1-19 生者たちのゲーム



 廊下の向こう側で、カツンと何か落ちる音がした。誰かの息遣いが聞こえる。慧理が息を止めてみると、もうひとつ、用心した呼吸がゆっくり吐き出されていた。

 「逃げよう」

 「どうやって……」

 「とにかくここから離れるんだ。きっと僕らを始末しに来た。または君を連れ戻しに来た」

 「国の機関ってやつ」

 カツン。

 二人は口をつぐんだ。見失いそうだったので、手をつなぎ、壁に手を当ててそろそろと音の反対方向へと歩きだす。

 「君夜目とか効かないの」

 「効くわけないよ」

 「なぜあの大人数を一人で相手できたんだ。僕はてっきり君以外の支援がやっつけてくれたのかと思っていた。でも君は一人で来たんだろ。どんな手を使ったんだ。国の機関とやらと、何か関係があるのか?」

 慧理はなんと答えて良いものやらわからず、一息おいた。

 「……わからない。気がついたら、部屋にいた科学者が全員死んでいた」

 「じゃあ気を失ったんだな。いつから。なぜそうなった」

 「それは……わからない……」

 「崖内、全部話してくれ」

 「……あの部屋に入って」

 「部屋に入って、どうした」

 「先輩と……科学者たちがいて……」

 静寂。

 「……私はとても悲しくなった」

 「それから」

 「……覚えてない」

 青樹はそれを聞いてしばらく黙っていた。もしかしたら苛ついているのかもしれない、と慧理は思った。

 彼は因果関係を好み、原因と結果、出来事との間に糸を張り巡らせ、根本となる原因を探り出す。しかし彼女の記憶には橋渡しする糸は存在せず、ただ断片だけが映像となって蘇ってくるのみだった。日野療養院、小学校、母の電話先、出来事としては覚えているが、実際それらがどんな意味を持つのかはわからなかった。先輩はそれらをつなげることに興味があるのだろう。だが大学入学時の記憶さえ曖昧な彼女は、彼の役に立てるとは思えなかった。そのうえ出来事の時系列を整理し、何を意味するか、考えるのは重労働だった。だから今までこの問題は放棄してきた。テロで才原ななかが死に、私の幼少期の記憶がこじ開けられてから、多くのことを忘れているのだと感づいたが、どうでも良いことだった。ただ、青樹はそうではないようで、慧理が曖昧な返事をすると、不機嫌な態度を取る。

 「その間、君は何らかの方法で科学者を皆殺しにした」

 「……多分」

 「多分じゃない。実際に君が殺したんだ」 

 「そうなのかも……」

 「しっかりしてくれよ」

 

 突然青樹が立ち止まり、慧理はあやうく鼻を彼の後頭部にぶつけそうになった。相当暑いらしく、彼のシャツを着た背中は水をかぶったように汗ばんでいた。慧理は完全調温加工コートとそれに準ずるスーツを身に着けていたため気が付かなかったが、建物内の空調が止まったため蒸し風呂のように熱がこもり始めているのだった。彼女のスーツは熱を体外に発散させ、戦闘員の快適なパフォーマンスを助けることができる。夏の間なら戦闘服を着込むほど涼しくなる。

 暗闇には一縷の光もなく、目が慣れそうもない。

 「行き止まりだ」

 「下に階段が」

 二人は階段を降り始める。あの尖った音は継続的に続き、そのたびに慧理は後ろを振り返った。だが、視界に変化はない。どこを向いても、目をつぶっても閉じても同じ闇が見える。歩いているのか止まっているのか時々わからなくなる。平衡感覚がおかしくなりそうだった。

 「随分長いね」

 「6階から降りてるからな」

 「あの……おかしいよね」

 「何が」

 「なんで誰も襲ってこないんだろう」

 青樹がまた立ち止まる。今度ばかりは慧理も同じだった。「しくった」

 「おびき寄せられたんだ」

 目の前に閃光が走る。

 慧理はとっさに青樹を庇って下に伏せた。同時に空を切る音が頭上で鳴った。目を開けると光の残像がちらつき、真っ白なライトが目の表面を覆っているみたいだった。「先輩、目は」「見えない」

