それから行動は早いもので、藤がさっさと3年生に話を通し、気づくと、とある日の放課後に東條女史と2人きりで対面することになっていた。

 本当に突然の事だったものだから何の心の準備もできず、バクバクと高鳴り続ける心臓の鼓動を抑えるのが精いっぱいの状態で、自分は待ち合わせ場所の教室に1人佇んでいた。額からダラダラと汗が吹き出し、呼吸も乱れている。こんな状態で愛を語るなど不可能だ。だが、そうせざるを得ない。タイミングは、今しかないのだ。

 やがてドアの外で足音と共に人の気配を感じた。その気配は扉の前で足を止めると、何のためらいもなく、一息に、がらりと引き戸を開け放った。


「……っ!」


 瞬間、息が詰まった。開かれた扉の先に、あの日、講堂の2階から眺めた東條女史の凛とした姿がそこにあった。

 艶やかな長い黒髪は、僅かな風でもさらさらと流れるように靡き、前髪を止めるために掛けられているのであろう黄色のカチューシャがそこに色を加える。そうして形を保った髪の隙間から覗いた涼し気な瞳は強い色を宿し、きゅっと結ばれたうっすらと朱の注した唇が彼女の美しさを引き立てていた。


「ええと、貴方が海道君?」


 東條女史は自分の姿を認めると同時に、堂々と教室に足を踏み入れながら、そう冷静に口にした。


「え、ええ。自分が、海道です」


 生唾を飲み込んで、絞り出すように彼女の問いに答える。

 東條女史はそれを聞くと、顔色は変えずに頷いて、自分の真正面に立ち止まった。


「それで、用事って何かしら?」


 時間がない、とでも言いたげに単刀直入に口にした東條女史。自分は思わず口をパクパクと無駄に開閉させながら、声にならない呻きを上げていた。

 喉がカラカラに乾いていて、言葉が出てこない。まるで声を出す器官がぴったりと喉の奥で張り付いてしまったような、そんな感覚だった。

 自分が何も言わない内に、東條女史は腕を組んで、トントンと足先で床を鳴らし始めた。こちらの出方を伺っているのだろうか。表情こそ変わりはないが、どこか苛立たしさを感じているのが周りの空気を伝って伝わって来た。

 早く言葉にしなくては。だが、口は上手く回らない。

 このままでは、何もしない内にすべてが終わってしまう。

 それだけは、断じて、お断りだ。

 自分は意を決して、掛けていた眼鏡を取り去った。一瞬にして視界が厚い雲に覆われ、女史の表情はもとより、その姿もまた霞の中へと溶け込んでいった。

 相手が見えなければ、1人で叫ぶのと一緒だ。これならきっと口にできる、と心の中で自分に言い聞かせると、心なしか呼吸が軽くなったような気がした。


「ええと、あの……」


 そのまま、何でも良いからと声を出す。言葉にならなくとも、声が出る事を確認した。

 大丈夫だ、ちゃんと出る。出るならば――後は、勢いだけだ。

 東條女史は何も口にせず、目の前に立っているだけだ。こちらの言葉を待つように、はたまたこちらを吟味するかのように。

 その沈黙がどこか恐ろしくもあったが、口を開かれる方がもっと恐ろしかったので、そうなる前に自分は、意を決して思いの丈を口にした。


「あ、あの……雨に日に歌っている所を目にして、自分は、心を打たれました! あんなに感動する歌を聞いたのは、生まれて初めてです! あなたの歌う姿はとても美しく、まるで慈愛に満ちた聖母のようで、なんというか、これほど心臓をわしづかみにされたことはありませんでした!」


