1-18 和解

 映画の中に出てくる精神病者の部屋のようだ、と青樹は我ながら身震いした。教室の壁を小指の先ほどの大きさの0と1がぎっしり埋め尽くし、書ききれなくなった分は床に進出して、織物のようにねじれて青樹の指先へと繋がっている。この空間では、ペンのインクは永遠だ。雑多に机に殴り書きされた計算式。先生は相変わらず彼の気をひこうとして、たまに話しかけてきたり触ってこようとするが、青樹はそのたびに強い精神を持って拒絶した。また情けなさが襲ってくる。記述している最中にふと、ここから抜け出したくないと思ったのだった。嫌なものはすべて遠ざけて甘美な記憶にだけ浸っていればいい。先生とずっとここにいればいいんじゃないか……

 ペンを持つ手が止まった。そんなのは駄目だ、と自分に言い聞かせても、なぜか書く気が失せてしまった。瞼に一粒の汗が流れてきて、青樹は袖で擦った。自分が何を書いているのか、今どこを記述しているのか、考えるのも疎ましい。

 「具合が悪いの?」

 「……うん」

 彼の疲労はとうに限界を超えていた。気を抜くと目の前の数字が溶け出す。先生はいつだって生徒に気を配っている、とりわけ僕には……優しい。

 青樹の生体反応停止から20分が過ぎ、脳と体のコネクションがいつ途切れてもおかしくない状況だった。このまま時間を消費するのは命に関わることだとわかっていてはいても、この空間はあまりに居心地が良過ぎた。




 「やめてください……」

 慧理は廉の手を振りほどいた。自由が効いたと思ったら再び身体が動かなくなる。廉の目だ!先生の目を見ると自分の意志がきかなくなる。視線がそらせない。頭の中に、自分のものではないざわざわしたノイズのような異物が染み込んでくる。すると慧理の意識は内側に引っ張られて、ノイズが彼女の表面に浮上してくるような感覚がした。いつのまにか、彼女の手が勝手に動いてコートのボタンを外し始めていた。慧理は必死に首を振り、自分の指を動かそうとして、指先に神経を集中させた。今度は動いていた指がだんだん自分のものになり、やっとのことでひとつボタンをはめた。

 「おかしいな。才原くんはうまく使えていたんだが」

 「なぜななかのことを……」

 「彼女は私の教え子だ。私と同じ”精神操作法”を使い君の自我を乗っ取ったはずだよ。私は才原くんほど上手くはないが……君ほど自我が希薄で不安定であれば簡単に行動をコントロールできる。

 さあ、もう苦しむのはやめだ。本当の自分を取り戻そう。もしかして、そこにいる彼のことが気になるのか?だったら安心しなさい。彼はすでに処理済みだから」

 「処理……⁉」

 慧理の身体がかっと熱くなる。

 「死んだってこと」

 どくん。

 ひときわ大きいノイズの群れが脳内に広がった。鼓動が不規則に鳴り響き、胸を抑えようとしても腕が動かない。視界のはしにちらちらと廉の瞳が映る。いつの間にかがくんと膝の力が抜けて、血で濡れた床にひざまずいた。

 「制圧できた」

 視界がぼんやりとノイズに縁取られている。

 「君の能力は不完全だ。弾は外すし、無駄な動きが多い。それに、自分で能力の制御すらままならないんだろう。

 大丈夫、恥ずかしがることはない。ここには死体しかいない」

 廉が優しく肩に触れてきた。また自分の手の制御が効かなくなる。慧理はぞわっと身震いする。もはや甘美な好意は感じず、ただ恐怖だけがあった。悲しくなった。また救えなかった。自分で勝手に暴走して、結局何もできなかった。やっぱり私がななかの代わりに死ねばよかったんだと思った。

 「助けて……」

 涙がとめどなく溢れてきた。

 「先輩……怖い……助けて……」

 慧理は背中を血に浸らせて、廉に乗っかられながら嗚咽を漏らして泣いた。

 意識を制圧されていながらも涙が流せるのか。しばし、廉は興味深く目元を真っ赤にして鼻をすすっている慧理を観察していた。

 



 誰かの声が聞こえたような気がした。

 「どうしたの?」

 「いや……」

 気のせいか。

 だけど、聞き覚えのある声だった。ずっと遠くからかすかに何かを訴えている。耳を澄まさないと聞こえない、だけど確実に……

 「先輩……」

 「崖内!」

 青樹はウィンから飛び退いた。僕は今まで何をしていた?腹部に触られていたような感覚が残っていた。

 馬鹿だ……!

