第5話

「最近、いいことでもあった?」

 似たようなことを最近聞かれたな、と思った。

「いいえ」

 とりあえず嘘をついた。

 本当のことを言えば“兄”のことがばれてしまう恐れがあるから。

「そっかー」と、鷹埜さんはニコニコしながらキーボードを打ち続けた。


 この人は他の社員たちにように私を見る時に蔑んだり、嘲笑ったり、嫌悪感を顕わにしたりしない。

(鷹埜さんて変わった人)

 そう思いながら、やはり“嫌われていない”ということにホッとする。私が彼に好意を持っているいないに関わらず。嫌われているよりも、嫌われていない方がずっといい。

 もっとも彼が演技派であり、影では他の人と同じように私をばかにしているのかもしれないけれど。

(どうせならこのまま、ずっと私を騙していて欲しい)

 心からそう願う。


 私は結局、兄の形をしたトッケイくんに何も訊かなかった。

 正体がばれた異形のモノは、たいてい姿をくらますか、相手を殺めるかのいずれかだろう。それがおとぎ話の常。

 誰にも相談できない。言い出した里美にすら。

 今、私の家にいる兄の形をしたものが、実はトッケイくん――そんなことを言ったところで誰も信じやしない。私の気がおかしくなったと思われるのがオチ。

(とっくにおかしいのかもしれないけど)

 死のうとしていたことからして、すでにおかしくなっていたのだと思う。

 トッケイくんにはこのまま私の兄として一緒に暮らしてもらう。このまま私を騙していてもらおう……そう決めた。


「ごめんね、こんな事務仕事なんか頼んで」

 私は鷹埜さんから資料整理を頼まれていた。膨大な量な上に期限が迫っている。

 会議室での作業。もちろんふたりきりではなく、他グループの事務員さんにも手伝ってもらっていた。その人が休憩で部屋を出て行ってから、鷹埜さんが話し出した。

「いいえ。勉強になりますから」

 過去のプレゼン資料をまとめて見られる機会なんてあまり無い。雑務に追われる日々に、これは大きな糧。

 もっともこれを生かすチャンスがあるわけではないけど。

「前から聞きたかったんだけどさ」

 鷹埜さんは少し緊張した声を出した。

「はい?」

「岩田さんて、デザイナー希望だったんだよね?」

 この会社に入る時、確かにそう言った。面接でそう伝えた。それをニコニコしながら聞いていたのは、今の部長だった。

「違ったんだっけ?」

「え、いいえ。デザインやりたくてここに入りました」

「そうだよねー……だってA美大のデザイン科の出身だよね」

(何故そんなことを知っているの?)

 鷹埜さんの手が止まる。深い考え事をしているみたいに、しばらく宙を睨んでいた。

 その宙を見たまま、続けた。

「今度B社のプレゼンするのにさ、デザイナーのひとりに岩田さんを推したんだよ、おれ」

「え、なんで……?」

「A美大デザ科の卒業生作品集を見たんだ。昨年くらいかな。その時に岩田さんの名前を見つけたんだよ。それでいいなーって思ってさ」

 卒業制作のデザイン画。当時、祖母が気に入ってくれていたことを思い出した。

 鷹埜さんがこちらを振り返り、急に目が合った。

「おれさ、岩田さんが事務員として入社したんだと思っていたんだ。そしたらよそのチームの事務員さんたちってみんな派遣さんだって言うじゃない。なんで正社員使ってるのかなーと思ったらさ、部長が『あいつはこんな会社なんかでは実力が発揮できないって言ってた』って言うんだよ」

(え?)

