最終話

 その夜、月が泣いていた。


 悲しかったのかもしれない。苦しかったのかもしれない。はたまた、嬉しかったのかもしれない。

 ただ声も顔も身体も、その全てが泣いていた。それだけは確かだった。


 遥か彼方から飛来した光が、小さな宇宙の中で散乱して煌めくと、耳の奥に鈴のような音色がはっきりと聞こえた。


 だから俺は忘れられない。


 いつまでも、きっと。


 どんな出来事があろうと、たとえ自分の命の灯火が明日燃え尽きるとしても、その夜の輝きは記憶から消えない。


 それを忘れるにはあまりにも、自分は純粋すぎた。

 泣きたいくらいに月が綺麗な夜だった。


 だから――




 最終話『月明かりの下、彼女は。』




 バイトで深夜の帰宅。片手にはコンビニのビニール袋。


 禁煙してから早くも一ヶ月が過ぎた。


 初めて知ったのだが、禁煙すると恐ろしいくらいに腹が減る。それまでせき止められていた感覚が一気にあふれ出したような感じだ。


 中身を卓袱台に広げる。スルメと柿ピー。この前買ってまだ残っている日本酒は今日中には呑みきれるだろう。


 透明なコップに一升瓶を傾けると、日本酒独特の匂いがツンと鼻を突いた。おちょこでないのは少し味気ないものではあるが、味が変わるわけでもないしと買っていない。

 いつか買おう。そう言い続けて一年が過ぎた。


 コップについだ酒を少しだけ呷ると、喉の奥がカァッと熱くなった。安物ではあるが好きな味でよく買う。


「あー、疲れた……」


 今日は大した忙しさではなかったが時間が時間だ。疲れはもちろんそれなりにある。


 ふと、窓の方へ目を移す。カーテンが外の景色を遮っているから、見たって何も意味はない。

 誰かが外にいたって、ここからじゃ何もわからない。


 意味のない行動に自嘲するが、その目線はさらに別の場所へと移る。


 シガレットケースとライター。


 視界に入った瞬間に身体がニコチンを欲したのがわかった。

 バイト後の心地良い疲労感とアルコール。

 これに煙草が追加されたらもう至福だろう。この世の楽園と言っても言い過ぎではないくらいに。


 だが、立ち上がる気力は起きない。火を点けたら最悪な気分になるのは目に見えている。

 忘れるようにスルメを口に入れた。酸味が口の中に広がり、噛む度に味があふれ出る。


「うめぇ……」


 独り言がポツリと一人の部屋に浮かび上がり、すぐに壁に吸い込まれて消える。


「もう、会わないだろうな……」


 そんなことを呟いた次の瞬間だった。


 コン、コン、コン。


 何かを叩く、小気味の良い音。


 反射的に玄関を見るが、さすがのボロアパートのこの部屋にもインターホンは付いているし、それ以前に音の方向はそっちからではなかった。


 むしろその正反対。

 カーテンで覆われた窓から。

 つまりはベランダからだ。


「こわ……」


 カーテン開けたら血だらけの男に襲われたりしないだろうか。怖い。


 コン、コン、コン。


 もう一度、同じ音。


「冷静になろう。幽霊とかいない。現実的に考えて誰かがいるということだな」


 はてさて、しかしここは二階。そして時間は日付をまたいだ深夜。

 どちらにしろ怖い。


 コン、コン、コン。


 もう反応せざるを得なかった。

 ゆっくり、恐る恐るカーテンを開くと、そこには予想だにしない光景が広がっていた。


「こんばんは」


 窓越しにくぐもった、一ヶ月ぶりの声が囁く。


 彼女が、そこにいた。


――――


「な、なにやってるんですか! こんな時間に!」


「ごめんね。ちょっと……」


 申し訳なさそうに彼女が笑う。一ヶ月ぶりの再会がこんな形になるなんて思ってもみなかった俺は、狼狽を隠しきれなかった。いや、隠す余裕すらもなかった。

 窓を開けると冷たい空気が部屋の中へ入り込み、体温を奪う。


「久しぶりだね」


 彼女は何も変わらないままだ。あの時から時が止まっていたかのようにすら感じられた。


「どうも……」


 しかし俺の応対はそうもいかない。対人スキル以前の問題で、彼女と距離を取り始めたのは他でもない自分だったからだ。申し訳無さと恥ずかしさが入り混じって、言葉にならない。


