第4話

「ねえ、カレシでもできた?」


 びっくりして、私は里美を凝視してしまった。

「か、彼氏?」

「珍しく鼻歌なんか歌ってたから」

 職場の化粧室。

 個室から出て手を洗おうとしたら、里美が化粧直しをしているところだった。

 鼻歌は指摘されるまで意識していなかった。

「ううん、そんなことないよ。出会いなんてないし」

 自嘲気味に言うと、里美は「またまたー」と言いながらリップを塗った。赤に近いピンク。華やかな色は彼女によく似合う。そんな口をとがらせる。

「なんか私に秘密にしていることなあい?」

「え?」

 ギクリとした。別に悪いことをしているわけでもないのに。

「最近、付き合い悪いじゃない。今日、一緒にランチ行きたかったのにさ」

 午前中にランチの誘いのメールをもらっていたけど、断っていた。

「あ、そういうんじゃなくて……」何故か言いよどんだ。

「そうじゃなくて?」

「兄がお弁当を作ってくれたから」

「え? お兄さん?」

 かわいらしい瞳をまんまるにしていた。

「お兄さん……いたんだっけ?」

「うん。年が離れた兄でね、長いこと一緒に暮らしてなかったんだけど。今、うちに滞在しているの」

 言っていて、誇らしげになっている自分に気付いた。兄のことを自慢しているみたい。

 けれど返ってきた言葉は、予想外のものだった。


「もうひとりいたんだ、お兄さん」


「えっ?」

 思わず里美を見ると、彼女もキョトンとした顔をして私を見ていた。私が驚いていることに驚いている。

「え? あ、あれ? え、でも」

 混乱しているらしい。目をクリクリさせて考え事をしている。

 そしてひどく申し訳なさそうな顔をして私を見据えた。

「あのね、記憶違いかもしれないんだけど」

「うん?」

「確かね、高校の時に、たぶんカスミから聞いたと思うんだけどね」

 歯切れ悪く、言葉を選びながら話している。こんな彼女は珍しい。

「うん……」

「あの、間違ってたらゴメンね。カスミのお兄さんって亡くなったんじゃなかったっけ?」


 亡くなった?


「え……兄が……?」

「うん。ホラ、高校で同じクラスだった時、家族構成聞いたらお祖母さんとふたり暮らしって言ってて、ご両親は幼い頃に事故で亡くなって、お兄さんはカスミが小学校入るか入らないくらいの頃に……その……」

 また言いよどむ。

「あの、自殺したって……」

(“自殺”?)

 そのたった二文字の単語のインパクトに、めまいがした。

 けれどそれと時を同じくして、これまで霧の向こうで見えなかった記憶が、次から次へと蘇ってきた。



 黒と白の鯨幕――。


 目を真っ赤にしながら、それでも気丈に喪主を務める祖母。

 祖母は弔問客の誰かに激昂し、塩をまいていた。


「お前らがタケルを殺したんだ!」


 祭壇の上には、微笑む兄の写真。

 キレイな顔で微笑んでいる。

 兄が突然いなくなったことがよく飲み込めていないまま、呆然としていた幼い私の頭を、あの人はやさしく撫でた。

「タケルはずっとカスミのことを見守っているよ」


 あれ?


 

「カスミ、大丈夫?」

 里美に肩を叩かれて、我に返った。

「あ……うん」

 呆然としつつ、それでも混乱しているのを悟られないように平静を装った。

「お兄さんじゃなくて、イトコとかじゃないの? イトコのことをお兄ちゃんって言うことあるじゃん」

 イトコ? そんなことはない。仮にそうだとしても、どうして私が“るぅ兄”と呼んだ時に否定しなかったの?