 「こっちへ!」

 慧理はコートを脱ぎ青樹に持たせた。手を掴んででたらめに走り出す。あの皮膚表面を引っ張られる感覚がしていた。あいつだ、彼女が車の中で感じた感覚が、敵の居場所を知らせていた。引っ張られるのが右なら左、左なら右に走れば良い。頬を鋭いものがかすめた気がした。私はいい。だけど、先輩は避けられないだろう。

 身体がふわっと浮き上がった。まさか、道を踏み外した?違う。首根っこを持ち上げられている。かすかに光の残像が引いてきた目で、天井に張り付いたあいつを目視しようと試みるが、調子の悪いディスプレイのように揺らめいた顔は詳細が定かでない。

 「離してください」

 「……」

 「殺す気なんですね、私を」

 「……」

 「あなた、私と戦った方の戦闘員ではない」

 「……戦闘員、とか、雑魚みてーな呼び方すんな」

 かすれた低い声が唸った。

 「優越する者、だぞ。俺は優れている。お前よりも、誰よりも」

 「先輩を……殴ったほう……」

 「識別番号N0-000B0BLACKBODY、あいつは識別番号N9-000W0CORRELATION、優れた者を連れ戻す任務を担っている。N10-000S5Bお前は防衛省が管轄するPodaltonに協力しなければならない。しかし、その気はないんだろう」

 うまく声が出せない。緩みがない完璧にフィットするスーツの首もとを強く掴まれ、慧理の喉元が動くたびに締め付けられる。

 数時間前に戦闘した人物とは口調も身のこなしも全く異なっていた。ただ両者に共通していることは、とにかく動作に無駄がなく、的確で素早い。明確な目的のもとに動いている。ただ、それは慧理のような人間を連れ戻すという使命だけを遂行するために動いているのか、それとも別の要因があるのか、彼女にはわからない。ただ何れにせよ、彼らに捕獲されたら青樹は助からないだろう。この場において彼はただの法を犯した市民だ。

 「何を言っているのかわかりません」

 「わからないだろうな。しかし、言葉が意味するところは理解しただろう。俺はお前が必要な存在とは思わない。よって俺はお前をそこに転がっている男と同じ階級であるとみなす。機密を知った市民は処罰対象だ」

 エメラルド色の白板ガラスが暗闇の中に閃いた。その向こうから重い殺意のようなものが彼女を突き抜けたような気がした。彼らに引っ張られる皮膚感覚を何十倍にも濃縮して放たれたような感触に、本能が考えるより前にこの"優越する者"の腕にあてがい引き金を引く。と同時に首もとを掴んでいた指はぱっと離れ、銃弾は3m先の廊下の壁に直撃した。

 カツンと尖った音が耳元で鳴った。もう慧理の落下地点を把握して彼女の背後に先回りしていたのだ。濡れたような光がナイフの形をなぞって反射した。

 「裏切り者は組織に必要無い」

 慧理の首筋に氷のように冷たいものが当てられ、迷いの無い手つきで横に重心がかかる。

 「伏せろ!」

 青樹がレーザーカッターの口径を拡大し、拡散した赤い光をBLACKBODYの光彩に向けた。しっかりした白板ゴーグルはすべての衝撃から瞳を守るように見えたが、意外なことにBLACKBODYは顔を反射的にそむけた。その隙をついて慧理は青樹の腕を掴んでまた走り出した。どこに逃げればいい。このままやみくもに走ってもいずれ追いつかれてしまう。かといって正面玄関から逃げることはすでに施錠されているためかなわないだろう。望みがあるのは屋上でヘリを待つことだ。テロ組織側に助けてくれる意志があるのなら、の話だが。

 遠くの床にぼやけた赤い光が伸びた。青樹が先程のレーザーカッターの直径を広げてライト代わりにしていた。

 「先輩、ライトを消して」

 「問題ない。天井を切り取って」

 レーザーカッターを手に押し付けられ、慧理は急いでスーツの摩擦抵抗を調整して壁を登り、赤いレーザーの焦点を絞り天井にいびつな円を描いた。向こう側でまた尖った音が聞こえ、慧理は急いで青樹の手を取って、腕をしっかり掴み、天井裏へ身体を押し込むのを手伝ってやった。

