1-16 青樹少年
「20分程度で脳内のデータ収集は終わりそうです。能力に関する記憶を損なわないようにするならば、遠回りなやり方で自我を壊さざるを得ませんが……」
「構わない。BLACKBODYとCORRELATIONの回収は?」
「すでにホームに戻っています。ただ前者がいつも通り脱出を図っています。精神コントロールはどうしますか」
「実行しない。このまま作業を続ける」
廉はスクリーンに表示された情報の束を眺め、自らが設計したプログラムの出来栄えを冷静に再確認した。ガラスの外で作業する研究員には仕事の終わりがもたらす安堵が浮かんでいた。
緩慢な崩壊……。
「亥庵!」
何時間も眠っていたような気がする。無理に揺り動かされて、仕方なく目を開ける。「まだ寝ぼけてんのかよ!」
A,B,C,D……分数のプリント……広いカラフルな教室で授業後の解放感に満ちた生徒たちが帰り支度をしていた。
「ほーら!さっさと行くぞ」
クラスメイトが数人、僕をせかしている……男の子も女の子も……名前は……ジョージだかミルドレッドだか……漢字を含まない名前。学校の近くにはたくさんのゲームセンターがあったし、飽きたら外に出てレーザータグ専用アプリケーションを立ち上げロサンゼルスの長い長い坂で日が暮れるまで走り回ることもできた。
すごく眠い。だけれども、外に出ると陽光が気持ちいい。いつもカラッと晴れていて湿気なんか全くないから、汗をかいたことがない。
ゲームセンターであんまりお金を使いすぎるとパパとママがいい顔をしない。負けたら潔くやめにしようと毎回思っているのだが、結局勝つまでゲームを諦められないのだ。家に帰ったら宿題をしなきゃ……「今日は絶対勝つからな!」青樹はそうクラスメイトに意気込んだ。
当時のロサンゼルスはまだ反共同体思想が優位だった。世界全土で進む相互監視・感情統制に嫌気がさした人間たちが助けを求めて他社製の感情にアクセスする機能を持たない統一デバイスがシェアを占めるロサンゼルスに逃げてきたのだった。
その中でもNeumannと名付けられたMania社のシール型デバイスは匿名性に特化した機種だった。感情・思考操作権を認めていないフィリピン、ニュージーランドにごく小規模な工場を構えて生産しているそのデバイスはいささか時代遅れで、他人の喜怒哀楽を検知するのはもってのほか、網膜から取り入れた視覚情報の収集などといった機能は実装されていなかった。埋め込み式ではない貼り付け型では高度な生体情報は収集できなかったのだ。ただし、使い捨てが容易だった。個人情報は提供したくないが、統一デバイスは使いたいという者の間で密かに重宝されていた。
やがて第3社製の統一デバイスの使用が禁じられると彼らは密かにNeumannを改造し、IPアドレスの偽装や偽の感情情報をGoogle社のAuto-syncに表示させる機能などを取り付けた。Neumannの表面部分を人肌を模した素材に変更すれば肌と同化して見た目にはわからないため、彼らは世界規模の監視から一応は逃げ切ることに成功していたのだ。
そのため、青樹は国や企業の監視の目がほぼ存在しない環境下で幼少期を過ごすことができた。
彼がロサンゼルスを離れることになったのはささやかな運命のいたずらだった。
青樹少年は大手IT企業に勤める日系カナダ人の父とその取引先のIT企業に勤める日本人の母の間で円満に育ち、朝起きておはようと言えば褒められたし、学校から帰ってきて『今日あったこと』をとりとめもなく話せば褒められた。テストで満点を取ったり、絵を描けばリビングに入って正面の壁に花柄のマスキングテープで4隅を貼られて掲示された。
「ウォズニアックなんか目じゃないぞ……」
そう言って父は仕事帰りに買ってきた分厚いアイシングケーキを切ってくれるのだった。
「イアンね、もう小学校の勉強じゃ満足できないんだって。今日習ったばかりの分数ももう簡単に解けちゃうのよ」
「僕ね、クラスで1番早く難しい問題を解いたんだ。あんなの退屈だよ。ねえパパ、開発中のプログラムって何をしてるの?前みたいに僕に見せてよ!」
