第3話

「何をボーッとしてるんだ!」

 後頭部を丸めた書類で叩かれた。

「す、すみません」

 課長は私を見ることなく、「ふんっ」と鼻を鳴らして自分の席へ戻った。周囲の私を見る目が白い。私はいつの間に、そうした視線に傷つかなくなったのか。

(いけない)

 パソコンに交通費の入力をしていた。けれど三件目からまったく進んでいない。ケガの痛みは薬のおかげでひいていたけれど、考え事をしていたから。

 子どもの頃の記憶が曖昧なままになっている。


 兄が進学で祖母の家を出た時、私はまだ就学前だった。

 六歳というとわりと記憶があっても良さそうなものだけど、記憶の糸を手繰り寄せようにもその糸の端っこが見つからない。自分にその時代があるのは理解できても、あまりにもぼんやりとしすぎていて、不安になってしまう。そこでいつも、思い出そうとすることをやめてしまう。


「カスミ?」

 声をかけられてビクッと体を震わせた私を見て、里美がコロコロと笑った。

「どうしたの? ボケッとしちゃって」

「あはは……」

 かわいらしい小さな顔。パッチリと大きな瞳。ふわふわの長い髪。華奢でいつも小綺麗な格好をしている。

 彼女は自慢の同窓生であり、友だち。そんな彼女に私は少しだけ劣等感を抱き、苦笑いしてしまう。

「心配事? 話聞くよ?」

 耳元で囁かれた。周囲に聞かれたくないかもという、心遣いがうれしい。私は瞬時迷ったけれど、

「ごめん。何でもないの」

 と答えた。プロジェクトで忙しいはずの彼女の手を患わせることはない。心配してくれるのは素直にうれしい。

「そう? 水くさいなぁ」

「ありがとう。それよりもどうしたの?」

 聞いた途端、里美の表情がパアッと明るくなった。

「鷹埜さん、いる?」

(あ、そうか)

 鷹埜さんは私の所属部の男性社員で、五年ほど先輩にあたる。部下や後輩の面倒見がいい。鈍臭い私にも非常に根気よく接してくれる。

 イケメンというわけではないけれど、いつもニコニコしている印象。背が高くて細身。気遣いに長けている人で、独身なのもあって、女性社員からかなり人気がある。

 里美は、鷹埜さんのことが気になっているのだと思う。

「接客中よ。用事? 伝えようか?」

「いい。メールにするわ」

 メールで済む用件で、忙しい中、わざわざうちの部署まで来たとは。微笑ましい。

 実は一時期、私も鷹埜さんに憧れたことがあった。

 でもその時は恋人がいると聞いていたし、私の気持ちもそこまでではなかったと今では思う。一緒に仕事ができるだけでうれしい。私は彼のファンのひとり。

「じゃあ、またね。がんばってね!」

 里美はそう言うと、急ぎ足でオフィスの出口へと向かった。

(いいコだなぁ)

 後ろ姿を見てそう思った。鷹埜さんと並んだら、お似合いだろうな。私なんかよりも……とも。


 *


 マンションは、相変わらず古いコンクリートの中で湿気ていた。

 それでも気分がだいぶ違う。

 時計を見ると二十一時を過ぎたばかり。最近では早いほう。うれしくなって、まだ開いていた駅前の店でケーキなんか買ってみた。初めてのことで、店に入るのに少しだけ緊張してしまったけれど。

(怒られる時間じゃないよね)

 エレベーターの待ちボタンを押す。

 その途端に、例の怒鳴ってくる部屋のドアが開いた。

(!)

 足がすくんだ。

「あっ」

 おばさんは私を見て、小さい声を出した。

「あ……す、すみません」

 私は反射的に謝ってしまった。ところが。

「あ、ど、どうもー。あの、遅くまでお仕事、お疲れ様ね」

「えっ」

 なんてこと。

 おばさんはぎこちない笑顔(たぶんそうすることに慣れていない?)を浮かべ、そそくさとそう言うとさっさと引っ込んでしまった。

(え? な、何?)

 こんなことは初めて。

(不思議なこともあるのね)

 驚きつつも、うれしい。おばさんの機嫌がこの先もずっといいことを祈りながら、 私はエレベーターに乗った。

 自室のドアの前に立つと、昨日までとまったく違っていることがわかる。

 部屋から熱気が漏れているわけじゃないけれど、温度を感じる。

 思わずにやけてしまう。

 自分の部屋だけど、インターホンを鳴らしてから鍵を開けた。

 実は駅でケーキの梱包を待っている間に、「これから帰ります」とメールを入れてあった。

「了解。気をつけて帰ってこいよ」という返事に、ちょっとワクワクしている。奥さんや子ども、恋人……待っている誰かがいるひとって、こんなやわらかい気持ちなのかもしれない。 

