1-17 覚醒

 振動。

 滞りなく動作していたマシンが、無神経な手によって破壊される。

 



 一つの信号送信が止まった。

 それは彼の意識を再浮上させるきっかけとなった。

 その時青樹は何百回目かの先生に初めて服を脱がされる直前で、母が買ってきたアバクロの厚い生地で出来たTシャツの裾に手をかけられていた。湿っぽい冷気が彼の腹に触れた瞬間、ウィンのマニキュアが一瞬ビビッドなピクセルに揺らいだ。

 そして青樹の脳裏に膨大なフラッシュバック……

 嫌悪感が走る。

 

 ……気持ち悪い!


 


 僕の一番嫌なことじゃないか!なぜこの三十路の女が僕の肋骨に触れている?ベトついて、冷たくて、恣意的な手の動き。冷や汗が吹き出る。どこ触ってるんだ、僕の親ほど年の離れたおばさんがなんで僕なんかに発情してるんだ?逃げたい。気持ち悪い。なんで僕は抵抗しなかったんだろう。奴の手の節なんてよく見るとしわが出来ている。顔近くない?口紅の匂いまでする。何笑ってんだ、頭がおかしいのか。離せよ、離せ離せ離せ……

 「……せっ、離せよ!!」

 青樹は女性教師の横っ面を殴っていた。人を殴ることなんて初めてだ。10年間生きてきた中で初めてだ、

 いや、僕は今日本にいて22歳の大学生だ!そうだよ、僕は小学生なんかじゃない。

 中学、高校、職業訓練校に1年、で、今大学3年生。

 童顔だけどさ。これ真宮にバカにされんだよな。だって1歳違いなのにあいつの友達に初めて会うと「真宮の親戚か何か?」とか言われるし、あいつもあいつで「世話頼まれたw」とか言うし、友達ガチで信じるからね。僕は甥でもお年玉もらってるクソガキでもねーんだよ!!そいやあいつに親戚っていたっけ……

 「先輩は嫌味を言わなきゃ死んじゃうの……?」

 女?……崖内慧理か!変な奴だけどほっとけないというか、たまに鋭いこという時もあるというか、知能はまあそれなりにあるけど、トんでるんだよなあ……エキセントリック?僕には定義できない。ただ笑った顔は可愛い。で、僕にムカつくことを言ったので、今なんとなく口聞いてない。わかってるよ、大人気ないのは!だけどこういう経験がなかったからどうしたらいいのかわからないんだ!こんなのパパに話せない……

 パパ?ママ?父さんと母さんは今でも仲が良いが、僕は距離を置いてしまった。だって、情けなくて。僕が年上の女性教師とあれこれしていたということが発覚してしまって、もう以前みたいに今日あったことを報告することも、父さんのプロジェクトを覗き見することもなくなってしまった。僕は被害者って位置付けで、お前は何にも悪くないぞと言ってくれたけど、僕が抵抗しなかったことは二人ともわかってるはずだ。

 だって僕、先生のことが……。

 先生のことが好きだったから……。

 「このクソババアが!!気持ち悪いんだよ、10歳の身体触って楽しいか?」

 ウィンが目を見開く。口を奇妙に歪めている。

 「イアン、どうしたの」

 「黙れ!僕は22歳だぞ。もうお前の好きな少年じゃないんだよ、残念だったな」

 青樹は必死にこれまでの経緯を探る。

 僕は青山の技術なんたら支社ってところに国が保持する銃器等のCADデータを盗みに来たのだが、もう終わりってところで誰かに殴られて意識を失ってしまった。そんで目を覚ますと変な拷問室みたいなところで頭に針ぶっ刺されて、なぜかうちの大学で講義をしていた廉が俺の目の前にいて、才原からもらったカードはどこだとか聞いてきたんだけど僕は喋らなかった。そしたら直接記憶から見るとか言って僕の脳に”精神退行”つまり変なことをした!さらに廉には崖内がなぜか好意をよせている!

