自主企画用作品:文体見せ合い・夫婦お茶漬け
雨藤フラシ
今日を僕と、一緒に。明日もずっと、君と。
お定まりの挨拶というものは、同じ相手に毎日言えるという所がいい。
「ミカちゃん、ただいまあ」
深夜十一時、アキオが自宅のドアを開けると、「おかえり、遅かったね」とミカの声が返ってくる。これでワンセット、どちらかが欠けては形なしだ。
結婚して三ヶ月、2LDKのささやかな我が家に彼女と二人きり。いまだにどこかくすぐったく、照れ臭く、ふわふわとした幸福感がある。
玄関先に出迎えたミカはちょうど風呂を終えたところなのか、濡れた髪と温まった肌から、ふんわりした匂いと体熱が漂ってきた。アキオはまるで誘蛾灯に捕まった虫のように、ふらふらとそれに引き寄せられてしまう。
「たーだーいーま~」
「やめて、暑苦しい。やめなさい」
ぎゅっと抱きしめると嫌がられたが、声のトーンとますます赤くなる顔は、まんざらでもなさそうだった。ミカの華奢で小柄な体躯がすっぽり自分の腕に収まると、それだけで一日の疲れが吹っ飛んでいく。
なので、ぐいぐいと頬や腕を押して逃げられるとアキオは悲しい。
「とにかくひとっ風呂浴びてきなさい」
「待って、お腹空いて死にそう。なんか食べたい」
ぐるっと首を回す彼女に釣られてリビングを見やると、テーブルの上にはラップをかけた夕食が置かれてあった。まだ焼いていないポテトグラタンとサラダだ。
「サラダをつまんで、少し待ってて」
「はーい」
ミカはグラタンをオーブンに入れると、それをすぐには焼かずキッチンに立った。ラフなTシャツとスパッツ姿に、エプロンはつけないままだ。アキオはひとまずテレビをつけたが、特に見たいものはなかった。
バラエティ番組のやかましい笑い声とトークを聞き流して、上着を脱ぎながら冷蔵庫に向かう。マヨネーズを取り出している間にも、キッチンでは何かを開けたり、包丁を動かす音がして、仕事で緊張していた心がまったりと
ダイニングチェアに体重を預け、ドレッシングと一緒に持ってきた缶ビールを開ける。心地良い苦味と泡が舌の上で踊り、幻のように喉へ消えていった。
ぷはぁっと息を吐き出すと「最近、おっさん臭くなってない?」と隣に来ていたミカが苦笑いする。手に氷の覗く茶碗を持っていた。
「あっお茶漬け!」
「これを食べたら、汗を流してね」
「ありがとー」
夜になっても外は暑かったから、サラサラと食べられる冷やし茶漬けは嬉しい。白いご飯に、種を取った梅干しとツナ、刻んだネギと白ごまが乗っていた。
「いただきます」と手を合わせ、箸を取るのももどかしくかっこむ。
ごまとネギの薬味に、ツナの甘い脂の食べごたえ。それを梅干しの酸味がさわやかに引き締めて、さっき飲んだビールのように喉へ消えていった。
疲れと空腹でへこんでいた胃袋が満たされ、胸がほっと安らぐ。空っぽになった茶碗を置くと、テーブルを挟んだ向かいにミカが座っていた。頬杖をついて、目を細めて、小さな子供でも見るような慈しむ眼をしている。
ずっと見られていたと気づき、恥ずかしさに動きが止まると、ひょいっとミカは手を伸ばした。アキオの口から左端、こぼれたごはん粒がくっついている。
彼女の指が頬に触れたのは一瞬、濡れた米粒がするりと唇の中へ消えていったのも一瞬。けれどその刹那が、くっきりとアキオの眼に焼き付いた。
「ごちそうさまでした……」
舌の先で指をちょろっと舐めたミカが、上目遣いでこちらを見る。
「なんだか声が小さいよ?」
「ごちそう! さま! でした!」
アキオのツボに入った、とでも言えばいいのだろうか。今更こんなことでとおかしな気もしながら、結婚してから今日が一番恥ずかしくてたまらない。冷やし茶漬けで暑気が取れたと思ったのに、また体がカッカと熱くなっていた。
「はい、よろしい。じゃ、お風呂入ってる間にグラタン焼いておくから」
「はあい」
茶碗を片付ける彼女に押されて、どたどたとリビングを出る。他愛のない会話、お定まりの挨拶、代わり映えのしない毎日。それでも、それを日々一緒に歩んで、自分の声に答えてくれる彼女がいるから、明日も頑張れる。
こんな毎日がずっと続きますように。若い二人は口に出すこと無く、互いに同じことを同じタイミングで考えていた。その願いは、明日も叶うだろう。
自主企画用作品:文体見せ合い・夫婦お茶漬け 雨藤フラシ @Ankhlore
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