第2話「夜風に吹かれて」

 深夜一時過ぎ。


 日付が変わって家に帰るのは基本的にバイトがある日だ。恋人なんていない俺にはその手の原因なんてないわけで、我ながらそういった意味では、色のない無味乾燥な人生を送っていると思う。


 ふと、大学でよくつるんでいる友人のことを思い出す。前はよく遊んでいて一緒にここで酒を飲んでくだらないことを語り明かしたりもしていたものだが、最近はそういうこともめっきり少なくなった。


 今頃あいつは自分の恋人と一緒にいるに違いない。そう言えばツイッターの呟く頻度も減ったものである。暇さえあれば彼女欲しいなどとぼやいていた男はもういない。


 まぁ別れたりしたらまたここにも戻ってくるのだろうが。

 その時は「やっぱり彼女なんていらねぇ、友だちがいれば十分だ」とか言い出すのだろう。人間なんて皆身勝手だ。


 そう言えば恋人の顔を見せてもらったことがある。そして悔しいことに可愛かった。なんであいつに惚れたのか、今でもよくわからない。


 なんてくだらない嫉妬心を燃やしながらさっき買ってきたニッカを呷る。ストレートを一気に口に入れたせいで喉が熱い。


「煙草吸うか……」


 アルコールとニコチンの相性は驚くほどに良い。酒飲んだ後の煙草は極上と言っても過言でない。居酒屋に灰皿が常備されている理由もきっとそれだろう。


 そう言えば居酒屋でも煙草吸えなくなるんだっけ。そもそも学生には少し財政的に厳しいし別段困りはしないが、社会に出てからキツそうだ。今のうちに禁煙するのも視野に入れておくべきかもしれない。


