公演日。高校生の演劇公演という事で、座席は自校や他校の高校生や、親御さんと思われる大人達、そして興味を持って来た一般の人達などで思いのほかいっぱいだった。

 卿も、藤の姿は見なかった。きっと、本当にギリギリのギリギリまで憂いの君を探しているのだろう。プライドが許さないのだろうが、そういうところは本当に尊敬する。

 開演の時間になると客席の照明が落ち、ゆっくりと舞台の緞帳が上がっていく。

 昔のロンドンの邸宅をイメージしたセットの中で、お芝居は始まった。

 厳格な銀行家夫妻が子供達のためのベビーシッターを探していたところ、メリー・ポピンズと名乗る美しく快活な女性が現れる。彼女は魔法のような不思議な力を使って、暗くギスギスした銀行家夫妻の家庭を明るく、笑顔に満ちたものへと変えていくというのが、パンフレットに書かれていた劇の大方のあらすじだ。

 メリー・ポピンズに扮する佐倉女史は、白いドレスとハット、そしてトレードマークとも言える日傘を持って、軽快に、時に踊るようなステップでステージをところ狭しと飛び回り、他の団員扮する銀行家一家を笑顔に変えていった。

 それは決して押しつけがましいものではなく、メリー自身が笑顔で楽しく振る舞う事で、周りの人間もつられて笑顔にしてしまうのだ。

 振る舞いだけじゃない。彼女は時に歌や踊りを奏ではじめ、子供たちはもとより、沢山の人が一緒に歌い始める。それにより、家族の心はどんどん開かれていくのだ。

 佐倉女史の歌は、決して抜群の歌唱力があるものではなかった。それこそ、東條女史と比べる事なんてできない。だが、演劇の発声練習のおかげか声は通っているし、なにより上手く歌う事よりも歌う楽しさを伝える事。それが佐倉女史の、メリーの一番の魅力だ。

 それは、曲に合わせて思わず身体が揺れ動いてしまう観客の様子を見れば瞭然だ。

 今、この瞬間は、自分もロンドンの住人だ。家も仕事もしがらみも忘れて思わず踊り出してしまうような、そんな煙突掃除屋なのだ。

 劇のさ中、不意に聞いた事のあるフレーズが耳に響いた。それは、メリーがお屋敷を明るく変えていくときの歌だった。

 軽快に、スキップでも踏むような曲調。ぽんぽんと、色とりどりのゴムボールが弾んでいるような、そんな印象を受けた曲。


 ――A Spoonful of sugar helps the medicine go down.(ほんのひと匙のお砂糖があるだけで、苦いお薬も飲めるのよ)


「この曲は――」


 自分は、驚きを隠せず、目を見開いて部隊のうえを凝視した。

 歌いながら、くるくるとステップを踏んで歩く佐倉女史。思わず自分も弾んでしまうかのようなその曲は、まぎれもなく、あの雨の日に校舎の窓越しに聞いたあの曲だった。


「まさか……そんな事が」


 舞台の上の彼女の姿が、あの日、教室の中で踊る幻影のような女生徒の姿と重なる。

 歌と言う1点から、合唱部しかないものと思っていた。

 合唱部であるならば、東條女史しかないと思っていた。

 でもそのすべてが自分の早とちりだとしたら――

 15センチの視界の先で歌っていたのは、目の前の彼女だったのだとしたら――

 ドクンと、あの時と同じように心臓が激しく高鳴った。今度こそ文字通り、雷に打たれたような感覚だった。

 この気持ちを、なんと言ったら良いのだろう。


 ――It's Supercalifragilisticexpialidocious!


 代弁するように、舞台の上の佐倉女史が魔法の言葉を口にする。気持ちを言い表せない時に、願いを叶えるその言葉は、彼女の天使のような笑顔と共に講堂中に響き渡った。


 ――今度こそ伝えなければ。


 公演が終わるや否や、帰宅する人の波を押しのけて、自分は舞台裏を目指していた。

 自然と人の波に逆らうその行動は当然うまくいくものではなく、他の観客たちに邪険にされながらも、それでも必死に彼女のもとを目指した。

 やっとの思いでたどり着いた舞台裏では、声と息を弾ませて抱き合う演劇部員たちと一緒に、同じように興奮冷めない様子の佐倉女史の姿があった。彼女もまたこちらの様子に気付くと、屈託のない笑顔で飛び跳ねるようにして近寄って来た。


「来てくれたんだね、ありがとう!」

「あ、ああ。公演、すごくよかった」

「そう言って貰えると、嬉しいな」


 そして照れくさそうに笑う彼女を、自分はもう一度まじまじと見下ろした。

 東條女史の時と同じように、バクバクと心臓が高鳴る。

 のどがカラカラに乾いて、声も掠れそうだ。

 だが、一度経験したそれだけに、対処法だって分かっている。自分は黒縁の眼鏡を勢いよく取り去ると、改めて彼女の事を真正面から見据えた。

 回りくどい言葉はやめようと言い聞かせながら、最も純粋で単純な気持ちを、自分の中に探し出す。


「さ、佐倉女史! じ、自分は、あ、あの雨の日からずっと、佐倉女史の事がす……す、す……す……」


 絞り出すように口にして、言葉が詰まる。そこから先の言葉が出ないのだ。

 自分の一番の願い。本心。それを、どうしても口にする事ができない。

 突然の事に、彼女は今、どんな表情をしているのだろう。この15センチの視界の前では、ハッキリ見て取ることができない。それでも、少しでも彼女の姿を目に焼き付けようと、必死に目を凝らして、その輪郭をとらえる。

 初めて窓越しに出会った、あの雨の日もそうしたように。


「じ、自分は……自分は……す、すすす……『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』です!」


 咄嗟に繋がって出た言葉は、望みを叶えるその言葉だった。

 否、自分でもその時に何と言ったのか明確な記憶はない。頭が真っ白になって、視界も真っ白になって、それでも口から、彼女に想いを伝える何かは発されたのだ。

 舞台裏は静寂に包まれていた。他の部員たちも、いったい何を言っているのか分からないといった様子で、こちらの動向を伺っているかのようだった。

 やってしまっただろうか。再び真っ白になっていく思考の中で、佐倉女史が鼻を啜るような音を立てたのを聞いた。繰り返し、えずくようにして、彼女の吐息が漏れる。

 しばらくそれを聞いてから、彼女は今、泣いているのだと理解した。

 どうしたら良いか分からず、かといって状況も見えず、自分はただ狼狽えるばかり。

 そんな中、佐倉女史が自分の手を両手で包み込むように取って、そして強く握りしめた。眼鏡を握りしめた震える手が、暖かい、お日様のような温かさに包まれた。

 そして彼女は精いっぱいの希望にと喜びに満ちた、晴れ晴れとした声で言ったのだ。


 ――はい、喜んで。


                   了

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望みを叶えてくださる言葉 阿古耶 南 @minami_a

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