天使Ⅱ

「泣いてない」

 男は律儀に、しかしそんなことはどうでもいいとばかりに急いて言い捨てながら、少女の顔を覗き込んだ。

「おい。俺の声が聞こえるか?」

 しろく発光しているかのようだった少女の全身は、一瞬のうちに暗闇に溶け消えていた。男は片手で腰を探り、そこに提げていたカンテラと、固形燃料を用意する。片腕はしっかりとほそい身体を抱き込み、ひとときたりとも離さないまま、男は一方の手と歯牙を器用に使って明かりを灯した。

「おい、」

「ん……」

 そっと揺すると、ちいさな呻きが唇を割った。炎の色で顔を照らす。瞼は未だ下ろされていて、睫毛もかたく綴じている。しかし、荒い呼吸の音が聞こえて、痛ましげに眉間に皺を寄せている様が見てとれた。男は胸中の平静を保つことも困難で、焦りを深くするばかりだったが、当の本人は苦しみになどまるで頓着していない様子で言葉を紡ごうとする。

「うそ……ないてた、でしょ……」

 気道を狭く絞られているようなひゅうひゅうと鳴る呼吸に交えて、嗄声で質してくる。男は僅かばかり苛立ちを覚えて、カンテラを地に放り置くと、粗い動作で再び腰の革袋を探った。ちからない少女の体は男の動作に振られて首をかくんと後ろに倒す。ほそい喉元に黒い裂き布がぐるぐると巻きつけられ、膚を隠している様子が男の目に印象的だった。

「これ、飲めるか」

 こちらの声が届いていることは既にわかった。天を仰いでいる少女の顔を上から覗きこみ、男は指先で摘まみ持った空気の珠を、その唇のあわいにあてがう。ふ、と不快げに呼気を吹き出そうとするのに逆らって、男は少女の口中に指先ごと珠を押し込めた。眉間の皺が濃くなったことにも構わずに、ちいさな前歯をこじ開け、抗うように弱々しく蠢く舌を押さえつけて、ちいさな珠を無理に飲み下させる。黒い色に覆われた喉が震えながらこくりと上下した後で、暫くして、少女は激しく咽せ込み始めた。

「だ、大丈夫か」

 よかれと思ってしたことではあったが、最初の心配を無下にされたような心持ちでいたためについ行為が乱暴になってしまった自覚もあった。ごほごほと苦しげに息をつく様を目の当たりにして漸く、男は我に返る。けれども少女は男の動揺をよそに、ついに自らの力で身を起こした。男の着衣の胸のあたりに両手の指でしがみつき、深く俯いた姿勢で背中を何度か戦慄かせながら、次第にその呼吸は整ってゆく。やがて彼女が静穏を得たことが傍目にもわかるようになった頃、少女はゆっくりと顎をあげて、男の胸元から彼に向って微笑みかけた。

「だいじょうぶ。ありがとう。あなたがわたしを、たすけてくれたのね」

 朗らかで。無垢な。それは、確かに夢の中で我が身に降り注いだ、あのゆかしい声だった。まっすぐに見上げてくる瞳に男は心を奪われた。灰色がかった焦げ茶の色は特段珍しくもないものだったが、そこに宿った光が遠い過去に得た男の宝をつよく想い起こさせた。貧民街の片隅でしゃがみこみ、独りしくしくと泣きじゃくっていた幼い娘。棄て児など、揺り籠の下層ではありふれた存在でしかなかったが、“仕事”の果てに初めて他者の命を奪ったばかりであったそのときの――まだ十代の後半だった男には、彼女の嗚咽が胸に刺さった。

 黙って往き過ごることが忍びなく、柄にも無く声をかけた。そうしてはみたものの、何を尋ねても頑なに言葉を発さないことに業を煮やした。語るための声を彼女が持たないのだと知ったのはそれよりずっと後のことだ。折よく通り掛かった菓子売りをつかまえて、いかにも幼女の目を惹きそうな砂糖細工を買って与えて機嫌をとった。それはこの世界からは失われた蒼天の色をした、ちいさな花をかたどっていた。揃えて窪めた両掌の中心で、そうっとそれを受け取った彼女は、やっと泣き止み男を見上げた。泣き腫らした真っ赤な目許の真ん中で、涙の残る潤んだ瞳をきらめかせて。無垢に。朗らかに。微笑んだのだ。いま、男の腕のなかに在る、少女とよく似たまなざしで。

「助けたというわけじゃ、ない」

 男の声は僅かに震えていた。

「偶々だ。偶々……ただ、通りすがって」

 少女は嬉しげな笑顔を崩さず、男の言葉に耳を傾けていた。

「……泣いてもいない」

 苦虫を噛み潰した表情で男が言うと、少女は益々笑顔を深め、うん、と無邪気に頷いた。うん、そうね、と。

「もう、へいきよ。わたしがいるから。わたし、あなたに呼ばれたの。あなたの願いを叶えるために、わたし、あなたを見つけたのよ」

 少女は男に抱かれたまま、徐にその背をしなやかに伸ばした。双翼を一度、自慢げに大きく広げて中空を羽撃ってみせる。ばさりと音が鳴り響き、夜気が烈しく波打った。思いのほか強い力に男は幾らか面喰って息を呑んだが、同時に数度咳込んだ少女を見てすぐに気を取り直し、慌てて彼女を制止した。

「おい。無茶するな。まだおとなしくしていたほうがいいんじゃないのか」

 少女ははにかみながら素直に従って、翼を背に折り畳むと男の胸にくたりと身を預けた。男もまた安堵に息をつき、少女の肩に腕を廻して抱き寄せる。

「本物なんだな、その羽は……」

「もちろんよ。まあ、わたしのは……出来損ないではあるけれど」

「出来損ない?」

「そう。色が、黒いでしょう。神の子供たちの羽はね、ほんとうは……みんなのは、白いのよ。黒いのはよくないの。だからわたしはおとうさまとおかあさまに隠されて、あなぐらの中にずうっと居たの。光の射し込まない、夜も昼もわからない、生きてるのか死んでるのかもわからなくなるような、深い奥底に。ひとりで、ずっと……」

 少女の表情に翳りが差す。男はその体を抱く腕に、そうっとだけ、力を込めた。掌が触れている場所を、労るように撫でさする。接する場所から滲むように、互いの体温が伝わり合った。

「神の、子供?」

「あなたたちはニンゲンでしょう? 神の食物。わたしたちは天使。神の子供で、しもべ。それで、わたしは……」

 少女はそこで言葉を切って、黙りこくった。男の胸に甘えるように額をすり寄せ、ゆるやかに目を瞑る。首すじの黒い布裂ぬのきれを指先でそっとたどりながら、少女は物憂げな溜め息を吐いた。

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亡き天使のためのマドリガーレ 望灯子 @motoko

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