第2話


 足が重い。


 駅から私のマンションへは、徒歩で十分ほどかかる。

 コンビニや交番も無い。住宅のあかりも、半分以上が消えている。そんな真夜中、私はひとり、とぼとぼと歩く。

 頭の中は空っぽ。駅前のコンビニに寄ったものの、このあと自分が何を食べたくて何を飲みたいのかが、まったくイメージできなかった。

 早く帰って化粧を落としたい。シャワーを浴びたい。ごはんを食べたい。借りてきたDVDを見たい――いつもだったら当たり前に出てくる欲求すべてが、ひっそりとなりを潜めていた。

 この日、私は小さくないケガをした。

 自分の不注意ではある。契約書の製本中、あやうく裁断機で親指を切り落とすところだった。厚さのある書類を切りそろえる時に使う、大きな刃の部分を下ろすようにして使うアレ。幸い骨で止まったものの、出血がひどかった。

 上司に嫌味を言われながら、病院に駆け込んだ。何針か縫われ、今では左手全体が包帯でぐるぐる巻かれている。

「もっと切れ味がよければスパッとキレイに切れてましたね。その方が痕も残さずに、キレイに繋げられるんですけどねぇ」

 医者がそんなことを言っていた。冗談なのか本気なのかわからない。そして無理難題を言う。

「しばらくは安静に。家事などはご家族にお任せくださいね」

 そんな家族なんて、私にはいない。

 ずっとひとり暮らし。

 親兄弟もいない上に、一年前に祖母を亡くした。

 傷が熱い。腫れている。

 なのに“痛い”という感覚が無い。


 なんだかおかしい。


 いつもよりも歩くのに時間がかかり、マンションが見えてきても安堵は得られなかった。

 祖母から生前贈与でもらったマンション。けれど外壁がカビのような緑色で、古くさい。昔付き合っていた人に「こんなところに住んでる女なんて、薄気味悪い」と言われたほど。その上南側にできたマンションのせいで、日光があまり当たらなくなった。

ただでさえ重い足取りに、湿気が加わる。

 三階の自分の部屋まで、階段を使わなければならない。エレベーターを使うと一階のエレベーター横の住人にうるさいと怒鳴られるから。あの部屋のおばさんはいつもイライラしている。笑顔を見たことが無い。

 ひたりひたりと足音を殺して、コンクリートの階段を昇る。スニーカーでよかった。

 ドアにたどり着いても、開けるのがひと苦労。

 コンビニ袋を左腕に掛け、右手だけでバッグから鍵を取り出して開ける。それがどうにも難しい。やっと出せたと思ったら、落としてしまった。それを拾うためにしゃがむと、隣のドアが小さく開いて舌打ちされた。よくは知らないけど隣人は若い男性。あの人も常にイライラしている。

 中に入ると当然暗い。誰かいるわけではないから、「ただいま」とつぶやくのはかなり前にやめた。

 後ろ手にドアを閉めて鍵をかける。そして右側にある電気のスイッチを点けた。

「ひっ!」

 久しぶりに出した声が、裏返った悲鳴。

 玄関を入って真向かいには白い壁がある。私はポスターや絵画を掛けていたりはしていない。年季の入った白い壁だけ。

 右手にドアがあってキッチンへと続くのだけど、その壁の真ん中にアレが居た。

(……あ、トッケイくんかぁ……)

 ホッとした。

 それは、いわゆるヤモリ。体長十センチにも満たない白い爬虫類が、壁で固まっていた。

 納得はしたものの、動悸がなかなかおさまらない。

(もう、何なのよ……)

 自分の家に帰ったのに息もつけない。けれど小さな爬虫類相手に、本気で怒るのもバカバカしい。

 鼓動を整えていると、今度は水の音が聞こえた。ポトンポトンと、しずくが落ちる音。

(そうだ、キッチンの蛇口……)

 締まりが甘くなっていたから、メンテナンス会社に連絡をしなきゃいけなかった。

 なのに、この日も忙しくてできなかった。見るとキッチンのシンクに置いていた洗い桶が、漏れた水であふれていた。

(私、今日は何で忙しかったんだっけ?)