 そして僕は、精神退行のさなか意識を取り戻したってわけだ……。

 ……

 どうしろっていうんだ。

 「ねえ、嫌だったの?大丈夫よ、怖いことなんか」

 「僕に話しかけるな!」

 青樹は必死に打開策を考える。まず可能性があるのはヘルマンさんとかリーザさんが救助に来てくれることだが、今助けがないということはおそらく僕の場所が特定できていないか、動ける状況にないのだろう。一人を救出するために大勢の命を危険にさらすこということを、彼らはしないだろうし、特定するまでの時間に僕が無事でいるのかは疑問だ。

 ということは僕がどうにかしなければならない。しかし、現実の手足も動かせず、デバイスも持たないのでは出来ることがない。

 ……唯一僕にあるのは頭の電極……。

 この電極は脳内に接していて、おそらく一方通行ではなく、相互に信号通信ができる。なぜなら僕が先生を殴ったら先生はそれに応じて吹っ飛んだからだ。もし一方通行で向こう側からアクションが与えられるのみなら、先生は僕の記憶通り服を脱がすことを実行しただろう。この仕組みは僕がちょっとやそっと意識を取り戻して本来の記憶から逸脱した行動を取っても、それに応じて記憶が若干変化し整合性を取るため僕はまた精神退行に没入してしまうようになっている。

 しかし、理由はわからないが、僕は今完全に意識を取り戻し、退行状態に戻ることはなさそうだ。先生が僕を10歳の子供のようになだめようとしているが、僕はもう22歳という事実を忘れることはないだろう。

 今僕に設計者の想定外のことが起こっている。

 僕が信号を通じてアクションを起こせるのならできることがある。

 彼が以前ハッキングした日本の公安の傍受プログラムはC++(のち、+が40個ぐらい続く)だった。化石のような言語と揶揄されることもあるが、結局大昔からこの言語を改良しつつ肥らせていったのであって、現在のプログラマーの間でも普遍的に使用されている。精神退行を制御しているプログラムは何でできているのだろう?大抵根幹部分を制御するプログラムはC++・・・・を元にした言語なのだが。僕に生物系の知見は全く無い……廉の授業で得たスライドなら少し読んだが、それだけだ。Appleが噛んでいるのならコンパイラはClangか。

 記憶を覗く行為がどのようにして行われるのかは不明だが、僕の書いたコードを脳内から流れ出る有効な情報に変換すれば、ハッキングは可能なのではないか?

 媒体が必要だ。

 教室の前にあるディスプレイに駆け寄り、電源を入れてみるがつかない。授業時間外はロックされることになっているのだ。生徒の机の電源も駄目。教室の外には出られるが、出たところで打ち込める機器は無い。コンピュータールームも放課後は鍵がかかっていたはずだ。

 なんでもいい、文字が記述できるものなら。

 教卓にマーカーが数個転がっている。誰かがレクリエーション後に忘れていったものだろうか。これでコードを書ける!

 するとコンパイラが使えないので、自分でアセンブルする必要がある。

 ハンドアセンブル……。

 『負荷』の二文字が彼の頭に浮かぶ。貧血を起こしそうだ。

 自分で機械語を書くことになるとは。

 「お父さんはまだ来ないのよ。退屈でしょ」

 「うるさい!」

 先生に耳を貸しては駄目だ。青樹は先ほどの確信が揺らぐのを実感していた。ウィンの声は本当に懐かしくて、12年ぶりなのによく覚えていた。先生の声は彼が常日頃密かに求めていた暖かさや安らぎをくれる上、英語で話しているのになぜか意味がわかる。自分の記憶の中だからだ。

 「頑張れ、僕!ウォズニアックなんか目じゃないんだから……」

 僕はどちらかといえばアサンジかな?なんてな。マーカーのキャップを外し、青樹は壁に0と1の羅列を書き始めた。





 慧理が”カッとなった”コンマ数秒の間に銃の指紋認証パネルに人差し指が置かれ、殺人が完了していた。彼女に一番近い場所にいた科学者の貴重な脳みそが壁に飛び散りロールシャッハ模様を描いた。

 そこにいる全員がはっと息を呑んだ。彼女がサイレンサーをつけていなかったからだった。また轟音が響き、びっくりしたような顔で二人目が倒れた。いたずらはやめろよ、と冗談を言うかのように……。