「おかえり!」

 兄の明るく大きな声が、キッチンから聞こえてきた。

「ダメ、もっと声を落とさなきゃ……」

 私はあわてた。けれど、いつもだったらすでに壁を叩かれるタイミングなのに静かだった。

「大丈夫だよ」

 留守にしているのかもしれない。さっきの一階のおばさんといい、今日は運がいい。

「それじゃ、ただいま!」

 少しだけ大きな声を出して言った。

 それだけで仕事の疲れが吹き飛んだような気がした。ひとりの時は気が滅入るだけだったのに。

「もうすぐ夕飯ができるから、先にシャワーでも浴びてくれば?」

「ありがとう」

 部屋中に、醤油系のいい匂いが漂っていた。


 昨夜、兄はこう言い出した。

「しばらくここにいてもいいかな?」

 戸惑いながらも私は断らなかった。

追い出す理由もないし、何よりも私が兄にいてほしいと思ったから。

 聞きたいことは山ほどある。住んでいる所、今の仕事、結婚しているのか……とか。

 幼い頃の記憶の補填もしたかった。

 何故兄が祖母の葬儀に出なかったのかも。


 *


 シャワーを浴び終えて、脱衣所に出た。

 洗面台の鏡に自分が映る。

 二十七歳の自分。

 髪は仕事するのに邪魔だったから、短くしている。頬にそばかすができている。胸があまりない。背は百六十センチに少し満たないくらい。

 自分の今の姿は目の前にあるけれど、兄や祖母と暮らしていた頃の自分のことが思い出せない。

 髪は長かった? 短かった? 痩せていた? それとも太っていた?――


 チキチキチキチキ。


「ひゃっ!」

 ふいに鏡に映る自分の頭のすぐ横で、何かが動いたのが見えた。

 そこにはトッケイくんがいた。

 いつもの白っぽいトッケイくん。ちょうど私の目線くらいの高さにいた。トッケイくんは嫌いじゃないけど、やはり毎回驚かされる。

(久しぶりに鳴き声を聞いたわ)

 トッケイくんは鳴く。

 とても小さな声で鳴く。

 普通に生活していたら聞こえないかもしれないけれど、私には聞こえる。

 しばらく黙って見ていると、トッケイくんは私の視線に気付いたらしい。チョロチョロと素早く壁を伝い、洗濯機の影に入ってしまった。

「カスミ、どうした?」

 脱衣所の外から兄の声がした。さっきの悲鳴が聞こえてしまったらしい。

「あ、なんでもない。ちょっとトッケイくんが出たから」

「トッケイくん? ああ!」

 私は手早く服を着て、脱衣所のドアを開けた。兄は鍋から煮物を皿に盛り付けていた。

「トッケイくん、この部屋にも出るんだな」

「うん」

(るぅ兄、トッケイくんのこと憶えてたんだ)

 元はと言えば、祖母が“トッケイ”と呼んでいた。正式名称ではなく、どこかの地方での呼び名らしい。祖母自身はそこの出身ではないけれど、祖母の母やそのまた母が呼んでいたから自分もそう呼んでいると言っていた。

「トッケイは家を守ってくれているんだから、殺しちゃダメだ」とも。

 この部屋を訪れた人でトッケイくんのことを嫌いでない人は、祖母を除けば兄が初めてかもしれない。

「いるってわかっているのに、驚いちゃうんだよね。子どもの頃、るぅ兄もびっくりしてたよね。そして潰しちゃえとか言って、おばあちゃんに止められて……あれ?」

 止めたのは祖母だった?

 兄の動きが止まった。私の次の言葉を待っているように。けれど私は思い出せず、言葉をつなぐこともできない。

(……え?)


 頭の中に思い浮かぶ、少年の兄がぶれている。

――記憶が混濁している。


「そ、そうだったかな。さあ、食事にしよう」

 兄は歯切れが少しだけ悪くなり、私に着席を促した。

 居間のローテーブルには、すでに夕飯がセッティングされていた。炊きたての白米、豆腐とわかめのお味噌汁、南瓜の煮物、サバの味噌煮。

「わあ」

 思わず感動から声が漏れた。自宅でこうした食卓を囲むのは、祖母と一緒にいた頃以来かもしれない。

「ありがとう! るぅ兄、料理上手なのね」

「そうか? ありがとう」

 朝夕の食事だけでなく、お弁当まで用意してくれると言う。「コンビニ飯だけなんて、ダメだ。こんな痩せちゃって」と、しっかり叱られた。

「蛇口、直しておいたよ」

「えっ。ほんと? すごい! ありがとう」

 そして見回すと、部屋がきれいになっている。

「居候だからね、当然だよ」

 少し照れくさそうに言う。白い顔がほんの少し赤い。

 兄は本当にキレイな顔をしていると思う。

 そのキレイな顔のまま、おいしそうに食事をしているのを見ながら、私は考える。(るぅ兄は、どうやって生きてきたのかしら?)

 全寮制の高校に行って、それから――?

 記憶を掘り起こそうとしても、すぐにぼやける。

(なんで思い出せないんだろう?)

 少しだけ焦燥感が芽生えた。

 けれど目の前の笑顔を見ただけで、瞬時に消えてしまった。


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