 目の前が真っ暗になった。

 部長に嫌われているとは知っていたけど、そういうこと? でもそんなことを言った憶えはない。

「わ、私、そんなこと言っていません!」

 思わず声が大きくなった。

「うん。おれもそう思ったんだ」

「え?」

 鷹埜さんがニッコリ微笑んだ。

「部長は君がそう言ったのを直に聞いたわけではなくて、誰かからそう聞いたらしいんだ。そりゃそうだろうね。上司に直接そんなコト言える平社員は、よほどの天才か身の程知らずかだろう。そのどちらも、君からは程遠い気がしたんだ」

「……」

「それに部長の言ったことが本当なら、もっと早くこの会社辞めていたでしょ。給料も惜しくなるほど良くはないし。だいたい、虎視眈々と仕事をしながら転職を狙えるほど、器用そうにも見えないしね」


 私は、ずっと意に沿わない仕事をさせられてきた。

 でも、そんな身に覚えのないことが原因だったなんて思わなかった。


「ご。ごめん。最後のは冗談だからね」

「え?」

“器用には見えない”と言ったことだろう。私がそれに傷ついて無言になったと思ったらしく、鷹埜さんはあわてて否定してきた。そんな彼の様子は、少しおもしろかった。

「大丈夫ですよ。確かに器用じゃありませんから」

 そう言って私はクスクス笑った。それにホッとしたらしい。

「よかったー」

 誰かと笑い合う。この会社でこんなふうに話せたのは、ひどく久しぶり。

「岩田さんって、聞いていた感じとは違うよね」

“聞いていた感じ”?

 それがどういう意味かを訊ねようとした時、派遣さんが戻ってきた。それを合図に私たちは業務に戻った。

(なんて言われてるんだろう?)

 気になった。

 けれどよくないことに決まっている。

 両親をよく憶えていない状態で育ち、兄にも早く去られたせいか、“特殊な家庭事情のコ”という扱いは、昔からよくあった。

 祖母に可愛がられていたものの、やはり少し違う。どこか冷めた感覚が私の中にあり、だから友達ができないのはそういったところを読みとられているのだろうと思っていた。

 それでも学生時代は深く思い悩んだりはしなかった。誰かと行動を共にすることを早々に諦め、基本的にひとりで行動していた。寂しさはあったけれど、兄を亡くした時に比べれば何でもない痛みだった。

 陰口を言われても、本当に悪いことをしたわけじゃないのだから気にするなと、これは祖母に言われた。

「ホラ、この家にはトッケイが出るだろう? トッケイは家を守るもんだ。ばあちゃんやカスミも守られているんだ。だから大丈夫」

(家を守る……か)

 祖母の家にいたトッケイくんは、祖母が他界したことでその役目を終えた。私の部屋のトッケイくんは――。


「それ、傷口ふさがってないんじゃないか?」

 夕食の後、食器の片付けを手伝っていた。最初は私がやると言ったけど、手のケガがあったから結局拭いて片付けるだけ。

 指摘をされて手の包帯を見ると、血がにじんでいた。

「あ、うん。大丈夫」

 この日職場で、お局様から手の上にボックスファイルを置かれた。よりによってケガをした方に。

 この人も日ごろから私には冷たい。一応謝っていただいたものの、「そんなところでトロトロしてるから」と言われた。

 それはごもっとも。私は機敏ではないし。

 そしてそれを見て私を嘲笑う同僚たち。

 気持ちが冷える――。

 まだ直接手を出してくるお局様の方が、マシだと思う。

「カスミ、お前まさかいじめられてないか?」

「そ、そうかな?」

 いじめだとは思うけれど、別に命までとられるわけではないし、別段怖くはない。

「子どもの頃もそうだったけど、カスミってほんとボケッとしてるよな。それ、兄ちゃんが言ってやろうか?」

「そんな、子どもじゃあるまいし。会社なんだから」

 驚いた。三十路近くになっているのに、職場のトラブルにその家族がしゃしゃり出てくるというのはおかしい。

「そうか? まあ本人同士が話せばいいか。たいていのことは話し合いで解決できる」

 自分の言葉に深く頷きつつ話す。

 少しずれている、と思った。

 私が話したいと言っても、私の陰口を叩く人たちはきっと相手にしてくれないだろう。話し合いにすらならない。

「そういえばあのおばさんも、話してみたらいい人だったよ」

「おばさん?」

「一階に住んでるおばさん。ホラ、あのエレベーター横の部屋の」

「一階のおばさん?――えっ?」

 最近は夜にエレベーターを使っても怒らない。それどころか顔を合わせると、「いい天気ね~」などと笑顔で話しかけてくるようになった。

「え? 何? あの人と何か話したの?」

「うん。ちょっと世間話程度のこと」

(それでおばさんはあんなに穏やかになったの?)

