【無料試し読み】結城光流『白き面に、囚わるる 陰陽師・安倍晴明』

KADOKAWA文芸

第一章_1

 くだけ

 くだけ



 そのおり





 くだけ

 くだけ



 そのおり





    一





 男は耳を疑った。

 そんなことが本当に。

 ばかな。

 まさか。

 どうして。

 どうやって。

 いくつもの思いがせめぎ合い、やがて重く暗い澱となって、ゆっくりとゆっくりと、心の底にしずんでいく。

 ──だれ

 男の言葉に、答えたのが誰だったのかは、もはやわからない。

 その名は耳の奥にじわりとさり、きない痛みとなって全身に広がっていく。

 口の中で、男はつぶやいた。

 ──べのせいめい

 り返す。

 ──…晴明…晴明…晴明…

 毒のように、のろいのように。繰り返すたびに、澱がかさんで心をくらく染めていく。

 繰り返す。何度も何度も、まるで、刻みつけるように。



 ──ずるい



 ひっそりとしたささやきが、やみに広がって音もなくとけた。





  ◇ ◇ ◇





 かりばかますそさばく青年の足が、止まった。

「……おい」

 かたしにえいな眼光を向けてすごむ。

かくれていないで、出てこい」

 彼がにらんでいるのは、先ほど通り過ぎたばかりの四つつじ

 そうぼうれつに光る。

「あぶり出してやろうか」

 低いうなりにも、応じる気配はない。

 青年は、たもとの中に隠した右手でとういんを組むと、口の中で小さくしゆを唱えた。

 風がうずを巻き、かまいたちとなって四つ辻をける。

 青年は歩き出そうとして、ふいに目をみはった。

 ───と。

 辻のちょうど真ん中で、鎌鼬が音を立てて散る。

 鎌鼬の起こした風が青年の背を打つ。気流をはらんだ直衣のうしと狩袴がはためき、さらには青年のひだりほおにちり、とかすかな痛みが走った。

 つ、としゆのしずくが頰を伝う。

「………」

 青年のまとう気配がひようへんした。同時に、彼の周囲で幾つかの気配がざわめく。

 おもむろにり返る青年の視界のすみに、するりとひとかげが入り込む。

 青年は目線だけを動かして、かくにんした。

 男だ。若い。右手を袂の中に隠している。───自分と同じように。

 男はゆっくりと向きを変え、青年にたいすると、だしぬけににっこりと笑った。

ためすような真似まねをして、申し訳ない」

 青年のまゆが険しくねた。対する男は変わらずおだやかにんでいる。

たのみがあるのだが」

「断る」

 にべもなく言い放ち、青年はくるりときびすを返すと歩き出した。

《───どうする》

 耳の奥にひびく問いかけに、青年は正面を向いたまま口を開いた。

「ああいった手合いにかかわると、ろくなことがない」

《だが……》

 背後をけいかいしている様子が伝わってくる。

《……ついて、くるぞ》

 青年の片眉が、ぴくりと動いた。

 一定のきよを保ったまま、歩調と足音を合わせて男がこうしてきていることには、とうに気づいている。

 とつぜん、耳の近くで風を切るような音が聞こえたかと思うと、うなじにひやりと冷たい感覚が生じた。

 青年が足を止めるのと、彼のかたわらに長身のかげけんげんしたのとは同時だ。

 神気がほとばしり、くだけるような音が響いた。

 ひとつまばたきをして、やおら後ろをかえりみる。

 たいけんななめに背負った長身の若者が、のばした手で彼のうなじを隠すようにしている様を見た。

 青年より高い位置にある若者の双眸がきらりと光る。そのひとみは、くすんだ金色をしている。

 十二神将がひとり、火将朱雀すざくだ。青年よりいくぶんか年少に見える若者の様相だが、実際は相当の年月を生きている。

 彼がずいじゆうするのはめずらしい。

 だから、こんなやつかいなことにそうぐうしたのかもしれない。

 そんなひどいことを考えていた青年は、ふいに眉をひそめた。

 朱雀の手からぱたぱたと赤いしずくがしたたっている。

 体ごと振り返った青年の目が凄味を増した。

「なんだ」

「先ほどお前が放ったのと、同じようなものだ」

 たなごころのぜた左手をいちべつした朱雀が、動じたふうもなく答える。

 その手を無造作に押しやり、青年は一歩前に出た。

 袂に手を隠したままの男は、青年と、彼の傍らに立つ若者をこうに見くらべて、得心したように何度かうなずいた。

「それが十二神将か」

 じやにすら聞こえる響きが、青年のかんさわる。

 青年の顔からすっと表情が消えた。袂の内から右手がのぞく。刀印の切っ先に、えざえとしたれいの渦が生じた。

 男は微笑ほほえんだまま、少しだけ困ったようにまゆを寄せた。

「話を聞いてくれないか」

 そうして、青年と同じように、袂から右手を覗かせる。かたどられているのは、やはり刀印だ。

殿でんとやりあうつもりはない。負けが見えているからな」

 男がかたをすくめる。

「──────」

 答えずにいると、男は刀印をといて、もろを広げた。

「少しだけ、私に貴殿の時を分けてもらえないか。頼みがあるのだ」

 もう何もしないと言いたげに両手をひらひらとさせ、男は目を細めた。

「それにしてもらしい。本当に十二神将を従えているのだな。私は、そちらに用があるのだ」

「は?」

