天使Ⅰ

 化け物に襲いかかられている真っ最中よりも、よほど恐ろしく、足が竦んだ。その証拠に、近づくにつれ、男の動悸と相反して歩みが鈍る。夢で見たとおりの膚が目の前にある。腕のかぼそさ、指先のたよりなさもそのままで、そして何より、背負った羽のその色だ。全てがあまりに一致していて、男の心を掻き乱した。

 夢の奥津城のような、眠りの底での体験とはいえ――違う、だからこそ――男にとってはの存在との邂逅は、不思議な感触を持つ、手放し難い幻想だった。あのとき、あのか弱げな腕は確かに、もがき苦しむ自分を救うためにあの場に現れてくれていたのだ。ならば今の自分は、あの倒れ伏す存在に対してどう振る舞うべきか。どれほど怯んでも男の進みが止まることがなかったのは、彼が自分自身にそう問い掛け続けたからだった。

 傍らに、膝をつく。翼を背負う何者かは、当然のことかもしれないが、その間微動だにしなかった。打ち捨てられてしまった亡き骸に、送る筈だった者たちを屠った己に何ができるというのか。或いはこれは、自分の心の脆いところを知る何者かが見せる幻影で、墨色の衣の化け物たちと同じ類の何かでしかないかもしれない。男は長く逡巡したが、けれどもそれらを差し引いて尚、どうしようもなく抗い難い誘惑があった。覗き込むように深く身を折る。祈りを捧げるような姿勢で、砂に広がる髪の一房ひとふさを、男は指で掬いあげた。翼の暗色に比べると大分あかるいその髪色は、妹のものとはまるで違う。もう一房ひとふさ。そして、二房ふたふさ。波打つ長いそれを、男は繰り返し持ち上げては向こうの肩を越して撫でつけ、横顔をさがした。

 腕の色よりもなお蒼白い頬と鼻筋が初めに現れた。しかしそれらも、次いで確かめた伏せられている瞼のかたちも睫毛のそれも、男のよく知る妹のものではまるでなかった。つまるところ地に伏せられた横顔は、まったくの見知らぬ少女のものだった。

 納得か、安堵か、落胆か――絶え間なく湧き上がる感情は混沌として、瞬時にはとても正体の判別がつかないものだった。男はそれらに思考を塗り込められ、深く息を吐く。どうしようもなく理性を保てなくなり、ゆるやかな衝動にただ身を任せて、投げ出されている少女の手をそっと掬いあげた。夢の中ではついに結び合うことの叶わなかった指先。それをそっと、ほんのわずかだけ、触れさせる。男が漸く違和感に気がつくことができたのは、その時だ。

 既に魂は離れているとばかり思い込んでいた少女の肉体は、まだかろうじてやわらかで、ほのかな、本当にほのかな、今にも消え入りそうな体温を持っていた。

「生きて……いるのか?」

 男は驚愕し、少女の口元に耳を寄せる。呼吸の気配を感じとることはできなかった。一度は落ち着きかけていた男の心臓がふたたび激しく騒ぎだす。触れていた指先をきつく握り締め、そこを確かに捕まえながら、少女のからだを抱き起こして自らに寄りかからせようとした。

 我が身に向けてくらりと傾ぐからだのあまりのかるさに、男は眉をきつく顰めた。一度はその声を妹のものと聞き違えたせいもあるだろう。痩せた体つきにしろ、子供にも大人にも属さない微妙な年の頃にしろ、妹に通じるところを知らしめられるとついどきりとしてしまう。加えて、少女の着衣はぼろきれのようで、仰向けてみると胸元や太腿などにも素膚が露わになっている部分が端々あった。こんな時だというにも関わらず、その様子には男の劣情に訴えかけるものが皆無とは言い切れず――男は苦々しげな表情を一層深めるしかなかった。

 情ならばとっくに生まれていた。生命があるなら尚のこと、この場所に独り置いてゆくなどできるわけがない。揺り籠の中へ引き返し、治療なりなんなりを施せる誰かに託してやるべきか。けれどもこの翼――少なくとも自分とは異なる生き物であろう彼女にとって、今のこの状態はどういう意味を持つのかもわからないまま行動を決めるのは得策なのか。

 わからないことだらけだった。結論を見いだせないまま、手持ち無沙汰に少女の翼に触れてみる。掌で数回、流れを根気よく撫でつけてやると、翼はすっきりと行儀よく、彼女の背におさまる程のおとなしさになった。視界の隅に、風に吹き曝されてころがったままの幾つもの黒い首が目に入る。あんなものは男の中で、今やただの砂地の石ころにしか過ぎなかった。男は思いきって地面に腰をおろした。脚のあいだに少女の体を深く抱え直す。片膝を立て、そこで少女の背を支えながら、胸に頭を抱き寄せた。

 ちいさな頭を導いた際に触れさせた掌を、男はなかなか離せなかった。未だに動かぬ少女に対して、不埒なことと思いながらも、その髪に、顔を埋める。そっと額をすり寄せ、瞼を伏せた。ずっと、悔いていたことを。最後に一度だけでいい、妹の肉体にできていたらよかったと思い残していたことを。抱き締め、触れ合う、ただそれだけのことを。身代わりとわかっていて、押し付けてしまう。

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。ふと、ちいさな羽虫のはばたきを聞いた気がした。聞こえる筈のない音だ。展翅板に留めつけられたカゲロウが、かりそめの魂と自由を再び与えられて幻象の世界へ飛びたつ時の。或いは水面で脱皮を果たしたその亜成虫が、微かに水に触れさせた己の尾の先から生まれた、人の目には映らぬ程のさざなみにおののきそこから離れる瞬間の。

 それほどの、それはひそやかな声だった。

「ない、て、る」

 男は目を瞠り、顔をあげ、すぐに二度ふたたび目をみひらいた。あたりには夜陰が降り積もっていた。それほどまで長い時間を過ごした覚えはなかった。腕の中の少女の姿を確かめる。彼女は男が瞼を伏せる以前そのままの様子で、そこに在った。目覚めた様子も、動いた気配も感じられない。暗がりにまだ慣れない目に、不思議とその表情を捉えることができる。夜空に撒かれた銀砂の光のすべてが、彼女という一点に向かってまっすぐに降りそそいでいるかのようだった。男の視線の先で、彼女の乾いた上唇が、ほんの微かに一瞬震えた。

「ないてる、の?」

 先ほどよりもはっきりと。譫言のように、ではあったが、少女は確かに言葉を発した。


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