たった15センチの小さな紙切れ

星永静流@ホシ

第1話たった15センチの小さな紙切れ

 たった15センチの小さな紙切れ

            the134340th(ホシ)


 きっと僕はシャロの好きな人が泣いていたら、笑ってしまうだろう。それぐらい君のことが好きだったし、それぐらい僕は意地の悪い男だ。

 でも僕は必ずシャロと結ばれる運命だと思っている。それはもう、僕が僕の名前を知る日より前からも、明らかなことなんだ。それに僕らは誕生日も近いし、名前も似ている。身長はちょっと開いてしまったかもしれないけれど、きっとキスがしやすい身長差だ。どうしたらこんな奇跡が起こせるんですか? と僕は僕のお父さんお母さんと、シャロのお父さんお母さんに、尋ねてみたい。それにほら、今日だって

「シーーーーーーーーーーーーーーーーーロ」

 大きく手を振ってシャロは僕を呼ぶ。今日は地元からちょっと遠い海に出かけていた。何しろ今日はシャロのお父さんが仕事休みだったから、連れ出してくれたのだ。

 彼女のワンピースが軽く濡れて、軽く下の服が透けている。僕も彼女の傍に駆け寄り、水をかける。

 キャハハ、とシャロは笑う。

「少し冷たいね」

「まだ春先だからね」

 少し張り切ってしまいすぎただろうか。確かに海水は冷たい。

「そろそろ上がろうか」

「待って」

 シャロは足元にある貝殻を集めだす。

「ちょっと臭いね」

 うん、確かに少し臭い。でもこれは微生物が生きている証だろう。こうして世界は成り立っている。

「洗えば取れるかも」

「あっ、そうだね。じゃあいろんな形のを集めてまとめて洗おうか」

 貝殻は巻貝と言えばいいのだろうか。そういうものをいくつか少しと、ひとつの大きなヒトデを取ってきたようだ。

「海は楽しめた?」

 それにしても、まだ海にはほとんど人がいない。綺麗に澄んだ、青い海なのに。案外ここは穴場なのかもしれない。

「ど~こに行ったって~消えやしないんだよー、君と語った~理想や~しょ~らいの夢だって」

 彼女は鼻歌を歌っていて、ご機嫌なようだ。十八番を歌っている。聞くまでもなかったか。

「あれなんだろう」

 彼女はまだ元気なようだ。海に流れている漂着物を嗜む余裕まである。波打ち際まで来たそれは、大きなひとつの大きな瓶だった。彼女はそれを手に取り、僕に見せる。

「お酒かなあ、でもちょっと軽い」

 シャロがその瓶を上下に振ると、カンカンと音がした。

「何か入ってる!」

「なんだろう」

「うーん、栓が固い」

「僕に任してみ」

 これでも男だからな。でも確かに硬い。僕がどれだけ力を入れても、うんともすんともいかない。

「頼りないなあ」

「いいから、任せて」

 僕は瓶の底を十数回叩いた。こうすると意外と空くものだ。そして僕は思いっきり栓に力を入れる。すると栓は段々力を失ってきたようで、ポンっと音を立てて栓が外れた。

「凄い凄い」

「もっと褒めてくれてもいいんだよ」

 僕はえっへんと胸に拳を持ってきたけれど、シャロはそれをスルーして瓶に視線を持っていった。

「なんだろう、これ」

 中には小さな紙切れのようにに見えた。小説の文庫本ぐらいの、たぶん15センチぐらいだ。

「昔の人の文通かな? こういうのわくわくするね!」

 中の紙切れは、瓶に固く栓で閉じられてたからだろうか、全く水気はなかった。そして特に中の紙にも、特に何も書いてあるようには見えない。

「なんだろう、これ」

「ちょっと貸して」

 シャロが僕に力強く迫って、僕はその紙を海に落としてしまった。だけれど

「あれ、これ濡れてない」

 その紙切れは不思議なことに、全く濡れてなかった。そしてシャロが拾い上げる時に、一瞬火が燃え、文字が浮かび上がる。

「うわっ、さっきからびっくりさせるなあ。何々? 帰り道にアイスをもらう? だって」

 さっきから不思議な紙だ。水にだって濡れやしないし、僕が手に取ったときには燃えやしない。シャロはさっきからこの紙に夢中だ。

「どうしたの?」

 シャロは15センチぐらいの紙切れをずっと見てる。

「ねえ、シャロってば」

「あっ、なんでもないよ、ちょっと不思議だなって思って」

