Epilogue
その朝目覚めた時、全身が鉛につながれているような錯覚に陥った。鈍く響く頭痛と全身の倦怠感で二度寝してしまおうかとすら思う。
スマホの電源ボタンを押し時刻を確認すると、昼はとっくの前に越えていて午後の二時だった。
「起きなきゃ……」
ギシギシ悲鳴を上げる背中を感じながら起き上がると、お腹の中が低く鳴る。途端に空腹感がこみ上げてきた。
とりあえずコンビニにでも行こう。何か胃を満たせるものが欲しい。
着替えて家を出ると、寒さに背中が少し震えた。
――――
買い物を済ませて家に戻ると、隣の部屋の扉が開くのが見えた。
思わず全身に緊張が走る。
昨夜のことが一斉に頭の中にリフレインする。
しかし、中から出てきたのは全く予想だにしていない人物だった。このアパートの管理人というか、つまりは大家さんだ。
一体どうしたことだろう。
鉄の階段を急いで駆け上がって大家さんに声をかけた。
「おは……、こんにちは」
「あら、こんにちは。良い天気ねー」
初老の女性がはにかむ。とても人当たりの良い性格で、話していて安心感がある。
「そうですね……。その、どうしてそこから……?」
「あれ、知らなかったのかしら? あの子、今朝引っ越したのよ?」
頭の中が真っ白になった。
聞き取ることはできても、意味の理解ができない。
引っ越し……?
「大学も卒業して、田舎に帰るんですって」
言葉にならなかった。大家さんの言葉は耳には入っていたが、頭に入っている感覚がない。
つい昨日までそこにいたじゃないか。そんな素振りなんて――。
「あ……」
ふと、脳裏に浮かぶ最後の言葉。
さよなら。
あれは、気のせいなんかじゃなかった。
不明瞭で確かな彼女から俺への別れの挨拶だった。
呼び止めればよかったという後悔が全身に泥のように貼りつく。心にびっしりと重みを持たせて沈んでいく。
「大変よね。あの子」
「……?」
「彼氏さん、いたのは知ってるでしょ?」
「まぁ……」
壁の薄いアパートであるから、簡単に知ることができるのはこの人もわかっている。しかしどうしてそんな話に飛ぶのか。
「暴力とか、時々受けていたみたいよ」
「えっ?」
完全に予想の範囲外の事実が耳に突き刺さった。仲の良い恋人同士だとずっと思っていただけに、驚きと動揺を隠しきれない。
「特に故郷に戻るって決めてからは酷くなったって。たまに聞こえてきたんじゃないの?」
「いえ……。あまり聞かないようにしていたので……」
頭の中のパズルのピースがハマっていく。今まで知ろうともしなかった彼女の欠片が、次々と繋がって実体を帯びていく。
彼女の不可解な言動の感情が、露わになっていく。
恋人絡みの何かなのだろうということは流石に察しがついていた。そうでなければ俺よりも前に縋る相手がいる。そうでなければあの状況の説明がつかない。
なら、俺は彼女にとっての救いになったのだろうか。
いくら考えてもパズルのピースは足りないまま、未完成だ。
あの時、彼女はずっと泣いていた。
煙草を吸っている時も、キスする時も、笑っている時でさえも、彼女の心はずっと泣いていたのだ。機械が延々とエラーを吐き出すように、彼女の心は壊れかけていた。
「そう言えばあなたは面識あったの?」
大家さんの問いかけにドキリと鼓動のリズムが狂う。何の他意もない純粋な疑問だろうが、俺にはこう問われているように聞こえたのだ。
俺は、はたして彼女を知ることができたのか。
彼女を露の欠片ほどでも、理解できたのかと。
「……そこまでは」
苦し紛れに絞り出したあまりにも情けない声と、格好悪い答え。
でもそれ以外に俺に答えることは許されないように思えた。
「あら、じゃあ余計な時間とらせちゃったわ。ごめんなさいね」
「いえ」
「最近あたたかくなってきたけど、体調崩さないようにね」
「ありがとうございます。そちらもお気をつけて」
――――
日中のベランダは夜のそれとは別物のように思えた。ただ光の量が多いか否かで抱く印象は大きく変わる。
……いや、それだけではないのだろう。
風に乗って流れてくる声。どこかから発せられる人の物音。手を繋いで歩く親子の姿。
この町で人々が昨日と変わらぬ日々を送っている。ただそれだけのことが、どうしようもなく羨ましくて、心臓を掻き毟りたい衝動に襲われる。
俺の世界は大きく変わってしまった。役に立たない仕切りと同じ高さの縁に肘を乗せ、呆けながらいつもと同じ風景を見渡す。
「……そうか」
今更になってわかった。彼女がここを好きだと言った理由。
彼女にはわかっていたのだ。平凡な平穏がどれだけ人の心を救うかを。
それはとても壊れやすく、しかし不変であるように見えるから、その貴重性に気付かない。
ここで彼女と夜の逢瀬を重ね、ただ二人で煙草を吸いながら他愛もない会話を交わしたこと。俺にとっての小さな平和。
ピース、ライト。
「……何考えてるんだか」
我ながらくだらなすぎる言葉遊びに苦笑した。前に彼女の言ったことの受け売りのようなものだが、わざわざそれを連想してしまう時点で同じ穴のムジナだ。
俺にとってのささやかな平穏は、彼女にとってのピースとなっていたのだろうか。
