第7話

「カスミ、タケルはトッケイくんになって、カスミを見守っているいるよ」

 そう言って私の頭を撫でたその人の顔は、やはりるぅ兄で――?


 え? “その人”は誰?


 いつの間にか眠っていた。

 目を開けると、見えたのはいつもと同じ天井。夜なのに街灯のあかりで細かい模様が見える。

(今の夢……るぅ兄のお葬式?)

 創造物ではなく、掘り起こした記憶。

 けれどやはり混乱している。兄の葬式なのに、その人本人に頭を撫でられるということはないだろう。

(誰? 参列者の誰か……)

 考えれば考えるほど答えは奥の方に行ってしまい、そしてまた、記憶が途切れる。

 チキチキチキチキ、と、またトッケイくんが鳴く。

(近い……)

 視野の中――天井の端っこに、トッケイくんがいた。十センチほどの体長の、白く細い身体。

 ソファを見ると、兄はいなかった。

 驚かない。るぅ兄なら、本当の姿でそこにいるから。

「るぅ兄」

 トッケイくんに向かって声を掛けると、その動きと鳴き声が止まった。

「お願い。もうひとりにしないで」

 するとそれはスルスルと動きだし、箪笥の裏に隠れてしまった。それとほぼ同時に玄関から人のけはいがした。

 兄が携帯電話を手に、部屋に入ってきた。そして寝たふりをしている私の枕元に屈み、頭を二度撫でた。

(あたたかい……)

 兄の葬式で、私の頭を撫でた手のことを思った。


 *


「岩田さん!」

 会社を出たところで声が掛かった。見ると出入り口のすぐそばに車が一台停まっていて、運転席には鷹埜さんがいた。

「た、鷹埜さん?」

 同じ時間に社を出た同僚たちの視線が痛い。そんなことはお構いなしに、彼は私に笑顔を向ける。

「お疲れ様。これから食事にでもいかない? 車だからお酒は付き合えないけど」

「私もお酒は苦手です……でもすみません。兄が待っているので」

「お兄さん? ああ、この間三田村さんが言ってた“カレシ”?」

「ちっ、違います!」

 思いがけずに大声が出た。

「うん、ゴメンね。あの時、君、ちゃんと違うって言っていたよね」

「……」

 うれしくなった。

(このひとは、私の話をちゃんと聞いてくれているんだ)

「そっか。お兄さんが待っているんじゃ、仕方ないね」

「はい。夕食を作ってくれていると思うので」

「それじゃ、ついでだから家まで送るよ。乗らない?」

 カコンと助手席ドアのロックが外れる音がした。

 躊躇したものの、相手の顔を潰すのも悪いと思って乗り込んだ。遠巻きに見ていた同僚たちがざわめいていたけれど。

「それじゃ行こうか。練馬の方だよね」

「え、はい。でも、あの……」

「ん? 何?」

 視線を前に向けたまま、鷹埜さんはニコニコしていた。

「今、他のみんなに見られて……」

「それが何?」

「私のことで鷹埜さんも悪く言われたら……」

「言わせておこうよ。今ウワサのふたり、なんつって」

 あまりにもあっけらかんと言うものだから、そしてそのまま何も言えなくなってしまった。

 私は元々自分から話を振るのが苦手だけど、彼の機嫌を損ないたくなくて懸命に話題を探した。一方の鷹埜さんは時折鼻歌を歌いながらハンドルをさばいている。

「あ、あの、鷹埜さんって、車通勤だったんですか?」

 やっとの思いで話題をひねり出した。

「うん。前は違ったんだけど、最近やたらと飲みに誘われるからさ。避けるための言い訳」

 部長? ううん、確か部長は下戸。

 それじゃ取引先の人?

「三田村さんなんだけどね」

 驚いて鷹埜さんの横顔を見たけれど、彼の表情は変わらなかった。

 先日の話を思い出した。里美が周囲に私のことを悪く言っているなんて、まだ信じられない。

 そうする理由がわからない。私には彼女に勝ることなど、何ひとつ無いのに。

(里美が知ったら、ショックだろうな……)

 やがてマンションが見えてきた。“変な色のマンション”と昔付き合った人に言われた建物。

「へえ。なんか昭和な感じの建物だよね」

 マンションの前で車を停め、鷹埜さんはそう言った。

 要するに“古い”のだろうけど、あまり嫌な感じはしなかった。物は言い様だと思った。

「結構ボロボロなんですよ」

「それがいいんだよ。外壁にツタがはっていて、イイ感じ」

 ツタの存在に、初めて気がついた。ツタは二階までしか届いていないけれど、褒められたせいか魅力的に見える。

「手のケガはもう大丈夫?」

「えっ」

 すでに傷は塞がっていて、かさぶたを隠すために大きめの絆創膏を貼っていた。指を動かすのにも難は無い。兄が一切の家事をやってくれたおかげで、回復が早い。

「はい。兄がいろいろやってくれたので」

「そっか。おれももっと早く車で送迎してあげられればよかったな」

「え?」

 ふと運転席の鷹埜さんを見ると、彼も助手席の私を見ていた。

 心臓が止まるかと思った。

「あ、あの、それじゃ私これで……ありがとうございました」

「うん。それじゃまた明日」

 車内の空気に耐えられなかった。

 私はあわてて車から降りて、鷹埜さんの顔を見ずにお辞儀をした。おそらく顔は真っ赤。

 彼はクラクションをかわいらしく二回鳴らして、車を出した。

(鷹埜さん、どういうつもりなのかしら?)

 胸の鼓動がおさまらない。去っていく車を見送り、私はマンションへと入った。


「何してんのよ?」


 ビクッと体全体が跳ねた。

 知っている声。けれどこの声がこんなにも険悪なのは、初めて聞いた。


 入り口を入ってすぐ横に、彼女が立っていた。

 三田村里美。

 この日会社で会った時の服のままで、彼女はそこに立っていた。

「さ、里美?」

 前にトッケイくんがイヤだからと、入り口まで来ておいて部屋に入らなかったことを思い出した。

「今の鷹埜さんよね?」

 何も言えずに、ただ首を上下に振った。

「なんでカスミなんかが、彼に送ってもらってんの?」

 そういえば、なんでだろう? たまたま車で通りかかったから? けれどそんな言い訳をできる雰囲気ではない。里美の顔が怖い。ゆっくりと近づいて来たから、私はつい後ずさりした。

「何なのよ、アンタ」

「えっ」

「なんで会社辞めないのよ」

「辞める? 会社を?」

「孤立してるのに、なんでがんばって会社来てるのよ。アンタ、目障りなのよ」

 言っている内容はわかるのに、何故彼女がこんなことを言い出しているのかがわからない。

「ひとりで平気ですって顔して、バッカじゃないの? 高校の時だってそう。頭おかしいんじゃないの?」

 ぐるぐるぐるぐる。

 様々なことが突然頭に入ってきて、追いつかない。

「なのに、アンタみたいなのが何で美大に受かるの?」


 そういえば高校時代、クラスメイトの女子が嫌みっぽく言っていた。

「里美が落ちたのにあの子が受かったなんて、おかしいよね」

彼女はその子たちに対して、すごく怒っていたけれど。


「鷹埜さんだってさ、なんでアンタなんかと……」

「えっ、違う。今はただ送ってもらっただけで」

 言い訳をしようとしたら、大きな舌打ちをされた。

 里美は自分の持っていたバッグに手を差し入れ、何かを握った。嫌な予感しかしない。そして顔を上げて私を睨み付けた。

「アンタ、もう会社来ないでよ」

「さ、里美?」

「そんな慣れ慣れしく、呼ばないで!」

 彼女がバッグから素早く出した何かを、私の顔目掛けて突き出してきて。

「やっ……!」

 咄嗟によけたものの、左手の絆創膏のあたりにぶつかった。鋭い痛みが走った。

「そんな指、もう落としちゃえばいいのに」

 里美がニヤニヤしながら言う。その手には職場から持ってきたであろう裁ちバサミが握られていた。

「約束して。もう会社に来ない、鷹埜さんにも近づかないって」

 また私に詰め寄る。片手で持つハサミの先を私に向けている。そんな状態なのに、私の頭の中は「何故?」「どうして?」を繰り返すだけ。

「て言うか、ここで死ねよ。孤独のあまり手首切ったとかでさ!」

 再度里美はハサミを振り上げた。

 その時、トッケイくんの鳴き声が、ハッキリと聞こえた。


 チキチキチキチキ。

 チキチキチキチキ。


「ぐっ!」

 その時兄が、兄の形をしたトッケイくんが、私と里美の間に入ってきた。

「るぅ兄!」

 里美の持っていたハサミが床に落ちた。カシャンという金属音が、マンションロビーに響く。

「な、何よアンタ?」

 手を押さえている。どうやらハサミを持っていた手を叩かれたらしい。

「カスミの兄だ」

「嘘ばっかり! カスミのお兄さんって死んだじゃん!」

 私はまだ目の前で吠えている里美が、本当の里美なのかを疑っていた。

「知ってるのよ。高校の校舎の屋上から飛び降りたって! クラスメイトだか上級生だかにいじめられてさ!」

――やめて。聞きたくない。

 無理やり開けられる記憶の扉。

 具体的には教えてもらえなかったけれど、祖母の悲しみ様からはひどいいじめだったとわかった。押しかけてきたたくさんのマスコミを、祖母が塩をまいて追い出していた。

 吐き気がしてきた。

 けれど、そこに彼の言葉が刃物のようにスッと入った。


「おれがカスミの兄かどうかなんて、君にはどうでもいいことだ。

 おかしいのは、何故そんなことを君がここで醜く叫んでいるかということじゃないのかな?」

 

 私だけでなく、里美もきょとんとして止まった。

「何故カスミをそんなに目の敵にしているの?」

 突然核心を突いた質問が出た。耳を塞ぎたかった。

「え……め、目障りだったからよ!」

「何故目障りだったの?」

「あ……お、おかしな家庭環境なのに、平気な顔して学校とか会社に来てたから」

「おかしな家庭環境だと学校へ行っていたり、会社に行っていたりすることがおかしいの?」

「だ、だってそうなったら、フツーは来なくなるじゃない」

目の前で不思議な問答が繰り広げられていた。矢継ぎ早に質問する兄に、彼女はイライラしながらも几帳面に応えている。

「君はそうなんだね。でもそうじゃない人もいるって、理解できない?」

「だって。フツーじゃないもの!」

「君のフツーって何? どうせ君を含めて十人の人間がいたとして、他のひとが君とは違う意見だったとしても、君が言うことが君のフツーってことだろう? どうせそんなものだよ」

「そ、そんなことないッ!」

「それじゃもっと他人であるおれにもわかるように話してごらん? まさか出来ないなんて言わないよね?」

 里美は戸惑いながらも曖昧に首を縦にも横にも振っていた。目が泳いでいる。

 彼は大げさにため息をついた。

「説明出来ないようならそれはいいや。とにかくカスミが、君で言うところの“フツー”じゃないから、こんなに遠まわしの“嫌がらせ”をしたんだね?」

「嫌がらせ……?」

「そうだろう? フツーじゃないからってだけで、別にカスミが悪いわけじゃないのにそうしたってことだろ?」

「……」

「で、君はカスミにどうして欲しいの?」

「えっ」


 彼はニコッと大きく微笑み、大きく息を吸った。そしてその息を一気に吐き出すように言葉を吐いた。


「学校に来なくなって欲しかったの?

 美大に行かないで欲しかったの?

 会社を辞めて欲しいの?

 それともタケル……この子の兄のように死ねばよかったとか思っている?

 ああ、さっき死ねよって言っていたね」

 

 彼の言葉は強引だった。言葉ひとつひとつがたいしたこと無いものなのに、抑揚、間を活用して、確実に里美を追い詰めている。

 真正面から攻撃される……言葉だけではあるものの、これまで私もされたことが無かったこと。 

「……」

 彼女の顔は真っ青になっていた。けれど兄はそこで止めない。

「カスミが死んだらうれしいんだね?

 どんなふうにうれしいの?

 自分が死に追いやったって、周囲に自慢でもするつもり?」

「……え……そこまでじゃ……」

「え? さっき言っていたじゃないか。死ねって。

 それが君の望みなんでしょ?