「最近会えなかったし……」


 そう言うと彼女は紺色の箱から煙草を一本取り出し、オイルライターで火を点ける。肺に入れずにそのまま口から出した煙は、幾何学的な模様を描きながら夜空に吸い込まれていく。

 俺がその様子を眺めていると、彼女は不思議なものを見るように俺を見た。


「な、なんですか?」


「禁煙、したの?」


「ちょっとまぁ……」


「だからかぁ……。君が最近ここ来なくなったの」


 彼女の瞳はどこか遠くを見つめていた。その先を追うにはどうにも自分は力不足のようで、彼女が何を見、考えているのかはわからない。


「いる?」


「えっ?」


「欲しそうに見えたから」


 目の前に差し出される箱から飛び出した一本。紅茶のような香りがほのかに俺の欲を刺激する。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 出っ張った一本を取り出し、人差し指と中指で挟む。


 久しぶりの感覚。

 咥えると上品な甘い香りが口の中を包み込む。

 それだけでもう、自分にとっては倒れてしまいそうなほどにたまらなかった。


 一ヶ月続いた禁煙もどうでもいい。そもそも彼女が原因でなったもので自主的なものではないのだから、その彼女に勧められたらノーなんて言えない。


 火を貸してもらおうと彼女に目を向けると、オイルライターをこちらへ差し出した。

 なぜか、上の蓋を開いたままで。


「えっと……」


 ライターに手を伸ばそうか迷うが、高さが明らかに渡そうとするソレではない。このまま火を点けそうな素振りだ。


「…………」


 銀色のライターに手をかざすと、シュッという摩擦音が空を裂いた。ゆっくりと赤い炎が、彼女の手の中でその姿を現す。

 息を吹きかければたちまち消えてしまいそうな灯りが、凍りそうな外界の中で煌びやかに燃え盛る。


 そのあたたかい火の中心へと咥えた煙草の先端を近づけ、軽く息を吸うと先端がボゥっと明るく染まる。


 一ヶ月ぶりの煙は懐かしいような気もしたが、喫煙に対する感覚が薄れていたこともあってか、禁煙前とは異なる味がした。

 煙草を初めて吸った時にも似た、葉を焼いた純粋な味。


「どうしてやめたの?」


 彼女はそう俺に問う。彼女が原因なんて言えるはずがない俺は、彼女の方へ目もくれず自分が吐いた煙の行く先を追う。


「……そっか」


 沈黙から何かを察したのか彼女もまたそう言って、煙草に口をつけた。

 あらぬ誤解をされているかもしれない。


 そんな不安がないわけでもなかったが、極論を言ってしまえば自分と彼女は赤の他人でしかない。お互いに知っていることはお隣りに住んでいることと、喫煙者であることの二つだけ。

 流石に一ヶ月吸っていなかっただけに、ヤニクラがちらついて軽く眩暈がする。


「どうしたんですか、唐突に」


 それとなく聞いてみる。実際はその内容が気になって仕方なかったのだから、声が震えてしまっていたかもしれない。


「なんとなく。君に会いたかったから、かな」


 この人はまたこんなことを言う。

 わからなくてやっているならただの無神経だと片付けられるが、彼女に至ってはそうではないだろう。

 俺が彼女に惹かれていることをわかっていながら、それでもなお俺の心をかき乱しにかかってくるのだ。


 苛立ちが募って煙を吸う力が強くなってしまい、ピースの甘いはずの香りは辛さに打ち消されてしまう。しかしここまで弄ばれても胸の鼓動は速くなるばかりで、男としての性なのかと唾を吐き捨てたくなった。


 ジュウッと火が押し潰される音。

 自分ではない、彼女のだ。


 彼女は自前の可愛らしい灰皿をベランダの縁に置き、新しい煙草を箱から取り出す。続けて吸うつもりなのだということに、小さな驚きを覚えた。合間を空けずに連続で煙草に火を点けるのを、俺は見たことがなかった。


