メジロと文鳥
いつき樟
読みきり
あるところに、一羽の
その文鳥は手乗りで、人間に飼われていました。
いつもは籠の中ですが、籠の戸が開き、そこから人間の手が差しこまれると、それにぴょんと飛び乗ります。
それだけで、その人間はとても喜びます。
ときどき籠の外へ出して貰い、籠よりずっと、ずっと広い部屋の中を自由に飛び回ることもできます。
しかも、水と食べ物はいつも新鮮で、文鳥はこんな暮らしがずっと続けばいいのに、と思っていました。
ある日のことです。
窓辺に一羽のメジロが飛んできました。
「やあ、こんにちは。ごきげんいかがですか?」
窓辺に留まったメジロは、とても綺麗な声で文鳥にそう挨拶しました。
「こんにちは。ええ、とてもいい気分ですよ。毎日が充実しています。あなたはどうですか」
「私もそうですよ。日々苦労も多いですが、とても充実しています」
「それは結構なことです。ところで、そのご苦労というのは、どのような?」
「いえ、大したことではありませんよ。少し餌が取りづらくなってきたというくらいで」
「餌が? そんなことがあるんですか?」
「ええ。近頃はハトもカラスも、我が物顔ですよ。特にハトは酷いもんですね。あんなに大きな体をしているのに、群れるでしょう。あの傍を飛ぶのは、やはりちょっと怖いですねえ」
「大きな体を。
「そうですねぇ。九官鳥と同じか、それよりもですね」
文鳥は驚きました。
普段一緒にいるのは、
「それが群れるのですか、それは怖いですね。どうして人間はそんな怖い鳥を取り締まらないんでしょう。そうすれば、あなたたちメジロも、もっと楽に暮らせるでしょうに」
「いやぁ、それは無理でしょう。なにせ、そのハトやカラスに餌をやっているのが、他でもない人間ですから」
「えぇえ!?」
文鳥はまたも驚きました。
人間はいつも自分に餌をくれる良いものだとばかり思っていたのですが、そんなに怖い鳥たちにまで餌をやっているなんて知らなかったのです。
「今ではかなり落ち着きましたが、私の
「信じられません。人間がそんなに酷いことをするなんて」
「すべてがそうというわけではありませんよ。現に、あなたの近くにいる人間は良いものなのでしょう?」
「ええ、それは勿論」
そう応えて、文鳥はハタと思いつきました。
「そうだ。ええ、そうですよ。あなた、ここで暮らしませんか? ここはいいところですよ。毎日新鮮な水と食べ物が貰えます。もうそんな怖い鳥に怯えなくてもよくなるんですよ」
我ながら名案だと文鳥は思いました。
「先ほどから聞いていましたが、あなたはとても美しい声をお持ちだ。その声で歌えば、きっと人間たちは毎日のようにあなたを可愛がってくれますよ。ここでなら、きっと幸せに暮らしていけます」
文鳥の提案に、しかしメジロは笑って首を振りました。
「せっかくですが、遠慮します。私はここがいい」
「どうしてですか? 毎日新鮮な水と食べ物が貰えるんですよ。夏の暑さも、冬の寒さも、ここには殆どありません。いつも春のような穏やかな陽気です。これほどの幸せは、ほかにありませんよ?」
文鳥は意外でした。こんなにもいい提案が断られるなんて、信じられなかったのです。
少し考えるようなしぐさの後、メジロは少し寂しそうに言いました。
「だって、そこには空が無いでしょう?」
一瞬、文鳥はメジロが何を言っているのか分かりませんでした。
「空が無い? おかしなことをおっしゃる。あなたのいるそこはなんですか? 後ろをごらんなさい。いつだって空はそこにありますよ」
「え?」
メジロは言われたとおり振り返り、そして再び文鳥のほうを向いて「ああ」と納得しました。
「この窓から見える空ではありませんよ。どこまでも広がる、自由に飛べる空です」
「自由に飛べる? この部屋の中でも自由に飛べますよ?」
「残念ですが、その部屋では私には狭すぎます。少し飛んだら、すぐに壁に当たってしまいそうだ」
「それはありませんよ。見たところ、あなたと私はほとんど同じ大きさじゃありませんか。その私が自由に飛べるのに、あなたが狭すぎるなんて、そんなことはありえません」
「体の大きさは問題ではありません。同じところをぐるぐる飛ぶなんて、それは私にとっては飛ぶとは言わないのです」
文鳥はますます分からなくなります。
「それでは、私のこれはなんですか。ほら、見てくださいよ」
そう言って文鳥は止まり木から籠の網目までパッと飛んでみせました。
「どうです、ちゃんと飛んでるでしょう?」
「ええ、確かに飛びました。けれどやはり、私にはそれが飛ぶこととは思えません」
「あなたのおっしゃることはよく分かりません。だって、あなたはここまで飛んできたのでしょう?」
「ええ、そのとおりです。そこよりも、その部屋よりも、ずっとずっと広いところです」
「そこには怖い鳥がたくさんいるのでしょう? 悪い人間もたくさんいるのでしょう? だったらどうして、わざわざそんなところを飛ぶのですか?」
「どうして……って。だって、それが鳥というものでしょう?」
なにを当たり前のことを。
そう言わんばかりの物言いに、文鳥はなぜだか怒りが胸の奥からこみあげてくるようでした。
「それが鳥? だったら私はなんだっていうんですか?