「まあ、まったくの知らない人ってことは無いでしょ? 元気だしなよ! お兄さんが亡くなってたことも、私の記憶違いかもしれないし」

 記憶違いなんかじゃない。

 思い出した。

 高校生の時、それが原因で孤立したことを。

 いじめられて自殺した兄。

 その自殺した少年の妹。

 兄が死んだ当時、祖母は躍起になって相手を責めようとした。けれど当時は学校の隠蔽気質がひどくて、最終的には何故か逆にこちらが悪者になった。いじめをでっち上げて、慰謝料を毟り取ろうとした、鬼のような家だと。

 その時のことが、何故か十年後である私が高校生の時に、噂になってしまった。

 それらがきっかけで、祖母は私以外の誰にも心を開かなくなった。

「他人なんか信用できない。私が死ねば、カスミはひとりになる。それでも強く生きていかなきゃいけない」

 これが臨終時の、私への言葉だった。


(どうして忘れていたんだろう?)

 嫌な汗が出た。胃がふだんとは違う動き方をしているようで、気分がひどい。  

「ごめん……オフィスに戻るわ」

 声が震えそうになるのを、必死にこらえた。とりあえずそこから離れたい。なのに、里美は私を引き留めた。

「その、お兄さんさ、あのトカゲだっけ? 大丈夫なの?」

「トカゲ?」

「ほら、トカゲのこと。何かへんな名前付けていたじゃない」

「……トッケイくん?」

 いきなり何の話かと思った。

「爬虫類に“くん”なんて付けるの、なんかオタクっぽいよ。苦手だったりしないの? お兄さん」

「別に……大丈夫みたいよ。そもそも“くん”付け始めたの、兄だし」

「へえ」

 里美はニヤッとしながら続けた。

「お兄さんって言ってる人、本当はそのトカゲだったりして」

「え?」

 一瞬何を言われているのかわからなかった。

「あまりにカスミが寂しそうにしているから、トッケイくんがお兄さんに化けて……とかね」

 彼女は「てへっ」と声が聞こえそうなくらいの笑顔で私に言った。

 悪気は無いのだろう。けれど私は黙り込んでしまった。

「……冗談よ?」

 私の表情が硬かったのか、心配そうにそう聞いてきた。

「うん」

 悪気は無い。だけど。


 *


(それじゃ、あの人は誰なの?)


 今、私の部屋にいる人。


 まさか。

 まさかまさか。

 だって祖母のことを憶えていたし、“トッケイくん”のことも、おむすび雑炊のことも憶えていた。

 これらは私の家族でないと知り得ないこと。

 でも兄はもうこの世にはいない。これも事実。

 わからない。彼が何者なのか。

(何のために?)

 それと理由も。

 唯一の祖母の遺産であるこのマンションの権利? 確かに立地はいいけれど、築が古いあの物件に、今どれくらいの価値があるのか。もし立ち退きのためだとしても、二十世帯はあるはず。私だけにこんな手の込んだことをする? そんなわけない。

 それに、あの顔はまさしく兄。

 あんなにキレイな顔をしている男性は、芸能人にだってそうそういない。祖母が「お母さんに似たんだね」と言っていた。私は写真でしか母を知らないけれど、確かに似ている。そしてその写真の母の横で微笑む平凡な顔の父に、私は似ている。


(あ……)


 またひとつ思い出した。

 ある日兄の部屋に入ろうとしたら、兄が鏡を見ていた。

 鏡の中の自分に向かって、何かひとり言を言っていた。

 薄暗い部屋の中、まるでふたりの兄が見つめ合って、ヒソヒソ話をしていたかのように見えた。

 それは幻想的で美しく、幼い私でも見とれるほど。

 そして私に気付いた兄と鏡の中の兄は、振り向いて私を見て、それから微笑んだ――


「岩田さん」

「あっ、はい」


 トイレから戻って席に着こうとした時に、鷹埜さんから声がかかった。

 鷹埜さんの席は十人分のデスクが固まっている島の、私とはちょうど対称的な位置。一番遠いところだけど、声がすばらしくよく通る。

「お願いしていたリスト、いつ頃できる?」

 この月の請求先リストを作成していた。結構な量があったし、手のケガで少し遅れていた。それでもようやく終わりが見え始めていた。

「ええ、まもなく……え?」

 パソコンを起動して、開いていた画面をみて愕然とした。

(データが、消えてる?)

