第一章_3
◇ ◇ ◇
とある貴族の
月も星もない、
音が聞こえたのは、ようやく
さらさらと、かすかな音がした。
とりとめもない思考が
さらさら。さらさら。さらさら。さらさら。
音が聞こえる。風を入れるために上がったままの
半蔀の向こうに、細い銀の筋が
銀色に光る糸。夢だろうか。もし夢でないなら、あれはなんなのだろう。
奇妙だったが、糸が放つ銀の光は美しく思えて、姫はそろそろと起き上がり、半蔀に近づいた。
蔀の
暗闇の中にぼうと光を放つ銀糸はとても
糸が落ちていた。雨のように落ちて、簀子に幾つも折り重なっていた。
まるで絹の糸のようで、姫はそれを数本拾い上げた。
固く冷たい、細い糸だった。こんな糸はこれまで見たことがない。
この糸を集めて布を織ったら、さぞかし美しいものになるだろう。
そう思いながらふと視線をあげた姫は、一点に
白い
面だけだ。
白い
さらさらと音を立てて、銀の雨が降ってくる。
宙に浮いた白い面が、姫をひたと
銀の雨が姫の手に、足に、体に、さらさらと音を立てながら
白い面が、姫の目の前に降りてきた。
細長い目の奥に
やがて、悲鳴を聞きつけて、
簀子に
しかし、不思議なことに、あのたくさんの銀の糸も、白い面も、すべて消え失せていた。
青ざめて
やがて落ちついた姫は、きっとそうだったのだと自分を
しかし、寝苦しさが消えずに身の内にわだかまっていた。いやに暑い気がして、袿を胸の下まで引き下げて大きく息をつく。
さらさら。
はっと目を開けた姫は、いつの間にか左手の小指に銀の糸が絡まっているのに気づき、息を吞んだ。
しかし、糸はその瞬間、すっと消えてしまった。
糸が絡まった
◇ ◇ ◇
「……そうやって、銀の雨を見た姫が、片手の指では足りないくらいいるらしい」
それがいままで晴明の耳に入らなかったのは、噂に
「それなのに、なんであんたがその話を知ってるの?」
首をひねる太陰に、岦斎は得意げに胸を張った。
「人徳だ」
「……………へぇ」
神将たちの冷たい視線が岦斎に集まった。
大方、銀の雨に降られた姫の父親たちが、安倍晴明の助力を
しかし、表立って晴明を訪ねるのは周りの目が気になって
何しろ安倍晴明は、人間を父に、
彼の作る
ゆえに、晴明の親友を
そんなところだろう。
そういうことが、実はかなりある。
太陰と玄武は、晴明を一瞥した。
貴族たちが晴明のことを、徒人とは一線を画した異様な雰囲気を漂わせて得体がしれない、と考えるのは勝手だが、彼は少し徒人と
少なくとも太陰と玄武にとっての安倍晴明は、自分の心を表に出すことが苦手で、
しかし、ごく普通の青年だと神将たちが思っていることをもし岦斎が知ったなら、お前たちのごく普通の基準はなんなんだと目を
安倍晴明が
「なぁ晴明。なんとも不思議な話だと思わないか」
「ああ、そうだな」
気のない声で一応
「銀色に
「別に」
「思えよ」
晴明は
さらさらと音を立てて、銀の糸が降る。不思議な光景だとは思うが、興味をそそられるほどではない。
ここで玄武が手を挙げた。
「銀の雨ではなく、銀の糸が降る、でいいのではないのか」
細かい
「俺に言うな。最初に銀の雨が
「なるほど」
玄武は
代わりに口を開いたのは朱雀だ。
「それで?」
「それで?」
「銀の雨が降り、
「いやだから、不思議な話じゃないか」
「……ちょっと岦斎。あんたまさか、その話を、ただ、不思議だなぁって晴明に伝えるためだけに来たんじゃないでしょうね?」
岦斎は胸を張った。
「その通り。何しろ俺は晴明の親友だからな。世情に
心の底から力いっぱい自信満々に断言した岦斎の晴れやかな
「……太陰、こいつをいますぐ私の目の届かないところに
太陰が口をとがらせる。
「ええ? これでもわたしは十二神将よ? ひとを傷つけてはならないっていう
晴明は
「忘れてはいないが、いい。許す。こいつが生きていたという
さしもの岦斎も目を剝いた。
「待て」
「それならいいのかしら」
「待てと言うに」
「
「多分とか言うなこら」
「仕方ないわねぇ」
「こらこらこらこらこらこらこらこらこらこらっ! お前たち、なんなんだその俺に対する冷たい態度! ひとがせっかく親切に!」
「何しろ
すぱんと言ってのけたのは朱雀だ。その
岦斎は、わなわなと肩を
「し、
がらりと語気が変わった岦斎は、けろりとつづけた。
「いいか晴明、この話には実はつづきがあるんだ」
「ほうほうそれで」
もはやまったく聞いていないが、一応合いの手を入れてやる晴明だ。
完全にあさってのほうを向いて、先ほど朱雀が語った十二神将の話を思い返す。
過去に、神将たちを
「…………」
晴明は、ふと
「……ん?」
何かが引っかかった。
それがなんなのかを
「こら晴明、いいか、お前にも関係があることなんだからちゃんと聞け」
岦斎が何やらわめいているが、晴明は彼の言葉を完全に聞き流しながら朱雀を
その
「なんだ?」
晴明を
有史以来初めて十二神将を従えた男は、ゆっくりと口を開いた。
「ひとつ
いやに冷たい語調に、神将たちが
晴明は、彼らひとりひとりに視線を向けながら、言った。
「お前たち全員の力を使うのに、私はあの二度と思い出したくもない
神将たちが黙って頷く。
「だが実は、未来永劫の約定を交わさなくても、一時的に神将たちを使役することはできた、などとは言わないだろうな……!」
どんどん低くなった
晴明の
確かに、先ほど朱雀が語っていた話を
いやしかし、そんなまさか。
「せ……」
岦斎が口を開きかけるのと、朱雀が応じるのとはほぼ同時だった。
「まぁ、実はそうだった」
晴明の頭のどこかで、何かが切れる音が盛大に響いた。
【無料試し読み】結城光流『白き面に、囚わるる 陰陽師・安倍晴明』 KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko
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