 課内メンバーの交通費の清算をしていた。あと顧客リストの更新と、会社にかかってきたクレーム電話の対応。そしてケガ。

(私、デザインで入社したのにね……)

 入社して五年以上経つのに、畑違いの仕事をさせられている。私がいつまでもダメだからなのだろうけれど、別の会社で働く大学の同期は作品をどんどん世に出している。

(人と比べちゃダメだけど)

 これは死んだ祖母にさんざん言われたこと。人と比べて自分の境遇を憂いたところで、何も変わりはしないと。

 私はため息をひとつだけついて、広くはない部屋を見渡した。

 電話機の留守中に着信があったことを知らせるためのランプは、朝から何の変化もない。

 この部屋は私が外出した時からほとんど変わっていない。変わったのは水漏れを受け止める洗い桶の中の水位と、時計の針の指す数字だけ。

 さっきのトッケイくんは、とっくに姿を消していた。

「……なんか疲れちゃったな」

 言葉にしてみても、ラクにはならなかった。

 鞄とコンビニ袋をテーブルに置き、ストッキングを脱いだ。汗をたっぷりかいたはずなのに、乾燥している。

(今日の私は無かったことになってるみたい)

 なんとなくそう思った。

 けれど、そう思わなければよかったと、すぐに後悔した。

 なんだろ? この感じ。

――もういいや。もう全部無かったことにすればいい。

 ここにいる必要なんか無い。

 私はストッキングを手にとった。

 そしてそれを――


 チャイムが鳴った。

 自分以外の体温が無いはずのこの空間に、突然の人の気配。私は思わず息を止めた。

(こんな夜中に?)

 心臓が痛いくらい跳ねている。さっきトッケイくんを見た時とは、比べものにならない。

 玄関にいる私の、ドア一枚隔てた向こう側に誰かがいる。

ピンポーン。もう一度鳴った。

(だ、誰?)

 一瞬の静寂。誰だか知らないけれど、このまま帰ってくれれば……と思った途端、今度はドアをノックされた。

 私は足音を立てないように部屋の奥に逃げた。するとキッチンにあるインターホンのモニターが目に入った。

(え?)

 そこにいたのは男性。

 背が高い男性の色白の顔が、小首を傾げながらインターホンを覗いていた。

端正な顔立ち。そしてその顔の右目の下には、ほくろ――

(え、この人、まさか……)

 私はあわてて玄関に戻り、ドアのロックを外した。ふだんならこんな夜中の来訪者にドアを開けたりなんかしない。自分でも信じられない行動。

「おっ……」

 勢いよく開けたドアが、危うくその人にぶつかるところだった。短く驚きの声をあげながら、その人は十センチ以上高いところから私を見下ろしていた。その目には悪意が無いと、瞬時に判断できた。やわらかく、懐かしそうに私を見つめている。

 この人は。

 私は知っている、この人は。

「久しぶり」

 ばつが悪そうに、その人はニッと微笑んだ。

「カスミ、大きくなったね」

 名前を呼ばれたのに、久しぶりすぎて反応できない。

 この人は、岩田タケル。私の兄。永いこと会えないでいたのに、すぐに思い出した。

「る、るぅ兄?」

 幼い頃に使っていた呼び名で呼んでみた。すると兄は少しだけ両目を大きく見開いた。そう呼ばれたことに驚いた様子だった。けれどすぐにやさしく目じりが緩む。

「……憶えていてくれたんだな」

 すると小さく金属の音がして、隣室のドアが開いた。隣人がうるさそうに廊下を見渡し、私たちを見つけて舌打ちしながらドアを荒っぽく閉めた。うるさかったのだろう。

「は、入って……」

 このマンションから出てはいけないから、トラブルは避けたい。私は兄を部屋に招き入れた。

「それ、どうしたの?」

 兄は部屋に入るなり、私の包帯が巻かれている方の腕を掴んだ。

「あ……ちょっとケガしちゃって」

「ちょっとって感じじゃなさそうだよ」

 兄の声に心配が色濃くなっていく。

「だ、大丈夫です……あっ」

 思わず敬語が出た。

 二十年ぶり。最後に会ったのは、私が小学生にあがったあたり。

 大人になって対面した今、正直どんなふうに話せばいいのかがわからない。職場の上司や先輩相手とあまり変わらないような気がした。けれど血の繋がった兄に対しての態度としては、他人行儀な気もする。

