第一章_3


  ◇ ◇ ◇





 とある貴族のひめが、それを聞いたのだという。

 月も星もない、みようぐるしい夜中に、姫は何度もがえりを打って浅くまどろんでいた。

 音が聞こえたのは、ようやくおとずれたねむりの波に、いままさにみこまれようとしていたときだった。

 さらさらと、かすかな音がした。

 かみしとねにこすれた音か。あるいはうちぎきぬれか。

 とりとめもない思考がはじけては消える。

 さらさら。さらさら。さらさら。さらさら。

 ゆめうつつに聞いていたが、少しずつ頭がはっきりとしてきた。

 音が聞こえる。風を入れるために上がったままのじとみから。

 うすを開けて、くらやみの中に視線を向ける。

 半蔀の向こうに、細い銀の筋がいくつも垂れていた。それらは風にれてぶつかり合い、さらさらと小さな音を立てていたのだ。

 銀色に光る糸。夢だろうか。もし夢でないなら、あれはなんなのだろう。

 奇妙だったが、糸が放つ銀の光は美しく思えて、姫はそろそろと起き上がり、半蔀に近づいた。

 蔀のわくに手をかけて外を見れば、まるで雨のように銀の糸が落ちてくる。

 暗闇の中にぼうと光を放つ銀糸はとてもれいで、夢見ごこの姫は、室をぐるりと囲むすのにふらりと出た。

 糸が落ちていた。雨のように落ちて、簀子に幾つも折り重なっていた。

 まるで絹の糸のようで、姫はそれを数本拾い上げた。

 固く冷たい、細い糸だった。こんな糸はこれまで見たことがない。

 この糸を集めて布を織ったら、さぞかし美しいものになるだろう。

 だれかを呼んでこの糸を集めさせよう。

 そう思いながらふと視線をあげた姫は、一点にくぎけになった。

 白いおもてが、いていた。

 面だけだ。

 白いえんに、細長いり目。とおった鼻筋、げっそりと肉のげ落ちて丸みのまったくないほお。奇妙にゆがんだ口が半開きになって、──わらっている。

 さらさらと音を立てて、銀の雨が降ってくる。

 宙に浮いた白い面が、姫をひたとえた。

 銀の雨が姫の手に、足に、体に、さらさらと音を立てながらからみついてくる。

 白い面が、姫の目の前に降りてきた。

 うすくちびるが嗤っている。

 細長い目の奥にあやしい光がともったしゆんかん、姫はか細い悲鳴を上げてくずおれた。

 やがて、悲鳴を聞きつけて、ぞうしきにようぼう、家人たちが何事かとけつけてきた。

 簀子にたおれた姫を見つけて家人たちは色を失ったが、幸い彼女は気を失っていただけで、すぐに目を覚ました。

 しかし、不思議なことに、あのたくさんの銀の糸も、白い面も、すべて消え失せていた。

 青ざめておびえる姫の話を聞いた両親は、夢でも見たのだろうと彼女をなだめた。

 やがて落ちついた姫は、きっとそうだったのだと自分をなつとくさせ茵に横になると、家人たちが退しりぞいていくのを見送ってから目を閉じた。

 しかし、寝苦しさが消えずに身の内にわだかまっていた。いやに暑い気がして、袿を胸の下まで引き下げて大きく息をつく。

 いくめかの寝返りを打ったとき、姫はあの音を聞いた。

 さらさら。

 はっと目を開けた姫は、いつの間にか左手の小指に銀の糸が絡まっているのに気づき、息を吞んだ。

 しかし、糸はその瞬間、すっと消えてしまった。

 糸が絡まったあとだけが、小指に細く赤く残っていた。





  ◇ ◇ ◇





「……そうやって、銀の雨を見た姫が、片手の指では足りないくらいいるらしい」

 うわさが出はじめたのはかなり前からだったという話だ。

 それがいままで晴明の耳に入らなかったのは、噂にみようひれがついてむすめしき風聞が立つのを防ぎたいと願う親が、ひたかくしにしていたから、らしい。

「それなのに、なんであんたがその話を知ってるの?」

 首をひねる太陰に、岦斎は得意げに胸を張った。

「人徳だ」

「……………へぇ」

 神将たちの冷たい視線が岦斎に集まった。

 大方、銀の雨に降られた姫の父親たちが、安倍晴明の助力をうているのだろう。

 しかし、表立って晴明を訪ねるのは周りの目が気になってはばかられる。姫の将来に傷をつける様な風聞はなんとしてでもけたいはずだ。

 何しろ安倍晴明は、人間を父に、あやかしを母に持つ、半人半妖の青年なのだ。

 彼の作るれいけたちがいの効果を発揮すると言われ、ようかいへんあつぼうこんを退治るすさまじいれいりよくも持っている。しかし、ただびととは一線を画した異様なふんを常にただよわせ、得体が知れず近寄りがたい。