 まあ、釘付けになるのも、わからなくないか。

「捨てよっか」

「ダメ」

「えぇー、なんでさー」

 彼女は瓶ごと紙をポケットにしまう。

「もうちょっとだけ持っておこ? アイス貰うまではさ」

「まあ、シャロがそこまで言うなら」

「帰る準備しなきゃ。もう夕暮れだよ」

 本当だ。太陽がもうすぐ水平線を下回りそうで、海に反射する水さえも、オレンジに輝いている。

「おじさんどこかなー?」

「ちょっと寒かったからね。車の中にいるかな。お酒さえ飲んでなければいいんだけれど」

「シートだけ畳もうか。シャロも貝殻とか持っていってね」

 といっても、たいして荷物はないのだけれど。でもとりあえず海だけは汚さないようにしないと。シャロがシートを畳んで、僕が荷物を持つ。そしておじさんが待っているであろう、車まで歩いて行った。おじさんは車の中で寝ていたようだ。お酒は飲んでいない。セーフだ。

「お父さん、起きて」

「ぐぅ、ぐぅう」

「お父さん!」

 シャロが思いっきり車の扉を殴るものだから、ガンッと大きく音がひとつ鳴った。

「……ん、なんだ。あぁ、びっくりした、シャロじゃないか。もう海はいいのか?」

「うん、もう大丈夫」

 シャロは殴った後のようには見えないような笑顔で、おじさんに言う。こういうところが、シャロに関わらず、女の子で怖いところだよな、と思いながら僕は後ろの座席に座る。そしてシャロも荷物を前の助手席に置いて、僕の横に座った。

「あぁ、そうだそうだ」

 おじさんはバックから何か取り出したようだ。

「さっきお酒呑んで来た時にさ」

「お父さん、またお酒呑んだの?」

 シャロがおじさんの言葉を遮って言う。

「まあまあ、いいじゃないか。それにアイスをもらってきたし」

「アイス? やった!」

 シャロもシャロで、アイスをくれるからと言って、忘れる方も問題だと思うのだが。

「シロもアイス食べる?」

 どうやらアイスは僕の分まであったみたいだ。僕は片方を受け取る。

「やだ、もうべちょべちょじゃない」

「昼間に呑みに行ったからなあ、さあ行くぞ」

 そう言っておじさんはアクセルを踏んだ。行きもそうだったが、帰りもとんでもないスピードだ。

「もう、お父さん。お酒も飲んでるんだし、事故だけはよしてよ」

「任せろって」

 そう言って車はどんどん加速をして行く。

「でもさ、シャロ」

 僕は隣にいるシャロに耳打ちをする。

「さっきのノート、書いてることと一緒だよ」

「あぁ、本当だ」

 シャロは大きな声で、喜んだ。

「でもでも」

 僕はまたシャロに耳打ちをする。

「あんまり他の人には言わない方がいいかもしれない。その紙切れは誰にも見せないように」

「どうして?」

 シャロも事情を察したのか、彼女も僕に耳打ちをする。

「その紙切れはたぶん、シャロにしか反応しないし、だから見つかったら悪い人たちに悪用される……かも……?」

「なるほど~」

 本当のことなんて、知りよしはないんだけれど、でも僕はシャロと一緒の隠し事があるってだけで、運命を感じてしまう。

「わかった。じゃあその方針で」

 シャロはビシッと敬礼をした。

「何をこそこそ話してるんだ?」

「ん? なんだろうね」

「なんでしょう」

「お父さんに秘密ごとか? シャロはともかくシロ、俺に話せないなんてこと、ないよなあ?」

 車はどんどんスピードを増していき、次第に見知れた風景になってきた。

「アハハ、おじさん、嫌だなあ、そんなことあるわけないじゃないですか、アハハ」

 僕はぶっきらぼうに笑顔を振りまいて、なんとか誤魔化そうとする。

「後で教えてくれるんだろうなあ?」

「えぇ、それはもちろん」

「じゃあ後で、男だけの会議な」

 はあ、めんどくさいことになってきた。なんとかそれを誤魔化して……。そうだ、今日のシャロの下着がピンク生地にくまさんのパンツだったから、少し子供過ぎるのではないのかという内緒話だったってことでいいのではないだろうか。それはそれで僕も解決したい問題だったし、悪くない。もうシャロも16歳になろうとしてるのだから、子供すぎる下着は反対という大人の意見だ。

