ミヤコさんは優しい幽霊
洗面所の鏡に映る自分を見て、やっぱり違うと思わざるを得なかった。
洗面所といっても、公立高校にしては珍しく、明るく清潔な空間。木目調の防水シートが張られた床などは、一見新築マンションのリビングみたいだ。洗面台は壁際ではなく、空間の真ん中にある柱を囲むように三台設置されている。
本当は来客専用で本校の生徒は使用禁止だけど、学園祭のにぎやかさに紛れて忍び込んだ。今は、他の生徒に会いたくない。
鏡に映る私の後ろには、いくつもの光が瞬いて、光の壁紙を作り出していた。広い開口部を埋める小さなすりガラスが、オレンジ色の夕日を細かく反射させているのだ。
その綺麗な背景に負けず、浴衣も綺麗。
濃い緑の地に白い百合が咲いていて、蛍が間を飛び交っていて。黄色と黒のリバーシブルの帯も、虹色に光る帯留めのトンボ玉も、全部素敵だった。
それらの上に載っている顔だけが異形なのだ。
ごつい首。柔道の道場に生まれ落ちたのが間違いだった。物心つかないうちから入門させられ、首だけじゃなく肩も腕も、そんじょそこらの男子に負けない太さ。
厚い唇の、大きなへの字口。低い鼻。重たくのしかかる一重まぶた。
気が重い。
『間もなく、学園祭を締めくくるキャンプファイヤーが始まるぜぃ! みんな、心の準備はいいかぁ!』
全館放送から流れるノリノリのアナウンスが、石化して頭の上にのしかかってきた。
もういっそのこと、このまま個室に閉じこもっていようかと洗面台を回り込んだとき、入り口のスライドドアが開いた。
ヤバイ、先生だ。と思ったのはお互い様だったみたいで、相手も入り口で硬直した。だけど、すぐにほぐれて、ピンク色の浴衣の袖を振ってきた。
「りこーっっ! 浴衣じゃん!」
そういう真里奈の浴衣姿は私と違って、ファッション雑誌のモデルみたいだった。牡丹だかバラだかの花が華やかにあしらわれ、ところどころキラキラ光っている。私はあわてて、両手を顔の前で高速ワイパーにした。
「ち、違うよ。告白とか、しないから。成り行きだから!」
「えー、そうなのぉ?」
言いながらも、真里奈の顔はどこかホッとしていた。
学園祭最終日の今日、この二日間校内の各所を飾った大道具を燃やして、キャンプファイヤーをする。洗面所の外では、思い思いにはしゃぎながらベニヤ板やダンボール箱で作った大道具を運ぶ気配が行き交っていた。
そして、ただ燃やして火を囲むだけじゃない。浴衣姿の女子が男子に告白するというのが、うちの高校の伝統。もちろんその逆も可。クラスの出し物で浴衣を着る人もいるから、浴衣姿の人全員が告白するとは限らないものの、疑われても仕方がない。
真里奈が唇をとがらせ、グロスを塗りながら聞いてきた。
「でもさあ、りこ、朝は柔道着だったじゃん? 成り行きって、どうしたの?」
「なんていうか、昨日、さ」
クラスの準備が終わって。ほかのみんなは帰ったけれど、私は教室に忘れてきた鞄を取りに戻った。
四階の一年生の教室から下りる途中、二階の生徒会室でまだ作業をしているのに気がついてしまった。見ると、放って置けなくなって。完全下校時間ぎりぎりまで、大道具作りを手伝っていた。おかげで絵筆を持った左手の爪には、色とりどりの絵の具が詰まっている。
「もぉ、りこったら、いつも優しいんだから」と真里奈。
出来上がって正門に飾るって言うから、運搬を請け負ったわけで。生徒会の人たちは他にもやることがあったし、一人で運んだ。
「力持ちだもんね。頼りになるわぁ」再び真里奈。
階段を下りたら、正面玄関の鍵がかかっていた。そのとき、通りがかった女の先輩が鍵を開けてくれて、いろいろ話していたら。
「こうなった、てわけよ。お下がりでよかったら部室に浴衣置いてあるから、昼休憩に着せてあげる、て」
「ちょっと待った」
打って変わった鋭い突っ込みに、私は醜い顔をさらに引きつらせた。
「てことはやっぱり、コクりたい相手がいるってことじゃない?」
