藤原保昌、袴垂に会うこと

保昌は朝廷内の馬の世話をする「左馬権頭さまのごんのかみ」に任ぜられている。保昌は頭であり飼育係ではないのだが、そこは馬を愛する武官である。彼は合間を縫ってうまやによく足に運んでいた。

「――……」

 何度溜息をついたか分からない。

 己が手ずから世話をする馬たちが首をかしげて互いに顔を合せていた。「溜息ばかりついてどうしたんだこの人」「さあ、分からないなあ」。そんな会話を交わしているのが容易に伝わる。

「すまんな」

 伝わるかも分からない詫びを入れる。やはり伝わってないようで馬が揃って首をかしげた。

 保昌は、未だに悩んでいた。彼女にはもう振られたというのに何を未練がましく考えているのか。悩む必要など無いというのは分かっている。

だが、昨日の彼女の言葉が頭から離れない。内容ではなく、その声色がだ。

鈴を鳴らしたかのように澄んだ声であった。だが昨夜にそよいだ風のように、寂しさがこもった声だった。確かにあれは断りの言葉だったのだろう。だが、断りだけを意味していたのだろうか。本当に、断るつもりだけだったのだろうか。もしかしたら。

(だが、そうだとしても)

 紫宸殿ししんでんの梅を取る。かつての、鬼の首を取れという勅命ちょくめいよりも困難だ。

 いや、梅と鬼なら鬼の方が数百倍は手強い。だがそれは今上帝による勅命、大義があり、名分があり、使命感というものも燃えた。

 だが紫宸殿の梅を取るというのは、仕えるべき皇族、そして道長に対して弓を引く行為である。ただ一人の女性の為に――それも、その女性が本当に望んでいるかも分からないのに――、天に背く。それは、並大抵の覚悟では成せない。

「…………並大抵の覚悟では成せない、か」

 そう思うと、和泉式部という人間がどれほど覚悟を背負っていたかを改めて認識させられる。身分を越えて皇子と恋愛をした事、その皇子の死後、その兄弟と縁を結んだ事。どれも、ただの女には出来ない。余人には、それが「色恋に溺れる馬鹿な女」に映ったのだろう。

 だが、保昌は彼女はそんな人間ではないと胸を張って主張できる。

 あの歌会で見た和泉式部は明朗であり、詠む句も情感に溢れていた。その一方巧みな構成を見せ、他者の句を評しただす論説はとても分かりやすかった。

自由であることと放蕩であることは違う。彼女は間違いなく、道理を理解した前者である。

「……ああ。そうか」

 もう一度、溜息を吐こうとしたその瞬間、保昌ははたと気付いた。

 これが「惚れた」ということなのだ。

 世間が彼女の敵になっても、己は彼女の味方でいたい。彼女と睦び合った親王も、きっと同じ想いだったのだろう。

 惚れた。と、いうのなら。彼女が己の恋情に誠実であったのなら。己も思いに殉じねばなるまい。保昌は、「決まれば後は」と厩を後にする――。


 日は西に沈み、既に夜の黒に染まりつつある逢魔時おうまがどき。都から離れた粗雑な山林に保昌はいた。

 ここは都周辺を騒がせる、乱暴らんぼう狼藉ろうぜきの限りを働く盗賊の棲まいとして、誰も近寄らぬ森だった。

「……おるのだろう。姿を現わせ」

「…………いやはや誰かと思いきや……いつぞやのおぼろ月夜づきよを思い出すなぁ、保昌殿」

 保昌の陰から、ゆらりと現れた男。文字通り彼は、この歩けば落ち葉や雑草が音を出す森の地面を音もなく歩き、保昌の背後を取ったのだ。

 この男こそが、件の盗賊、「袴垂はかまだれ」である。

「で、何用だい? まさか俺を捕まえに来たってんじゃあ、ないよなぁ?」

 保昌は、ゆっくりと向き直る。獣の皮を剥いで鞣した粗末な毛皮に、以前は輝いていただろう染みだらけでボロボロの袴を穿いたその男の目は、小刀のように切れ長だった。

 その手には武器は握られてない。問いに反して、警戒している様子はなかった。

「頼みがある」

「は? ……カハハハハ! 天下の道長四天王の一角が! 大江山の鬼殺し一行の副将が! 汚え盗賊に頼みがあると! カハハハハハハハハ!」

 袴垂は、腹を抱えて大笑いする。本格的に笑いのツボに入ったようで、笑いやまずに地面を転がっている。そんな袴垂を見て、一言。

「紫宸殿の梅を盗りたい」

 その一言で、袴垂がぴたりと止まった。

 耳まで裂けん口が真一文字に結ばれ、切れ長な眼が人並み程度に﹅﹅﹅﹅﹅﹅見開かれる。

「おいおい、本気かよ……」

「本気だ」

 呆れた様子で袴垂は起き上がり、保昌を真っ直ぐ見た。

 保昌はその切れ長な眼で、袴垂を見ている。

 静寂な時が流れる……かと思いきや、袴垂は手頃な木の枝を取り、落ち葉を手で掃いた。

「御所の警備が厳しいのは、当然アンタも知ってるよな」

「分かっている」

 袴垂は悩みもせず、木の枝で地面に御所の図を書く。全て細やかに、細い経路すら漏らさずに。

「梅があるのは南の庭。塀も高いし見晴らしが良い。出入り口は一つだけ。その中を、北面武士の精鋭達が見回ってる。あんたなら塀を跳び越えられるだろうが、隠密行動で入れる場所じゃあねえ」

「それも、分かっている」

「どうしたらいい」と、保昌は訊ねる。袴垂は「簡単な話だ」と問いに答える。

「さっさとものをかっさらって、真っ正面から逃げ仰せば良い。気付かれるのが遅れる方が逃げる時間は稼げるが、時間を掛ければ逆にやり辛くなる。アンタの悪い癖は悩みすぎるところだ。目標を見定めて、それに対して最短距離で動け」

「分かった」

 袴垂の助言を、漏らさず頭に叩き込む。そんな馬鹿正直な姿を見て、袴垂は溜息を吐いた。

「……餞別せんべつだ、受け取れ」

 袴垂はどこから取り出したのか、古ぼけた北面武士の制服と、草履、紐が通された、刃の欠片を保昌に渡す。

「そんな服で行ったらアンタだってすぐバレる。これを着て身分を隠せ。この草履は足音を消す。この欠片は矢除けの守りだ。北面武士の弓掛けを、こいつの大元で切り伏せた縁起物だ」

 袴垂から渡される品を拾い、大切そうに懐にしまう保昌。ふっと顔を上げると、袴垂はもういなくなっていた。

「ありがとう……保輔やすすけ

 どこへともなく、もう呼ぶことはないだろう名を呼び礼を言う。そして保昌は、その場を去った。

 一説に、盗賊の首魁しゅかい・袴垂は、粗暴で知られ、京の街で狼藉を働いた保昌の弟、藤原保輔であると言われている――――。


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