第8話

 これまで霧の中を歩いていたのに、突然目の前がクリアになる。

 それで歩きやすくなったのかと思えば実はそうでもなく、かえって負担が大きくなる。

 情報が多すぎて、さばききれない。

 次から次へと湧き出てくる感情に溺れてしまう。

 

 目がさめると、私は部屋の中でひとりだった。

 片付けられた部屋に、窓から眩しいくらいの陽光が差し込んできている。

 他の部屋から聞こえるテレビの音。

 子どもを叱る母親の声。

 自転車のベルの音。

 

 この世は誰かで溢れている――。

 

「おれはもう行かなくちゃいけないんだ」

 彼は言った。

「カスミ。おれはタケシだよ。タケルじゃない」


 彼のその一言で、すべてを思い出した。

 

 私の兄は、双子だった。

 タケル武志タケシ。ただでさえ一卵性で見分けが難しいというのに、紛らわしい名前をつけたもんだ。祖母がそう言って苦笑いをしていた。

 私は、“るぅ兄”と“しぃ兄”と分けて呼んでいた。左目の下にほくろがある兄を“るぅ兄”、右側にある兄を“しぃ兄”。

 そもそも兄がひとりであれば、“お兄ちゃん”とだけ呼べばいい。

 ふたりは本当にそっくりで、仲がよかった。

 しぃ兄は私たちが祖母に引き取られる際、遠縁の親戚に養子に行った。それでも住んでいるところが近かったために、よく泊まりに来ていた。

 幼い私に“双子”という概念は無かったように思う。

 ただ大好きな兄がふたりいるということだけ。

(そっか。暗い部屋でるぅ兄は鏡を見ていたんじゃなくて、ふたりで話し込んでいたんだ)

 だってことなんてできるわけないもの。

 トッケイくんを殺してしまえと言ったのはるぅ兄。止めたのはしぃ兄。

 川の字……一本多い四本の川の字で寝たのも、祖母も含めて、本当に四人で並んで寝た記憶だった。

 パタリパタリと次から次へと明らかになっていく記憶。

 スッキリすると同時に、私は大量の記憶に動揺した。それらは少しずつ咀嚼して飲み込んでいくしかなかった。


 天気のよい週末。

 私は部屋の掃除を終え、コーヒーを淹れた。

 駅前の店で挽かずに買ってきた豆を一杯分だけ挽いて、沸かした湯で丁寧に淹れた一杯。砂糖やミルクが無くても、十分おいしい。

 この淹れ方はしぃ兄が教えてくれた。

 部屋には私以外、誰もいない。外で遊ぶ子どもたちの声や、マンションの前を行き交う車やバイクのエンジン音が、小さく聞こえてくるだけ。

 私はソファに腰を下ろし、窓から見える青空を見た。そしてあの夜、しぃ兄が話してくれたことを、ゆっくりと思い出していた。


 ふたりの兄が高校に進学する時に、しぃ兄の養父母が外国に移住することになった。

 それから半年しないうちに、るぅ兄は死んでしまった。

 葬儀の時に私の頭を撫でたのは、帰国していたしぃ兄。

(牧師さんになっていたなんてね)

 るぅ兄の自殺の後、何もできなかったことを、しぃ兄はひどく後悔していたらしい。外国にいたのだからムリもないのだけど。

 そういったこともあって、成長したしぃ兄は牧師になった。

 そして今ではイギリスの片田舎の教会で働いている。祖母が亡くなった時は連絡が行き違ってしまい、訃報が届かなかった。

(トッケイくんなわけ無いよねぇ……)

 爬虫類が人に化けるなんてあり得ない。

 ふふっと声に出して笑ってみた。けれど笑いは、すぐに部屋のどこかに吸収されてしまった。


 私はまたひとりになった。


 しぃ兄はようやっと届いた祖母の訃報に驚き(遅すぎ!)、仕事の合間を見て帰国した。他人に仕事を任せて来たから、なるべく早く戻らなければならない。

 なのに、私がややこしいことになっていた。なんとか引き伸ばして滞在していたけれど、限界が来ていた。

「また来るから!」

 そう言って、しぃ兄はイギリスへ戻って行った。

 空港まで見送りに行って帰ってきた時、この部屋は温度を失っていた。

(でも)


 どうしてだろう?