「ちょっといい?」


「はい?」


 隣にいる彼女の顔がこっちを向き、呼ばれた俺も必然的にそっちを向いてしまったから、つまりは向かい合うという形になってしまった。


 彼女の目が、鼻が、唇が、肌が、全てが、すぐ目の前にあった。

 かつてあった肘ほどの高さの仕切りもない距離感。


 それだけなのに、何もかもが変わってしまったかのようだ。


「火、もらうね」


 一歩、彼女が身体を寄せた。

 あともう一歩で俺と彼女との距離はゼロ。


 彼女の身体からする甘くとろけそうな匂いと、衣服越しにも伝わってくる体温の気配。

 現状が理解の範疇をとっくに超えていて、咥えている小さな円筒が、口の隙間からこぼれ落ちてしまいそうだ。


 彼女の顔がゆっくり、俺の方へと近づいてくる。その表情が心なしか色っぽく見えて、呼吸することすらも俺は忘れていた。


「ん……」


 しかし彼女が近付いたのは俺ではなく、俺の咥えた煙草の方。

 彼女が咥えた煙草の先端と、俺の煙草の先端が交わる。夜闇の炎が密着した葉に移り、新たな火種を生み出す。


「すぅ……はぁ……」


 吐息が、唇に触れた。


 こそばゆくて身震いしそうなのに、指先一つ動かせない。

 自分の心臓音が耳の奥に低く響く。


「ありがとね」


 唐突な声でようやく我に返った。眼前で起こった出来事が何だったのか、ほんの数秒前なのに思い出せなくなる。


 いまのは、なんだ?


 言語化不可能な感情が胸の中をぐるぐる抉り回る。いや、胸の中だけどころか全身をまさぐられていた。


 落ち着こう。話はそれからだ。

 煙が辛くならないようにゆっくり口の中へ含み、肺に残らず吸い込んでそこで息を止めて、脳にニコチンが回っていくのを感じてまたゆっくりと吐き出す。……よし、落ち着いた。


「……意外とノーリアクションなんだね」


「もしかして反応を楽しんでませんか?」


「少しだけ」


 いたずらっぽい笑みを浮かべて、彼女は続ける。


「でもやってみたかったの方が強いかな。他の吸う人いないとできないし」


「そうですか」


「怒ってる?」


「……貴重な経験ができました」


 俺が一瞬躊躇った末に出てきた返答に彼女は吹き出した。言ってから自分でもこれはないなって思ったよ。


「やっぱりびっくりしたんだ」


「そりゃしますよ」


 でもなぜだろう。そこまでは後に引いていない自分がいた。多少アルコールが入っているせいで、どこか今の自分を客観視しているのかもしれない。


「今のなんて言うか知ってる?」


「いえ」


「私も知らないー」


「なんですかそれ」


「……やっと笑ったね」


「えっ?」


「さっきからずっとむすーってしてたよ」


 それは仕方ないだろう。ここ最近ずっと俺を悩ませてきた相手が深夜に唐突に現れて、愛想笑いをする余裕なんてあるわけがない。


「いつもそれですね」


 置いてある紺色の箱を指差す。

 彼女の吸う煙草の銘柄はピースライト。ライトとは言い難いそれなりのタールの重さを持つ日本の煙草だ。まぁ、ロングピースがさらにその倍くらい強いし、ショートに至っては三倍だ。


「基本そうじゃない? 煙草って」


「そうですけど、飽きないのかなって」


「んー。飽きるとかって考えたことないなぁ。そう言う君は固定じゃないの?」


「そうですね……気分で変えたりしています」


 俺にはこれと言った固定の銘柄がなく、その時々で吸いたい銘柄を選んで買う。その方が飽きなくて面白いと俺は思うが、喫煙者の多くは吸う煙草はたいてい同じだ。


「ふぅん。変わってるね」


「ですかね」


「ピースって甘くて、優しくて、やわらかい羽根に包まれているみたいで だから、好き」


 一口をゆっくりと灰の中に入れて少しずつ吹く。紅茶のような心地良い香りとバニラにも似た甘さ。このことを彼女は言っているのだろう。

 それに、と彼女が付け足す。


「軽い平和って何だか落ち着く気がする」


「名前ですか」


「む、名前は大事だよ。これの名前が『War』とかだったら物騒すぎて好きになれないかも」


「また喩えが極端ですね。少しわかりますが」


 軽い平和、か。

 平和が重い扱いであるうちは平和とは呼び得ないだろう。当然と軽んじるようになった時の方がよっぽど平和という言葉に相応しい。別名平和ボケ。

 もう一口煙を吸うと会話は途切れた。


 煙草は便利な道具だ。

 人との対話において話すことに困ったらとりあえず間をもたせることはできる。できて一分やそこらだがそれが口下手にはありがたい。

 誰かといながらその瞬間だけ一人になれる。何か思い付けばこちらから話題を切り出すこともできる。


 できれば自分のを吸いたいところだが、あいにく手巻き用のシャグはこの一ヶ月間放置していて湿度管理なんて全くしていない。今頃カラッカラに乾いてとても吸える代物じゃなくなっていることだろう。


