よく効いていて、アキオを優しく迎えてくれる。ミカの顔を見たのと、いつもと変わらぬマイペースぶりにアキオは安堵した。
同時にネクタイを解いたシャツの隙間からクーラーの涼しい風が入り込み、彼を一気に疲弊させる。
「年かなぁ」
「何?」
「家に帰ると一気に疲れるんだ」
「緊張が解けるんだよ」
数歩先を行くミカの言葉に、そうかもしれないな、とアキオは納得した。
疲れを廊下に振り落とすかのように、のろのろと歩きながらリビングへ入る。引き戸を一枚隔てた先に台所がある構造だが、その戸が閉まることは稀だった。
解いたネクタイはひとまずビジネスバッグと一緒に床に置き、シャツのボタンを外してから両袖を肘まで捲り上げる。
働く服装を崩すことで感じる平穏と共に、彼はリビングにある自分の椅子に腰を下ろした。
それを見計らったかのように、台所に入ったはずのミカが戻ってくる。
「はい、これ飲んで待っててね」
その声と共に出されたのは、グラスに入った冷たい麦茶。
乾いた体には有り難い代物だった。ついつい一気に飲みたくなるのを堪えて、少しずつ喉に流しこむ。
台所へとミカが戻ってから少しして、包丁で何かを刻む音が聞こえてきた。
単調なリズムが心地よく、アキオは目を細めてその音に聞き入る。家事の音ほど心地よいものがないと思えるのは幼少期の記憶のせいか、それとも妻への愛情か。
そんなことを考えているうちに、ミカがお盆を持って戻ってきた。
「随分早いな」
「サッと食べれるものって言ったじゃない」
お盆に乗った茶碗と箸を、ミカは丁寧にアキオの前に置いた。
茶碗の中を見たアキオは、短い感嘆符を上げる。
「お茶漬けか」
「鮭の切り身が余ってたから、それに葱をたっぷり。体に良いでしょ」
「うん。それに食べやすいから、有り難いよ」
素直に喜びながら、アキオの視線は茶碗の中から離れない。
薄ピンクの鮭の切り身を彩る、輪切りにされた葱。
確かに体には良いだろうが、それよりも妻が自分のために作ってくれたという事実が何よりも彼には嬉しい。
お茶の間に浮かんでいる米粒も、切りそこねたのか少し歪な葱も、ただ愛おしかった。
「いただきます」
そう言って箸を取り、茶碗の中に。一口分を口に運べば、優しい味が広がる。
「嗚呼」
美味い、と零す。
ミカはアキオの向かいに座って、お盆と一緒に運んできたポットから、麦茶を彼のグラスに注いだ。
「美味しいでしょ」
「うん」
食べながらだったので、短い返事しか返せないアキオにミカは優しく微笑み返した。
「葱、好きだもんね」
END
【企画参加】本日特売品 淡島かりす @karisu_A
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
空洞に穴を穿つ/淡島かりす
★55 エッセイ・ノンフィクション 連載中 122話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます