第6話

 また資料作りに呼ばれた。

 伝票整理も大事な仕事だけど、こっちの方が好きだからうれしい。

 資料室には鷹埜さんだけがいた。

「あの、派遣さんは?」

「今日は岩田さんとおれだけ」

「あ、そうなんですか」

「聞きたいことがあって」

「はい?」

 顔を上げると目が合った。途端に恥ずかしくなった。さっきちゃんと化粧直ししてくればよかった。

「なんかおかしいんだよね」

 何の話が始まったのか、さっぱりわからない。そんな感情が私の顔から読み取れたのか鷹埜さんは続けた。

「君のことだよ。部長や他の人たちになんでそんな嫌われてるの? 考えたことない?」

 嫌われている、なんて改めて言われると、やはりショックが大きかった。そんなことは知らない。散々考えてきたけれど、思い至らなかった。

「……わ、私が聞きたいです」

 言いながらうつむいてしまった。思っていた以上に私は傷ついたようで、目にじわっと涙が浮かんだ。

「いや……ごめん、傷つけるつもりは無かったんだ。あのね」

 泣きそうになっている私に困惑したのか、彼は必死に頭の中で言葉を探している。

「余計なお世話だと思うんだ。思うんだけどね。おれ、部長に聞いてみたんだ。昨日の帰り、ふたりでメシ食いに行ってさ」

 この人は理由を聞いて来たんだ。と思ったら体が硬直した。これまで誰も教えてくれなかった、考えてもわからなかったことがわかる――。

「てっきり君が部長に何かしたとか、とんでもないミスしたとかさ。そう思ってたんだけど、違うんだ。君が会社を批判していたのを聞いたってのが決定打だったらしい」

「……この前の話ですか?」

 彼は頷いた。

 私が『こんな会社なんかでは実力が発揮できない』って言っていたという件。もちろん、そんなこと言ってはいないし、考えたことも無いのに。

「それ以外にもいろいろ。君が会社やお偉いさんたちの悪口を言っているって聞いたらしい。おれはそれをちゃんと岩田さん自身の口から聞いたのか?って聞いたんだけど、『信頼できる筋からの情報』としか言わなかった。つまり部長はその話だけで、君にあんな態度をとっているんだよ」

 私は呆然としたまま、彼の顔を見ていた。

 何故そんな言ってもいないことを言っていることになっているのかと。そして、

(この人、なんで今こんなことを言い出しているんだろう?)

 ということ。

 鷹埜さんには関係の無いことなんだから、放っておいてもいいはずのこと。なのにどうして?

「あ! あの、私、鷹埜さんに何かご迷惑をおかけしましたか?」

「いや、そういうことじゃなくてさ」

「はあ」

 彼は気安く私に声をかけてくれるから、周囲から何か言われているのかと思った。

 学生時代も、私と親しくしてくれた級友までが陰口の対象になってしまい、彼女は私から離れていってしまった。それでも屈せずにそばにいてくれたのは、里美だけ。

「岩田さん、そんなこと言ってないんでしょ?」

「はい……」

「つまり、君は濡れ衣を着せられているんだと思う」


 *


「あっ、カスミ!」

 オフィスに戻ると、私の席のところに里美が立っていた。

「どこ行ってたのよ。今日ランチしない?」

「あ……ごめん、お弁当持ってきてるから」

「えーっ、またぁ? あ、鷹埜さん!」

 突然私から視線を外し、里美は私よりも遅れて入ってきた鷹埜さんに話しかけた。

「やあ」

「それじゃ、鷹埜さん一緒に行きません? ランチ」

「え? 岩田さんは?」

 里美は私をチラと見て、吐き捨てるように言った。

「このコ、カレシの作ったお弁当持ってきてるんですって!」

「え……」

 私は驚いて里美を見た。彼女の顔は、これまで見たことが無いくらい意地悪だった。

「里美、ちが……」

「いや、ごめん。今日はこれから外出だから」

 否定しようとしたけれど、鷹埜さんの言葉に遮られた。

「えー、行きましょうよ」「今度ね」というやりとりを見ながら、えたいの知れない気持ちの悪さを感じていた。


 今、私の目の前にいるのは、本当に里美?