「禁煙か……」


 ポツリと独り言が漏れる。

 周りからもよく勧められる。吸っても良いことなど一つもないと。


 百害あって一利なし。


 まさにその通りだ。


 よし、じゃあ吸うか。


「よいしょと……」


 今日は彼女もいないだろう。


 隣から二人の声が聞こえる。耳をすませば会話まで聞き取れそうだが、恋人同士の会話なんて聞いていても苦痛以外の何物でもない。


 外に出ると冷気が一気に身体から体温を奪っていった。


「さむ……」


 冬は昔から嫌いだ。例え厚着をすれば耐えられるという至極真っ当な正論があっても、冬は好きになれない。暑い夏の方がマシだ。


 けど、一つだけ好きなところがある。


 冬に吸う煙草はどういうわけか死ぬほど美味い。

 一説には寒いから味がよく出るとかあるらしいが、乾燥していることも考えれば夏と大差ないような気もする。


 とりあえずそのおかげで少しだけ冬が好きになりましたって話。何か小学生の作文みたい。


 煙が空へと吸い込まれていくのを眺める。

 さっきまでのくだらない思考が煙と一緒にどこかへ流れていく。


「一利くらいは、あるよな」


 何の気なしに吐いた言葉は隣の部屋の笑い声にかき消された。

 普段からの雰囲気から察するに、きっと二人は仲が良いのだろう。


 だが、その彼氏ですら、彼女のささやかな趣味のことは知らない。醜い優越感が胸の中をグルグルと回る。


 別に俺だから彼女が自分から教えてくれたとか、そういう話ではないのだ。


 たまたまお隣さんで、たまたま俺が喫煙者で、たまたまあの時に外に出ただけ。そこに優越感に浸るような事柄なんて一つも存在しないはずなのに。


 心底、気持ち悪い男だと思う。


 だから、だからこそ、彼女に対して特殊な感情など抱いてはいけない。恋人がいる相手を好きになるなど、ただの負け戦だ。戦いにすらならない。


「……まずい」


――――


「どうしたんだお前?」


「えっ?」


 数少ない友人がそんな話をふっかけてきた。例の彼女持ちのやつだ。


「なんつーか、ぼぅっとしてるぜ」


「そうかな……」


「そうだろ」


 彼はそのまま学食のハンバーグを口に入れた。本当に美味そうに食いやがるな、こいつ。人生の充実度が違うからだろうか。


「好きな人でも出来たか?」


「……まさか」


「へぇ」


「おい、ちょっと待とう」


 目の前の男はニヤニヤしながら俺の顔をジロジロと見る。


「待たねぇよ。誰?」


「いないって」


「いーや、いるね。どれ、お兄さんに相談してみ」


「俺の方が歳は上なんだが……」


「じゃあ歳下の兄貴に相談してみ」


 いらない。こんな兄貴いらない。歳下の兄貴なんてなおさら。


「で、誰?」


「だから違うって。最近睡眠足りてないんだ」


「ふーん……」


 会話を切るためにライスとカレーを三対二の割合で掬い、口に入れる。辛さのないスパイスの風味が口内に広がる。学食メニューの味は値段相応といったところだ。


「ま、そう言うならそういうことにしといてやるよ」


 随分上から目線だな、というセリフが喉元まで湧き上がったが、どうにか抑える。諦めたならわざわざ蒸し返すこともない。


「ん。じゃあそろそろ行くか」


 さらにちゃんと話を打ち切るために食べ終わった器を載せた盆を持って立ち上がる。それに準じるように彼も重い腰を上げた。


「そういや、次どこだっけ?」


「いつもんとこ」


「ああ、なるほど」


 俺たちの授業を受ける教室は大体同じところだから、他の人からしたら意味不明な六文字は通じたようだ。最近授業から新鮮味が薄れてきているのは、もしかしたら教室が変わらないこともあるのかもしれないな、なんてどうでもいいことが頭の中で浮かび上がった。


「じゃ」


「また煙草?」


「うん」


「禁煙したほうが良いんじゃねぇの?」


「最初に俺に勧めてきた人間の言葉とは思えないな」


「オレは禁煙したからな」


「だからだよ。余計に腹立つ」


 この男、彼女が出来そうというタイミングで禁煙したのである。どうせ三日も保つまいと思っていたのだが、見事に今日まで継続している。これが愛の力というものなのかもしれない。


