エピローグ


 玄関の扉が、勢いよく開く音が聞こえた。

 その音に驚いたようで、桜の木の下にいた老人は視線をそちらに向けた。


「――ばあさん……?」


 視線の先には、息を切らせた老人の妻の姿があった。

 どうしたのか――そう尋ねようとした老人の身体を、躊躇うことなく妻は抱きしめた。

 突然抱きしめられた老人は困った表情で頭を掻きながら、胸元で泣く妻の背中を優しく撫でた。


「どうしたんじゃ、急に……」

「あっ……あ、ああ……」

「ばあさん……?」

「――かっちゃん」

「え……?」

「かっちゃん……!!」

「っ……。ああ――真弥ちゃんじゃな」


 老人がそっと二階を見上げると、窓から庭を見下ろしながら手を振る孫娘の姿が見えた。声は届かない、けれどその口元はよかったねと言って笑っているように見えた。


「内緒じゃと言うたのに……」

「……遅いですよ」

「すまん」

「どうしてもっと早く……」

「言いにくくてな」


 幼い頃と同じように詰め寄ってくる妻に、苦笑いを浮かべる老人は舞い落ちてくる桜の花びらをじっと見つめていた。


「何度も言おうかと思ったんじゃが……」

「――嘘ばっかり」

「え……?」


 取り繕うように言う老人に、妻は冷たい言葉をかける。真意を探ろうと聞き返した老人に――かつてのように妻は笑った。


「――私ね、本当はとっくに知っていたんです」

「え……知って……?」

「あなたがかっちゃんだと、ずっと前から知っていたんです」

「どういう……。いや、どうして……」


 老人が思わず妻の顔を見ると、あの時と同じように涙を拭いながら真っ直ぐに自分の顔を見つめる妻の姿があった。


「最後にくれたあの手紙、あんなのが送れるのあなたしかいないじゃないですか」

「それは……」

「結婚後の住所に旧姓で手紙なんて――そんなの誰が送るんですか」

「…………」

「それに――筆跡を変えたつもりでしょうが、いつものあなたの字でしたよ」

「う……」


 悪戯っぽく笑う妻に、老人は恥ずかしそうにすまないと謝る。


「いつか言ってくれるだろうってずっと待っていたのに……。こんな年になるまで黙っているだなんて……」

「それは――。じゃ、じゃがみっちゃんも気付いてるなら、そう言ってくれればよかったのに……」

「――事情があって隠してるんだと思ってましたからね……。私から下手に言って……またあなたと会えなくなると思うと言えなくて……」

「みっちゃん……」

「でも、ようやく言えます。――待っとったんよ、かっちゃん。うち、ずっと待っとった」

「みっちゃん……待たせてごめんな」


 そっと手を握りしめると、あの時と同じように二人は微笑み合う。


「あの時もろたペーパーナイフ、とっくに錆びてしもたよ」

「悪い……」

「あんなに大きかったのに……いつの間にかすっかりちいさあなってしもてな」


 あの頃より随分大きくなった妻の手を撫でると……老人は優しく微笑む。


「ああ、ほんまや……。子どもの頃はあの15cmのペーパーナイフが随分大きいような気がしとったのにな……。いつの間にこんな大きいなってしもたんやろか……」


 隣にずっといたはずなのに、もうずっとこの手を握りしめてなかった気がする――そう思いながら老人は握りしめた手に力をこめる。


「もう離さへんから。――ずっと一緒におってな」

「今度こそ、離したらへんから。――傍におるよ」


 何十年も前の幼い日々の約束。

 ようやく叶ったそれを、あの頃と変わらない桜の木が優しく見つめていた。

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ペーパーナイフと桜の花びら 望月くらげ @kurage0827

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