第3話「現実」
「死ぬ……死ねる……」
最後の力を振り絞ってドアを開け、自分の部屋に転がり込む。ギリギリ残った理性で玄関の鍵は閉められたが、それが限界だった。
靴が散らかるのも上着がグシャグシャになるのもどうでもよくなって、床に大の字になって倒れた。
「疲れた……」
今日のバイトはここ最近でもとびきりの忙しさを記録し、おかげで今日のバイトというより昨日のバイトとも言える有り様だ。明日が休日なのが唯一の救いである。
普段深夜に煙草を吸うのは、バイトで遅くなった日と相場が決まっているのだが、その余裕すら今の自分にはない。
薄れていく意識の中で、視線がベランダへと向かっている自分に気がつく。
……もしもそこにいたなら。
会いたい、なんて、思ってしまっている。
人間関係なんて煩わしいと思うこともある自分が、今この状況で彼女と話したいなんて考えている。
友人相手だって、こんなことを思ったりはしない。なのにこんなに疲れ果てて、今にも死にそうな状態でなお、いや、だからなのかもしれないが。そんなことはどうだっていい。
こんなに気持ち悪い、反吐が吐きそうな自分を、今までに知らない。
もしかして、もしかしたら。
とっくの昔に、手遅れになっていたんじゃないだろうか。
「……ん」
人の声。
自分の声ではない。
明らかにそれよりも高く、弱々しい。
「……!」
いやな予感が全身をまさぐる。ぞわりと背中の産毛が逆立つのを感じる。
「んっ、あ……っ」
壁一枚越しの声が耳に届いてくる。声の主が誰なのかも、この声の正体も、その全てを一瞬で察してしまった。
向こうが知っているかどうかはわからないが、会話が聞こえるくらいにここの防音性は脆弱である。
それは恋人同士の営みにおいてもまた然り。
「あんっ……いや……っ!」
視覚情報を排除した音だけが壁を通り抜ける間にくぐもって伝わる。そのせいで余計に想像で状況を補完してしまう。
こういうことは以前から、彼女と出会う前からよくあった。その度に俺はイヤホンで耳を塞ぎ、鼓膜が裂ける程の大音量で気を紛らせていた。彼女とあの日、煙草を吸った日からはさらにそこに注意していた。
しかし、それをするだけの体力すら、俺には残されていなかった。
「はぁっ……んっ、んっ、はぁんっ!」
声音が秒毎に大きく、艶やかになる。二人の吐息すら聞こえてくるようで、今すぐにでもこの両耳を引きちぎってしまいたい衝動に襲われた。
「クソ……っ」
動かない身体が、酷く、恨めしい。
彼女の喘ぐ声に締め付けられる胸が、気持ち悪い。
そして三体欲求の一つを刺激されている自分を、殺したくなる。
「クソ、クソ……っ!」
彼女はどんな顔をしているのだろうか。そう考えた瞬間、あられもない女性の肢体が脳内に浮かび上がった。
顔へ彼女を投影してはいけない。
頭でわかっていても男としての本能がそれを許しはしなかった。
身体の一部が、特に下半身が熱くなっているのが、嫌というほどにわかる。
しかしそれでも意識は留まることなく薄れていくばかり。
「あんっ、あっ、あっ……!」
頭が痛い。
吐きそうだ。
何もかもが歪む。
彼女の声が全身を蝕む。
悲しみ。
屈辱。
自責。
この世のどんな言葉でも、今の自分の感情を形容できはしない。
外からの声と内からの声に押し潰されながら、俺は意識を失った。
――――
次に目覚めた時、辺りはほのかに薄暗かった。
弱々しい光がカーテンをすり抜けて部屋の中をぼんやりと照らす。
今は――何時だ?