 そんなハサミ持って、ここまで来るなんてさ……」

 そう言いながら、彼は落ちていたハサミの刃の部分をティッシュでも摘むように拾い上げた。そして、空いていた手で里美の手を掴み、あっという間にハサミの持ち手を彼女に握らせた。

「殺したいんでしょ?」

「!」

 声にならない里美の短い悲鳴が聞こえた。

 フフッと薄く笑って、ハサミを里美に握らせたまま、彼は彼女から離れた。

「さあ、どうぞ」

 そう言って、私への道をあけた。里美は私を見て、ギョッとした顔をしていた。

「どうしたの?」

「……あ……」

 ガクガクと里美が震えている。

 こんな彼女、見たことがない。

 いつもキレイで、自信に満ちていた里美。背筋を伸ばして颯爽と歩き、明るく溌剌とした声でひとを惹きつける――なのに。

「さと……」

「ひっ!」

 あまりにその姿が哀れで。私は彼女の名を呼んだ。と同時に、里美は握らされたハサミを床に捨てた。

 それを見て彼は、無表情で言った。

「第三者であるおれに顔を見られているし、ここで警察を呼ばれたら誰が不利かってわかるよね? 

 ハサミの持ち手には君の指紋しかついていない。

“死ね”という言葉も出ているから殺人未遂とかで前科がついて、君のこれからの人生は大変不利なものになる。

 もちろんその覚悟があって、カスミをどうにかしに来たんだよね?」


 彼はまたひと息ついてから、ひどくいい笑顔をしながら言い放った。なまじ整った顔なものだから、笑顔なのにかなり怖い。

「君、外見はキレイなのに、性格が汚いんだねぇ」

「!」

 里美が彼の言葉に傷ついている。

 そして固まっている里美にその笑顔を近づけ、さらに口角を上げた。


「おれは君を許さないよ?」


 里美の中の血がすべて瞬時に冷えたことが、私にもわかった。

「あ……ああ……」

 言葉になっていない。震えるだけ。泣くこともできない。

(るぅ兄……すごい怒ってる)


 一方私は、自分がひどく冷静になっていることに気がついた。

 目の前で崩れ落ちそうになっている彼女。

 私は彼女を信じていた。

 たったひとりの友だちだと信じていた。

 それを裏切られていたのに。

 けれど思い出す。「そしてまた誰かを信じればいい」という、るぅ兄の言葉。


「いいよ」

 私が口を開くと、ふたりが同時に私を見た。

「会社、辞めてあげてもいいよ」

 ぽっかりと心に開いた穴。

 けれどこの清々しさは何だろう。

 折角の譲歩だというのに、里美はポカンとした顔をしているだけ。言葉を理解しているのかどうかも疑わしい。私は彼女が飲み込めるように、ゆっくり続けた。

「会社辞めてあげるって言っているの。その代わり、もう私に関わらないで」

「カスミ……」

「軽々しく呼ばないで」

「!」

 ビクッと彼女の体が震える。

「あなたのことは、居なかったことにするから。あなたは、私の人生にいらないの」

 静かに言ったつもりだった。けれど私の言葉が刃となって、里美の気持ちにザックリと刺さったのがわかった。

 里美は一瞬すがるような目で私を見た。でもすぐに諦めたのか目をそらした。

 彼以上に、私が怒っていたことに気がついたのだと思う。

 私は怒っていた。私のことだけならまだよかった。

 私の家族、死んだ兄のことまで悪し様に言っていたということに、私はるぅ兄以上にひどく腹を立てていた。

「……」

 彼女は泣きそうな顔で何かを小さな声でつぶやいて、そのまま踵を返し、マンションから逃げるように出て行ってしまった。そのつぶやきは謝罪だったように聞こえたけれど、もうこうなった以上はどうでもよかった。

 その見ようによっては無様な後ろ姿を見ながら、私はぼんやりとだけど気がついた。

(そっか。怒っていいのね)

 さみしいけれど、爽やかな気持ちだった。

 私は里美が忘れていった裁ちバサミを拾い、刃を上に向けて紐を切る真似をした。

 彼女との縁を断ち切るように。


「え?」


 その刃に血が付いていることに気がついた。見ると彼の手が血まみれになっている。

「るぅ兄!」

「あ……」

 彼女を止めてくれた時に、切ってしまっていたらしい。

「大丈夫?」

「ああ、ちょっと切っただけだよ」

「早く手当しなきゃ、るぅ兄、早く部屋に戻って……」

「カスミ、おれは」

 あわてて部屋に帰ろうとする私を、兄の言葉が引き留めた。


「おれはもう行かなくちゃいけないんだ」


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