「ごめんな、あれは社外持ち出し禁止なんだ、イアンが早く大人になってパパと働けばいくらでも見せてあげられるんだが」
そうは言っても、結局父親は息子に開発中のプロジェクトをこっそり見せていたのだった。引数やvoidやHelloworldはここで覚えた。父親は毎回スケッチブックに箱から伸びる几帳面な線を引いて図を作ってくれた。青樹はそれらを床に並べて何時間も眺め、自室の壁を美しい幾何学図で埋めていった。毎日少しずつ図を集めて、几帳面に貼った。リビングと同じ、花柄のマスキングテープで……。
だから5学年の担任が数学教師だったのは彼に取って嬉しいことだった。その女性教師の名前はウィンと言って、そこそこ目鼻立ちの整った美人だった。彼女は教職について6年目で騒がしい子どもたちを統括するのに慣れており、心地よい笑顔を作れる為、生徒たちは皆彼女を好いていた。青樹も先生のことは大好きで彼女に憧れていた(数学の問題を作れるなんてすごい!)。たまに彼女が授業終了20分前に『チャレンジ問題』を提示すると、青樹は誰よりも早く解いてやろうと躍起になるのだった。そして毎回、彼は一番最初に教室の前にある大きなディスプレイに正確な数式を書きだした。その度に彼女は青樹を見て感心するように頷き、クラスメイトも授業終わりに「天才じゃん!」と口々に賞賛してくれるのだった。
彼女はよくパーティーや外遊びを企画した。運動が苦手だった青樹は疲れるとこっそり木陰に座り込んで、ボールを投げあうクラスメイトを見ていた。
この日は台風が近づいていて、外ではごうごうと突風が吹き荒れていた。生徒たちは室内でバスケットボールをしていた。
「疲れちゃったの?」
生徒たちから離れた青樹をウィンが見ていて、優しく話しかけた。
「運動は苦手なんだ」
「数学の問題を解くのはあんなに得意なのに」
「どっちもできるのはスーパーマンだけ」
ウィンは笑いながら青樹の頭を撫でる。
「思いっきり体を動かすのも楽しいわよ。休んだら、次のゲームに出てね……」
そして、魅惑的な選択肢を提示した。
「それか放課後、中学生レベルの数学を教えましょうか」
「先生が?」
「そうよ。今日、イアンのお父さん、学校に迎えに来るのが遅くなるってさっき先生に連絡が来たの。皆先に帰っちゃうから退屈でしょ」
青樹は賞をもらったときのように誇らしい気持ちになった。
「教室は鍵がかかっちゃうから、空いてる部屋でやろうね」
「他の子には内緒にして欲しいの。本当は中学校のお勉強は、中学校でするものだから」
教室には当然二人きりだった。ウィンは授業のカリキュラムを見直そうと思っているの、と大量のプリントを持ってきた。まだあの頃は正式な書類を紙で提出しなければならなかったのだ。
「先生、Java SE38って、中学生の数学で解ける?」
「それはちょっと別物だと思うわ……お父さんに聞いてみるといいわよ」
彼女はアメリカ北部の牧場主の娘として生まれたが、教職を得るためにカリフォルニアに来たのだという。青樹は彼女とたわいもない会話をしながら問題集をぺらぺらめくった。まだ理解できなかったが、近いうちに必ず理解できるという確信があった。中学受験をしてもいいと父親に言われていたが、青樹は数学以外の教科はパッとしなかったためおそらく無理だった。ウィンは青樹の話を親身になって聞いてくれた。先生と会話するというのは楽しいものだ。なぜか認められたような気分になる。
そして彼女が婚約していて、夫と子供とも上手く行かず、苦しんでいることもわかってしまった。教職に拠り所を求めているということも。
「恥ずかしい?」
「ウィン、僕は……」
「最初は誰だってそうよ」
「でも、僕、嫌だよ……」もうシャツの中にウィンのつやつやした指先が潜り込んでいたのだが。