「そうは言いませんよ」
「いいえ言いました。空を飛ばないのは鳥ではないと」
「おかしなことをおっしゃる。私は、なぜ空を飛ぶのかと訊かれたから、それが鳥というものだと答えただけでしょう?」
「ほら、そうじゃありませんか! 空を飛ばないのは鳥ではないと、言ったではありませんか!」
「……なら言い方を変えましょう。私にとっては、空を飛ぶことが鳥の証明であると感じるのです。だから私は空を飛ぶのです……と」
「全然変わっていないじゃないですか。空を飛ばないものは鳥ではないと思っていると、そう言っているだけでしょう」
「ですから、違います。私にとって、空は必要なのです。私が鳥であるために、空は欠かせないものなのです。けれど、あなたにとってはそうではない。自分が鳥であるために、空は必要なものではない。それだけのことです」
もう文鳥には訳が分かりませんでした。
目の前のメジロは、本当に鳥なのかさえ疑わしくなってきたのです。
「あなたは本当におかしな方だ! 怖い鳥や、悪い人間がたくさんいるところを飛びたがるなんて! 餌も満足に取れないとおっしゃっていたでしょうに、それでもそんな空とやらに固執するなんて! あなたは本当に、私と同じ鳥なのですか?」
「……なにをおっしゃいますか。私はメジロ。あなたは文鳥。最初から違う鳥でしょう?」
きょとん、とした顔でそう言うメジロに、文鳥はもうウンザリしてしまいました。
「そんなつまらない揚げ足を取って逃げるなんて。もう結構です、どこなと好きにお行きなさい。ハトやカラスに怯えながら、せせこましく餌をついばんでいればいいんです」
「……ええ、そうします。それでは、ごきげんよう」
そう言ってメジロはトンと窓枠を蹴ると、あっという間にその場から飛び去っていってしまいました。
そんなメジロを見て、文鳥はフンと鼻を鳴らしました。
「まったく、信じられない。世の中にはあんな分からず屋の鳥がいるなんて」
そのとき、がちゃんと大きな音が聞こえました。
そして、大きな影が文鳥の傍へと近づいてきます。
ああ、もうそんな時間なのか。
あの変な鳥との議論で、ずいぶんと時間を無駄にしてしまっていたようだ。
かしゃ、と籠の戸が音を立てて開き、そこから大きな手が差しこまれます。
文鳥は、いつものようにその手にぴょんと……。
飛び乗ろうとしましたが、少し考えてから、軽く羽ばたいてみせました。
そして、止まり木に留まるように、その手に乗りました。
ほら、ちゃんと飛んでいるじゃないか。
私は鳥じゃないか。
やっぱり、あのメジロがおかしなことを言っていただけなんだ。
大きな怖い鳥に、あんな嘘つきの鳥までいるなんて。
空なんてロクなもんじゃない。
きっとあの空というのは、私たち鳥を狂わせる毒なんだ。
その毒に浸ったまま、帰ってこられない鳥が大勢いるんだ。
なんて哀れなのだろう。
それに比べて、私は幸せだ。
こうしてピョンと手に乗るだけで、新鮮な水と食べ物が毎日貰えるのだから。
ああ、私はなんて幸せなのだろう。
メジロと文鳥 いつき樟 @itukisyou
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