 彼はペンを探した。キャップが外れたまま足元に転がっていた。青樹は叩きつけるようにペン先を床に押し付けて、再び記述を始めた。

 間違いない。彼女がいるのだ。妄想の中ではなく、リアルの空間に。彼ははっきりと自分の耳から外部の周波数が流れ込んでくるのがわかった。そしてそれは、彼の聴覚がまだ機能していることを意味していた。身体と脳が繋がっているのだ。脳が命令を下している!

 まだ戻れる、僕は生きられる。その可能性に賭けるしかなかった。

 「イアン、ねえ」

 もう決して引きずり込まれはしないと、青樹は強く念じた。

 「先生。僕は先生のことが好きでした」

 この世界から出るには2つ条件があるのだろうと彼は思った。ひとつは、僕がいまいましいマシンをハックすること、もう一つは、多分精神の問題……。僕が過去の未練を吹っ切らないとまた逆戻りしてしまう。なぜならこの世界はプログラムで構成されているとは言え、元々は僕の記憶や体験を受け取って作られるようにできているからだ。僕がこの幻影を見せているのだから僕自身で断ち切らなければならない。

 「あのときの僕は子供だったから、先生もそうだって信じて舞い上がっていました。でも先生は、先生の夫しか、愛してないって言った……」

 青樹は急に恥ずかしくなってきたが構わず続けた。自分の言葉ではないみたいだった。

 「僕は……幼稚だけど……先生がそう言ったとき、自分と先生の関係が否定されたような気がしたんです……。それで未だにこの歳まで忘れられないでいるんですよ……馬鹿ですよね」

 彼は手を休めずに数字を書いていた。床がそろそろ埋まりそうだった。

 「でもいずれは終わりにしなければならなかったんです。あんなこと長くは続かないってわかってたのに、僕はやめようとしなかったんです。

 僕、成人してもまだ小学生の出来事を引きずっているし、生きている女は気持ち悪いと思ってしまう……。僕の歪みを先生のせいにするのは簡単だ、だけど僕はそうしたくない……」

 「ごめんなさい」

 青樹がはっと顔を上げた。ウィンが悲しそうな顔をして彼の瞳を射抜いた。

 これは機械が見せる幻想なんだ、そう言い聞かせても、彼は心を打たれずにはいられなかった。

 「ずっと苦しんでいたのね」

 ウィンが青樹に近づいて、抱きしめて頭をなでた。いやらしさは一切感じなかった。

 もはや先生が彼のことを好きだったか否かはどうでもいいことだった。小学校の時僕は確かに先生が大好きだったんだから。形がなんであれ。そして今終わったんだ。

 「さよなら」

 ウィンが青樹を離して言った。彼が最後の0を描いたとき、ピシッと氷が割れる音がして、視界も感覚もシャットダウンされたように静かに真っ暗な闇に消えた。




 慧理は自分が何を叫んでいるのかはっきりしない。助けてとか先輩とか言っている気がする。でも無駄なあがきなんだ、だって先輩は……

 取り返しのつかない絶望がじわじわと浮かんできた。やがて抵抗をやめた。声を出すのも、考えることも面倒になった。この人の言うとおりおとなしく国の機関とやらに行ったほうがいいのかもしれない。もう大切な人の人生をめちゃくちゃにしたくない。迷惑をかけたくない。

 なんだか上半身が寒い。スーツの前が開けられているので空調の冷風が直にみぞおちに感じられる。私はどんな下着をつけていただろうとぼんやり思った。これから何をされるかはだいたい分かったが、先生がなぜそんなことをしたがるのかわからなかった。

 背の後ろに冷たい手の甲が当たって、裏返って手のひらが当たる。やがてホックがないことがわかると、指先が肋骨に移動した。スポーツブラだったかと慧理は納得した……

 「うおおおおおあああああああ!!」

 金属質な打撃音が響いた。下着の下に潜っていた指先がぶれた。その瞬間、慧理の脳内を圧迫していたノイズが風が吹いたようにさっぱり消え、視界が明瞭になった。

 「お前……泣いてんだろそいつ……」

 「せっ………」

 パイプ椅子をガシャンと放り投げ、青樹はバツが悪そうに疲れたような笑みを浮かべた。額に血の流れた跡が乾いていた。

 「久々によく寝た」

 廉のもとにつかつか歩いてゆく。廉は後頭部を押さえている。そうとう悪いところに食らったようだった。

 「リサーチ不足だったね、廉先生?」

 「君は乱暴だが非力だね」

 「手加減したんだよ」

 そう言って青樹は廉の頬を思い切り踵で蹴り飛ばした。襟ぐりに血が滲む。廉は青樹の足首を片手で掴み、投げ飛ばそうとしたが、みぞおちに膝を入れられてかすれた大声を上げた。