 白衣の科学者達は護身用カード型レーザーガンを取り出して慧理の顔を狙った。襲撃者に立ち向かう場合初めに目をレーザーで焼き切れと訓練されていたのだ。しかし彼らが慣れない手つきで本人認証している間に何人か糸が切れたように倒れて動かなくなった。ようやくレーザーが白い壁に細い筋を刻んだとき、10本あった光線は6つに減り、部屋の隅で誰かが大声を上げてうずくまった。顔を抑えてじたばたしている。瞳の角膜を焼かれたのだ。

 慧理はレーザーカッターを手にして科学者の顔を焼いていった。まだ若い男性だった。あまりの痛さに泣き叫んでいるが、他の者にはどうすることもできない。彼女はこの短い間に人間に苦痛を与える方法を学習し、その過程で自分の銃の腕前はあまりよろしくないということがわかったのだった。一発で仕留められない。狙ったところに当てられない。

 まあ、おいおい覚えればいいことだ。この人たちに私を殺すことはできない。

 男性を置き去りにして後方からレーザーを構える女性のカードを弾き飛ばし、壁に設置されていた電圧機をショートさせた。弾はまだあった。慧理は抵抗手段を失った白衣の女性の口にラテックスの指を入れてこじ開けた、彼女の舌をむき出しになったコードに押し当てた。電流は慧理の絶縁体である手袋には向かわず、女性だけが魚のように激しく痙攣して動かなくなった。

 慧理の首筋をピッと針で刺すような痛みが走った。また背後からレーザーガンだ。彼らは飽きもせず乱入者の視界をなんとか自身の心機能が停止するまでに奪おうと試みているが、手応えのある者は誰一人いなかった。反射的に女性の死体を盾にして周囲を伺うと、人間は廉含め残り3人となっていた。部屋の広さは大講義室の半分程度か。慧理は右にいたほうの科学者が走りながら自分の顔に赤い光線を向けることを彼の肩の動きから察知したため、まずカードを破壊した後に心臓を狙った。3発目で当たった。

 同僚が全て殺されたことを受け入れられずに、女性科学者がドアを必死に開けようと爪先を血だらけにしていた。機械制御を破壊したためそのドアは開くことがない。

 慧理は静かに女性に近づいていった。彼女はある違和感を感じていた。なぜかこの部屋に彼女と廉以外の誰かがいるような気がしたのだ。女性は慧理に背を向けて這いつくばるようにしてまだドアに手をかけている。最初に慧理はまだらに染まった拷問部屋を見渡し、次に女性を見下ろした。背中を思いっきり蹴ってみる。すると驚くほどの強靭さで女性は耐えてみせたのだった。肘をつき、必死に背を丸めている。慧理は次に、横臀を蹴って虫のように女性を引っくり返した。彼女は膝を胸に引き寄せて、腕で腹を覆っている。

 まだ露出した銅線の束がばちばちと音を立てている。

 「ああ……」

 女性は初めて乱入者の声を聞いた。じっと動かずひたすらこの時が終わるのを待っていた。この頭のおかしいテロ組織の兵士が、諦めてドアをこじ開け去っていくことを望んで、女性はずっと床に伏せていた。やがて、かつかつと靴音が遠ざかるのが聞こえた。

 女性がこわごわと顔を上げた。彼女は飽きたように斜に立ち、銃をもてあそんでいた。女性は両手を床につき少しだけ身体を休めようとした。

 腹に重苦しい衝撃が響く。女性が腹を庇う前に、彼女は二の腕を踏みつけ、また1回、2回と腹に矢のような銃弾を浴びせた。女性が何か叫んでいるが、慧理が気に止めることはない。女性が放心したように抵抗をやめると、血と水っぽい液が噴出した腹を蹴り、「あと二人」と言った。女性のこの世を呪うような泣き声がうるさかった。慧理は女性をさっさと殺すと、最後に残ったガラス越しの廉にすっかり手に馴染んだ銃口を突きつけた。