 もうそろそろこの煙草も終わりそうだ。

 そう思って彼女の方を見ると、違和感が意識の片隅をよぎった。


 月明かりが、彼女へと差し込んでいた。


 薄く明るい彼女の輪郭が、微かに震えている。うつむく瞳のかけらが今にもこぼれ落ちそうだ。

 初めて見た彼女の様子に、そうさせている感情の正体を探れども答えが見つからない。


 ああ、俺は、彼女を知らないのだ。


 そう思った矢先、その手が灰皿を一瞬経由したかと思うと、体温を含んだ重みが肩にのしかかった。


「な、なんですか?」


 自分の頭を俺の左肩に乗せた彼女に問う。表情は、見えない。


「……ごめんね」


「はい?」


 突然謝られても意味がわからない。彼女の謝罪が一体何に対してなのか、そもそも今のは自分に対して

の謝罪なのかすらも、あやふやだ。


「こんな風に、君に……」


 言葉が徐々にもやのように溶けていき、最後は形も失われた。


 君に。


 俺に。


 俺に……?


「どうし――」


 開きかけた口が止まる。

 しゃくりあげるような息に、気付いてしまった。

 肩に染み込んだ温度の存在に、気付いてしまった。


「ごめん……」


 彼女の声はいつからか泣き声になっていた。


――――


 左の肩がひどく重い。

 俺の服に染み込んだ涙はきっと俺のせいでも、俺のためでもないのだろう。彼女の感情をここまで動かせるほどの関係を俺は築いてきていない。

 この悲しみをぶつける相手は他にだっているはずだ。例えば――。


「……あぁ」


 そこでふと思い当たる。この涙の源泉はどこにあるのか、その可能性。

 つまり俺は――。


「ひぐっ……」


 声を押し殺しながらも微かに漏れてくる感情の吐露。

 ほとんど吸わないまま消された煙草の焦げたような臭い。

 指の間から月へと細く昇る紫煙の階段。

 頭の中を繰り返すあの夜の彼女の声。


 周りのありとあらゆるものが俺に語りかける。

 疲弊しきった道徳心は、もう感情を止めたりしない。


「!」


 小さな叫び声が右耳を濡らした。

 腕の中の彼女は想像していたよりもずっとか細くて弱々しく、それでもすごくあたたかい。


「び、びっくりした……」


「さっきの仕返しです」


 こんなことをする勇気が自分にあるなんて思ってもみなかった。きっと酔っぱらっているんだ、俺は。


「仕返し、なのかな……。私、今、何て言ったらいいのかな……。……しあわせって感じ」


 彼女の腕がゆっくりと上がり、そのまま俺の背中を包む。

 人と人がただ触れ合っているだけなのに、こんなにも胸が昂るなんて思ってもみなかった。映画の中のキャラクターの気持ちが少しだけわかったような気がした。


「なら仕返しになってますよ」


「あ、さっきの嬉しかったんだ?」


「……言いません」


「えー、ずるいなぁ」


「ずるいのはあなたの方でしょう」


 軽口を叩くつもりの言葉が、彼女の声をせき止める。俺が口にした瞬間に彼女の全身がこわばったのを腕の中に感じた。右後ろにある彼女の顔がどんな風なのか、今の自分には想像するしかない。