ええまあ、そんな流れになったのですが。どう誤魔化すか。緊張して汗がにじむ手を、センサー付き水道にかざした。勢いよく水が流れる。
「いやいや、その演劇部のミヤコさん、て人がね、あまりに熱心だったから。断るのも悪いじゃん」
何食わぬ顔で、懐からハンドタオルを取り出して拭く。納得してもらえただろうか。
「ふーん」
グロスの次はマスカラを塗り、睫毛を増殖させる真里奈の手が止まった。
「て、りこ、さっき何て言った? 誰って?」
「え、だから、演劇部のミヤコさん。多分、三年じゃない? 初めて見た顔だったけど」
ささーっと急速に、真里奈の顔が青ざめた。持っていたポーチがどっさり落ちて、中身が木目調の床に散らばった。
「ちょ、ヤバイよ。マジヤバイって」
「なにが?」
グロスにマスカラ、ハンドクリーム、毛抜きに耳かき爪切り、基礎化粧品のミニボトルセット。やたらたくさんの落し物をつまみあげる私を見下ろして、真里奈は目を吊り上げた。
「もぉ~。三ヶ月も通っていながら、聞いたことない? うちの高校の怪談。演劇部のミヤコさんって幽霊の話」
「……初耳です」
「だいたい、うちに今演劇部なんてないでしょ。それくらい気付きなよぉ」
ポーチを渡した手から、顔の青さが真里奈から私に移動した。真里奈は大きく肩で息をついた。
「ま、悪いことはしないって話よ。ミヤコさん、コクりたい子を応援するんだって。優しい幽霊らしいよ」
「だけど、コクんなかったら、どうなの? どうなるの? 私、どうなるの???」
「さあ。ほんとに浴衣着せてもらった人の話って、聞いたことないし」
呆然と懐にタオルを仕舞う左手を、真里奈はがっしりつかんできた。
「うん、でも、この際腹をくくってコクりなよ。上手くいけばミヤコさんも成仏してくれるかも!」
人事だと思ってないか、真里奈。私は今、スイカを百個、心に載せられた思いなのだけど。
そもそも、初対面の人に、なんで好きな人がいるって話をしたんだろう。
『りこちゃんは、キャンプファイヤーで浴衣着るの?』
そう言って、私を覗き込んだミヤコさんの無邪気な目に、催眠術をかけられたのかもしれない。ミヤコさんは、色が白くてさらさらの髪でちっちゃくて。私と正反対。
『私? ううん、いいの。もう、いいんだ。だから、りこちゃん、私のお下がりでよかったら浴衣使ってよ。……大丈夫、着せてあげるから! がんばって告白しなよ!』
という成り行き。
「やっぱり、脱いでくる。脱げるなら、脱ぐ」
「えー、勿体無いし」
「いや、だって」
再度、キャンプファイヤーの開始が近いことを告げるアナウンスが流れた。あまり長居をして本当に先生に見つかるといけないし、そっとスライドドアを開けて外へ出た。
真里奈と一緒に玄関に着いたところで、クラスの男子と鉢合わせた。大方は標準服だったけれど、中には浴衣男子もいる。クラスで開いた『スポ根お化け屋敷』の看板を担いでいる人もいる。そんな集団から、一斉に悲鳴があがる。
「うお! 関取かと思ったら、ゴリコじゃん」
「マジかよ。近づくんじゃねーよ」
「ゴリコにコクられたら死ぬわ、マジで」
ニヤニヤ笑いながら散らばっていく。真里奈が拳を振り上げて抗議するけど、私は慣れっこ。
五島りこ。略したらゴリコ。見た目も近いけど、霊長類のゴリラさんには申し訳ない。
「ね、他の人のためにも、脱いだほうがいいでしょ」
「もぉ、りこったら、気が良すぎるよぉ。あいつら放ってたら、どんどん付け上がっていくばかりだよぉ?」
そう言ってくれる真里奈だって、ちょっとは含み笑いを隠しきれてないのを知ってる。こっちが怒れば火に油なのは経験上身に染みて分かっているから、受け流すのが一番。全然痛くも痒くもない。むしろ。
揶揄する男子集団の間に、一人笑わない顔があった。普段銀縁目がねの奥にひっそり細められている目を大きくしている顔が。
明らかなドン引き顔。そして、少し同情の色。そっちのほうが何倍も痛いってことを、あの学級委員長は知らないんだろう。ひとつ上のレベルの高校を落ちて、ここには首席合格したって噂もある。名前まで氷室涼とか、涼しいやつ。