 車はもう僕たちが知っている、ノードルに着こうとしている。

 それにしてもこの紙切れは、どこまで信用できるんだろうか。たまたま、当たったんじゃないよな? 最初に僕が手に取ったとき、文字は書いてなかった。そしてシャロの手に触れたとき、一瞬だけどはっきり燃えたのがわかった。そのあとだ、「アイスをもらう」という文字が浮かび上がったのは。

「シャロ、明日もう一度あの紙貸して」

 と僕はシャロに耳打ちをする。

「どうして?」

 シャロは首を左に傾げた。シャロのこいういう、自然なところが、可愛らしいと思うのは、僕だけだろうか。

「実験するのさ」

「実験?

「そう、実験」

「さあ、着いたぞ。先にシロを降ろしていくからな」

「おじさん、ありがとう」

 きっとこの流れだと、さっき言っていた男だけの会議は忘れ去られたことにされるけれど、僕に取っては都合がいいことだ。

「おじさん、今日はありがとう。シャロも、またね」

 そう言って僕は車から降りる。

「シロ」

「ん? なにおじさん」

「男だけの会議、忘れてないからな」

 おじさんは不気味に笑って、去って行った。覚えられてたか……。

    ◆        ◆

 次の日の朝、僕とシャロは学校へ行く道で、いつも通り待ち合わせをしていた。

「あの紙、持ってきた?」

「んー」

「歩きながら寝ないの!」

 シャロは寝ることが得意だ。そして忘れるのも。でも今日はちゃんと紙切れを持ってきている。それをシャロがポケットから取り出す。

 僕はその紙切れを半ば強引に強奪して、それをマジマジとみる。

「あれ、何も書いてない」

 僕ががぐちゃぐちゃの紙切れを開いてみるけれど、表にも裏にも、文字は書かれていない。

「おかしいなあ」

 シャロは上から下まで、端から端まで目を見開いて見る。でも文字はどこにもみあたらない。

「シャロ、これちゃんと昨日海で拾ったやつ?」

 僕は忘れっぽい彼女の癖だと思った。シャロは「うーん」と悩んでいるようだったけれど、

「えぇ、そんなことないよ、見せて?」

 と彼女が紙切れをを触ったとき、またその紙切れは小さく燃えた。

「うわっ」

 どういうトリックをしているのだろう。これはもしかして、巷に聞く魔法というものなのだろうか。そうしてまた文字が刻まれる。

「なんて書いてある?」

「今日……数学のテストがあるって」

 シャロの顔が青白く染まる様を、僕ははっきりと見て

「シャロが一番苦手な奴じゃん」

 僕はシャロの頬っぺたを人差し指で押した。

「もう、からかわないで」

 どうやらシャロが紙切れを間違えて持ってきたわけではないとはわかった。問題はそれが実現するか、しないか、という問題と

「それは、ただ数学のテストがあるって書いてあるだけ?」

「どういうこと?」

「だからね、要するにテストの内容はわからないのかなって」

「あっ! それ見たい!」

 見てはいけないような気もするが、シャロはまたノートをマジマジと見て、確認をした。

「書いてないみたい」

 シャロはもう泣きそうだ。しょうがない。

「後で勉強教えてあげるから、それで乗り切るんだよ」

 でも不思議なことに、テストの内容までは知れないのか。ちょっと意外だ。

 そして数学の時間になった。

「じゃあテストするぞー」

 先生は高々にテスト用紙を掲げる。

「「「えぇー」」」

 クラス中は不満の声で一杯だ。それに本当に数学の授業でテストがあるなんて。シャロの方は大丈夫だろうか。僕はちらりと後ろを確認して、みっつ後ろの席のシャロの顔を見たけれど、彼女はいつも通り寝ているようだ。

