- とある日の講義ノート

 ……このように、私たちをとりまく世界は確実に良い方向へ向かっています。そのため、哲学の授業も役目を終えることになりました。

 道徳、倫理、数十年前の日本では忘れ去られていた言葉ですが、哲学は現代にあるべき行動規範を蘇らせてくれました。ここ2000年間強、人類は刹那的な快楽だけを求め、何も省みず、今さえあればいい、と半ば自暴自棄に陥っていました。これまでの圧倒的な進化のスピードを考慮すれば仕方がないことですが、常に紛争が絶えず、善なるものの声はかき消される傾向にありました。善というのは往々にして自らに都合が悪い物だからです。真理も然り。いずれも面倒でやっかいな代物ですから、これらを追求することが許されたのはごく一部の人間でした。

 しかし、人類は次のステージに進みます。

 皆さんが今、体感しているとおりです。

 今、人間は知識を得て、互いに思いやることができます。結婚や友情や職業生活を大切にして、日常の人間的義務を真剣に果たし、互いに慈しみ合い、互いに助け合うことができます。この態度が人間の幸福と自由を約束してくれると考えています。今更、こんな言い古されたことを繰り返すのか、と思うかもしれません。ここで立ち止まって考えてみてください。一昔前の私たちにはこれが非常に難しい行為だったことを思い出してください。例えば、聖書です。大昔から世界中の人間が読み続けていますが、聖書に書かれていることをすべての人間が実行するには至りませんでした。往々にして盗みや殺しは発生してしまうものなのです。これは歴史が証明していますし、そもそも聖書を読まなければ書いてある行動規範を実行するまでいたりません。また強制力もありません。ですから、教育や法で人間を縛って道徳観を植え付けるという方法がなされてきましたが、これも失敗でした。いくら理想的な思想を刷り込もうと、身体の欲求には逆らえません。人間の脳は良心を生み出しましたが、それは生物的な欲求とは相性が悪かったのです。つまり道徳とは人間にとって非常に高度な思考・行動基準であるため、実行するには個人差が生まれてしまいます。もちろん大多数の人間は強姦などしませんが、犯罪を犯す人間は必ずいます。

 生徒:あの。

 なんでしょう。

 生徒:つまり、Auto-syncはそのためにあると。強制的に、感情を穏やかにし、他人とのつながりをシームレスにする。

 そうですね。人間を次のステージに引き上げた画期的なデバイスと言えるでしょう。以前の人類が第1ステージだとしたら、現在は第2ステージに到達していると言えます。法律より、教育より、聖書より効果的なもの……。なんだかわかりますか?

 生徒:……科学の力?

 ははは、まあそうかもしれませんね。だけど、皆さんが無意識下で常に行なっていることですよ。今この瞬間もね。考えてみてください。

 では、感情とは、人間を不幸にする『無駄なもの』なのか。もちろん違います。感情が存在するからには、必ず理由があります。感情は善悪の判断に必要です。他人を助けたら喜びを感じ、傷つけたら悲しみを感じなくてはなりません。これは意志の力でコントロールできることではありません。よって、道徳を身につけるのに効果的です。以前はこれを教育一つで行なっていましたが、今は教育と並行してAuto-syncを併用することにより高度な道徳が遵守されるようになっています。

 生徒:ちょっといいですか。

 はい。

 生徒:先ほど教授は、我々の立ち位置は現在『第2ステージ』と仰られました。とすると、今は『第3ステージ』を目指しているということになりますね。

 そうです。

 生徒:それはつまり……神に身を捧げる……ということですか。

 鋭いですね。

 生徒:しかし、今の私たちに信仰心が芽生えているとは到底思えません。

 その通りです。一般的に宗教と呼ばれる思想を信じている人はごく少数になってしまいました。私たちが身を捧げようとしているものは、違うものです。先ほど○○くんが言ってくれた科学の力というのも、間違ってはいません。ただ、〈それ〉を達成しきれば、我々は宗教的存在と本質的には変わりが無くなります。〈それ〉は神ではなく人間の順当な進化の形です。もちろん〈それ〉が達成されようが、単独者として生きることはありません。

 ……ところで、人生はとても短い。この歳になるといやでも痛感します。政府は、人類が次のステージに進むにあたって、このことを憂いています。なぜなら短い人生の中で人間が文字や伝聞で情報を後世に残すというのは、あまりにも非効率的だからです。だから、……

 ああ、時間が来てしまいました。長かったこの授業もおしまいです。お疲れ様でした。この大学最期の哲学科として、君たちは誇りを持って生きてください。3年生から就活が始まりますね。応援しています。寒いから風邪をひかないように。

 生徒:For、なんちゃら……。

 何ですって?

 生徒:いいえ、友人が使っているところを見たものですから。俺はよくわかりませんが。初心者は、よくこれで失敗するようなのです。……









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短波長の夏は殺戮の季節 @reizouko

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