 「先輩!やめてください!」

 「崖内!?離せ!どうして止める」

 「死んじゃうよ!」

 「だからなんだよ!!」

 しかし青樹の腰に回された慧理の腕力は凄まじく、青樹は廉から後ずさらなければならなかった。

 部屋に荒い息遣いが響く。青樹は部屋の中に研究員の死体がいくつも散乱していることに気がついた。妙に滑るのはこのためだったのか。白い床にまだ赤い血がいくつも筋を描いてあちこちに散乱している。

 「……どうするんだ?」

 廉が口を開いた。

 青樹が振り返ると、慧理は敵意をあらわにしてきっぱりと言い切った。

 「私は国の機関になど行きません」

 残念だ、と廉は呟いた。

 ひどく殴られたというのに平然として、薄笑いすら浮かべている。青樹には心底気味が悪く映った。なぜこうも平静を保っていられるのだろうか。

 「崖内、行こう」

 青樹はもう一度廉に近づいて、胸ぐらを掴んだ。

 「あいつの前に……二度と現れるな」

 廉にだけ聞こえるほどの大きさの声だったので慧理は青樹が何を言ったかはわからなかったが、次に彼が慧理のもとに来たときにはいつもの白けた冷たい目をしていたので、少し安心した。青樹は落ちていたレーザーカッターを拾ってドアの制御部を破壊し慧理を連れ部屋から脱出した。




 「先輩、本当に大丈夫なの」

 「僕は寝かされていただけだよ。君、前閉めたほうがいいよ」

 慧理はスーツのチャックがまだ開いていることに気づき、慌てて閉めた。

 「み、見た……!?」

 「見てないよ、水色でしょ。それより酷いことされなかった?」

 「私は大丈夫……先生が変な技……”精神操作法”?を使ってきたら、身体が動かなくなって、それで……」

 「技?」

 「うん、目をじっと覗き込まれて、自分の意志の制御が効かなくなった……頭の中が異物でいっぱいになる感覚になって、自由がきかなくなる」

 「催眠みたいなものか?くそ、あのジジイ絶対殺す」

 「私……数ヶ月前から、廉先生に精神を操られていたようで……。それで、好きだって思い込んでいたみたいだ……」

 「じゃあ今は好きじゃないの」

 慧理は気まずそうに笑った。

 「うん……。今はなんかスッキリした気分だ」

 青樹は一番重かった心配事から開放された気がした。廉の目的は何だったんだろう?しかし今だけは、考えたくなかった。

 「だけど、怖かった……なんであんなことしたがるんだろう?」

 「君には一生理解できない。心配しないで、もう脱出したんだから」

 後ろが静かになって、青樹が振り返ると慧理が歩きながらうつむいて目のあたりを拭っていた。

 「ごめんなさい、泣くつもり無かったのに……私本当、……」

 慧理は顔を隠そうとするが、声が不自然に震えていた。

 青樹は立ち止まって慧理の顔を覆っている手を見つめた。もう汗とか、体温とか、女性の人間らしい産物を怖いとは感じなかった。消えることのないと思っていた生理的嫌悪感はどこかに行ってしまい、むしろ彼女をなんとかしてやりたいと思った。泣き止んでほしいと思った。他人に対してこんな感情を持つのは初めてで、自分でも驚いていた。献身など自らの人生から一番遠くにあるものだと思っていた。

 「あのさ……」

 青樹は意を決して彼女の両手をガシッと掴んだ。慧理が驚いたように顔を上げる。

 「よく頑張ったよ、君は……だから……二人で……ここから生きて帰ろう」

 慧理は青樹の顔を見つめた。相変わらず肌は紙のように真っ白だし、背は同じくらいだったが、少しだけ彼が頼もしく見えるような気がした。

 「先輩……」

 思わず慧理が瞳を覗き込むと、数秒後、青樹は頬が真っ赤になるのを感じたのかさっと目を逸らした。

 「あっ、とか言って、君がいるってことはもうテロ組織の人たちが助けに到着したんだよね?二人でなんて、ははは……」

 「あ、あの、それなんだけどね」

 慧理が言いづらそうに切り出した。

 「私一人で来たから、増援部隊は無いんだ……」

 「え」

 「二人で……脱出することになる」

 青樹はしばらく事態の深刻さを認めるのを拒んだあと、その場をうろうろし始めた。

 「あっ!でも……!もと来たルートを辿っていけばいいだけだから、ほら、ここにもう一つのビルに通じる扉が」

 慧理は開閉スイッチを押した。

 ブーっと警告音が鳴り、赤いランプが点滅する。

 「……開かないです」

 二人の間に沈黙が訪れる。

 間髪入れず、廊下の明かりが消えた。

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