 あの日聞いた記憶と、放課後の講堂で感じた想いを、余すことなく言葉にしていく。


「……ありがとう。そう言って貰えるのは声楽家としてうれしいわ。それで、用件は?」


 東條女史は本当に喜んでいるのかよくわからない、冷ややかな口調で言い加えた。


「そ、その、つまるところ、自分は、その……東條女史の事が……」


 勢いでそこまで口にして、言葉が詰まった。その先が、喉から出てこなかった。最も純粋で単純な気持ちを、自分は、言葉にすることができなかった。

 息もできず、だらだらと冷汗が額から頬、そして喉へと流れ落ちる。

 雲の向こうで、東條女史の溜息のような息遣いが聞こえた。

 彼女は肩から落ちた黒髪を、手でサラリと後ろへ流すと、歌っている時のあの感情豊かな音色とは対照的な抑揚の少ない声で口にした。


「ごめんなさい。全く面識のない方とは、流石に付き合えないわ。それに私、年明けにはイタリアへ行ってしまうし……そんな状態で誰かと付き合うつもりもないわ」


 ガツンと、心臓を巨大な木槌で打たれたかのような気分だった。


「……これで、ちゃんと失恋できたかしら?」


 そう言い残して、東條女史は靴音を響かせて教室を去って行った。

 自分は返す言葉も無く、ただその場に立ち尽くしているだけだった。

 女史の気配が完全に消えたのを見計らって、外した眼鏡を装着する。文字通りもぬけの殻の教室に、自分が1人、取り残されているかのような状況だった。


「――海道君?」


 不意に、女生徒の声がして自分は東條女史が去って行った、開けっ放しの入り口の方へと視線を移した。そこには、何とも言えない表情の佐倉女史が立ち尽くしていた。


「佐倉女史……どうしてここに?」

「いや、その……藤君が、『俺は用事があって行けないから』って」


 その言葉を聞いて、乾いた笑みが漏れた。

 アフターフォローまで完璧とは。藤よ、恐れ入ったぞ。


「えっと、どう……だったの?」

「見ての通りだ」

「……そう」


 佐倉女史は察してくれたのか、それ以上詳細を追求するような事はなかった。

 彼女はゆっくりとした足取りで、自分の方へと歩み寄って来る。それから、ポケットから1枚の小さな紙を取り出すと、こちらへと差し出した。


「この間に言ってた定期公演のチケット。約束だからあげる」

「ああ、ありがとう」


 自分は力なくそれを受け取った。小さな長方形の紙には、公演日の日付や時間と共に演目である「メリー・ポピンズ」の文字が大きく印刷されていた。


「前にも言ったけど、すっごく元気になれるお芝居だから、きっと来てね。なんてったって、あたしが主演女優なんだから。お祝いの花束も絶賛募集中」


 言いながら、佐倉女史はおどけたように笑って見せた。


「その、悪かった。人探し、力に慣れなくて」


 この場にいない藤の代わりに謝るように、自分は深く頭を下げた。

 結局、あの後に捜査範囲を広げて多くの生徒にあたってみたものの、佐倉女史のお目当ての人を見つけることができなかった。藤は自分の人脈と情報網で見つけられないことが非常に腹立たしいらしく、きっと今も憂いの君を探し続けているのだろう。

 自分は……今はそこまで、他人に構っていられる余裕はなさそうだ。


「いいの。あたし、もう諦めてるし。きっと縁が無かった。運命じゃなかったんだって、そう思う事にしたの。雨の日に、窓ごしに出会った彼はきっと幻だったんだって」


 そう言いながらも、佐倉女史はやはりどこか寂しそうに笑っていた。

 掛ける言葉は見つからなかった。


「――よし。じゃあ、今のあたしたちにぴったりの言葉を教えてあげる」


 代わりに佐倉女史がそう言って、制服のスカートの裾をついばむように指先で持ち上げながら、くるりとその場で踊るように回って見せた。


「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス! 言ってみて!」

「す、スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス……?」


 自分が後を追って口にすると、佐倉女史は満足げに笑みを浮かべて頷いた。

 それは、どこかで聞いたことがあるような、長ったらしい言葉だった。


「英語のことわざか? どういう意味なんだ?」

「わかんない」


 彼女はあっけらかんとして答えた。


「でも、気持ちを上手く言葉に出来ない時に口にする言葉なんだ。口にすれば、望みを叶えてくれるんだって。これ、今回のお芝居の受け売りね。『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』って」


 ステージでお芝居をするかの様にステップを踏んで、彼女はニッコリと笑ってみせる。


「すでに望みが破れた後なのだが?」

「言葉のあやよ。別の機会に叶うかもしれないじゃない」


 そう口にする彼女の言葉は驚くぐらい前向きで、さっきまで寂しそうに笑っていた人間とは決して思えなかった。

 芝居の役作りのせいだろうか。それとも、本当にその言葉に力があるのだろうか。何となく後者だったら良いなと、この時、自分は思っていた。


「じゃあ、あたしそろそろ稽古があるから。公演、絶対に見に来てね!」


 満面の笑顔で、彼女は教室を去って行く。

 その後ろ姿を視線で追いながら、東條女史の言葉を頭の中で反芻していた。


 ――これで、ちゃんと失恋できたかしら?


 自分は、ちゃんと失恋できたのだろうか。

 そもそも、その場の雰囲気や気持ちしか覚えていなかったような相手に、自分はちゃんと恋をできていたのだろうか。

 自問しても答えは出ないが、「振られた」という事実だけは確かに刻まれていた。

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