 思わず上げてしまったいぶかりの声に、男がさらに目を細める。

「十二神将をぜひともお貸し願いたいのだよ、晴明殿どの





  ◇ ◇ ◇





「は?」

 とんきような声を上げたまま、口をあんぐりと開けているえのきのりゆうさいの顔をげんそうに見返して、安倍晴明は目をすがめた。

 その傍らに、がらな子どもがふたり、晴明よりさらにぶつそうな顔でたんしている。

 十二神将げんと、十二神将たいいんである。

 左手に傷を負った朱雀は、太陰と玄武と入れわりに、彼らの生まれた場所である異界にもどっている。

 しばらくほうけていた岦斎が、屋根裏のはりを見て何度か目をしばたたかせた。

「ええと、つまり、こういうことか?」

 右手の人さし指を立てて、岦斎はけんにしわを寄せた。

「どうしても十二神将が必要なので、借りたい。何、うばおうというのではない、あくまでもほんのひとときだけ借り受けたい、礼ははずむ、考えておいてほしい」

「そう」

 応じたのはわった目の太陰で、玄武はくちびるを真一文字に引き結んだままどうだにしない。

 六歳程度の幼女のなりをした太陰が、ふんぜんうでを組んだ。

「貸せとか借りたいとか、なんなのよそれは! まるで物あつかいじゃない、わたしたちのことをなんだと思ってるわけ!?」

 ここで、玄武がもくぜんと頷いた。だんもさほど口数が多いわけではない玄武だが、今日はいつにもまして静かだ。

 太陰よりふたつかそこら年上のふうていをした少年のかんだかい声を、そういえば今日はまだ一度も聞いていないことに、岦斎は気がついた。

「……それで、その男は何者なんだ?」

 神将たちのあるじである晴明は、ぎよう悪く片足を立てた片胡坐あぐらで、ひざがしらひじをのせている。

「知るか」

 短く返した晴明に、岦斎はじゆうめんを作った。

「おいおい。知るかで済ませるなよ。また来ると言ったんだろう?」

「うちにたどり着けるものなら来るがいい」

 その言葉に、岦斎はひとつ瞬きをした。

「………ん?」

 何か思い至った顔で、晴明をじとっとにらむ。

「おい、まさかと思うが、俺が今日ここになんでかどうしてか全然たどりつけなくて苦労したのは、お前のせいじゃないだろうな」

 晴明は岦斎を一瞥して、めんどうそうに肩をすくめた。

 代わりに太陰が口を開く。

昨夜ゆうべ帰ってきてすぐに、やしきを囲むへいひとばらいの術をかけてたけど、なに、岦斎あんた、まさかそれにはまって迷ったんじゃないでしょうね?」

 まゆり上げる太陰に、岦斎は半眼になった。

「悪かったな」

「ちょっと、何やってるのよ。しっかりしなさいよ、おんみようなんだから」

 ようしやのない言葉に、岦斎はわめいた。

あやしいことこの上ないやからならばいざ知らず、まさか親友たるこの俺を術に巻き込んだ挙げ句、知らんぷりとは、なんてことだ! お前っ冷たいなっ、晴明っ!」

「私はお前と親友になった覚えはない」

 すげなく返す晴明に、岦斎は大げさに打ちのめされたふうを装う。

「なんて…っ、なんていう親友甲斐がいのない…っ! なのに見捨てない俺、なんてあたたかくてやさしくて付き合いのいい俺!」

「………自分で言っていてむなしくならないか、岦斎よ」

 あきれた風情ふぜいようよう口を開いた玄武に、岦斎は一転けろりとする。

「いや、全然。これはこれで楽しい」

 ここで、額に青筋を立てた晴明が割って入る。

うつとうしいからよせ」

 一方、玄武は軽くたんそくする。

「そうか。ならばいい、好きにしろ」

「こら」

 半眼で玄武を睨む晴明である。

「それより晴明。その男、何者なの?」

 太陰の問いに、晴明は深々と息をついた。

「だから、知らん」

 それは本当だ。

 あの男は、一方的に用件を述べると、いつの間にか姿を消していたのである。

 太陰と玄武は顔を見合わせた。

 十二神将をほつしている正体不明の男。

 いや、欲している、というのはへいがあるかもしれない。何しろ男は、奪う気はない、ほんのひととき借り受けたい、と言っているのだ。

「用が済んだら返すってことよね……」

 首をひねる太陰と同じく、玄武もこんわくしたそぶりだ。

「たとえそうだとしても、無礼せんばんこの上ない話だ」

 甲高い声に似あわない重々しい口調で、玄武はうなった。

「我らをなんと心得る」

《なんだ、それしか言っていなかったのか》

 ふいに神気が降り立った。

 異界に戻ったはずの十二神将朱雀が、彼らの前にけんげんする。彼はけんたいをはずすと、その場にどっかとこしを下ろした。そのまま大剣をかたわらに置き、腕を組む。

 太陰が腰をかせた。

「それしか、て、どういうことよ」

 くすんだ金のそうぼうが、険しさを帯びた。

「十二神将を借り受けたいとは言っていたが、十二神将すべてじゃない」

「なに?」

 き返した玄武と、まばたきをした太陰をこうに見やり、朱雀は視線を晴明に据えた。

やつが挙げたのはただひとり。十二神将せいりゆうだ。なぁ、晴明」

 思いもよらない名を聞いて、神将ふたりと陰陽師ひとりの三対の視線が、晴明に注がれる。

 晴明は不機嫌そうなおもちのまま、だまって肩をすくめた。




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