 思っていたほど、さみしくは無かった。


 私は数日間会社を休んだ。辞めてあげると里美に宣言したし、もうクビになっても構わないとまで思っていたから。

 けれど、鷹埜さんから電話があった。

「体調がよくなったら、出ておいで。辞めるのはそれからでもいいだろ?」


 出社したら、私は社内の空気が変わっていたことにすぐに気がついた。

 みんなが「おはよう」と挨拶をしてくれた。これまで冷たかったひとたちは、ひどく気まずそうに。我関せずだったひとたちは、これまで通り。気がつけば、私に冷たくしていたひとたちというのは、全体の中ではひと握りだった。

 戸惑っていると、部長とともに、その上の役員から呼び出され、丁重な謝罪を受けた。部長が私にしていたことは、パワーハラスメントに当たるらしい。

 部長からも謝られた。事実を確認しないまま、私に冷たく当たって申し訳ないと。表情や空気が、入社当時の部長に戻っていた。

 それでもまだまだ呆然としていると、鷹埜さんに肩を叩かれた。

「やあ」

 そういえば、このひとはどうして私が辞める話を知っていたのだろう?と、その時に初めて気がついた。私の頭の中に浮かんだ疑問がわかったのか、彼は答えた。

「三田村さん、辞表を出したよ」

「え」

「有休消化もあって、もう会社には出てこない」

「……」

 言葉が出てこなかった。そんな私にお構いなしに、「あ、そうそう」と彼は続けた。

「彼女から君への伝言が、ふたつ。“カスミが会社を辞めることは無い”。それと“付箋にパソコンのパスワードを書いてモニターの裏に貼っておくのは、やめたほうがいいよ”……ってさ」


 仕事は事務仕事から、デザインの専門的なものに変わった。

 里美が抜けた穴を補うことから始まり、様々なチームから声をかけてもらえるようになり、まもなく残業の多い日々が再開した。

 体力的にはひどく疲れる日々。

(――なのに、なんて気持ちが満ちているんだろう)

 終電で帰宅すると、しぃ兄がいなくなったこの部屋は、無言で私を迎え入れる。

 けれど以前の“絶望”を感じはしない。

 この孤独は、日中の騒々しさを癒す類の、私にとってやさしいもの。


「それは、暮らしが充実しているからじゃないのかな?」

 以前ほどさみしくないと鷹埜さんに話したら、彼はそう答えた。

「暮らし?」

「仕事とか人間関係とか、他にもあるかもしれないけれど、そういうこと」

 そういう彼の声が、瞬時しぃ兄に聞こえた。


「おれ、お兄さんにお会いしたかったな」

「え? 何でですか?」

「だって、すごいイケメンなんでしょ?」

「ふふっ。またすぐ帰国するって言ってましたよ」

「そうなんだ。じゃ、その時に言おうかな。妹さんとお付き合いさせていただいて、よろしいですか?って」

「!」


 チャイムが鳴った。

(いっけない。忘れてた)

 ソファから立ち上がって、あわてて玄関に向かった。ドアスコープの向こうには、鷹埜さんが立っていた。

「やあ」

「あ……こんにちは」

 この日は、鷹埜さんが部屋に遊びに来ることになっていた。

 何がどうなって、私たちがお付き合いすることになったのか、実は未だに、さっぱりわけがわからない。

 けれど私には拒絶するつもりが無い。

 むしろ、うれしい。

「これ、駅前で買ったケーキ。一緒に食べよう」

「あ、ありがとうございます。あの、どうぞ……」

 ひとを招き入れることに慣れていない。心臓が苦しいほどに跳ねている。朝一番で掃除しておいてよかった。

「ありがとう。それじゃお邪魔します」

「はい、ど、どうぞ」

「おわっ!」

 案内しようとしたその時、突然彼が大きめの声をあげた。

 彼の目線のその壁に、白い走るものがあった。

「あっ!」


 それはトッケイくん。

 チョロチョロ走ってきてそこで止まり、つぶらな目でこちらを伺っている。


 私と鷹埜さんは息を潜めて、それを見た。

 やがて空気の変化を感じたのか、トッケイくんはそのまま壁を伝って隠れてしまった。私たちは同時にふーっと息をついた。

「この部屋、トッケイがいるんだね」

「えっ」

 すごくうれしそうに、鷹埜さんは話す。

「あ、ヤモリのことなんだ。ちゃんと守られてるんだね。家を守るから “家守”っていうんだよ」

 私は考えた。

 これまでトッケイくんを見て気持ち悪がったり、逃げたりした人たちは、やがてこの家を……私を、ダメにするひとたちだったのかもしれない。

 トッケイくんはそれらから私を守ってくれたんだ――と。

(今の、るぅ兄なのかも)

 トッケイくんがるぅ兄に身を変えていたのではなく、るぅ兄がトッケイくんに化けているのかもしれない。

 私ときたら、まだそんなファンタジーなことを考えている。

 しぃ兄もまた、私に会いに来てくれるだろう。

 その上トッケイくんに歓迎されているひとが目の前にいる。

 私はそのひとのことを、好きになり始めている。


 安心感に、自然と笑みが出た。

 そこにトッケイくんの鳴き声が響く。


 チキチキチキチキ。


 トッケイくんが笑っている。

 私はひとりじゃない。

 もう大丈夫。


(了)

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トッケイくんが、笑う ハットリミキ @meishu0430

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