「まあ、だから、着替えれるかやってみるよ」
「んー。じゃあ私、先に行っとくね」
玄関のコンクリートの床に、真里奈の下駄の音がからころ遠ざかる。大騒ぎしながらグラウンドへ向かう一団の流れを遡りながら、渡り廊下の向こうへ、部室棟へ足を引きずっていった。
人気のない校舎は、廃墟のようだった。ぺたりぺたりと、スニーカーの音が落ちる。そういえばミヤコさん、下駄は貸してくれなかった。
ミヤコさんは、許してくれるだろうか。告白しないと言ったら、呪い殺されるかもしれない。考えが悪いほうに転がっていく。
ふうっと、頬を風がなでた気がした。
「ミヤコ?」
男性の声を、私の悲鳴は見事にかき消した。とっさに胸倉をつかんで投げ飛ばそうと構えた私の手の上で、待ったがかかる。
「あー! やめてー五島さんー!」
「中島先生、どうしてここに?」
先生といっても、二週間前から来ている実習生だった。昨日で自習自体は終わっているけど、学園祭までは参加すると言っていた、大学生だ。
中島先生は軽く咳をして喉の具合を確認しながら言った。
「いや、人を探してるんだけどね。五島さんが見覚えのある浴衣着てるから」
「見たことがあるんですか」
「うん。同級生の子が、そういうの持ってて。印象的だったから」
先生の話によると。
先生が高校一年生だった時のこと。同級生に、宮古という女子がいたそうな。彼女は優しくて、誰にも人気の優等生じゃった。ところが、学園祭の前の夜、彼女は不慮の事故に遭い、救急車で運ばれてしもうたんじゃ。
「で、どうして昔話口調なんですか?」
「うん、僕の専門は古典だから?」
そうだった。先を促すと、先生は右の人差し指を立てて私の前に差し出した。
「ちなみに事故って言うのはね。学校帰り、川土手に差し掛かったところ蛍が群舞してて、見とれて歩くうちに足を滑らせて、打ち所が悪かったらしい」
ミヤコさんは、天然だった。
先生の話は続く。
集中治療室に運ばれる間、宮古さんはうわごとを繰り返していたんじゃと。
『明日は、ゆうちゃん、がんばってね』
生死の境をさまよう中、宮古さんは、自分より友達のゆうちゃんのことを案じておったんじゃ。
ゆうちゃんには、好きな人がおった。じゃが、告白をしようかすまいかと、ひどく迷っておった。宮古さんは友達を励まし、浴衣を貸すと申し出ておった。自分はもう、いいからと。
「質問です、先生。どうして自分はいいんですか?」
手を挙げる私に、中島先生は、よくぞ聞いてくれました感丸出しで、もったいぶって咳払いをした。
「実は宮古さん、自分もかねてから想いを寄せていた先輩に告白するつもりで、浴衣を仕立てていたのであります。あ、彼女、演劇部の衣装係だったからね。だけど、学園祭の前日の昼に、その先輩から告白されてたんですね」
なるほど。それで、想いをこめた浴衣を友達に着てもらいたかったんだ。
「その、ゆうちゃんって人は……?」
宮古さんは、学園祭の朝に息を引き取ったんじゃ。ゆうちゃんは宮古さんの思いに答えようと、意を決して、思い人に告白したそうな。
「ただし、浴衣は使わなかった」
中島先生の顔が曇った。
「次の年からみたいだね。僕も実習中に幽霊の話を聞いて驚いた。その浴衣で、宮古はこの世とつながっているのかもしれない」
「マジっすかぁ」
がっくりと落とした肩を、つかまれた。
「五島さん。お願いします。がんばって告白してください。宮古の応援を、無駄にしないでください」
と言われましても。
目の前に、氷室の顔がちらついた。
今のところ、空気読めない君という立ち位置であっても、彼はクラスの男子らにどうにか受け入れられている。多少浮いた存在であっても、そういうキャラとして好意を持たれている。
なのに、ゴリコが告白したら。
滑り止めで合格した、来たくもない高校でいじめられるかもしれない。そうなったら、氷室の居場所はなくなってしまう。
いやだ、そんなの。
空気を突っ切って、花火が打ちあがった。渡り廊下の窓の向こう、まだ明るさを残した空に大輪が咲く。
