質素なこのお茶漬けが今は良いって、分かるから

神代零児

質素なこのお茶漬けが今は良いって、分かるから

 午前一時。人気も失せた住宅街の路地をアキオは歩く。


「あの支部長め、今頃は震えてるだろうさ」

 今日社内で露呈した支部長に依る資金横領と幾人もの部下達に対する恫喝。

 露呈させたのはアキオを中心とする反抗勢力だった。


 夜中とはいえ体に熱気が帯びる。

 二ヶ月の戦いを経ての苛烈な退任劇、アキオはそれを革命だと言う気は無かった。


「この国はもっと一人一人が変わらなきゃな」

 そんな事を呟き、アパートの階段を昇ったと同時にズボンのポケットから鍵を取り出す。自室の前で停止した時間を作るのはアキオのやり方じゃない。


 なのに、鍵を差し込み回す動作は優しい。今頃は中で寝ているであろう妻のミカを気遣っていたからだ。

 アキオはゆっくり扉を開けた。


 スカイブルーのネグリジェを着た女の姿が目に飛び込んだ。シャギー掛かったミディアムヘアを手ぐしで梳き、艶めかしい目でこちらを見てくる。

 ミカだ。ミカが夜のオーラを纏ってそこに立っていたのだ。


「お・か・え・――」

 言い終わる前に外から扉を閉めた。

「そうか。俺の今日はまだ燃え上がるか」

 そんな言葉が自然と出てきた自分に笑う。そして深呼吸。


 アキオは再び扉を開ける。

 そこには上体を前屈みにし、親指の爪を甘噛みしたミカが居る。わざわざポーズを変えて強調させた唇が艶めく。

「お・か・え・り」


 アキオは今度は最後まできちんと聞いた。

「ただいま、ミカ」

 愛妻にする帰宅の挨拶はやはり心地良くもあったが、まず言及せねばならない事が有る。


「今日は絶対に遅くなるから先に寝ろって言ったよな」

 しかしミカは口を尖らせる。

「だって我慢するの無理だったんだもん」

 素に戻ったミカの口調は軽い。


「いつからスタンバってた?」

「逆に終電直後が帰ってくる確率高いと思ってさ。まあ十五分位かな」

 ミカの足元には携帯ゲーム機が置いてあった。

 本当はもっと長く待っていた筈だ、とアキオは思った。


「でさアキオ。早速だけど私にして欲しい事、有る?」

 答えは決まってるよね、と云わんばかりのミカの問い。

「何か手早く食べられる物を頼む」

「ちょっと! 食べるならア・タ・シっ!」


 ミカの追撃ダイレクト言葉アタックから目を逸らさず、それでもアキオは「頼むよ」と答えた。

 ミカは彼の優しげな眼を見据えて、やがてふと微笑む。

「うん、わかった」


 ミカはくるりと回って駆け足するみたいに台所へと向かう。アキオは靴を脱ぎ、足元に残っていた携帯ゲーム機を拾い上げる。

「賢い妻で本当に助かる」

 そう独りごちてから、アキオは一気に体が重くなるのを感じた。


「慣れたやりとりに体の緊張もほぐれたか」

 結婚して早一年。他人の目に映る非日常も、当の夫婦にとっては既に些細な日常だ。


 アキオはリビングに入って鞄をソファに放り捨てる。ネクタイを外し、もう片方の手にある携帯ゲーム機をそっとガラステーブルに置きつつシャツの首元のボタンを外してから、最後にジャケットを脱いだ。