 確かに兄が現れてから、おばさんは怒鳴らなくなった……。

「お隣さんもさ、リストラされて再就職がうまくいかなかったんだって」

「えっ?」

 いきなり何の話? 追いつくのに必死になっている私にはお構いなしに、兄は続ける。

「まだ若いのに相当几帳面な人みたいでさ、部屋なんかすごくキレイにしてるんだよ」

「るぅ兄、まさか、お隣の部屋に行ったの?」

「ああ。しばらく世話になるから、挨拶に」

 驚くほどあっけらかんとした笑顔。何を話したのかはわからないけれど、結果、隣から壁を叩かれることは無くなった。

(やっぱ、トッケイくんだわ)

 そう思った。結果的にここで暮らしやすくなっている。

 ほんとにこれはトッケイくんだ。家を、私を守ってくれるトッケイくんなんだ。


 *


 最初、兄はキッチンで寝ると言った。

 けれどそういうわけにはいかない。結局、兄はふたり掛けソファを使うことになった。

 私は窓際のベッド。ローテーブルを間に、川の字になって休む。

(子どもの頃みたい……)

 祖母と兄と、私。並んで眠っていた。「川の字だね」「それにしては一本多いよ」なんて会話を交わした。

(……なんで“一本多い”なんだろう?)

 悩んだけれど、おそらくは今みたいにローテーブルも数えたのだろう。長方形のローテーブルだった。

 ここ数日、比較的早く帰れるようになった。

 仕事は増えたけれど、サポートしてくれる人が少しずつ増え、手際良く片付けることができている。意地悪する人も相変わらずいるけれど、こういった変化はうれしい。

 特に鷹埜さん。最近は何かと気にかけてくれている。

(あの人、いい人だよね)

 心底そう思う。

 里美もステキな人を好きになった。私は――

(ううん。尊敬しているだけ)

 あとで傷つきたくない。尊敬している人と一緒に仕事ができる。これ以上のことは望まない。

 それに誰かと付き合ったりすると、兄のことがばれる。

 誰かと結婚すること、新たな生活をすること。昔からだけど、それらがまったく想像できない。

 でも、それでも構わない。

(ずっとトッケイくん……るぅ兄がいてくれたら……)


 チキチキチキ、チキチキチキ。


 兄が寝ている方から音が聞こえてきた。

 これは、トッケイくんの鳴き声。

 仰向けに横たわっていた体を、兄の方に傾けた。同じ方向に頭を並べて眠る兄は、やはり仰向けだった。そして両手を胸の上で合わせてぐっすり眠っている。そして目は半開き。

(最初は驚いたな……)

 世の中には、目を開けたまま眠る人がいるという。まさか兄がそうだとは思わなかった。もちろん死んではいない。ちゃんと胸のあたりが上下し、寝息も聞こえてくる。

(目、乾かないのかな?)

 思い出したのは、トッケイくんにはまぶたが無いということ。これはこの兄本人から教わった。それなら人に化けた際に、まぶたを閉じるのを忘れることもあるだろう。


 チキチキチキ、チキチキチキ。


 半開きの瞳……右目の下にはホクロがある。

(惜しいなぁ)

 私は起こさないように、息を殺して笑った。化けるのなら正しく化ければよかったのにね。


 チキチキチキ、チキチキチキ。


 トッケイくんが鳴いている。

 私はひとりじゃない。そう思える。

 ひとりで食事をしなくてもいい。

 ひとりで泣かなくてもいい。

 ひとりで死ななくてもいい。

 そんな自分が幸せだと思う。

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