「始まっちゃいました、告白タイム」
ぽそりと呟きがもれた。
「先生。告白しなかったら、ミヤコさん、祟りますかね。私、死んじゃいますかね」
氷室にとって滑り止めでも、私にとっては第一志望だった。中学の先生にあきらめろと言われてもあきらめなかった。花の、とは言わなくても、ゴリコなりに高校生活を楽しもうとしている最中なのに。
思うと、ぼろぼろ涙が出てきた。
先生の答えは、あっさりしていた。
「それはないと思うよ。宮古、そんな子じゃなかったし」
真里奈にしても、いい子が悪霊化している可能性は全く考えてない。薄汚れたスニーカーのつま先を見ていると、先生の骨ばった手が肩をたたいてくれた。
「うん、でも、最後は五島さんが決めることだよね」
無理しないでいいと思う、と言い残して、先生は玄関へ足を向けた。
夕日が校舎の西にあるマンションに隠されたらしく、急に夜の暗さがたちこめてきた。
グラウンドからは、公開告白と称したイベントの音が聞こえてくる。朝礼台を飾りつけたミニステージからマイクを通して「~君、す、き、でーす!」とか叫ぶ黄色い声。指笛口笛での喝采。
そういった音が、はるか頭上の水面で聞こえているような。そして私は、暗い水底に沈んだままのような。
盛大なため息が漏れた。そのとき。
『りこちゃーん』
語尾にハートマークをつけて、その人が現れた。
『告白タイム、始まってるよ。行かないの?』
「ミヤコさんは」
呪ったりするんですか。聞きかけて、さすがにやめた。幽霊だったんですね、でも良かったけど、それもやめた。
にこにこと首を傾げて顔を覗き込んでくるミヤコさんは、ただのかわいらしい人だった。
「どうして告白にこだわるんですか?」
『まだ迷ってるの?』
素直に頷いた。
「だって、私、こんなだし。ゴリコだし」
『えー。りこちゃん、かわいいよ。すんごく優しいし、素敵な女の子だと思うよ』
「昨日会ったばかりなのに、そう思うんですか?」
よほど不審な顔をしていたみたいで、ミヤコさんのほうが赤くなって顔の前で掌を振った。
『私、この一ヶ月、学校のいろんな人を観察したうえで、りこちゃんを選んだんだし』
「行き当たりばったりじゃないんだ」
『そうだよ。あの世でバイトして、現世ステイの申し込みして。本当はもっと長くステイしたかったけど、十一ヶ月働いて一ヶ月ステイがようやくなのよ』
ほら、と、ミヤコさんが標準服のポケットから取り出したのが、そのパスポートらしい。読めない字が並んでいる横に、ミヤコさんの顔写真が印刷されていた。
『りこちゃんが好きな人って、同じクラスの氷室くんでしょ?』
「そんなことまで知られていたんですか」
脇から背中から、変な汗が流れ落ちる。顔だけキャンプファイヤーの前に突き出されたみたいに熱くなる。
氷室とは、一回だけ話をした。話って言っていいのかも分からない。
入学してすぐのとき。学級委員の彼は担任に頼まれて、新入学生対象野外活動のしおりを運んでいた。具合でも悪かったのか、ひょろりとした彼の足は頼りなくもつれていた。
何故だか、他の人たちは彼の脇をはしゃぎながら通り過ぎる。まるで、彼が見えていないかのように。
考えたら当たり前かもしれない。いろんな中学から集まった者同士、話しかけるのもどこか遠慮があって、手を貸したくても恥ずかしかったのかもしれない。
でも私は、ある意味いつも通りだった。声を掛けると、冊子の束を彼の腕から受け取った。
「なんだ、もっと重いのかと思ったら」
そんなことを呟いたのを覚えている。
氷室は、銀縁眼鏡の奥で目を細めてうつむいた。
「ありがとう、五島さん」
踏み出した足を、がくりと止めてしまった。まじまじと、氷室の頭のてっぺんを見た。
入学式後の自己紹介ですでに、同じ中学から来た男子に、ゴリコと呼ばれた。面白がったほかの男子も、違うクラスの連中ですら廊下ですれ違うとその名で呼んできた。
そんな状況で、氷室はゴリコと言わなかった。希少男子だ。
「ただ、それだけだし」