 「やめておいたほうがいい……」

 爆音。だが、銃弾は強化ガラスに当たって強く跳ね返り青樹の頬すれすれに飛んだ。

 「君は私を撃てない」

 慧理は冷ややかな目で廉を見ている。彼女にとっては、人間などリミッターを外せない社会規範に縛られた無力な生物としか思えない。

 「撃てない……」

 何を言って……。

 …………。

 「よく考えてごらん」

 ……

 やがて……。


 慧理は白い空間に立っていた。焦げるような匂いと、ぱちぱち爆ぜる電灯。少し足を動かすと、床に血が飛び散っていて滑りそうになった。

 目眩がしてきたが、なんとか持ちこたえた。

 「ビンゴだな。上の奴ら、私に何も知らせない。ひどいものだ。私がわからないとでも思ったのか。秘密警察のやり口はよく知っている、秘匿、監視、ばら撒き、これしか脳がない」

 廉は授業開始時と変わらない笑みを作ってみせる。というよりも、笑い方はこれしか知らないのだ。好感を与える笑みは作るのが難しかった。

 「話すのは初めてだね。君のことはよく知っている。君も私のことをよく知っているはずだ」

 先生がなぜここにいるのかわからなかったが、彼女が密かに好意を抱いている相手でもあったので、慧理は何も言えずに佇んでいた。

 「こんなところに呼び出して申し訳ない。しかし、君にはそろそろ帰ってきてもらう必要があったんでね。私と一緒に働く気はないか?」

 「……なんのお話ですか?」

 「殺人」

 弾けるように廉が笑いだした。

 「いやいや、悪いね。こちらから追い出したというのに、また呼び戻すなんて身勝手な話だ。しかし急な変更があった。大丈夫、君に不利になる案件は君が全て消してくれた」

 慧理は慌てて部屋を振り返る。人が死んでいるではないか。しかも何人も。

 「君の切り替え障害はまだ治っていないのか。まあ然るべき治療を受けるんだな。外に車が用意してあるから私についてきなさい。あっちは快適だし、君が苦しむことは何もないよ。優しい人ばかりだ。君と同じような友達だってたくさんいる。さあ、行こう」

 廉は親しげにガラスの向こうからスピーカーを通して話しかけていたが、スイッチを切り、仕切りのドアを開けようとした。その時重い銃声が響いた。慧理が撃ったのだった。

 「来ないでください……。私、そんなところ行きたくありません」

 「はは。

  死体を見たのがショックだったか」

 廉は慧理の瞳を見据えた。

 次の瞬間、慧理の眼前がぐるりと一回転した。ぎざぎざ模様の残像が天井いっぱいに広がり、どこに目をやってもぎざぎざが追いかけてくる。紫や黄色のサイケな波が絶え間なく広がり、丸い波をつける。

 「人間関係が大事だからね」

 そして心臓の奥底から炭酸のようなじゅわっとしたものが込み上がってくる……好き、好意、好感、目の前にいる人物が好きだ、好き好き好き好き好き好き……。

 「どうかな?私についてきてくれるかな」

 「は、はい、行きます、はい、ああ、嫌です、嫌、助けなきゃ、先輩、機械、とめて」

 「埒が明かないな」

 廉がドアを開けた。慧理は銃を構えようとしたが腕が上がらない。いや、たとえ上げられたとしても彼を撃てなかっただろう。

 廉は愉快そうな足取りでゆっくり距離を詰めてくる。

 「君には生殖本能の発芽さえ見られない。ここ数年、君のような人間の研究を続けてきたがこんな例は見たことがないよ。奴らの性欲は常人の倍だ、男女共にね。だが君は成人を迎えても未だ処女であり、異性に対する知識も何も持ち合わせていない。だから、”弱い”んじゃないか?」

 「な……」

 圧倒的な脳の制圧感の中で、慧理は必死に取り込まれまいと抵抗している。私のような人間?落ちこぼれ、能力のない人間、ということか?どうあがいたって、結局何もかも失敗に終わる人間のことか?誰からも見放され、誰からも助けられない人間のことか?

 「意図的に本能を押さえつけるのはやめたほうがいい。君の能力を生かす妨げになる。もういっそここで終わりにするか」

 いつの間にか廉が慧理の肩を掴んでいた。

 「大丈夫。怖がることはない」

 誰からも避けられ、誰からも手を差し伸べてもらえない。

 「服。脱いで」

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