「……だよ」


「えっ?」


 呟くような言葉が聞き取れずマヌケな声を上げてしまう。


「ズルい女だよ……」


 やってしまった。

 そう、強く思った。


「ズルいなんてものじゃないね。悪い女、悪女って言うんだっけ」


「そ、そんなこと……」


「ううん。君はわからない。私のこと」


 図星を突かれて声が詰まる。自覚していても本人から言われるのは、なかなかに棘がある。


「大体、今の御時世に煙草を吸う女なんて、メンヘラか歪んでいるかのどっちかだよ」


「随分極論過ぎませんかね……」


 世界中の女性喫煙者を敵に回しかねない発言に苦笑した。


「そんな女にこんなことするなんて、君は本当に……」


 背中に回された腕の力が弱まっていくのに応じて、俺も彼女を離すと久しぶりに彼女の顔を見た気がした。


 ふと、辺りが明るくなる。


 空を見上げると暗闇の中にいた自分たちには眩しいくらいに、月が明るく輝いていた。ずっと雲の中に隠れていたらしい。


 光が彼女の姿を照らす。


 涙で赤くなった目が印象的で、それでもなお彼女は美しかった。

 あの日、初めて会った瞬間から変わらない。いや、あの時よりもずっと、ずっと、綺麗だ。


「ねぇ。さっきの、なんて言うか知ってる?」


 同じ言葉をつい最近聞いた気がする。その時には彼女は知らないと答えたはずだ。


「いえ、知りませんが……」


 ゆっくりと、彼女の顔が近付く。今度はそこに煙草を咥えていたりもしない。夜の静寂と丸い月だけが二人を傍観している。


 いつかこの場所を一人ぼっちの世界と呼んだことを思い出した。

 ここで煙草を吸う時はいつも俺は一人で、それが心地良くて、だから深夜にここに頻繁にいたのだ。


 そして今、この瞬間だけは、ここは二人だけの世界だ。

 彼女の湿った唇が開き、言葉を紡ぐ。


「あれは――」


 夜にも月にも聞こえないような小さな声だったが、俺の耳にははっきりと届いた。


「シガーキス」


 唇が重なり合う。


 ――やわらかい。


 初めてするキスの感触は、そんな単純なひらがな五文字で言い表せてしまえるくらいに、呆気ないものだった。


 目をつむる彼女に倣って俺もまぶたを閉じる。

 彼女の体温がすぐそこにあるのがわかる。


 唇と唇が触れただけのキスは自然と互いの顔が離れて終わりを告げる。


 ああ、こんなものなのか。


 それが失望によるものなのか、安心感によるものなのかはわからなかった。

 キスというものに憧れがなかったと言えば嘘になる。むしろこの年齢になるまで未経験なのだから、過剰なまでの幻想を抱いていたからなのかもしれない。


「……しちゃったね」


 クスクスと彼女が笑う。つられて俺もなんだか可笑しくなってきた。

 この一ヶ月もの間、俺を苦しめ続けた彼女という存在にファーストキスを奪われた。自分とはどうあがいても釣り合わない綺麗な女性とは本来あり得ないはずなのに。


 可笑しくて、滑稽すぎて、俺も笑いを抑えきれない。

 深夜のベランダに二人の抑え気味の笑い声が小さく響き渡る。端から見たら――誰もいないが――飛んだバカップルだろう。俺たち二人の関係を予測するなんて不可能だ。


 こんなに面白いことが世の中にあってたまるか。


 恋人がいる相手とこんな形でキスをするなんて誰が思いつくことだろう。


 お互いにひとしきり笑いが治まると、またどちらともなくキスをした。

 二回目だからって何も変わりはしない。しかし多少の慣れが生まれたからか、それを心地良く感じるくらいの余裕が俺にはあった。


 自然と唇が離れたその時、彼女の髪がまるで羽根のように舞った。次の瞬間には腰と胸の辺りに衝撃が走る。あまりにも突然すぎてバランスが崩れた俺は倒れて尻餅をついた。それでも腰元と胸への圧迫感は残ったままだった。