 「あいつは暗闇で目が効く」

 それは慧理も勘づいていた。完全な暗闇のなかであれだけの俊敏さと正確さを持って二人の人間を襲えるのは途方もなく光に敏感な瞳を持っているからとしか思えなかった。

 「だが、その代わり、少しの光量でも過激な損傷を負ってしまう」

 すべて見えているので、ライトを使おうが使うまいが関係ない。

 「さっき対戦した人——CORRELATIONとはだいぶ違う動きだった……。あいつはゴーグルを着けずに戦えた。顔を覆うマスクをつけていて、砂埃の中でもこちらが見えていたみたいだった。そして、どちらも俊敏な点はそっくり」

 「つまり、二人一組で動いてるってことか」

 「多分……」

 長い間ここにいては危険だった。前方にライトを照らすと、旧時代的なダクトが腸のように壁を這っていた。伝ってゆけば上の階へたどりつけるかもしれない。二人は赤色に照らされる金属チューブの通りに進むことにした。堂々と明かりを灯していいことに気がつき、幾分気持ちが楽になった。

 「……これは僕の仮説なんだけど」

 青樹が考え込むように呟いた。「あいつらは目に何か特殊な能力を持っているんじゃないかな。常人より発達した視神経を持っているとか。砂埃や暗闇の中でもきちんと認識できるレベルで物体を目視できるというのは、常人にはできない。少なくとも僕には無理だ。それかガジェットの力を借りているとか。両方あるかもしれないけど、彼らはその能力を有効に使いこなせているようだ」

 仮説と言いながら、彼の口調は確信的だ。

 「でも考察はまた後にしよう。僕らはただひたすら逃げて、時間を稼ぐしかない」

 「私にも、その能力が備わっているかもしれないね」

 前を進んでいた青樹がしばし立ち止まった。「本当か」

 「あいつらと、私は、多分同じ人間だから」

 「何故わかる」

 「……なんとなく。感覚的に。皮膚がびりびり引っ張られるって言うか、殺意、焦りを痛いほど感じる……」

 納得しない回答だとわかっていたが、これ以外言いようがなかった。案の定青樹はまた黙り込んだ。しかし、剣呑ではなく意味ありげな空白だ。「君は……」そう言いかけて、やめてしまった。彼にとって、あまりにも不確かな憶測は口に出すに値しない。思いつきの言葉は彼の口から発されない。度々それは誤解の元となる。全ての発言が曖昧で不明瞭な慧理に責める権利はなかったが。

 「私はあの人を殺したくありません。なんとか、逃げ切りたい。血を見るのはいい気分ではないから。国の機関とかそういうのにも関わりたくないし」

 「君は、こう、全てを知りたいとは思わないのか。君の記憶。能力。過去。境遇。それは君を形作るパーツなのに、失くしても、探す気は起きないのか」

 「そんなものは無意味だから」

 今が継続すれば何も問題はない。

 「その無意味なもので、君は苦しめられている」

 「苦しい……」

 そうだろうか。「私が苦しんでいると思う、先輩は」

 「発言のこじれや明言を避ける傾向は過去に恨みを持っている証拠だ」

 「……ほとんど忘れているのに、恨みも何も持っていない。ただの出来事にすぎない。ただ、私がそこにいた、何をした、その記録が脳に残っているだけなのだから」

 「君がそう思っているのは、本当のようだけど……」

 青樹が飛び退いた。血濡れた弧が彼の右足のすぐそばを突き破っていた。すでに慧理は行動を起こしており、踵で刃物の周囲を破壊し階下に飛び降りる。BLACKBODYはまず無力な人間から狙うだろう。自分が守らなければならない。ナイフは脅威だが、剥ぎ取ったところで彼の身体能力に変わりはない。瞳を封じなければ。それは、青樹に任せる。自分は死なない程度にこの人の動きを封じなければならない。しかし、この暗闇の中でどうやって?

 脇腹に強い衝撃を食らった。耳鳴りがして、階段の角に背中をぶつけた。

 自分は完全に目覚め切っていない——そんな気がしていた。

 一方BLACKBODYはもう自らの扱いを心得ているのだろう。然るべきトレーニングを受けているのだから当たり前だった。付け焼き刃のシミュレーション学習だけでは、勝つことは不可能だ。それに、この人間は任務の遂行ではなく、自分を殺そうとしているのだ。せめて電気が復活すれば。慧理はある一つの可能性に賭けることにした。