 ゆえに、晴明の親友をしようし、実際に同行している姿がかなりもくげきされている榎岦斎に、うわさばなしのふりをして話を伝え、あわよくば晴明の耳に入るように仕向けた。

 そんなところだろう。

 そういうことが、実はかなりある。

 太陰と玄武は、晴明を一瞥した。

 貴族たちが晴明のことを、徒人とは一線を画した異様な雰囲気を漂わせて得体がしれない、と考えるのは勝手だが、彼は少し徒人とちがうだけのごくつうの青年だ。

 少なくとも太陰と玄武にとっての安倍晴明は、自分の心を表に出すことが苦手で、ばんに興味のないそぶりを見せている割にはがたい、結構おもしろくてきない好ましい男だ。

 しかし、ごく普通の青年だと神将たちが思っていることをもし岦斎が知ったなら、お前たちのごく普通の基準はなんなんだと目をくだろう。

 安倍晴明が二十歳はたちを少しえた青年であるのは確かだが、半人半妖で凄まじい霊力を持ったおんみようが、ごく普通であるはずはない。

「なぁ晴明。なんとも不思議な話だと思わないか」

「ああ、そうだな」

 気のない声で一応あいづちを打った晴明に、岦斎はしんけんおもちで言った。

「銀色にかがやく雨だぞ。ちょっと見てみたいとか、思うだろう」

「別に」

「思えよ」

 晴明はかたをすくめてみせた。

 さらさらと音を立てて、銀の糸が降る。不思議な光景だとは思うが、興味をそそられるほどではない。

 ここで玄武が手を挙げた。

「銀の雨ではなく、銀の糸が降る、でいいのではないのか」

 細かいてきに、岦斎は半眼になった。

「俺に言うな。最初に銀の雨がうんぬんと聞かされたから、俺もそれにならっているだけだ」

「なるほど」

 玄武はなおに応じると、それ以上は何も言わなかった。

 代わりに口を開いたのは朱雀だ。

「それで?」

「それで?」

 おうがえしする岦斎に、朱雀は首をかたむける。

「銀の雨が降り、ひめの指には赤い痕が残った。それで?」

「いやだから、不思議な話じゃないか」

 だまって聞いていた太陰が、ろんげな顔をする。

「……ちょっと岦斎。あんたまさか、その話を、ただ、不思議だなぁって晴明に伝えるためだけに来たんじゃないでしょうね?」

 岦斎は胸を張った。

「その通り。何しろ俺は晴明の親友だからな。世情にうといお前が、だいだいではやっている噂話を知らずに取り残されることがないよう、わざわざ出向いてきてやったんだ。さあさ、感謝していいぞ、思う存分全力で感謝をするところだ、えんりよせず!」

 心の底から力いっぱい自信満々に断言した岦斎の晴れやかながおを見て、晴明は静かに口を開いた。

「……太陰、こいつをいますぐ私の目の届かないところにき飛ばせ。いや、吹き飛ばすなぞ生ぬるい、ようしやなくぶっ飛ばせ」

 太陰が口をとがらせる。

「ええ? これでもわたしは十二神将よ? ひとを傷つけてはならないっていうことわりがあるのを、忘れないでよ、晴明。気持ちはわかるけど」

 晴明はかぶりをひとつふった。

「忘れてはいないが、いい。許す。こいつが生きていたというあかしをこの世からあとできれいさっぱり消してやる。存在がなかったことになればきっと理にもれないさ。やれ」

 さしもの岦斎も目を剝いた。

「待て」

「それならいいのかしら」

「待てと言うに」

だいじようだ、多分」

「多分とか言うなこら」

「仕方ないわねぇ」

 たいそうに応じて立ち上がった太陰と、冷めた表情の晴明をこうに見ながら、岦斎が血相を変えた。

「こらこらこらこらこらこらこらこらこらこらっ! お前たち、なんなんだその俺に対する冷たい態度! ひとがせっかく親切に!」

「何しろたのんでないからな。いやむしろ、余計なことかもしれない」

 すぱんと言ってのけたのは朱雀だ。そのかたわらで、無表情の玄武が重々しくうなずく。

 岦斎は、わなわなと肩をふるわせた。

「し、めん…! なんてわいそうな俺…っ! ……なんて、打ちひしがれてたまるか」

 がらりと語気が変わった岦斎は、けろりとつづけた。

「いいか晴明、この話には実はつづきがあるんだ」

「ほうほうそれで」

 もはやまったく聞いていないが、一応合いの手を入れてやる晴明だ。

 完全にあさってのほうを向いて、先ほど朱雀が語った十二神将の話を思い返す。

 過去に、神将たちをしようかんした者がいたという。晴明のように使えき下に置くのではなく、力を貸してもらうために。

「…………」

 晴明は、ふとまゆをひそめた。

「……ん?」

 何かが引っかかった。

 それがなんなのかをった晴明の目が、だんだんわっていく。

「こら晴明、いいか、お前にも関係があることなんだからちゃんと聞け」

 岦斎が何やらわめいているが、晴明は彼の言葉を完全に聞き流しながら朱雀をにらんだ。

 そのえいな視線に、朱雀がいささかこんわくしたそぶりを見せる。

「なんだ?」

 晴明をおこらせるようなことをした覚えはないが、彼のそうぼうに明らかながある。

 有史以来初めて十二神将を従えた男は、ゆっくりと口を開いた。

「ひとつかくにんするぞ」

 いやに冷たい語調に、神将たちがまどった様子で視線をわす。

 晴明は、彼らひとりひとりに視線を向けながら、言った。

「お前たち全員の力を使うのに、私はあの二度と思い出したくもないおうしゆうを経て、それぞれとらいえいごうたがえぬという約定を交わした」

 神将たちが黙って頷く。

「だが実は、未来永劫の約定を交わさなくても、一時的に神将たちを使役することはできた、などとは言わないだろうな……!」

 どんどん低くなったに、ぶつそうひびきがにじんでいる。

 晴明のとつぜんひようへんいぶかっていた岦斎が、目をしばたたかせた。

 確かに、先ほど朱雀が語っていた話をめると、そういうことになる。

 いやしかし、そんなまさか。

「せ……」

 岦斎が口を開きかけるのと、朱雀が応じるのとはほぼ同時だった。

「まぁ、実はそうだった」

 晴明の頭のどこかで、何かが切れる音が盛大に響いた。





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