月明かりの下、彼女は。
庵田恋
第1話「冬の夜」
煙がほんわりと夜空に浮かび、黒に白のグラデーションをかけた。
肺の中にわだかまった煙を吐き出す。ほのかに甘い香りが口の中に広がった。
美味い。
深夜のベランダはこれ以上ない静寂に包まれていて、民家のどこの部屋も明かりが灯っておらず、まるで今この瞬間に目を覚ましているのが自分だけのような錯覚に包まれた。
ぼんやりと火が煙草の先を赤く灯し、細く弱々しいラインを描いて煙が上がっていく。それは空へと吸い込まれていくようで、この指の中にある小さな物体が天と自分と繋いでいるようにも思えて、我ながらロマンティストだと笑う。
もう時間は二時を過ぎている。こんな夜遅くにベランダでニコチンを摂取しながら悦に浸っている間抜けなんて自分くらいだろう。
なら、少しくらい感傷的になったっていいじゃないか。
唇でフィルターを挟み火が強くなりすぎないようにそっと吸うと、先端の火が煙を外へ出すのをやめて逆に灯りは強さを増す。
微かに温度と香りを含んだ気体が口の中へそっと流れ込んでくる。それをまたゆっくり肺の中へ、茶を点てるように慎重に溶け込ませていく。
そしてまたゆっくり口から外へ吹くと、まっすぐに白い道が出来上がった。
最高の夜だな。
誰もが寝静まった夜に煙草を吸うといつもそう思う。
ひとりぼっちの世界で、ひとりぼっちの時間を、ひとりぼっちで過ごす。
これほど贅沢な瞬間がこの世界にあるだろうか。
目をつぶると視覚が遮断されて、他の感覚が鋭くなる。
聞こえる。
空気が重なり合い奏でる音。
匂いがする。
身体の中の煙草の残り香。
味がする。
バージニア葉の独特の味。
温度を感じる。
煙のあたたかさ。
前に誰かが言っていた。
煙草は気分に酔うものだと。まさにその通りだ。
ふとその時、ひとりぼっちの世界が開かれる音が鳴り響いた。
思わずその音の方向を向くと、隣の部屋の窓が開いていた。
窓の奥の空間から音もなく影が姿を現す。ベランダの手すりの前まで近づくと、月明かりがその人物を照らした。
背中まで伸びた髪。第一印象はそれが強く自分の感覚に叩きつけられた。それを追うように顔へと視線を移す。
俺は、月明かりがあらわにしたその女性に、正直なところひどく見惚れた。
だから、きっと俺は幻を見ているのだろうと、そんなことさえ頭の中をよぎった。
「あ……」
先に声を上げたのは彼女だった。俺の存在に気付きこちらを振り向くと、驚いたように目を微かに見開く。
「ど、どうも」
軽く会釈をすると向こうも同じように返した。そんなぎこちない一連の動作がなんだか恥ずかしくなってしまい、目を逸らして俺はまた煙草を口につけた。
いつもより辛い煙が口の中に広がる。
煙を吐くと左側からシュッとライターを点ける音がする。しかしそれは何度も繰り返して、段々とその間隔が狭まっていくのがわかった。
「使いますか?」
手元にあった百円ライターを差し出すと、彼女はそれを受け取り笑顔を浮かべた。
「あ、どうも……。ありがとうございます」
「いえ」
買ったばかりの俺のライターは一回で点火し、彼女の煙草の先が赤くなるとそのままふかすように煙を口から吹いた。
「ありがとうございました」
今度は軽く頷いて手のひらを広げると丁寧にその上にライターを置いてくれた。彼女の指先の温度が軽く皮膚の表面を撫でる。女性に触れられることなど滅多にない俺は、思わずその感触に心臓が飛び跳ねてしまう。
緊張を紛らすように煙草に口をつけるも、どうにも力が入ってしまってか煙が辛い。
まだ三分の一くらい残っていた火を、携帯灰皿に押し付けるがなかなか消えず、煙が上ってくる。
先端を擦りながら横目で彼女の方を見る。
その目は夜空へと向いていた。月の光が彼女の黒い瞳の中を屈折し、反射して、まるで彼女の中にもう一つの宇宙があるようにすら感じられた。
もやが風に流されてきて、その光景もまた白くぼやける。
綺麗だ。
ずっと見ていたいと思ってしまうくらいに。
だが、いつまでも棒立ちでそんなことをしているわけにもいかない。手元を見ると既に火の消えた先端が圧縮された黒い灰で硬くなっている。
「おやすみなさい」
そう一言だけ呟くように残して部屋の中へ戻ると、まだ残っていた暖房の温度が全身を包んだ。