 そうして台所寄りにある食卓用の木目調テーブルに腰掛けると、ミカが食べ物を支度している音が鮮明に聞こえてきた。

「もう持って行けるからね~」

 音に混じったその言葉を聞くと一層気持ちが楽になる。


 台所から戻ってきたミカは、どんぶり鉢とおしんこを盛った小皿、そして市販のお茶漬けの素のパックを乗せたお盆を持っていた。

 どんぶり鉢には照りの有る白ご飯がしっかりと盛られている。


「好きなの二袋分入れて。鮭と梅のハイブリッドとかでも良いよ」

「お茶漬けか。その為のどんぶり鉢とは俺の事分かってくれてるな」

 アキオが目を輝かせて言った。ミカはふふん、と鼻を鳴らす。

「お茶漬けの時はお茶碗二杯分、間を置かずに一気に食べるのがアキオのやり方だもんね」


 効率を重視する所が有るアキオ。だからミカは今の疲れた彼を待たせない為に市販の素を用意した。それが良いんだと、分かるから。

「ホントに鮭と梅にしたんだ、ウケる」

 ミカは吹き出しながら、お茶漬けの素が掛かったどんぶり鉢へとポットのお湯を注ぐ。


 二袋分、海苔もあられも中々にボリューム感を出し、メインの具材は鮭と梅のフレークという二大巨頭。そんな即席お茶漬けの見た目を愉しんでから、アキオは食べ始めた。


 これ位が良い。多くの社員の悲願を掛けて戦い、勝った後で愛する妻に用意して貰った物を食べる……代わり映えがしないこれ位の幸せが逆に沁みる。

 口の中で質素な仕上がりの、主に鮭と梅の塩っぽさが、それでもそれぞれ個性を出してアキオの味覚と胃袋を満たしていってくれる。


「ねえアキオ。アタシと結婚した理由って、今も変わらない?」

 不意に来たミカの言葉。

「それ聞くの何度目だよ」

「何度でも聞きたいのっ」


 拗ねたようなミカの顔にアキオは苦笑する。

「俺が出逢った中でミカが、一番賢い女だったからだよ」

「でもアタシ、あんたの仕事の事とか良く理解できないし、最近は何も話さないじゃん?」

「それは話す度にミカが居眠りしだすからだろ」


「だってアキオの仕事の話難し過ぎるんだもん。……でもさ、今日は特に凄かったんでしょ? 家出る前に言ってたもんね」

「ああ。本当に疲れたよ」

 アキオはやはり社内で起きた、というよりも自分が起こした偉業はミカには話さなかった。


「アキオがそんな大変な日だって知ってたのに、アタシそれでも構って欲しくて玄関であんな風に待ってたんだよ。凄く疲れて帰ってくるだろうと分かってたのに。……そんな自分勝手な奴なんだよ、アタシ」

「それで良いんだよ」


「えっ」

「幸せっていうのは自分で掴むんだ。他の奴がどれだけ大変だろうがそれは関係無い。夫の俺相手なら尚更遠慮するな」

「でも……」

「忙しいとか、他人をほっとけないとか御託を並べて、自分の事を顧みずに仕事に追われてる奴なんて大馬鹿だ。俺もよくそう成りかける」


「そ、そこまでは、アタシ思ってない、よ?」

 アキオの堂々とした調子にミカは段々萎縮していってしまう。

「今のこの国は、自分を大事にしない癖に誰かに幸せにはして欲しいなんて、無茶な願いを持つ奴だらけの壊れた国なんだ。俺もそう、成りかける」

「ごめんってば! 我がままな女でごめんってばぁっ!」


「だから良いんだよ。ミカのそういう自分らしさをちゃんと持った姿勢が、一人の人間らしい賢さが、俺は大好きなんだ。大事な事は何かを思い出させてくれるんだ」

「え……」


 アキオの玄関で見た時と変わらない優しい顔に、ミカは昂った感情の反動で全身が熱くなるのを感じた。

「別にアタシは自分と、アキオの事しか考えてないっていうか……」

「それで十分生きられるんだよ、元々人はさ。ミカはそれが分かってるんだ」


 アキオはお茶漬けを堪能しながら、ミカの心をさらりと掬った。お茶漬けをさらりと食べるのと同じみたいに。

 ミカは特に熱くなっていく頭の中でこう思っていた。


 ――アキオは一々聞いてこないけど、アタシはこの人のこういう所が好き。アタシの中に自然に入って来て、なのに気が付いたらアタシの方からこの人に寄り添っていたいとそう思わせてくる。安心感で支配する、究極の、サディスト……


 アキオの方をミカはギラギラした目で見ている。

「良く分かんないけどぉ、アタシがすっごいって事で良いのよ、ね?」

 そう呟いてみるが、アキオはもうただ目を閉じてお茶漬けを味わうだけだった。


 ――これこれぇっ! この言いたい事言われた後で放置されてる感じが堪んないっ!


 心と体がゾクゾクしてくる。

 幸せな空気が二人を包んでいた。

 ―THE END―

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