「シャルロット、起きてるか、おい」

 先生が拳を握って、シャロの頭をゴツンと叩いた。

「イタッ」

「シャルロット、起きて、テストをするぞ」

 先生に拳骨で頭を叩かれたシャロは飛び起きた。でもシャロはびっくりした表情を浮かべない。きっとさっき、僕が数学のテストのコツを教えたからだろう。

「えへへ」

 シャロはいつも通り先生に起こされて、でもいつもと違うような不適な笑みを浮かべる。

 授業が終わったあと、僕はシャロの元へ駆け寄った。

「テストどうだった?」

「完璧だったよ、ありがとうシロ」

「ならよかった」

 シャロが完璧と言いつつ平均点を下回っていたら、それはきっと僕の教え方のせいだろう。

「次はなんて書いてある?」

 僕は急かすようにシャロから紙を取り出させる。でもその紙には、何も書いていない。朝と一緒だ。そしてシャロが再び触ったとき、また小さく燃えた。

「何々?」

 もう一瞬だけ燃えるのなんて、びっくりともしない。

「帰り道に猫に出会う、それを飼う、だって」

「猫? 飼いたい!」

「でもおじさんがいいって言うかな?」

「んー、どうだろう」

 もう完全に紙切れは遊び道具であるし、それはシャロに話しかけるきっかけになりつつある。でもこの紙切れは、あんまりすぐの未来は書かないみたいだ。下校までは、あと三時間ほどある。それに、シャロが触らないと燃えないし、文字が浮かばない。たいがい不思議な紙だ。きっとこの紙切れに書かれる未来は、僕が触っても浮かんでこないし、きっとシャロの未来しか書かれない。ていうことは、きっとシャロのためにできた紙切れに違いない。あぁ、よかった。あの日あの場所、あの時間に海に居て。でも、もしかしたらそれも運命なのかもしれないけれど。

 僕たちは学校が終わって、一緒に下校をする。空のご機嫌は斜めなようだ。黒い雲で一杯で、ゴロゴロ聞こえているが、まだなんとか雨は降っていない。シャロの家は僕の家から、徒歩でほんの三分ぐらいだ。そんなに離れているわけではないし、そんなに近いわけでもない。でも僕に限らず、僕の両親と、シャロの両親は仲良しだ。それは大人の色眼鏡を掛けているわけではないし、そうであって欲しいという願望でもない。

「猫いるかな?」

「絶対いるよ」

 道端には、捨て猫らしき段ボールの箱もないし、どこからかふらっと現れる猫も、まだ見当たらない。そしてポツリと、一滴の雨が零れ出していく。

「シャロ、走ろう。もう家もすぐそこだしさ」

 シャロと僕は走って、なんとか本降りになる前にシャロの家まで到着した。

「結構降ってる。シロ、うちでゆっくりしてく? 後で傘も貸すよ」

「うん、そうする」

 猫は現れなかった。きっと「飼う」と書かれていたから、それは勝手に人の猫をかっぱらうってわけでもないと思うし、でも捨て猫らしき捨て猫も見当たらなかった。やっぱりあの紙切れは、ただのいたずらなのか?

 僕はシャロの部屋に上がって、ゆっくり過ごした。シャロの部屋にはピアノとアコギとよくわからない打楽器まである。シャロはこう見えて、歌が得意なのだ。でも恥ずかしがり屋だから、決して人前では歌えないけれど、もう長いこと一緒に居る僕の前では、結構歌ってくれるものだ。

「久しぶりに一曲聞かせてよ」

 僕はシャロに持ちかける。

「いいよ、何がいい?」

 シャロはアコギを取り出し、少しだけキュっというギター特有のノイズが鳴る。

「じゃあ、そうだなあ」

 僕はひとつの曲を提案しようとした。その時、ピンポンと訪問客の音が鳴った。

「誰だろう?」

 シャロと僕は、階段を降りて玄関まで向かう。シャロのお母さんが先に、玄関に居て、お客さんを出迎えたようだ。

「誰?」

 玄関に居た子は、同じ学校の同じクラスのチルという女の子で、大雨が降っているというのに、、傘も差さず、一匹の猫を抱きかかえていた。

「どうしたの? 傘もささないでさ」

「ネコ……、捨ててあったの。可哀想だなって思って、でも私の家、ネコアレルギーの人いるから、飼えなくて、それに、突然クラスのみんなの家に行っても、なかなか快諾してくえる人がいなくて……」

