藤原保昌、再び和泉式部に会うこと

 その日の晩、保昌は紫宸殿ししんでんそばにいた。色あせた警備の制服を着て、首には黒く染め抜いた手ぬぐいを捲いて口元まで隠している。胸元には矢除けの守りが下がっていた。

 保輔――袴垂に会いに行く前、昼の間に「御所の警備を確認したい」と巡視じゅんし経路けいろは確認していた。それ故ここまで、問題なく来られたが……。

「問題はここからだな……」

 さすがに、御所内は警備の数が多いし、死角も少ない。保昌は、手ぬぐいで顔を隠し、東側の塀に飛び乗る。

そこから紫宸殿の警備を見やる。北面武士が二人一組となり、それが八組。死角無く周囲を見張っている。

 保昌は、目をつぶって和泉式部の言葉を思い出す。

「紫宸殿の、梅を私にくださいまし」

 目を開き、コクンと頷く。北面武士達が、左近の梅から目を離したその瞬間、保昌は、飛んだ。

「何奴!?」

 着地の音は、さすがに消せない。だが袴垂に渡された草履は、砂利が敷かれた庭でも効果を発揮しており、蹴飛ばされた石が転がる落としかしない。

 北面武士達は、暗闇の中動く影しか見つけられない。

 彼らが狼狽うろたえる中保昌は梅に近づき、その一枝を――――手折った。

「おのれ貴様、左近の梅に!」

 保昌の姿を捕らえた一組が、保昌に襲いかかる。保昌は武器を持っていない。相手を傷付けまい。せめてもの、今上帝や道長に対する義理立てだった。

「ぬぁ、に……!?」

 抜き付けられた刀を、かいくぐるように前に回避して腹に掌底を打つ。そしてそのまま、相方の方に押し放つ。相方を抱き留めた北面武士は、勢い余ってそのまま倒れる。

 他の警備が近づく中、保昌は枝を担いで来た道を戻り、塀を登りその上を駆ける。

「塀の上だ! 射落としてしまえ!」

 走る保昌に、次々と弓が射掛けられる。しかし保昌の影は闇の夜空と同化して、上手く狙うことが出来なかった。何より、動きが俊敏である。明るくても当てられたかは分からない。

「あやつ……ただの賊ではないな……!?」

「ダメだ、このままでは逃げられ――」

「弓を貸せ」

 弱音を吐きかけた北面武士の弓が、何者かに引ったくられる。何事かとそちらを向いた北面武士は、腰を抜かした。

「み、みみみ、道長様!? な、なぜここに……!?」

「月を隠す黒雲に、不穏な何かを感じればこの騒ぎ……」

 狩衣かりぎぬに身を包み、射品しゃひん高雅こうがなたたずまいは必中を確信させる。

 道長は弓射に長じた、猿号えんごう擁柱ようちゅうの腕を持つ達人だ。

「道長殿か……っ」

 保昌が気付いた時には既に、道長が弓を引いている。避けようとしてももう遅いだろう。不慮の動きは身体に硬直を生む。その隙に、道長の弓は己を穿つだろう。ならば……!

「――――――……!」

 道長の矢が、放たれる。その瞬間影は硬直しこちらを向いていた。

 道長の矢が、真っ直ぐ影の胸まで飛んでいく。北面武士は「やったぞ!」と一気に叫ぶ……が。

「な……!?」

「や、矢が……避けた?」

 その矢が影を射抜かんとした瞬間、わずかに影が身体を反らす。その瞬間に、矢はその影を逸れ、明後日の方向に飛んでいった。

 矢を射た、道長すら驚いている。一同を驚きが包み込む中、はたと気付けば、その影は既に無くなっていた。

「あの身のこなし……まさか……」

「く、お前達! 早く賊を……」

「待て、奴は梅の枝を手折っていったのみ。……あれは囮で、この騒ぎの中御所に仲間が潜んだやも知れぬ。そちらを探るのだ」

「は、はっ! 道長様! さすがのご慧眼でござりまする!」

 おもねる言葉を聞き流し、道長は影が消えた方を真っ直ぐと見ていた。

 ……その、塀の奥を少し進んだ影、そこに保昌はいた。

「はぁ。はぁ……感謝するぞ、袴垂」

 保昌が、胸元に下げた守りを手に取る。矢がかすめた後があるだけで、傷はわずかばかりだ。あの時保昌は矢が刃に当たった瞬間に身体を捻り、矢を受け流したのだ。紙一重の絶技だが、あの大江山での戦いと比べれば、…………やはり同じくらいの賭けだった。

 保昌は手折った梅の枝を抱え、目的の場所を目指す。

 この梅を欲しいと言った、女の元へ――・。


「…………騒がしいわね」

 屋敷内、和泉式部はロウソクのあかりを頼りに、女房達の詠んだ歌を眺めていた。屋敷の外では、北面武士や検非違使けびいしなど、警邏けいらに当たる者達の叫ぶ声が聞こえる。

 何事だろう。そう思い、童女を呼ぼうと襖を開けた。その時……。

「――――え?」

 壺に、一枝の梅があった。先ほどまで分厚い雲に遮られていたはずの月明かりが、壺の中を照らしている。

 月の蒼白い光を受けてなお、梅は赤々と輝いていた。

 その美しさに、一歩、外を出る。

「きゃっ……!?」

 和泉式部が、小さく悲鳴を上げる。壺の中の地面に刺さっていたと思っていた梅は、一人の男が傅いて支えていたものだった。

 賊か、助けを呼ぶか、そう逡巡した時、男が口を開いた。

「……紫宸殿の、梅をここにお持ちしました」

「え…………?」

「紫宸殿の、梅をあなたに」

 男が、顔を隠す手ぬぐいを外す。その顔は、いつかの歌会で見た男だ。その声は、つい先日聞いた声だ。

 紫宸殿の梅が欲しいと追い返した武士の男――名前は、藤原保昌。

 本当にやったのか。この男は。

 帝に仕える武士でありながら、その帝に最も近い、藤原道長の臣下でありながら、彼らに弓を引いて梅を手折ってきたというのか。

「あなた……なぜ、そこまでして……」

「……あなたの、本当の欲しいものではないかもしれませんが」

 保昌はそっと、梅を地面に置く。

 あなたの本当に欲しいもの。そう言われた時、和泉式部の胸裡に浮かんだのは、死に別れた二人の男達の顔。

 人中の王としてこの世に在られた二人の皇子。その二人の顔が、梅の花と重なった。

 ああ、この人は。この、藤原保昌という人は――

「いえ……いえ……これが、これこそが…………」

 和泉式部は、涙をぽろぽろと流す。保昌はそれを見ぬように、顔を地面に向けていた――――。

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保昌、梅を取ること 烏丸朝真 @asakara

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