出会ってから数年来の付き合いの目覚まし時計を見ると、短針が三にも届きそうだった。
「うぉ……マジかよ……」
十二時間以上眠っていたのか、自分は。短針が一周している間、惰眠を貪ってしまった後悔が一瞬だけ胸をよぎる。
しかもそれも本当に一瞬のことで、身体を起こす頃には頭の中から消えていた。どちらにしろ今日は何も予定がなかったから、起きていたとしても不毛な時間を過ごしていたことに変わりはない。
むしろ休養をよく摂ったのだから、有意義だとすら言えるだろう。
立ち上がって背筋を伸ばす。全身から鳴る音が気持ちいい。
「……さて、何をしようかな」
何となく辺りを見渡すと、机の上にライターが置いてあるのが見えた。
瞬間、唐突に口元が寂しくなるのを感じる。
肺がニコチンを求めるのに従って、シガレットケースを鞄から取り出した。寝覚めの一服はかなり堪えるが、そんなことはどうでも良くなっていた。
「巻き溜めは……まだあるな」
手頃なのを一本手に取って窓を開けると、冷たく澄んだ空気が部屋の中へと怒濤のごとく流れ込んでいく。
冬の昼過ぎのベランダは、不思議なくらいに静かだ。空を見上げるともう陽が傾き始めているのがわかった。
「ふむ……」
人差し指と中指で挟んだ煙草を口元へ持っていき、百円ライターで火を点ける。
シュッ。
――その時だった。
『私は君のこと、嫌いじゃないよ』
耳の奥で囁く、彼女の声。
震える指は手の中のものを保持することもできずに、支えを失ったライターが地面に落ちていく。
回転しながら落下する様がスローモーションに見える。
ガシャンッ。
地面との反射の音でハッと我に返る。
「今のは……」
震えた声を耳にして初めて、全身が酷く痙攣していることに気付いた。それが寒さのせいでないのは明らかだった。
それでもなお、俺の頭の中を彼女の顔が埋め尽くした。
はにかんだ顔。
困ったような顔。
嬉しそうに笑った顔。
ここで過ごしたいくつもの彼女の顔が、浮かんでは消えていく。
『本当に、美味しそうに吸いますね。羨ましいくらいに』
『そうだね。明日は雨かも』
『綺麗なものって、時に残酷だから』
ここで交わした言葉が、幾度なく脳裏によみがえる。
進んではいけない。
そう本能が警告した。
これ以上、先を。
思い出しては、考えては、いけない。
逃げるように、縋るように地面に落ちたライターを拾い、口元へ近づける。
現実逃避に煙草を吸うようになったのは、いつからだったろうか。もう依存と言っても過言ではないだろう。
だから、いつもと同じように親指に力を込めた。
しかし――。
シュッ。
摩擦の音とともに炎が浮かび上がったその瞬間、再び俺の脳裏は彼女という存在によって埋め尽くされた。その声や顔はさっきよりもずっと鮮明で、その先へと勝手に進んでいった。
その先にあるのは、昨日の、夜。
『……ん』
心臓の鼓動が規則性をなくしていく。
背中から汗が吹き出る。
ライターの火は握力が弱まり既に消えていた。
しかしそれをもう一度点けようとは、思えなかった。
口の中へ入り込んでくる香りは、自分にとっては最早臭いとしか感覚できず、思わず吐き出しそうになる。
煙を吐き出す彼女。
オイル切れのライターを睨む彼女。
――唇から落ちていく。
星空を眺める彼女。
愛を営む彼女。
そのどれもが彼女という存在の一部であり、また同時に彼女自身でもあった。
彼女と俺を繋げる唯一のリンクが、地面に音を立てて崩れ落ちる。
シャグがこぼれた煙草を見つめる。手巻きは紙巻きほどの耐久性はなく、コンクリートの地面に触れた瞬間にその形を失ってしまった。
俺は、失ったのだ。
――――
「本当にどうしたんだ、お前」
「えっ?」
数少ない友人がそんな話をふっかけてきた。例の……もういいか。
「今日一度も煙草吸ってんの見てねぇぞ」
「健康志向に切り替えたんだ」
「その若さで?」
「もう若くもないしな」
「歳は一つしか変わらないだろ」
確かに毎日一箱レベルで吸っていた俺が突然禁煙なんてし始めたら、こいつなんかは不審に思うに違いない。
てか前に同じようなのを逆の立場で俺が経験している。
「女……? でも目がな……」
「そんなに不幸そうに見えるか」
「鏡見てこい。マシニストの時のクリスチャン・ベール並だぞ」
「それわかんないんだけど」
「ま、それは流石に言いすぎだが。それにしたって今のお前、結構ヤバいぞ」
スマホの画面に反射している自分の顔と向かい合う。言われてみれば確かにいつもよりも覇気がないように見えなくもない。
「……うん、やっぱよくわかんねぇや」
どうやら考え事をしていたらしい彼は、腕を組みながらため息をついた。
自分だってよくわかっていない。この現状がどうしてここまで自分を追い詰めているのか。
ライターに火を点ける。
たったそれだけの作業が、今の俺にはできない。
赤い灯りは記憶を呼び覚まし、あの夜を思い起こさせる。身体中がそれを拒むように痙攣してしまう。
「禁煙できたってことでいいんじゃないかな」
全く心にも思っていないことを口にすると、それを見透かしたように彼の目が細く俺を睨んだ。
「そんなんでできても、意味ねぇよ」
「そうかな……」
「そうだろ」
ある意味、煙草を吸わなくなることが現実逃避になっているような気がする。別件での現実逃避はできなくなったものの、現状で最も逃げたい現実は彼女の問題そのものだ。
「何か悩んでんだろ? 聞くぞ」
彼は全くふざける素振りなしにキッパリとそう言った。少ないけれどもいい友人を自分は持ったなぁ、なんてどこか他人事のように思った。
きっと、今の自分から現実感が剥離しているからなんだろう。
自分の認識とかけ離れた自分。
それは冷静な自分からは酷く気持ち悪い存在で、不気味にすら見える。
「もう少し心の整理がついたら、かな」
「……ま、無理には聞かねぇよ」
納得はせずとも強制してこない彼の優しさがありがたかった。
でも、それでも、頭の片隅から彼女が離れない。
俺は、最低だ。
――――
それから先も俺は一度もライターの火を点けることはなかった。
深夜にベランダに出ることも。
シャグを紙で巻くことも。
学校で喫煙所に向かうことも。
俺の生活から、煙草の二文字は不自然にポッカリと抜け落ちた。
そして彼女とあの夜以来会わないまま、一ヶ月という月日が経過した。
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