確かに、この女性教師について青樹が5学年相応の性的な妄想を抱いたことは大いにあった(あの薄いジャージ、あの薄いウィンドブレーカー……)。しかし想像するのと望むのは別で、彼女と放課後を数学の勉強という名目で過ごせればそれでよかった。そして、それこそが恋であり、尊敬する先生と一緒にいたいとか、おしゃべりしたいとか、彼が望んでいたのは育ちのよいピュアなコミュニケーションだけなのだった。
先生は青樹に手伝って欲しいことがあると言った。青樹のいまだに未発達な手を胸に持って行った時、彼は分別があったから、脳内で危険なアラームが鳴るのを感じた。「普通のことよ」違うだろう。さすがに僕はわかっている。だけどやめなかった。抵抗なんかしなかった。
「可愛い顔をしている」よね、と先生が言い、口づけをして、服を下だけ脱がせた。本当に顔が熱くなって、先生が微笑んだらさらにわけがわからないほど下腹が圧迫された。十分に高揚しきったところで、彼は先生のなかで童貞を失ったわけだが、一番気持ちよかったのは先生が身体を根元まで下げ切る前で、動き出した瞬間、彼は途端に潮が引くように冷静になった。
青樹は窓の外で低く渦巻く雲を見ていた。風が街中の看板をちぎり取るほど強くなり、置いてけぼりにされた校庭の備品があっちこっちに走り回っていた。動悸は激しかった。だけど先生から感じる風圧は自分には全く関係のないもののような気がした。彼は自分の体と自分自身がどこか別の場所にいるように感じて、学校の校門でナツメヤシの大きな葉が旗のようになびいているのをウィンに重ねていた。そしてそれは自分なのだと考え直した。
台風のせいでカリフォルニアにしては珍しく湿度が上がっていた。二人は汗ばんでいた。早く家に帰りたい。汗をかくのは嫌いだったし、運動は嫌だったし、教室内でセックスをするのも嫌だ……。先生が青樹の頰を両手で包んでまた口づけをした。そこで閃光。「おめでとう」と、彼女はまだ入ったまま満足げな表情で言った。彼は頭が回らなかったが、僕は正しい回答を示したらしいと、賞賛を浴びれるような気持ちでいた。
次の週も同じことをした。彼は先生に会えるのが嬉しかった。
10ヶ月間、2週間に1度、続いたのは監視社会から外れた地域だからこそできた芸当で、ある日ウィンが教室の鍵をかけ忘れたところに男の国語教師が忘れた教科書を取りに戻り、発覚した。国語教師の焦燥ぶりといったら滑稽なもので、口を漫画みたいにわなわな震わせ、教科書も持たずにすぐさま教頭の所に飛んでいくと大勢の教師を引き連れて二人の所に戻って来た。青樹は性被害者としてすぐ警察にかくまわれ、先生は連行されてそのまま戻らなかった。
青樹少年は最後に彼女の夫と子供を見た。校門の前で、夫は小さな子供を抱いてこちらにやって来て、赤い顔で青樹に何度も申し訳ないと謝った。彼が何も言えないでいると、ドローンに乗り込む間際のウィンが夫と子供にしがみついて泣き出した。彼女の長い髪が校庭の木々と同じようになびいていた。夫が青樹に謝ったのとは別の必死さがあった。青樹は警察のしっかりした手袋に背中を押され、その場を離れた。
去り際に悲痛なウィンのすすり泣きが聞こえた。
「愛しているのはあなただけよ」
意識……。
浮上しかけた青樹の意識はまた底に沈み、不愉快な記憶の中をずっとさまよう。日本の中学は最悪だった。バカしかいないし、それに青樹は日本語が喋れなかったので必然的に輪から外れた。孤独と暇を持て余した彼がネット上のプログラマー掲示板にのめり込むのは当然だった。最初はGoogleの検索フォームから、Tor、そして監視の目を逃れようとするプログラマー達が作った専用ブラウザへと……。やがて彼は日本語を覚え、英語を忘れていった。『先生』を全て忘れたかったという無意識のプレッシャーもあったのかもしれない。人間の使用する言語にうんざりした青樹は、よりプログラミングや数字といった抽象的な文字群を確固たる世界の真理とみなすようになってゆき、両親とも疎遠になり、どこか厭世的になり、痛々しい妄想を思い巡らすようになり、やがて全ての暗い感情が煮詰まった後でV字のように解放されて社会に溶け込むようになった。つまりはこれが彼の思春期だった。
……僕は何をやってる?