 チルは今にも泣きそうな表情で訴えかける。

「お母さん、猫飼いたい」

「そうねえ、でもお父さんがいいって言うかしら」

「私、ちゃんとお世話するし、それにシロもみてくれるって」

「えっ、僕も?」

「いいでしょ? シロ?」

 シャロは僕の顔を覗き込むように見る。

「僕はいいけど……」

「ねっ! お母さん、シロもこう言ってるし」

「そうねえ。シャロがちゃんとみてくれるなら、お母さんは構わないけれど。お父さんも、猫は嫌いじゃないし」

「じゃあ決定!」

「本当?」

 チルは急に明るい顔になり、次の瞬間には猫を間に押しつぶすように、シャロを抱きしめていた。にゃあと猫は迷惑そうに鳴きだす。

「名前は何にしようかな?」

「何がいいかしら」

「んー、そうだなあ」

「トルタとかは?」

「どうして?」

「美味しいお菓子だし」

「猫は食べられないでしょ」

「じゃあジットは?」

「どうして?」

「この子、あんまり動かないし」

「それだけ?」

「猫の名前なんてなんでもいいの!」

 シャロはだいぶ興奮しているようで、今すぐにでも猫が欲しいみたいだった。

「とりあえずさ、これ差して帰りな?」

 シャロはチルに傘を差し出す。

「ありがとう! 明日傘返すね!」

 チルは嬉しそうに飛び上がり、去って行った。

「僕もそろそろ帰るかな。シャロも、この猫の面倒、ちゃんとみるんだよ」

「シロもね!」

「ハイハイ」

 僕はシャロの部屋から、カバンを持って、帰路に就く。

「名前、決まったら教えてね」

「うん! また明日!」

 帰り道、僕は思う。やっぱりあの紙切れは本物だ。魔法か何か知らないけれど、とても危険なにおいがする。あまり他の誰かに知られるのは、本当に危険だ。それを利用する奴らが出てきて、シャロはそれにうまく使われるかもしれない。でももしかしたら、それを防ぐ手段を、未来の預言書だから、紙切れの方から提示してくるかもしれない。

「ただいま」

 シャロに家からうちは、本当に近い。こんな少しだけの考え事だけで、家まで着いてしまう。あれ、この靴。お父さんだ。仕事はもう終わったのだろうか。いつもにしては、早すぎる。

「おかえり」

「お父さん、今日は帰りが早いんだね」

「大事な話があってな」

「なに?」

「転勤になったんだ。お母さんとお父さんと、シロは引っ越すことになる」

「引っ越し?」

 心臓がチクりと、刺された気がした。

「どこか遠いところに?」

「あぁ、車でも、凄く時間がかかる」

「でもお父さん、今日シャロの家に、猫が来て、それをお世話することになったんだ。だから」

 僕は必死に抵抗する。

「確かにお前は、シャロちゃんとは仲がいいし、それをお父さんとお母さんは知っている」

「でもお父さん」

「ダメだ。お前を置いてはいけない」

「でも……。まだ猫の名前を決まってなくて、だから……」

 僕は口をパクパクして、ずっと「でも」と繰り返した。

     ◆        ◆

 次の日の朝も、僕はシャロと一緒に学校に行くために、いつもの場所で待ち合わせをした。僕は親と一緒に転校することを、シャロにはまだ言えず、浮かない顔でシャロに会う。だけれど、シャロもなぜか浮かない顔だった。ずっと紙切れを手に持って、それから目を逸らさない。

「どうしたの?」

 たまらず僕の方から、シャロに語りかける。それでもシャロは、紙切れから目が離れない。

「……シロが」

「うん?」

「シロが、遠いところに行くって」

 なるほど、紙切れの預言か。

「うん、そうなるかもしれない」

「嫌だ。だって猫の名前だって、まだ決まってないんだよ? テストだって、この紙切れがあるからって、大丈夫じゃないし、それに……」

「シャロ……」

 シャロは今にも泣きそうで、声が潤んでいる。僕は思わず、シャロを抱きしめた。

「大丈夫、きっと戻ってくる」

「本当?」

「絶対」

 周りにも、僕たちと同じような学生が歩いていて、自然と僕たちに視線が集まるけれど、そんなもの、関係ない。

「信じて」

「……うん」

 僕は腕からシャロを離して、だけれどシャロは、まだ暗い顔をしていた。

「じゃあ、行こうか」

 僕はシャロの手を握って、先導して学校まで歩く。ずっとこういう時間が、続くと思っていたのに。

 それからシャロは、執拗に紙切れを眺めては、いつかその未来が変わらないのか、それか、どうにかしてその未来が変わらないか、ずっと紙切れを眺めていた。僕は家に帰って、なんとかシャロと離れない方法を、親と話し合っていた。ひとつの解決策として、シャロの家に居候するなんてことも、僕はお父さんに言ってみたが、いくら仲が良いからって、そんなことはできないと言っていた。