 わざと逃げる足を止めて、傷が痛み出したかのように彼女はその場にうずくまった。すぐさま気配が的確に慧理の喉元に集中する。触れてはいないが人体から発散される体温が感じられた。そして、痛いほどの殺意。

 「なぜ私をそんなに殺したがるのですか?」

 迫る刃先を手のひらで挟む。そこから手首まで到達する。手のひらに鋭い痛みが走ったが、特に辛いとは感じない。

 「命令だから、ではないでしょう」

 BLACKBODYの刃物を握る手に迷いが生じる。案外、精神面はまだ確立していないのかもしれない。

 「業務に私怨を持ち込むのはあまり歓迎されたことではないですね」

 「黙れ」

 「私が、あなたに何かしましたか」

 「煩い!のうのうと生きて幸せだったろうな……」

 「私が幸せで、何が悪いんですか」

 「お前の代わりにCORRELATIONと俺はPodaltonに参加することになった……俺はそれを誇りだと思う……お前なんか現れなければ、俺らはこの美しいPodaltonになんの引け目も感じず入ることができたのに」

 「やはり言っている意味が分かりません。でも、もういいです」

 慧理はナイフを構える腕の下に潜り込み、ゴーグルを弾き飛ばした。深い緑のガラスがガシャンと割れ飛沫が二人に降りかかった。BLACKBODYが何か叫んでいる。ナイフの刃先を彼の太腿に押し込んで動きを封じる。その時、唐突に蛍光灯の無機質な白が廊下を照らした。

 彼の顔を直視して、慧理は驚愕した。

 眸に虹彩が無かった。

 いや、正確に言うなら、虹彩は存在していた。だが、わずかに灰色がかった円弧の縁を除いては、あるべきはずの色彩が瞳から欠如していた。眼球全体が一つの大理石のようだ。BLACKBODYは瞼を閉じようともがくが、慧理はそれを許さない。瞼をあげて念入りに観察すると、瞳孔は乳白色をしていて、硝子体よりわずかにミルクがかった色味になっている。そのため、光による拡大と縮小は目視で確認できた。

 思わず見入っていると、瞼の裏から小枝のような紅が滲んできた。そして涙のように赤い血が頰をつたった。さっきから何か訴えているが、彼女の耳には入らなかった。このまま光を当て続けたらどうなるのだろうか。ボールが小刻みに震え、灰色の割合が増えはじめ、大理石がジルコンに変わる。涙は止まらない。分かりやすい崩壊の仕方に、抗えない被虐心をそそられるものがあった。眼球そのものが一つの生き物のようだ。もう声は聞こえなかった。BLACKBODYの虹彩は慧理を見据えるのをやめ、天井の方向に転がった。

 「そこまでにしておけ」

 CORRELATIONが慧理の手首をとった。

 全く気配を感じなかった。すると、この殺意や皮膚感覚の有無はコントロール可能なのだろう。

 「泣くな。角膜はいくらでも修復可能だ。だから、今日は引き上げよう」

 「目的を遂行しないで帰るのか。こんな近くにいるのに」

 「今迂闊に外に出るわけにはいかない。蜂の巣にされる。迎えの車はすでに帰ってしまった。地下ルートで脱出する」

 すると、リーザたちは助けに来てくれたのだ。

 「それに、殺すのは規則違反だ……」

 「CORRELATIONだって殺そうとしたじゃないか……」

 「お前は明確な殺意を持っていた。次はないぞ」

CORRELATIONはBLACKBODYに別のゴーグルを手渡した。慧理は自分たちが助かったことを知る。CORRELATIONは頭を覆うヘッドカバーを装着しており、胴体から足首まで均一な印象を受ける。BLACKBODYは多少肉づきが良かったが、二人ともごく標準的で教科書に載っていそうな体型だ。つまり、特徴がない。想像力の乏しい人間が作ったような体をしている。

 「私は、Podaltonに参加すること、非常に嬉しく思っている」

 CORRELATIONは呟いた。

 「君にも、ぜひ参加して欲しかった……。私たちは、何も殺し合いをしたいんじゃないんだ……。君には幸せになってほしい。いつでもこちら側に来るといい、歓迎する。

 ……しかし、私たちのPodaltonを壊すようであれば、……」

 まただ。またあの強烈な矢のような思念。

 CORRELATIONは先を続けなかった。行けと促され、慧理は後ずさり、階段を一気に上がった。駆け上がりながら、何回も階段の下を覗いたが、追って来る気配はない。やはり、助かったんだ。Podaltonとは一体なんだろう。どうやら、Podaltonに参加するというのは、名誉なことらしい。