 これまで入力していたデータの大半が消えていた。

「どうしたの?」

 私が絶句したのに気がついたのか、鷹埜さんが近寄ってきた。

「い、いいえ。何でもないです……」

 実はこんなことは珍しくはない。だから時間のかかりそうな大量の入力作業がある時はまめに保存しているし、その都度別にファイルのコピーまで取っている。今回もちゃんと取ってあった。

 もっとも私はうっかりが多いから、パソコンにロックをかけ忘れて席を外したのかもしれない。

「どんくさぁい」クスクスと笑い声が聞こえてきた。見ると少し離れたところに立つ女性社員ふたりが、コソコソとこちらを見ていた。

(嫌がらせ……なのかな)

 この会社に入社後数ヵ月間は、さほど問題なく過ごせていた。

 ところが私は孤立するようになった。

 希望通りデザイン系の部署に配属されたものの、任されたのは庶務のような雑務。 入社時は「期待しているよ」と言ってくれた部長は、ある日から突然冷たくなった。

 仲の良い女性社員もいない。みんな私とは話したくないらしい。

 こちらを見てばかにしたように笑っている人たちもいる。飲み会などのイベントも、私のいない間に催されていることが多い。

 仕事上はさほど困らないから、そのままでもいいけれど。

 理由はわからない。ただ高校時代もそういうことはあったし、山ほどある慣れない事務仕事をこなすことで精一杯だったから、それ以上はどうしようも無かった。

 この会社で私に親しく接してくれるのは里美だけ。鷹埜さんや数名の社員は、ふだんは仕事以外の話などしないからわからない。

「大変だったら今日中じゃなくてもいいからね」

 鷹埜さんが微笑みながらそう言った。手のケガのことを心配してくれているのだろう。

(いい人だなぁ)

 里美とうまくいけばいいのに、とも思う。


 *


 終業間際に兄だと思っていた人からメールが入った。用事で出掛けるとのこと。「わかりました」とだけ返信した。

 仕事は思っていたよりも早く終わり、私はこの日も早く帰ることができた。

 鷹埜さんが食事に誘ってくれたけれど、断った。

「そうだね。まだ手のケガも治りきってないし、ゆっくり休んでね」

 そう言ってくれた。やさしい。

 なんで私を誘ってくれたのかは、わからないけれど。入力仕事で便宜を図ったからだとしたら、義理堅いひとだと思う。うれしい。


 それよりも。


 出掛けるというメールに、正直ホッとした。

(あの人は誰?)

 私は赤の他人と数日間を過ごしていたことになる。

(親戚の誰かに騙されてる?)

 あり得なくはない。祖母の子どもは母だけだったけれど、祖母の兄弟は多く、私が知らない人も多い。みんな私が相続していたマンションを欲しがっていた。

(ということは、居ない間に権利書とか盗まれているとか?)

 私は自宅へ急いだ。最近はエレベーターを使っても怒られない。私は難無く自室にたどり着け、玄関に入った。


「――!」


 そこで私は、立ちすくんだ。

 部屋の中は薄暗かった。

 時計が刻む音、冷蔵庫のモーター音、自分の心音。

 それ以外何も無い。

 ひとり。

 今、私はこの部屋にひとりだ。

 ここ数日間は、“兄”が居てくれていたから忘れていた。

 この、ひとりの時の、空気の重さを。

 私はゆっくりと靴を脱ぎ、部屋に入ろうとした。

 自分の部屋ではないような空々しさに、足がすくむ。


(あ)