 俺の腰に手を回し、顔を胸の中にうずめたのだ。

 これ以上は驚くまいと高をくくっていた俺は呆然とただそれを眺めていた。


 ――ごめん。


 泣き声に混じった言葉はそんな風に聞こえた。


「君の優しさに……、つけ込んで」


「別に、いいですよ」


「君を今、私は傷つけているのに……?」


「生きている以上、誰かを傷つけないなんてあり得ませんから」


 小さく縮こまり子どものように震える頭を撫でてあげる。触り心地の良い彼女の髪が俺の指の間をすり抜けていく。


 まるで、今の自分たちを暗示しているかのように。


「……君は、優しいね」


「優しくなんか、ないです」


 ただ自分がしたいからこうしているだけだ。

 彼女に何があったのかわからないし、それを問うつもりもなかった。優しい人間なら第一にすべき義務を、俺は放棄していたのだから、彼女の言ったことは間違っている。


 彼女は、何かに縋りたいのだろう。

 心の痛みを誰かに押し付けたいのだ。


 俺はただそれを受け止めるだけ。

 そうすることで自己の承認欲と下劣な性欲を満たしている。


 つまりは互いが互いを利用しているだけだ。


 一体それのどこに優しさなんてものがあるというのか。

 一体それのどこに誠実さなんてものがあるというのか。


 こんな穢れた感情を恋なんて綺麗に呼んではならない。

 彼女を好きだなんて言って良いはずがない。


 そのはずなのに――。


「ん……」


 彼女の吐息が漏れる。いつの間にか俺の腕は彼女を抱きしめていた。

 どうしようもないくらいに愛おしかった。彼女は他の誰かのものだ。それでも今、この瞬間だけは、手放したくなかった。


 強く抱きしめる。


 強く、強く。


 恋なんて綺麗なものでも、愛なんて高尚なものでもない。そう何度も自分に言い聞かせても、心は言うことを聞いてくれない。


「痛……っ」


 しかしそれは苦痛の声によって解除された。抱擁というものに慣れない自分の力が強すぎたのかもしれない。


「す、すいません……」


 腕を解こうと力を抜いたが、やめてと言わんばかりに彼女の腕が強く俺の身体を縛る。


「ううん、大丈夫だから……。もっと……」


 言葉と裏腹に苦しそうな声音だった。もしももう一度抱きしめたら壊れてしまうんじゃないかという思いが胸の中をよぎった。


「でも――」


 口にしかけた言葉は彼女の唇によってせき止められる。

 唇の隙間からやわらかくあたたかいものが入り込んできて、思わず目を見開いた。


「!」


 彼女の舌が俺の舌に絡みついてくる。なす術もない俺はただ蹂躙される。


「んっ……はぁ……んっ」


 どう呼吸すれば良いのかもわからなかった。

 未知なる感覚に困惑する。自分が何をしているのか、それすらも上手く脳で処理しきれていない。


 彼女の唾液が俺のと混ざり合う。


 こういう行為があることは以前から知っていたが、映画や小説の中のそれに対して俺は気色の悪さを感じずにはいられなかった。


 しかしどういうわけか、今はそんな感情が一切なかった。


 自分が彼女に求められている。

 彼女と繋がっている。


 その快感だけが、俺の頭を埋め尽くす。


 舌の動きが段々大人しくなっていき、顔が離れる。その表情はキスする前よりも一層の色気をはらんでいるような気がした。


「……ふふっ」


 舌をペロリと出して笑う。俺は未だに何が何だかわからないままだ。口から飛び出す勢いで暴れまわる自分の心臓の音だけしか聞こえない。


「君、やっぱり初めてなんだね」


「……そんなに酷かったですか」


「まぁ及第点かな」


「そうですか」


 疲れがドッと全身にのしかかってきたような気がする。予測不可能な出来事がこの一時間にも満たない短時間に起こりすぎた。


 ……唇にまだ感触が残っている。彼女のやわらかく湿った感触が。

 そして舌にも、まだ。


 シュッ。


 摩擦音が耳を突き抜ける。いつの間にか立ち上がっていた彼女の指の間にはピースライトが挟まれている。何だかその音がすごく久しぶりのもののように感じられた。


「はい、どうぞ」


 紙箱がフッと手元に飛んできた。中から一本だけ取り出して咥えようとした時に一瞬だけ躊躇が生じた。まだ残っているこの感触を忘れたくないという発想が浮かんだのだ。


 でもそれ以上に日常へ戻りたいという願望が強いのも事実だった。

 こんなの、異世界だ。


 縁に置いてある彼女のオイルライターを借りて火を点けると、肺の中に煙が染み込んでいく。


「……うめぇ」


 自分が自分に戻っていく。