 さっき、鷹埜さんはこうも言っていた。

「君、三田村さんにはもうちょっと気を付けた方がいいと思うよ」

「え? さと……三田村さんですか?」

 彼は頷きも首を横に振ることもしなかった。

「おれ、彼女のような人間を知っているんだ」

 話がよくわからなかった。それだけ私には唐突な話で、彼もそれを察したように微笑んだ。

「おれね、子どもの頃に似たようなことになったことがあるんだよ」

「似たようなこと?」

 私が聞き返すと、彼は眉間に皺を寄せた。イヤなことを思い出している表情。この人のそんな顔は、初めて見た。

「きっかけはわからない。おれが何か無神経なことをしでかしたのかもしれない。けれど気がついたらおれは孤立していた。おれだけでなく、家族までもがね。ちょうど同じ頃に東京で殺人事件があったんだけど、捕まった犯人が同じ漢字の“鷹埜”でさ。“タカノ”でこの漢字を使うのはちょっと珍しいでしょ? だからその親戚筋とか言われて村八分だよ。田舎だったからね」

「違うって、言わなかったんですか?」

 そう言うと、彼はふっと笑った。いつもの笑顔。

「本当かどうかなんて、どうでもいいんだよ。他人事のスキャンダルは楽しいから。ネットとかでデマ情報が流れるのは、だからなんだろうね」

 確かにそう。昔のアルバイト先で、同僚の悪口で盛り上がる人たちがいた。誰々が不倫しているとか、誰々が売春しているとか、あること無いことしゃべっていたけれど、誰も確かめることなどはしていなかった。

 ここで当初の話題を思い出した。

「それを私が今、されているんですか?」

「たぶんね」

 鷹埜さんは悲しそうに微笑んだ。

「そういった噂話を流すにも、若干の信憑性は必要だ。そういう話をしても信じてもらえる人間……君という人間をよく知っていると周囲に思われる人間……」

――まさか。

 さすがに彼が何を言いたいのかがわかった。

「そんな! 里美がそんなことするわけないじゃないですか!」

 思わずプライベートでの呼び名が出た。孤立している私にも分け隔てなく声をかけてくる彼女に、この人はなんてことを言うんだろう? ひどい。

 それに里美は、鷹埜さんのことが好きなのに。

「うん、わからないけどね」

 拍子抜けした。

「今の段階では証拠が無いからね。証拠が無く決めつけることは、ヤツらがやっていることと同じだ」

「……」

 足下にあった大きな落とし穴に、私はようやく気がついたような心持ちになった。

 鷹埜さんは力無く微笑むと、「オフィスに戻ろうか」と私の肩をポンと軽く叩いた。


 *

 

 残業して帰宅した私を、兄はおいしい料理で迎えてくれた。

「その会社の先輩の言うことは、あり得ることだよ」

 思わず箸を止めた。

「でも里美がそんなことをするなんて」

 信じられない。

 けれどその一方で、鷹埜さんを信じようとしている自分もいた。でないと今日の里美の意地悪な表情を説明できない。

 兄は呆れたように、わざとフーッと大きなため息をついた。

「カスミはほんとにお人好しって言うか、ボーッとして……ほんとタケルにそっくり……」

 そこまで言って兄は言葉を止め、「ヤバイ」という顔を一瞬した。

(あ、トッケイくんたら間違えた)

 主な問題よりも、そんなところが微笑ましくなってしまった。兄の格好をしたトッケイくんは、気まずそうな顔をしつつも続けた。

「た、確かに証拠は何も無い。そのタカノさんだっけ? 彼が言い触らしている犯人だということも考えられるし」

 あ、そうか。でもそれはそれでショック。

「……なんかもう、誰も信じられないね」

 何となくそんな言葉が出てきた。里美はそんなコじゃない。鷹埜さんはわからないけど、もしそうだとしたらやはり悲しい。

「そんなことないよ。信じればいい」

 兄は食事を続けながらそう言った。笑みまで浮かべて。

「でも、最初から信じない方が、気が楽だわ」

「そうかな」

 顔を上げて兄を見た。兄も箸を置き、私をじっと見据えた。

「誰も信じない人生よりも、裏切られても誰かを信じられた人生の方がいいと思わないか? 誰かを信じている時だけは、ひとりじゃないんだし」

 そんな考え方をしたことは無かった。

 これまで周囲からつまはじきになっても平気だったのは、誰にも期待をしていなかったから。

 誰のことも信用していなかったからだった。

「で、でも、裏切られたら悲しいじゃない」

「その時は悲しいけれど、それでも信じてこられた自分を誇れるさ」

 確かに誰にも期待しない、信じない日々は楽ではあったけれど、残るものは何もない。

 涙が溢れてきた。

「そしてまた誰かを信じればいい」

 兄はゆっくりと立ち上がり、私の座っている横にすとんと腰を下ろした。それから私の肩をしっかりと抱いた。あったかい。

 爬虫類がどんな匂いなのかは知らないけれど、少なくとも生臭い感じはしなかった。男性の汗の匂いが少ししていた。

「信じていい?」

「ん?」

「もうひとりじゃないって。るぅ兄がそばにいてくれるって」

「……」

 顔も見ずに言ったから、兄がどんな顔をしているのかわからなかった。

「私をずっとひとりにしてきたじゃない。またひとりになんてしないで」

 兄からの返事は無かった。ただ、私の肩を抱く手に力がこもった。それは承諾だったのか、拒否だったのか、わからないままだった。

 

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