 兄はただ微笑んでいた。

「? 何持ってるの?」

 兄が何かを持っていることに気が付いた。

「ああ、その辺に落ちていたのを拾ったんだ」

 おどけるようにニッと笑って、私に丸めたそれを投げてきた。それは、さっき私が脱ぎ捨てたストッキング。

「やだっ!」

 あわてて兄の手からそれを奪い取った。

 アハハと大きな声で兄が笑った。すると、隣からドンッと壁を叩かれた。ふたりで同時に首をすくめ、兄はいたずらっ子のような表情で「神経質な人だね」と小さく言った。長いこと開かなかった記憶の引き出しが、カタンと少しだけ開いた。

(こんなことあったな……)

 就学前は、夜八時には寝かされていた。それでも寝付けない夜は、兄とおしゃべりをした。小さく話しているはずだったのに、だんだん楽しくなっていき、声が大きくなる。すると隣の部屋に居た祖母に壁を叩かれ、「早く寝なさい!」と叱られる。

 隣人のことが、少しだけイヤではなくなった。

「お茶、淹れるね」

 ようやっと敬語が出なくなった。

「いいよ、おれがやる」

「でも」

「いいから」

 兄は私を居間に留まらせ、キッチンに入った。あまり物を置いていないから、ヤカンや急須などはすぐに見つかったらしい。

大学がそれまで住んでいた家からは遠かったため、祖母の資産だったこの部屋に住み始めた。

 平日は勉強とアルバイトに明け暮れ、土曜の夜のみ祖母の家に帰るという生活を送った。社会人になってからも「勉強とアルバイト」が「仕事」に変わっただけで、祖母が亡くなるまでそうしていた。

 私がそうやって生きてきたことを、兄は知らない。何しろ二十年ぶりなのだし。

「ひょっとして帰ったばかり? 仕事?」

 ヤカンを火にかけながら、兄が話しかけてきた。そういえば、帰宅してからまだ化粧を落としていない。

「うん」

「今、何の仕事をしているの?」

「デザイン屋さん」

「へえ。カスミは絵が上手だったもんな」

「でも雑用ばかりなんだけどね」

 声色に自嘲を含めて返した。

 絵が上手、なんていうのは幼稚園の頃の評価で、会社ではまったく通用していない。 

「最初、ばーちゃんちに行ったんだ」

「えっ?」

「あの家、もう無くなってたんだね。葬式も一周忌も来られなくてゴメン」

 一周忌は確かにそうだったけど、葬儀に来なかった?……私は記憶を手繰り寄せた。祖母の葬式の時にこの兄は――


(そうだ、居なかったんだ。だって会うこと自体“二十年ぶり”なんだもの)


 家があったところは祖母の死後すぐに売りに出され、今では何のゆかりも無いアパートができている。私や兄も暮らした家なのに、相談も無く親戚たちがそうした。

このマンションも取り上げられそうになったけど、すでに生前贈与されて私のものになっていたために免れた。この部屋以外の祖母の財産は、あっという間にすべて食べ尽くされてしまった。

 私たち兄妹は、子どもの頃に両親を亡くした。

 私が三歳、兄が十二歳の時。

 だから私は両親をあまり憶えていない。交通事故だったと聞いている。

 親しくしている親戚は父方母方ともにおらず、私たち兄妹は母方の祖母と暮らすことになった。

 東京郊外の古く大きな家に、資産家であった祖母はひとりで住んでいた。祖母はひとり娘の子どもである私たちを大事に育ててくれた。

 それから兄が全寮制の高校に入る時までの暮らしは、にぎやかで楽しいものだった。


「なんだこりゃ?」

 素っ頓狂な声が聞こえた。兄が、私のコンビニ袋を漁っていた。

「夕食はこれだけ?」

 鮭のおむすび、一個だけ。

「ダイエット? 必要ないだろ。ちょっと待ってて」

 兄はまたキッチンでゴソゴソし始めた。私は突然訪れたこんな状況に、驚くよりも和んでいた。 

(この部屋に誰かが来るなんて)