 どうでも良かった。別に知りたくはなかった。この戦闘も何もかも、全て暇つぶしの一部に過ぎない。空虚感、満たされない隙間、焦燥、それらをおさめる為に、生きて来たようなものだし、とりわけ人を撃つのは有効だ。撃った感触は回数を重ねるごとに軽くなる。ゲームみたいだ。しかし、血を見るのは嫌だった。殺した時の満足感と、殺した後の生理的嫌悪感……。矛盾しているだろうか。いや、そんなことはない、生を奪うというのは最大の生者のゲームであり、生を奪った後の後始末は、死者のゲームだ。いかに楽しく命を奪うかと、いかに美しく死体を露呈するかの、違いだ。死者の感覚は生者にわからない。殺される瞬間のみ、生者は死者の美学を理解する……。

 だから、快楽を得るだけなら、殺されなくてもいい。生者でいることに飽きたならば、殺される瞬間をひたすら味わえばいい。とうとうそのゲームにも飽きた時、生者はようやく死者になってみようかと思う。それは自然な衝動だ。生者は死を恐れるが、魅きつけられるものだということも重々承知している。刹那的な一瞬の快楽しか得られない生者と、永続的に続く死者のゲーム。

 ゲームの一つとして、死者は生者の記憶に生々しい記憶を残そうとする。それは呪いとも、救いとも呼ばれるが、死者には全く関係のない話だ。それは生者に苦しみを与えるための手段に過ぎず、彼らはそれで喜びを得、楽園を継続させることができる。死者は死への恐怖という苦しみを知ることはない。死者にあるのは幸福だけ。天国に昇れば、そこには幸福しかない。

 幸福しか感じることはない。

 天国は生者の苦しみからできている。月が太陽の熾失を受けて輝くように。死者は生者から幸せを搾り取ることだけに専念する。その為に様々なゲームが用意される。それは永遠に飽きないゲームだ。

 しかし、生者であるまま、幸せが享受できる方法があるとしたら……。

 

 ……あるのかもしれないが、慧理にはまだわからない。ただ今の所、人を殺すのは、唯一の救済の手段かもしれないということだった。あのままBLACKBODYが視力を失ったら、死ぬほど辛いだろうが、生きている限り苦しみは続いてしまう。CORRELATIONはいくらでも角膜は再生できると言っていたから、防衛庁は高いレベルの技術力を持っているということなのだろう。だけど、本当にそれが彼にとって”幸せ”なのだろうか。角膜手術は施述後も長期にわたって痛みを伴う。生者にとって痛みはなんとしてでも避けたいものだ、時には死んでも良いから避けたい、なんて思うほどの”苦しみ”だ……。

 彼を殺してやればよかった。

 慧理はまた泣きたくなった。あの時、瞳に堪え難い波長の痛みを与えるのは甘美な”幸福”だったが、彼にとっては尊厳も視力も奪う”苦しみ”だった。

 『健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。』

 ……先輩には死んでほしくない。なぜなら慧理のゲームはまだ続行しているからだ。先輩が死者になっても、彼女が”幸せ”を提供することなど、できない……。先輩は私の”幸せ”を受け取らないだろう。他に与えてくれる人間がきっと存在しているからだ。私は、他人(家族とか、友達とか)が先輩に提供した”幸福”の豊潤さと甘さに勝つことができず、いつか意気消沈して、ゲームを放棄する。 ……ゲームは対象を変え、一生涯続くだろう。

 私は死んでも、先輩は”幸せ”を与えないだろう……。他に”幸せ”を分け与える対象がいるに決まっている。

 ”幸せ”を与えることも受け取ることも不可能な人間なんだ。その中で虚しくわずかな快楽を見出す。一瞬でも良いから、死ぬ瞬間に立ち会って、気持ちよくなりたい。

 誰からも必要とされない人間だから。

 それが私。


 だから廻りまわる。

 ただ死ぬためだけに生まれてきたんじゃない。

 幸福を提供するために生きている。

 楽園を持続させるために……。


 

 

 ……落ち合った後、先輩は命が助かったことを喜んだ。それは、よかったのかもしれない……。






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