 チキチキチキチキ。


 また鳴き声が聞こえ始めた。

 生きているものが、私の他にもうひとつ居た。

 玄関正面の白い壁に貼りついているトッケイくん。その姿を見て、私はひどく安堵した。

 やがてトッケイくんはチョロチョロと細かく動き出し、玄関の壁にいくつか設置しているフックを伝い、その後物陰に隠れてしまった。

 私は何となくしばらくそのフックのうちの、一番大きなものを見つめた。

 画材の入った重い鞄でも下げられるように、頑丈なものを入居時に取り付けていた。赤いオシャレな色だったけれど、経年で剥がれている。

(私、あの時……)

 また思い出した。

 

 自分が、死のうとしていたことを。

 

 あの夜。

 ケガをして帰ってきて、誰もいない空っぽのこの部屋の中、何が私にそう思わせたのか、自分が居ても居なくてもいいような気持ちになった。

 ラクになろう。

 祖母のそばに行こう。

 脱いだばかりのストッキングで、片手だけでなんとか輪を作り、その赤いフックに引っ掛けた。それを掴んで、首の下に差し入れ、あとは膝を崩すだけ……

 そこで、あのひとがチャイムを鳴らした。“兄”が。

(なんてタイミングだったんだろう)

 思い出した途端、全身がぶるっと震えた。怖さのあまりに声を出しそうになったものの、何とか堪えた。

 どこかの部屋のドアが開く音がした。それと同時に聞こえてきた、若い男女の「ただいま」「おかえりなさい」を交わす声。それで私はようやっと体温を取り戻した。

 それから思い出した。

(……あの時に見た、トッケイくん?)

 戯れ言だと思っていた里美の言葉。

 まさか。

 でもこの部屋に住んでいたトッケイくんなら、私が時折おむすび雑炊を食べていたのを知っているだろう。

 顔は写真を見た?

 私はあわてて部屋の中に入り、書類が入った引き出しを探した。

 この部屋の契約書はあった。誰かが動かしたあとは無い。

 そのさらに奥の方から、小冊子のようなアルバムを引っ張り出した。

 ほとんどが祖母と私の写真。けれど兄が写っているものが一枚だけあったはず――


(――左側?)


 新しい高校の制服を着た兄と私が並んだ写真が出てきた。

 祖母の家に居た頃に見た、あの暗がりの中で鏡の前にいた兄。

るぅ兄の顔のホクロは左目の下にあった。

 写真の中のるぅ兄にも、左側にホクロ。

 私は愕然とした。

(まさか)

 そこへ玄関のドアが開く音がした。心臓が跳ね上がり、思わず声をあげてしまうところだった。

 帰ってきたのだ。今朝まで“兄”だと思っていたひとが。

「あれ?」

「あ……おかえりなさい」

 努めて平静を装う。けれど私の緊張など気づかず、そのひとは私を見て、うれしそうに顔を緩めた。

「ただいま。カスミ、帰っていたんだね」

(あ……)

 声がやわらかい。

 ホッとする。

 もう、これでいいんじゃない?と思った。

「ん? どうしたの?」

「あっ……」

 色白な兄。キレイな顔立ち。そして右目の下にあるホクロ――

「う、ううん。何でもない」

「そうか? ならいいけど。今夜は出来合いの鮨なんだ。ごめんな。でも汁物くらいは作ろうかな」

 声だけではなく、笑顔もやわらかい。まるで私の心もほぐしてくれるように。

 えたいの知れない相手への恐怖は皆無だった。

 目の前にいる兄の形をしたモノからは、悪意がまったく感じられない。もし悪意を隠すのがうまいだけなのであれば、だまされたままでもいい。

 例え殺されたって、もういい。

 私は手放したくない。

 この生活。この温度を。

 

 るぅ兄は、もうこの世にいなかった。

 今この部屋で暮らす兄の正体は、トッケイくん。

(こんなことがあるのかしら)

 けれど目の前に確実に存在している。

 死んだはずの兄の姿で。

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