保昌、梅を取ること
烏丸朝真
藤原保昌、和泉式部に出会うこと
「
その声はどこか、寂しげで――――。
事の起こりはその日の夕刻だった。
「所帯を持たぬか」
藤原保昌は職務の終わりに、主である藤原道長にそう言われた。
「ええ。……ええ?」
思わず、聞き返した。しかし道長は笑いもせず、淡々と言葉を続ける。
「少々恋に浮かれた女だが、器量も良い。その年で妻一人も持たなかったお前を、能く支えてくれるだろう。夫に先立たれて、寂しいだろうしな」
「はあ……」
妻を持つ。今まで、考えたことはないと言えば嘘になる。自分は継嗣。ならば、子どもの一人もおらねばならない。
他の兄弟は早くに所帯を持ち、子どもにも恵まれていた為、「自分にもその内出来るだろう」と油断し、職務に明け暮れていたらこの様だ。人生を折り返してしまい、兄弟達が養子の相談に来る始末だった。
正直、困った。主の道長の顔を潰すわけにはいかないし、かといって、今更妻を持つと言うのも気が引ける。しかしながら……。
……一度
「それで、その相手というのは」
「娘の付き人をしている女だ。「和泉式部」、と言えば分かるだろう」
和泉式部、その名を聞いて、保昌はぴたりと足を止めた。切れ長な眼が、人並みに見開かれる。そんな保昌の様子を見て、道長は「クク」と喉を鳴らした。……さっき間抜けに聞き返した時に笑わなかったのは、「今」が笑い時だと最初から思っていたからなのだろうか。
「予想通りの反応だな。やはり気になっていたか?」
「……そんなことは」
和泉式部とは、以前会った事がある。
彼女が仕える藤原彰子は道長の娘であり、文学を愛する聡明な女性だ。そんな彼女が開いた歌会に、参加したことがある。そこで和泉式部とは一度だけ会い、一度だけ目が合った。
先ほど、道長は和泉式部を「恋に浮かれた女」と評したが、その噂は聞いている。
二人の皇子との、道ならぬ恋と身分違いの愛を繰り広げた女性だ。宮内では「だらしのない女だ」と噂される事も多いが、同時に優れた歌人としても名高い。先の歌会で彼女が詠んだ歌も、彼女の胸に秘めた情熱がありありと伝わる名句であった。朗らかに笑いながら歌を評する様は、
あの日以来、彼女について考える事が増えたと思う。
「ともあれ、今夜にでも会いに行くと良い。話は通しておく」
決まってしまった。
主の
……いや、有無が言えるなら言えたはず。どこかで期待していたのだろう。彼女に再び会うことに。
そして、今に至る。
保昌は、壺(今で言う中庭)を背にし和泉式部と会っていた。
しかし和泉式部は部屋の中で、更に襖を閉めているため、会っていると言っても直接顔を合せている訳ではない。
「……紫宸殿の、梅、ですか」
紫宸殿とは、
彼女が求めているのはその左近の梅だろう。庭は広く見渡しが良い。更に御所の中は、
何より保昌は武士である。御所に入り盗みを働くと言うことは、今上帝や、主である道長に弓を引く行為である。もしその難題を実行しようというのなら、保昌はただではすまない。
「……分かりました」
保昌は立ち上がり、廊下を渡る。和泉式部の部屋からは、何も返ってこなかった。
帰り道、月明かりに照らされる道を保昌は歩いていた。鳥も啼かぬ静けさの中、そよぐ風の音だけが耳を撫でている。
だが、保昌が聞いていたのは風の音ではない。あの鈴のような玉響の声。脳裡で反響する、和泉式部の声だけだ。
「紫宸殿の梅か……」
切れ長な眼を一層細めながら、保昌は考える。
彼女は何を思って、御所の内にある梅を求めたのだろう? 難題であれば、かの月の姫君が如く、真珠の実を持つ蓬莱の木の枝でもいいだろう。
難題には変わりないが、なぜ紫宸殿の梅なのか。梅とはいったい、なんなのか……。
「…………」
ふと、保昌は足を止めた。思い出したのは、和泉式部の遍歴である。
和泉式部はかつての皇子、親王と道ならぬ恋をして勘当され、皇子の死後、その兄弟と縁を結び、その親王の正妃は家を出たという。
しかしその睦び合った親王も、早世してしまったという。その後彼女は、藤原彰子の女房として出仕したという。
その後彼女は恋情の歌こそ詠むものの、際だった噂は目立たない。
梅と、皇子――。
梅は花中の王であり、皇族は人中の王である。
梅を求めるとは、即ち――。
「そうか……」
保昌は、月を見上げる。月には薄い雲がかかっていて、ぼんやりと光っているだけだった。
紫宸殿、つまり御所の梅を求めるとは、「皇子を求める」と言うことなのだ。
あれは難題などではない。「私には思い人がいる」という、拒絶だったのだ。
保昌は、にわかに笑った。
彼女は、恋に浮かれた女などではない。彼女は、己の恋情と相手に対する誠実さを持っている立派な女性だった。
それでなぜ笑ったのかは、自分でも分からない――――。
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