思春期まで一通り回想が終わったあと、青樹はまた自分の意識が復活するのを感じた。しかし、それはすぐに押し込められ、また小学生の最初からやり直すのだった。何度も何度も……
1秒間に何十回も。
やがて意識が戻る頻度は減り、もはや人間とは言えない魂の抜けた人形が完成する。
僕は……。
……………
慧理は廊下に立って深呼吸をした。別棟は静まり返っていて、誰かの呼吸も、外気も、全て防音壁により遮断されていた。白く狭い廊下の中から、ひたすら先輩が拷問を受けていそうな部屋を探す。ほとんどの部屋は真っ暗で、職員は一人も見当たらなかった。たまに電気がついている部屋があっても、名前の知らない小動物がカラカラと鈴を転がしているのみで、無人だった。慧理はフロア全体をしらみつぶしに探し回った。しかしそれらしき部屋はどこにもない。やはり罠だったのだろうか……。
危険な安心感があった。そうとしか言えない、白い照明と静寂の自然な一致が、耳を澄ますと聞こえるマシンのブーンという低い待機音とあいまって、奇妙な安心感をもたらす。他人がいない世界とはなんて楽なんだろう。
慧理は右手の真っ暗な部屋の向こう側に、うっすらと光が漏れているのを見つけた。部屋の中に部屋があるのだろうか?自動ドアは当然開かない。慧理は懐からレーザーカッターを取り出し上部のガラス部分に当ててみる。ジッと蝋のように溶けたので、円く切り抜いた。そこから腕を入れて内側に鍵がないか探る。触ると一瞬振動がある箇所があったので、でたらめに指を動かして操作してみる。開いた。
薬品臭い部屋の奥にもう一つドアがあった。恐る恐る近づいてみる。ガラス窓からいくつもの白い背中が動き回っているのが見える。
もしかして……
慧理は意を決してそのドアの向こうに踏み込むことにした。
自動ドアの前に立つと、すっと真っ白な光が彼女を照らした。
科学者たちが一斉にこちらを振り返る。向こう側にもう一つ大きなガラス窓がはまっていて、ディスプレイが何重にも開かれている。加速器、計測器、グリーンランプ、そして……
「せ
…………
黒いショートカットの人物が頭に不恰好な電極をつけている。
大きな専用の椅子に手足を固定されている。
先輩。
いつもの先輩では考えられない気の抜けようだ。あんな風にだらしなく頭をもたせかけたりしないし、口に何か大きなチューブのようなものをはめられているし、先輩はあんなのみっともないとか言って絶対につけさせないだろう……。
「先輩」
びくともしない。
私が呼んだら、いつも気だるそうに、ちゃんと答えてくれるのに。
「なんだ、君は」
「その人を離してください」
科学者の一人が笑った。
「ああ、遅かったね、ごめんね……」
そこから先は……いつか経験したような堪え難い耳鳴りがして……。
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