ふてくされて話を切り上げると、ミヤコさんは人差し指を口元に当てて考えているふうだった。やがて、頬を緩めてスカートを翻すように回った。
『告白っていうと、なんか重いよね。ゆうちゃんもそうだったんだ』
遠い目をして、ミヤコさんは楽しそうに笑った。
『ゆうちゃんの場合、相手が先生だったし』
「禁じられた恋?」
『卒業までは、ね。でも、好きになるのは止められないじゃない』
まだ、氷室のことが好きなのか、自分ではよく分からない。
『母の日みたいに考えてみたらどうかな? 嬉しかったとか感謝とか、いつも感じてても伝えられないけど、きっかけがあると言えるじゃない?』
「別に、感謝とか、してないし」
嘘。感謝してる。
ただの一回も、氷室がゴリコと口にしたのを聞いたことがない。それどころか、黒板の日直欄に書かれた三文字のカタカナを、こっそり書き直してくれたこともある。
『それに、だれかに気持ちを伝えるのって、素敵じゃない。結果よりも、その一言までの道のりがいいと思うのよね』
ふふ、と微笑んだミヤコさんの笑顔が、それまでと違って見えた。
廊下は、掲示物の文字がみえにくくなってきた。時々、炎の色が四角く壁に映えるのは、燃え盛る大道具が崩れ、火の粉が舞っているからだろう。公開告白の音声と歓声が、変にこもって聞こえる。
それとは対照的に、次第に影が薄れていくミヤコさんの囁きが、頭の中に反響した。
『ねえ、もう一度、その浴衣を通して感じさせてくれない? 秘めた思いを伝えるときの、胸の高鳴りを』
全身が痺れた。ずしんと鉛のように重くなったと思ったら、勝手に動き始める。
「誰が優しいってぇ」
語尾が裏返った。浴衣がほんのり光を放っている。足が回れ右をして、玄関に向かって走る。どすどす地響きを立てながらも、腕は直角に拳は頭の高さで横振り。
「分かった。分かったから、普通に走らせて!」
どうして私がこんな目に遭うのだ。浴衣を使ってくれなかったゆうちゃんとやらを、思い切り心の中で罵らずにはいられなかった。
アナウンスが、告白タイムの残り時間あと五分と叫んだ。真里奈情報では、最後にもう一度花火が打ちあがり、そこで終了とのことだ。玄関の扉を両手で開け放つと、グラウンドの端で点火準備をしている地元消防団の姿があった。
氷室はどこ?
狂った闘牛のような私の走りに、めでたいカップルがおののき道を開けてくれる。勢いあまってぶつかりそうになる度に、ドップラー現象で音を低くしているであろう謝罪を置いていく。
炎に照らされた顔が走馬灯のように流れる中に、氷室の顔がない。
最後の花火が打ちあがった。校舎の窓に、光の筋が昇っていく。
居た。
急ブレーキをかけたスニーカーが、砂を巻き上げた。グラウンド半周分、今来た道をダッシュで戻る。
二階、生徒会室の窓に、氷室の銀縁眼鏡が光を反射させていた。
花火が炸裂した。誰も、猪突猛進する光る浴衣を見ていない。夜空で分散して炸裂を繰り返す光を見ていないのは、私だけだった。
『早く、終わっちゃう』
ミヤコさんの黒い声が急かす。目的の窓の下にたどり着く頃には、心臓がロックバンドのドラムと化していた。
「氷室、くん!」
大声は、花火に勝った。氷室が顔を向け、慌てたように窓を開ける。鍵を開けるのにもたついている。
花火の光が小さくなる。消えてしまう。
ええい、もう、どうにでもなれ。
「私のこと、いつも五島さんって呼んでくれて、ありがとう! もし良かったら、友達になって!」
花火は、すでに消えていた。自分の息しか聞こえない。背中に無数の視線を感じる。心臓が痛い。
ようやく開いた窓から、氷室が身を乗り出した。ゆっくり両腕が上がる。ごくりと飲み込んだ唾は、乾ききった喉を潤わせることなく落ちた。
大きく交差した氷室の腕に、膝が力をなくして、砂の上に座り込んでしまった。
輪郭のぼやけた景色の中で、氷室が大きく口を開けた。けれど、音は相変わらずぼやんと遠い。背後でたくさんのどよめきや、中島先生の呼ぶ声聞こえた気がした。けれど、私の耳にはっきり伝わるのは、ミヤコさんの明るい声だけだった。