「おやすみなさい」
そんな彼女の言葉に俺は窓から手を出し軽く振って返した。気の利く返事が思いつかなかったが故の、せめてもの礼儀を示したつもりである。
それが、彼女との邂逅だった。
――――
次に会ったのはそれから一週間くらい経った、それもまた深夜のことだ。
部屋からベランダへ出ると、またあの長い髪が風でゆらりと揺れているのが見えた。一瞬戻ろうかと思ったが、窓が開く音を鳴らしてしまっていたし、彼女がそれに気付いて煙草を持つ手が止まったのも見えて、そうするわけにもいかなくなった。
これで部屋へ帰ってしまったら、その方がよっぽど失礼だろうと思い、そのまま銀色のスタンダードな形の灰皿をベランダの縁に置く。これもまた今日買ってきたばかりの新品だ。
手すりに肘を乗せ、紙の箱から取り出した煙草を咥え、ライターに親指をかける。
しかしこれがどうにも火の点きが悪い。部屋にたくさんある中から適当に持ってきたものだったが、どうやらオイル切れだったらしい。
「どうぞ」
呼ばれて左を向くと、指に煙草を挟みながらもう一方の手でライターを差し出していた。
「どうも、すいません」
受け取るとズシリと重さが手にのしかかる。彼女の渡したそれはオイルライターだ。
ひんやりとした金属の感触と微かに残る人間の体温。蓋を開けると心地の良い音が、二人の間を通り抜ける。
フリントホイールに指をかけ摩擦をかけると、中からゆっくりと火が上ってきた。普段と異なる感覚に若干の戸惑いを覚えながらも、その灯りの中心へと咥えた煙草の先を近づけ、そっと、そっと、息を吸う。
いつもの酸味を含んだ香りと、ほのかなオイルのにおいが鼻を抜ける。そうだ、オイルライターはこういうのがあるんだっけ。
「ありがとうございました」
「いえ」
またこの前と同じような愛想笑いを浮かべて夜空を見上げる彼女。
特段夜空に思い入れがあるというわけではないのだろう。この時間に煙草を吸うなら見るものなんて限られてくる。
「あべこべですね」
「えっ?」
唐突の言葉に理解が追いつかず、思わず聞き返す。
「この前と、ですよ」
「ああ。確かに」
前は彼女の方がライターが点かなくて自分が貸したことを思い出す。ブツがそこらで売っている百円ライターか、高そうなオイルライターかの違いがあるから、全くのあべこべとは言い難いと思ってしまうのは、地の根暗さが影響しているからに違いない。
「煙草、吸われるんですね。あまりそうは見えませんが」
「ですよね。私も外では吸いませんよ」
「へぇ。どうしてですか?」
「今の御時世、女の喫煙者の肩書はあまり褒められたものではありませんから」
「なるほど」
そんなこと気にしたこともなかった。吸わない人に気を遣うことはあっても、自分自身の評価まではさほど考えたことがない。
「確かに煙草を吸う女性って敬遠されがちですね」
「ええ、肩身の狭い世の中です」
そう言うとまた彼女は笑った。しかしそれまでとは違って愛想笑いと言うよりは、純粋な感情の表現のように見えた。
「でも、俺はそういう女性、良いと思いますよ」
お世辞ではなく本音だ。特にそれが画になる人はどこか色っぽさが醸し出されて、より魅力的に見える。
「みんな、そう思ってくれれば良いんですけど。……私がこんなことをしているなんて、周りに知っている人はいませんね」
「誰も知らないんですか?」
「はい。パッと見のイメージが崩れちゃいますし」
カッコイイ女性というよりは清楚な印象を与える彼女の雰囲気には、確かに煙草なんてそぐわないように受け取る人間もいるだろう。よく自己分析ができている。
「意外とそういうギャップがウケるかもしれませんが」
「ギャップ萌えはある程度の範囲内だから許されるんですよ」
全くその通りでぐうの音も出ない。自分の浅はかさに苦笑いしながら煙草を口につけ、煙を吸う。前に彼女と会った時よりも煙の辛さは緩和されたようだ。
「本当に、美味しそうに吸いますね。羨ましいくらいに」
そんなに味を堪能しているように見えたのだろうか。自分の所作を思い返してみるが、思い当たる節はなかった。
「そっと吸うのがコツなんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