――いや、違う。俺が知りたいのはもっとシンプルなことのはずだ。
彼女にとっての自分は一体どんな存在だったのか。
俺のことを彼女はどう考えていたのか。
知りたい。
わかりたい。
教えて欲しい。
でも彼女はもういない。
指で唇を軽く触わる。指先が曲線を描く触感が昨夜の口づけを想起させた。なのに、どこかぼやけている。
決して忘れるはずがないと思った衝撃や感触も、今となってはピントのズレた写真のようだ。
俺が彼女とあんなことをすることは、きっともうない。会うこともないかもしれない。
名前を知る勇気もなかった自分が、彼女にとってどういった存在だったのかも、永遠にわかり得ないままだ。
それ以前に彼女のことを理解しようとしなかった自分がそんなことを言って良い訳もない。
左へと視線を寄せると、そこに彼女の姿が重なった。今はもう誰もいない部屋のベランダは、不自然な空白の存在を強調する。
「あれ?」
日陰で死角となっている仕切りの足元に、黒い正方形で薄い箱のようなものが立てかけてあるのを見つけた。
「なんだこれ?」
陽の当たるところまで持ち上げるとその色は黒ではなく紺色なのがわかった。紺の背景に金色の文字と絵が書かれていて、どちらもよく見覚えがある。
『The Piece』
そう、書かれていた。
煙草の箱とは思えない外見と重さ。話には聞いたことがあったしシャグを買う時に見たこともあったが、実際に手に取るのは初めてだ。
ベランダの端にそっと立てかけてあったのを見るに、たまたま落ちてきたとかそういうのではなく、誰かが意図的にここに設置したのだろう。それが誰なのか、目の奥に月明かりのシルエットが浮かび上がる。
風がボロアパートのベランダを横に通り抜けていき、体温が冷気に奪い取られていくのも気にせずにただその箱を凝視していた。
どうしてこんなものを彼女は残していったのか。それが気になってただ立ち尽くす。
ふとそこに違和感があることに気付いた。この紺色の外装に不自然に黒い部分がある。裏にも同様に一部分が黒い。
外側のビニールを開けるとすぐにその意味を理解した。
色ペンを使うなり紙を貼り付けるなり、他にも方法はあったはずなのに、わざわざ見つけづらくするなんて実にあの人らしい。
外装の透明なビニールには黒の、恐らくサインペンの女性らしい丸っこい字でこう書いてあった。
『ありがとう』
そして裏面にも綴られた三文字。
『またね』
何に対してなのかも、どういった意図なのかも、何も書かれていない。
でもその合計八文字の彼女からの手紙と、重みが教えてくれた。俺が知りたかったことの全てを彼女は残してくれた。
そんな、気がした。
紙箱を開くと中からさらに缶で出来た箱が出て来る。前に友人から聞いたことがあるが、金属で密閉することによって味を保っているとかなんとか。
The Piece、所謂ザッピは普通のタバコの倍以上の値段のする高級品だ。流石の俺でも吸ったことは一度もない。
缶を開き、さらに風味を密閉するために貼られている紺色の包装を剥がす。
その瞬間、強烈なまでの上質な香りが脳を貫いて思わずその場に昏倒してしまいそうになった。こんな煙草を俺は今までに知らない。
火を点けなくてもこれだ。一体吸ったらどうなってしまうのだろう。
期待と緊張で震える指で中の一本を掴み、火を点ける。ぼんやりと火が煙草の先を赤く灯し、細く弱々しいラインを描いて煙が上がっていく。
噂に違わぬ格別過ぎる風味と味に思わず口元がニヤけてしまった。身体の中に残った香りが、今もなお心地良い。
最高峰と呼んでも差し支えない煙草の味にただ酔いしれる。しかしそれでもやはりピースであることには変わりなく、その風味の中にらしさが残っていた。
立ち上る紫煙に包まれながら思い出す。
冷たい空気を切る風の音。
排気でくすんだ空の中にポツリポツリと浮かんでいた星。
時折聞こえる遠くでバイクが高速で通り過ぎる音。
ひとりぼっちの世界を開いた月明かりのシルエット。
風に揺れた夜空へと続く煙の階段。
脳裏に浮かび上がる情景は断片的だったが、そのどれもが美しかった。
陽が少し傾きかけて青空に朱の色が混じり始める。
もう一口、真っ白なフィルターに口をつける。紅茶みたいな芳醇な香りに入り交じるバニラのような味。
俺はきっとあの瞬間、いやそれだけではなくあの日々の中で、彼女にとっての平穏になれたのだろう。彼女が残した最後の煙草が言葉もなくそう告げているように思えた。
「またね、か」
もう一度会うことはきっとない。きっとないが、もしも何かの偶然で奇跡的に出会えた時、俺たちはまた二人で煙草を吸いながら他愛のない話をするのだろう。三文字の再会の合図はそういう意味だ。
「またな」
誰のためともなく俺はそう呟いた。彼女には届かない別れの言葉は、風に流されてどこかへと飛び去っていく。
俺は指先でトン、と灰を落としてからまた煙を肺に入れた。
手に触れる風はほのかな温度を持っていて、春の訪れが近いことを告げていた。
おわり
月明かりの下、彼女は。 庵田恋 @Anda_Ren
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