 それから幾日か経って、しばらくシャロが歌を歌っている姿を、僕はしばらく見ていない。それが少し寂しくて、僕も早くシャロの歌う姿を見たいと願った。

 シャロは随分その紙切れに、魂を吸い取られているようにみえた。毎日顔が真っ青で、夜もあまり眠れていないようだ。でもその紙切れに書かれる未来を、どうにかして変えられないかずっと試していたけれど、どうやっても変わらなかった。だからたぶん、僕が引っ越すことも、変わらないんだとシャロは察してしまった。

 それから翌日翌々日と、日にちはかさんでいって、僕は学校が終わったあと、僕はしばらく話していなかったシャロに話しかけた。僕はシャロの肩をトントンと叩いて、

「ねえシャル、月に行こう」

 シャロは少し驚いたような顔をして

「……月? どうやって?」

 と言った。

 僕は指を空になぞった。

「歩いて」

 僕はなるべくシャロの紙切れに書かれているようなこととは、制反対、余裕するに、意図しないことを話しかけてみた。でもシャロは月に行こうって言ったときに、少しだけれど、驚いていた。

「歩いていけるわけないじゃん」

「行けるよ。とりあえず、あの三日月に向かってさ」

 僕とシャロは手を繋いで、ただひたすら歩いた。そこに言葉はあまり出なかった。だから本当に、ひたすら歩くだけだった。

 大きな通りの、大きな道を歩いてみたり、小さな細道を歩いてみたり、山に入って段々日も落ちてきて、周りの空気に触れる度に体はひんやりとして、冷たかった。

「大丈夫? 寒くない?」

「少し、寒いかも」

 僕は上着をシャロの肩にそっと乗せた。

「ありがとう」

 シャロは少し微笑んで、僕はそれももっと見たいと思った。

 山が次第に下り路になって、どんどん進んでいくと、今度は以前この紙切れを見つけた、海まで来てしまった。

「月まで歩いていけないじゃん。あまりに遠すぎるし、それに月って宇宙にあるし……」

「そうだね、確かに地球にいる限りは、月は遠すぎたかもしれない」

 だから、と僕はシャロに語りかける。

「じゃあこれから泳いで、別の大陸まで行こうか」

「無理だよ、そんなの。船を使わないと」

 シャロは右ポッケに入れている、紙切れを取り出そうとする。

「待って、シャロ」

 僕はシャロが紙切れを取り出すのを、左手で押さえた。

「この紙切れ、捨てないか?」

「どうして?」

「確かに、この紙切れは凄いよ。この紙切れの的中率は100%だ。だから、シャロもこの紙切れをなかなか手放すことができないかもしれない。でもさ」

 僕は大きく息を吸って、言葉を放つ。

「僕たちの未来って、全部紙切れが決めるのかな?」

 シャロは顔を下に向けて、俯いた。僕はシャロの肩を強く握ってこう言った。

「僕たちの未来は、僕は僕たちが決めよう」

 シャロはもう、僕を真っすぐみて、もう迷わなかった。

「うん、そうする」

 シャロは紙切れを右ポケットから取り出して、ビリビリに破いて、海に投げ捨てた。そして、気のせいかもしれないけれど、破く際、一瞬その紙切れは、燃えたように見えた。

 シャロは一瞬力が抜けたように、両ひざをついた。

「なんかね、この紙切れを持ったときから、何かが吸い取られているみたいだったの。だからぼーっとしたり、寝たり、忘れたり」

「それはいつものシャロでしょ」

 なんてツッコミを入れたけれど、でもそれでも、彼女は心の何かからの支配を、紙切れからの支配を、もう受けずに済むのだ。

「ねえシャロ」

「何?」

「僕はもう、シャロに会えなほど遠いところに住んでしまうけれど、引っ越しが落ち着いたら、僕はシャロに手紙を出すから」

 僕は右手の人差し指を差し出す。

「約束」

 シャロも小さく、細く、血管だって見えるような右手の人差し指を僕に出して

「「指切りげんまん嘘ついたらハリセンボンのーます」」

 と、僕とシャロは約束を誓った。シャロは泣いていたけれど、同時に笑っていた。

 海に反射する大きく滲んだオレンジがもうすぐ水平線に沈みそうで、空に瞬いている星が、僕らを暖かく見守っていたいたように見えた。