目を丸くして聞き返してくる。オイルライターを使うくらいだから、言うのも無粋だと思ったがどうやらそうでもなかったらしい。
「熱くなりすぎると煙の味がなくなっちゃうから、力を入れず、火が強まりすぎないように吸うのがいいみたいです」
煙草の吸い初めの頃にネットで調べて得た情報だ。クールスモーキングと俗に言うらしいが、はたして本当に効果があるのかは定かではない。
……ただ、とりあえず強く吸いすぎると煙が辛くなるのは確かだ。そこは保証しよう。
「じゃあ試しに……」
彼女の目が真面目になり、先端の火の勢いをじっと見つめる。その様子は神聖的とすら感じていた印象とは対照的な年齢相応な可愛さがあって、また同時に少し微笑ましくもあった。
なるほど、範囲内のギャップね。つまりはこういうことか。
正確な年齢はわからなかったが、自分と変わらない二十代前半に見えた。でもどこか自分より大人びた雰囲気も感じるし、もしかしたら歳は向こうのほうが上なのかもしれない。
慎重に煙を口に含み、目をつぶって息を吸い、吐く。
たったそれだけの動作なのに、彼女がするとどうしてか画になる。それは彼女の見た目だけのせいではないのだろう。
「!」
彼女の目の色が変わった。
「本当だ! 今までよりも味がする!」
「それはよかったです」
目をキラキラ輝かせながらもう一度煙草を咥えた。それを追うように俺も煙を吸う。……うん、美味
い。
「いつもここにいるんですか?」
「ですね。流石に毎晩はいないですけど」
「そうなんですか。私もこの時間はよくここにいるから、今まで会わなかったなんて不思議ですね」
まぁ、そんなものだろう。いてもせいぜい十分やそこらだし。
「家なら、ましてやこの時間なら誰にも気付かれないと思っていましたけど、見つかっちゃいましたね」
「……すいません」
「い、いえ! 別に謝ってほしいとかそういうつもりじゃなくて……」
彼女の言動の真意がつかめない俺は、言葉を探している彼女に対して何かできるはずもなく、そのまま煙を肺に入れた。
三口ほど吸っても沈黙は破られないままで、そのまま彼女も諦めたように手すりに肘を乗せた。
もしもこれが普通の男であったら、もっといろんな話をするのだろう。口説こうとすらするのかもしれない。それくらいに俺の隣にいる女性は綺麗だった。百人に聞けばほとんど全員美人と答えるに違いない。
そしてそんな女性がすぐそばに、しかも夜に二人きり。こんなのは男なら誰しも憧れ、手を出そうとするだろう。
だがしかし、俺にそうする気は毛頭なかった。
第一に、俺には女性という生物そのものに対しての耐性が、おおよその男に比べて著しく劣っているというのがある。
別に対人恐怖症なんてわけではない。相手が男であればそれなりには会話することが可能だ。強いて言うなら女性恐怖症の方が妥当だろう。
そこにさらに追加される彼女のスペックである。
話しかけられるわけがない。彼女に対しての返答が、どもったり噛んだりしていないのが不思議なくらいだ。
それからどちらからとも話すことなく一本吸い終わってしまった。次に手を付けるのもやぶさかではなかったが、二秒間の思索の末に結局そのまま部屋に戻ることにした。
「おやすみなさい」
それだけ言って逃げるように俺は部屋に戻る。
「おやすみなさい」
彼女はまた前と同じように笑顔を浮かべた。デジャヴが脳裏をよぎって、窓の縁にかけた手の動きがぎこちなさを帯びる。
窓を閉めると不思議な静けさが訪れた。それはさっきまで自分が感じていた沈黙とは違い安らぎにも似た安心感が満ちている。
元来一人でいることのほうが多い自分が、あの空間で若干苦痛を感じていたことの何よりの証左であった。
ソファーに体を預けると心地よい倦怠感が全身を襲い、再び思索にふける。
……彼女に対して異様なまでに警戒する理由。
それは手を出そうとしない理由とイコールだ。
お隣さんが女性であることは前から知っていた。
そしてこのアパートの壁はそこまで防音性に優れたものではない。
それが、理由だ。
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