 うれしい。

 最後にここを訪れたのは、前の恋人。連れてきたはいいけれど、さっきみたいに壁にトッケイくんが貼りついていたのを見て、悲鳴をあげて出て行った。男性が甲高い声で「ひゃん!」と言って逃げたのはおかしかった。

 それがきっかけで彼とは別れることになったわけだけど、実はそれが初めてのことではなかった。ここに住む私を薄気味悪いと言ったひとも含めて、みんな私に近寄らない。トッケイくんの話をすると、みんな苦笑いしてひいていく。

(里美だけね……)

 ただひとり。今でも付き合いのある友だちを思い描いた。

 三田村里美。彼女も爬虫類の類が苦手だからこの部屋には来ないけれど、私とは変わらず接してくれている。

 高校生の時に同じクラスだった彼女と、今の会社で再会した。専門学校を出た彼女の方が社会人としては二年先輩で、それでも気さくに声をかけてくれる。時間が合えば一緒にランチへ出ている仲。昨日のランチも一緒だった。

「私ね、今度A社のプロジェクトチームに入ることになったの」

 地味で愛想の無い私とは違って、いつも笑顔で華やかな里美。彼女は誰に対しても面倒見がよく、仕事上でも私のカバーをしてくれることが多い。「三田村を頼りすぎ」と上司からよく叱られる。

 最近他部署に異動になった彼女が、とあるプロジェクトチームの一員に選ばれた。

(私の方ががんばっているのに……)

 憧れの反面、黒い感情が私の中に巣くう。

 醜い。

 自分でもそう思う。これは嫉妬。

 吐露しないと押し潰されそうになる。

 けれど聞いてくれる人なんか誰も居ない。言ったところで、今度は自分の自尊心が削られるだけ。私はこの感情を持て余し、そんな中ケガをした。

 私を戒めるように、傷がうずく。

(さっきまで痛くなかったのに)

 でもその痛みで、自分が生きているということを感じることができる。ズキズキと脈を打つような痛み。

 医者からもらった薬を飲もうと立ち上がろうとした時に、兄から声がかかった。

「できたよ」

 また隣人が壁を叩いた。

「何だ?」

「いつものことなの。気にしないで」

 兄は熱そうに、けれどニコニコしながら丼を運んできた。いい匂い。お腹から“くう”という音が鳴った。

 座り直した私の前に置かれたそれは、お茶漬けのように見える。

「だし醤油があってよかったよ。これで小ネギとかがあれば、ばーちゃんの味が再現できたんだけど」

「あ、これ……!」

 祖母はよく大量におむすびを作っては、冷凍保存していた。受験前の兄のためだった。時折それをだしで煮込み、雑炊にしてくれた。

 それが目の前にある。

 信じられない。兄といい、目の前の懐かしいメニューといい、遠い昔の記憶が温度を持ってそこにあるなんて。

「い、いただきます」

 誰かに言うのも久しい。私は兄からスプーンを受け取り、まずスープをすくって一口飲んだ。手作りおむすびとコンビニおむすびとでは味わいが異なる。けれど十分だった。

「はあ」

 息が漏れた。と同時に、お腹がまた鳴る。それまで仮死状態だった胃腸が息を吹き返したように感じた。

「冷めないうちに食べなよ」

「うん」

 私は突然満ち足りた。こんなふうに充たされたのは、いつ以来だろう?

「カスミ、ごめんな」

 兄は突然、私の頭を撫でた。 

「え?」

 私はきょとんとして兄を見た。

「ばあちゃんが死んでから、ずっとひとりにさせて」

 その手の感触が懐かしい。

「だ、大丈夫よ。慣れてるし」

 兄は何も言わず、ただ笑顔で私を見ていた。私もそれ以上は何も言えず、兄の作った雑炊に取りかかった。でないと、感情が溢れて崩れてしまいそうだったから。

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