 そんな意味不明な感覚がニコチンの快感と相まって心が休まる。


「その方がいいね」


「どういうことですか?」


「そのままの意味だよ」


 それだけ言うと彼女はまた前を向き、フィルターに口をつけた。ぼんやりと微かに先の火が明るくなり、煙を吐き出す。白い煙が夜の闇に溶けていくのがどこか幻想的だった。


「前に教えた吸い方、実践しているんですね」


「うん。おかげさまで吸う本数が増えちゃった」


「それはどうなんですかね……」


「……ねぇ」


 彼女の目線は俺の方を一切向いていなかった。ただまっすぐに、ずっと前の先の、どこかを見つめていた。

 その先を知りたくて同じ方を見ても、いつもと変わらない風景しかない。


「この部屋を選んだ理由ね、ここから見える景色が綺麗だったからなんだ」


「どうしたんですか、突然」


「君にはきっと見えてないんだろうね。でも、もっとよく見て」


 もっと、よく見る?

 そもそもの話の流れが見えない。一体俺は何を見ろと言われているのだろう。


「この時間になるとね、灯りがついている家って限られてて、いつも同じところなの」


「はぁ……」


「だから顔も知らない、一度も会ったことの人を知ることができる。ああ、あの家の人は今日も夜更かししてるんだ、みたいに。灯りが消えるのが見えたら、あの場所にいる人は寝たんだって」


 ああ、なるほど。それは俺も無意識の内にやっていたことだった。あそこはいつも二時には灯りが消えているとか、あの家の灯りの色が変わったとか、ベランダの飾りが変わったとか。

 だが、そこに何かしらの特殊性を見出そうとはしなかった。


 それはどこにもあるありふれた出来事で、俺にとっては普通のことでしかなかったのだ。きっとそこに注視して生きている人間なんて稀だろう。


「それに、ここって壁がないでしょ? だからすごく自由なの、私は」


「自由、ですか」


 確かにこのアパートのベランダには所謂部屋同士の仕切りというものがない。珍しい部類だが、それを用意するだけの資金もこの貧乏アパートにはないのかもしれない。


 できることなら俺はそういう仕切りのある部屋に住みたかったが、予算上の都合と学校との距離の兼ね合いでここにせざるを得なかった。


「うん。だってこんなに綺麗なもの、他で見られないよ」


 綺麗、なのだろうか。彼女の言うものはそれほどに価値のあるものなのだろうか。

 変哲のない夜の住宅街。

 少なくともそうとしか俺には認識できなかった。


「わからない?」


「……あなたの目に映る世界は、きっと綺麗なんでしょうね」


 悲しい距離の存在を痛感する。俺と彼女は恐らくわかり合えない。根本的な何かが食い違ってしまっているのだ。


 それか、俺が重大な何かを見落としているか。


 どちらにしろ同じことだった。


「そっかぁ……残念だな……」


 諦観の意がうっすらと見て取れる。少しだけ寂しそうに彼女は笑みを浮かべた。

 彼女の指先がトンと音を鳴らすと重力で曲がって延びた灰が、ゆっくりと落ちていく。

 もう残りは少ない。次の一口が最後だろう。


 一方の自分の手元を見るとこれもちょうど同じくらいで、先に火をもみ消した。

 そんな俺の行為の意味を察したらしい彼女もゆっくりと煙草を口につけ、本当に美味しそうに口から煙を吹く。

 そして短くなった煙草の火を灰皿に押し付ける。その一挙一動がどれも名残惜しそうにしているように俺の目に映った。


 何か言わないと。


 そんな焦りによる強迫観念にも似た何かに胸を急かされるが、どう言葉にして良いか俺にはわからず、ただそれを見ているだけだ。


「じゃあ、おやすみ。いろいろありがとう」


 そう言うと彼女はベランダの間の肘の高さほどの仕切りを飛び越え、自身の領域に帰っていく。


「おやすみなさい」


 返事のはずのその言葉はこの場には不似合いな気がした。でも、何がおかしいのか、そして正しいのかわからない。

 微細な違和感が胸の中をまどろみのように行ったり来たりする。


 ニコリともう一度笑って手を振り、窓を開く。まさに部屋に入ろうとしたその時、彼女の唇が僅かに動いた。


 声は、聞こえなかった。


 しかしその動きだけで、俺にはその言葉が確かに聞こえた。




 さよなら。




 呼び止めようと口を開いたが、声が出なかった。


 ああ、そんなの当たり前の話だ。


 結局最後の最後まで俺は、彼女をなんて呼べばいいかわからなかったのだ。


 彼女の名前を、俺は知らなかった。

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