「ねえシャロ」

「何?」

「あんな紙切れの未来を信じるより、僕たちでずっと昔の話をしよう。そうしたらその次は、ずっと未来の話をしよう」

 僕たちは防波堤に腰を下ろして、語りあった。あんなことがあったよねって、ずっと繰り返した。未来のことも同じだった。こうなりたいよねとか、ああしたいよね、とか、日が落ちるまで、ずっとずっと繰り返した。

「そろそろ帰らなきゃ」

 もう日は落ちて、海は真っ黒く沈んでしまった。ただどこからか波が押し寄せ、うねっていた。

    ◆        ◆

「ねえ、この紙なんて書いてあるの?」

「うん、それはねえ」

 お母さんらしき人が、幼い女の子に、海に捨てられていた小さい紙切れを拾い上げ、呟く。

「こうして二人は幸せに暮らしましたとさ、だって」

「何かのおとぎ話かな?」

「そうかもね」

      ◆       ◆

「シャロちゃんのことは、もう平気なのかい?」

 お父さんが僕に向かって言う。

「うん、大丈夫。手紙を渡しておいたから」

「そうか」

 そう言ってお父さんはお母さんを迎えに行った。さて、僕も何か忘れ物がないか、一度確かめないと。

「シロ」

 シャロに後ろから不意を突かれて、僕は一瞬立ち止まる。シャロは僕の右腕を思いっきり握って、抱きしめた。

「やっぱり私……」

 彼女が何を言いたいのか、なんとなくわかった気がした。でもそれは言わせちゃいけないって、本能が訴えかけたから、僕は思いっきりシャロを抱きしめ返した。

「大丈夫」

 僕はその一言を言って、シャロを離した。

「後で手紙読んで」

「わかった」

「新しい家が決まったら、また手紙出すから」

「うん……」

「シロー、行くぞー」

 お父さんが僕を呼んだ。

「もう行かなきゃ」

 僕はお父さんとお母さんが乗っている車の後部座席のドアをゆっくり開けた。だけれど一瞬、僕はその座席に座るのを、躊躇った。行かなきゃいけないのか、シャロにあれだけ大口を叩いておいたけれど、少し寂しいな。何しろ僕が生きてきた、十五年が詰まっていたから。他の場所を知らなかったから。シャロが居ない街を、僕は物足りないと思ってしまうから。

「シロ、またね。いってらっしゃい」

 僕はシャロにそう送迎されて、僕は踏ん切りがついた。

「うん、シャロ。またね。行ってきます」

 ドンという大きな音が鳴って、僕が乗った車が出発した。

「シロ、なんて手紙書いたのかな。」

 私は大切仕舞って置いた、手紙を取り出す。

「えぇっと」

『シャロへ


 ねえ、シャロ

 僕はまだ、大人になるということが、よくわかりません。


 シャロは授業中、寝てて百点満点のテストなんて、取ったことがないんじゃないかと思います。


 いや、違うよ。シャロ

 それはシャロを馬鹿にしてるって意味じゃなくて

 百点を取ったことがある僕ですら、大人ではないって意味です。


 きっと大人になるまでの道のりに、上り坂も下り坂も、誰にだってあると思います。

 ただ年齢だけ積み重ねて、大人になったって、意味がないのです。

 でも、学校のテストを百点取ったからと言って、僕たちは大人になれるってわけでは、ないのと思います。


 だから僕は、早く大人になって、でもその大人っていう定義をよく理解して

 いつかシャロを迎えに行きたいと思います。


 それまで、もしかしたら、長い道のりかもしれない。

 でも必ず、迎えに行くから、待っていてくれると、僕は嬉しいです。


 この手紙が、あの紙切れの代わりの、未来を指示してくれることを、僕は願います。


               シロより』


「なにこれ」

 私は思わず笑ってしまった。

 でもしょうがないな。シロは頑固だから。

 私が待っていてあげなきゃ。

 あんな紙切れ、捨てて正解だったって、思えるように。




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