「女は煙草を嫌うんだぜ? お前も早めに禁煙しろよー」


「知ってる。何回も聞いた」


 と言いながらも喫煙所へ向かう足取りを止める気はなかった。だいぶ酷い中毒者な自覚はあったが、それが大きな問題にも思えなかったのもまた事実である。


「じゃ、またあとで」


 彼は教室へ、俺は逆方向へ向かう。踵を返そうとしたその時、彼が俺を呼び止めた。


「なぁ」


「ん?」


「さっきも言ったけど、何かあったら相談してくれ。前に世話になったしな」


 前。


 彼女が出来そうな頃にそう言えば相談に乗ってたっけ。俺自身恋愛経験は少ないから、ほとんど聞いているだけだったような気もするが。


「考えとくよ」


 もしも、そんなことになったら、それは敗戦処理の時だ。

 その時はちょっと高めの酒でも酌み交わしながら語ろうではないか、友よ。

 なんてくさいセリフは本人には言わない。


 できることなら、そんな日が来ないことを祈りながら。


――――


 それからは度々、俺たちは深夜ベランダで会った。会ったとは言っても、基本的に二人の間に会話はないし、したとしても他愛のない、もっと言えば意味のない会話ばかりだ。


「君は何を吸っているの?」


 そして変わったことが一つだけ。彼女からの俺への敬語がなくなった。何度かの逢瀬の中で俺たちは互いの接し方を模索し、そして掴み始めたということだ。その上で――。


「俺は普段はゴールデンバージニアですね」


 結局のところ、俺は敬語をなくすことはできなかった。自分の中で彼女へ抱いていた劣等感を拭うことができなかったのだ。


「ゴールデン……バット?」


「それとは違いますよ。所謂手巻きってやつです」


「手巻きって自分で巻くんだっけ?」


「そうですよ」


「そっかぁ。すごいね……!」


「いえ……。コツさえ掴めば簡単ですよ」


 それに、手巻きに手を出してからまだ自分は日が浅い。ようやく難なくハンドロール、つまりは自分の手だけで巻けるようになった程度だ。


「巻く用の道具があったりもしますし、それだったら誰でも綺麗に出来ます」


 ついさっき巻いたばかりの煙草に火を点ける。紙巻の煙草のように全体が均一ではないせいで、密度の薄い先端が強く燃え上がる。


「ふぅん。そういう感じなんだね。話でしか聞いたことなかったから、ちょっと新鮮」


「あなたは何を?」


「私はこれ」


 縁に置いてあった紺色の箱を持ち上げる。紺の背景に書かれた白い五文字のアルファベットが、どうしてか彼女のイメージとピタリとハマったような気がした。


「ピースの……ライト」


「そう。普通のはちょっと強くて」


 恥ずかしがるように、彼女は笑みを浮かべる。

 しかしながらピースライトだって、他の銘柄に比べれば十分強い部類だ。何も書いていないピースがむしろ異常である。


「ショッピを前に友だちから貰いましたけど、あれはすごかったですね」


「あれは怖くて手を出せない……」


「缶ピーとかはどうです?」


「それ同じだよ。わかってて言ってるよね?」


 こうやって笑いあってくだらない話をする時間が、心地よいと感じ始めていた。どうしたことだろうか。


 でも、それでもいいと、思う。


「それ、もらってもいい?」


「えっ?」


 彼女の指先が俺の口元を指した。この煙草が吸いたいということだろう。喫煙仲間での煙草の譲渡や交換はよくあることだ。


「ああ、別にいいですよ」


 巻き貯めが入っているシガレットケースを取り出そうとすると、彼女がそれを制止する。


「ううん。それでいい」


 そう言うと彼女は俺の口元から煙草を抜き取り、そのまま自分の唇で挟んだ。そして入れ替わるように自分が吸っていたのを差し出す。


 起こった出来事が脳内で処理しきれず、俺は思考も動きも止まってしまった。一体この女は何をしているのだろう。


「……なるほど。これはこれで美味しいね」


 などと味の感想を言ってもなお、俺は何も言えずにただ立ち尽くしていた。


「あ、これあげるね。いらない?」


 差し出していたピースライトをさらにこっちに近づけるが、俺の目線は彼女が口をつけた、さっきまで俺が吸っていた煙草に釘付けで、言葉が耳に入らない。


「ほら」


 駄目押しするように近づけられた温度に、ついに俺は受け取ってしまう。半分くらいは灰になっていて、保ってあと二、三分といったところだ。


 これに口を付けてよいものだろうか。

 困惑が抜けきれずに彼女の顔を見るが、こちらには興味を示さずに俺から奪った無様な形状の煙草を堪能している。


 ……もう、なるようになれ。


 半ば暴走気味になりながら煙草を咥える。


 紙巻きの硬さと、微かに残る彼女の温度と、その吐息で湿ったフィルター。


 咥えただけでいくつもの彼女の要素が、その瞬間に一斉に襲いかかってくる。

 それをかき消すように煙を吸い込んで肺に入れるが、焦ったせいもあってか咽せてしまう。


「ふふっ、大丈夫?」


 思わず顔が熱くなるのを感じる。恥ずかしくてもうここから逃げ出したかった。


「大丈夫、です」


 今度は咽せないように気をつけながら吸う。ピース特有の甘い香りが鼻をくすぐる。

 この数分間の出来事を思い出さないように煙草を吸うことに集中していたら、いつの間にか火はフィルターのすぐそばまで来ていた。


 味は結局、よくわからなかった。


「ありがとうございました」


 火を消しながら口にした礼に、彼女はまた笑って返した。その指にはまだ俺の煙草が煙を上げている。


 ――間接。


 頭の中をグルグルと回る単語は、最後の二文字をボカす。


 否、ボカしているのは、俺自身だ。


 シュッ。


 ライターの音で我に返る。手元には火のついた煙草があった。

 どうやら呆けている間に手癖で新しいのに手を付けてしまったらしい。


 煙が上っていく様をぼんやりと目で追っていくと、必然的にその先は夜空へと向かった。


「今日は星が見えませんね」


 雲がかかった空には星の姿は見受けられなかった。月ですら場所はわかるもののうっすらとその輪郭をボヤけさせている。


「そうだね。明日は雨かも」


「えっ?」


「お星さまがよく見えると明日は天気になるって聞いたことない?」


「初耳です」


 そんな話は初めて聞いた。夜に雲が少ないのと次の日の晴天にもしかしたら関連があるのかもしれないが、気分的な迷信のような気もする。


「でもさ」


 彼女がそう話を切り出したから、俺は口から煙草を離した。自然燃焼の煙が細く、弱々しいラインを描くのが視界の端に映る。


「こういうのも、いいよね」


 時折、彼女は一言では意味を判じかねる言葉を口にする。その真意を問うべきか俺は迷い、その挙げ句に右手を口元へ近づけるという選択肢を選んだ。

 さっきのこともあってか、聞くに聞けない。


 煙を吐き出しても彼女は一言も発さずに、ただ夜空を見ているばかりだ。その手中の火が点いた白い棒状の物は、灰色の割合を増していく。


「こういうのって?」


 結局俺は沈黙に耐えきれずそう質問する。すると待っていたとばかりにすぐに口を開いた。


「曇っているのが」


「どうしてですか?」


「綺麗なものって、時に残酷だから」


 彼女の指先がトン、と音を鳴らし、だいぶ長くなっていた灰がフワリと落ちていく。


「星空が、残酷だと?」


「きっと君は私をどこか神聖化しているんじゃないかな」


 ドキリ、とした。そう言われたって仕方ないのかもしれないが、そう思考し口にする人だと思っていなかったが故の、不意打ちだった。


「君が思ってるような人じゃないよ、私」


 意味はわからないが、何かを言わんとしていることは伝わった。しかしその肝心な内容が考えでも糸口すら掴めない。


「じゃあヒントね」


 灰皿に火を押しつけられる音。そして箱とライターを片手にまとめて持って、俺の方へと向き直る。


「私は君のこと、嫌いじゃないよ」

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