『がんばれたね、りこちゃん!』
同時に、強い、でも柔らかい光に包まれた。
浴衣が光っている。光が粒になり、湿気をはらんだ空に舞い上がっていく。
ありがとう、と聞こえた。
電車を下りると、灼熱地獄だった。じりじりと焼けたアスファルトから陽炎が立ち昇る。蝉がやかましく恋人を呼ぶ中、私は中島先生と、とある駅の前にいた。
盛夏に標準服は暑い。紺色のポロシャツは、太陽の熱を思う存分吸いこんでいる。顔中汗だらけの私を見て、先生がおろおろと水のペットボトルを差し出す。
「体調はもう大丈夫かい? 退院したばかりだと辛いんじゃない?」
「いえ、平気です」
先生の方が、上着こそ省いているけれど、きっちりと喪服姿で、見ているだけで体感温度が一度上がる。
確かに、空調の効いた病室で秋まで過ごせたらどんなに心地よいだろう。けれど、一週間でその快適を手放し、本物のミヤコさんの浴衣を手にしてここに居る。
私が身につけていたのは、言ってみればミヤコさんが作り出した幻像だった。本物は、部室棟にある倉庫のロッカーで埃を吸って色あせていた。それを見つけ出し、菩提寺でお経を上げてもらおうと先生に声をかけられたのが退院の日だった。
「体調より、心の調子がまだ狂ってるというか。告白したあと浴衣が消えるとか、聞いてなかったし」
ほはぁ、とため息をついて、ミニタオルを取り出すと汗を拭いた。先生が苦笑する。
「まあ、下に体育着を着ていて良かったね」
「前日にミヤコさんに言われたんです。着付けに自信がないから、はだけてもいいように着ておけって」
「なるほど、やっぱり宮古は優しい子だなぁ」
同意しかねる。左手でタオルを仕舞いながら、入院中気になっていたことを尋ねた。
「今日は、ミヤコさんの友達も来られるんですよね? ゆうちゃんって人。その人はどうして、浴衣を着て告白しなかったんですか?」
エンジンの音が近づき、先生はそちらへ目を向けた。路線バスが駅のロータリーに入ってくる。
「ゆうちゃんだって、宮古の遺志を尊重したかったんだ。だけど、着れなかった」
ちらりと私を見た後、先生は気まずい顔で額の汗を拭う振りをした。
「僕が、ゆうちゃんだから」
ぽかりと開けた私の口から、アシカの鳴き声が飛び出した。
「宮古とは幼稚園時代からの幼馴染みで。恥ずかしいのに、高校になってまで僕を『ゆうちゃん』って呼んでたんだ。高一のとき新任の先生を好きになった僕を応援してくれたけど……ねぇ」
ミヤコさん、やっぱり天然だ。ご愁傷様です。
「でもまあ、宮古のおかげで縁が結ばれたわけだし。お礼を兼ねて墓前に二組のカップルが参るのもいいだろう? 彼女は車で、そろそろ菩提寺に着くころじゃないかな」
「ふたくみ、ですか?」
バス停から、降車客がこちらに向かってきた。そのなかに、白い百合の花束を持った氷室の姿もある。
「え、でも私、氷室くんには断られてますよ。先生も見たでしょ。腕で大きくバツ印」
「そのあと氷室くんが叫んだの、聞こえてなかったの? 友達じゃなくて、かにょ……」
言葉の途中で、氷室が先生を突き飛ばす勢いで割り込んできた。
「か、かっこいいネクタイですね先生!」
「いや、お悔やみ用の黒ネクタイだよ」
「先生はもう、黙っててください!」
慌てふためく顔を、初めて見た。銀縁眼鏡が汗で滑ってゆがみ、口は鯉みたいにパクパクしている。
不満そうな先生に、氷室は釘を刺す。
「五島さんには、僕からちゃんと言います」
行くよ、と氷室が私を振り返った。真っ赤な顔で、目を合わせようとせず、ゆっくり手を引いてくれる。
心に炭酸飲料を注ぎ込まれた感じがした。嬉しい予感が気泡のように沸き立つ。
たとえこれがひと夏の恋に終わろうとも。
神様仏様、そしてミヤコさまに感謝いたします!
夏に紡いだ物語 かみたか さち @kamitakasachi
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