第8話 金乳
僕はマルセルのブラ紐を凝視している。
どうも、佐藤・プルルン・栄介だ。
好奇心には二種類あると、僕はここで偉そうに持論を展開しよう。
科学的好奇心と形而上的好奇心だ。
なぜそうなっているのかという疑問と、なぜそうでなければならないのかという疑問。
この二つの好奇心は、互いに支えあっている。
科学者も哲学者も、このどちらかが欠けても大成しない。
と、僕は偉そうに言ってみる。
例えばおっぱいだ。
おっぱいはどうなっているのか。乳首があり、乳輪があり、乳腺があり……等々。
そしてそれらの機能と役割。
これが前者の好奇心。
だが、おっぱいとはどうあるべきか、どうあることが最も美しいのか、あるいはどういう風におっぱいを解釈すべきか、そもそもおっぱいが存在するとは、どういう意味を持つのか、そういった疑問は後者に属する。
そして僕は、後者の好奇心が薄い、あるいは疎かにする人間が嫌いだ。
関わり合いたくもない。
おっぱいを解剖したり、レントゲンを撮ったりすることは構わない。
でも、その先に進まない人間は嫌いだ。
僕の幼馴染、美知留がその代表格である。
僕は神を信じない人間とは会話すらしたくない。
神様ではなく、神。
なにか、経験できないもの、その総称である。
神は、可能性だ。
人と人が、分かり合える、可能性。
だから僕は異世界の存在を信じる。
あくまで仮に、ではあるが。
僕はそんなようなことをマルセルに語ると、マルセルは怪訝な顔をして僕を見た。
ただいまレストラン。
レストランでおっぱいを連呼する二十歳そこそこの男と、ギャル風味の女。
マルセルはその適応力の高さをレストランでも遺憾なく発揮し、メロンソーダとコーラを融合させるとういう秘術を僕に胸を張って見せつけて来る。
炭酸水そのものは異世界にもあるらしい。
つまりは二酸化炭素もあるということで、科学的常識は異世界でも通用すると推測される。
マルセルは姉上に借りた紺のロングスカートに、ぱっつんぱっつんの白いTシャツを着ている。
英語で「I am boobies」と書いてある。
直訳すれば、「わたしはおっぱい」
――その通り。
姉上、流石である。
「栄介の言いようだと、つまり、この国の民は神を信じていないように聞えるが……。」
「異世界にも、ヤマナラにも、宗教はあるのか。」
「ああ、もっぱら戦争の種だが、みなそれぞれの宗教を信じている。」
「本当に、ただ時間を捲き戻したような世界なんだな、そっちは。」
「そうか、地球の歴史に俄然興味が湧いてきた。それでも、宗教なくして、どうやって人は生きている?何を信じて、生きているんだ?」
僕はストローの袋に水を垂らす。
途端に袋は蛇がうねるようにして大きくなる。
レストランにおける代表的手慰み。
それを見たマルセルは、僕の手を掴んで検分するように捻りあげた。
ちょ、痛い。
きっとまた魔法か何かだと思っているのだろうが、とにかく痛い。
タップして降参しようとしたところ、身を乗り出したマルセルのおっぱいが熱々のステーキプレートにどんと乗っかり、僕はことなきを得る。
おっぱいステーキ。
すぐに溶けてなくなりそうだ。
「いててて……こっちにも宗教はあるんだ。今でも多くのひとが特定の宗教に属している。神様を信じてる人も多い。でも、それ以上に科学というものが人気なんだ。」
僕はナプキンをマルセルに差し出しながら、ストローの袋が膨らむ原理を教えてやる。
それだけでもゆうにニ十分はかかった。
だが、あらゆるネット上の図や動画を見せることができる現代。
特にN〇Kは素晴らしい。
僕は今、はじめて視聴料を払うことに不快を感じない。
今すぐ徴収に来てくれたならば、きっと倍は払ってしまう。
「科学は知っていたが……昨日と今日で、少しずつ人類の辿ってきた道が見えて来た。つまり、全ての物事には理由がある。目に見えているものにはすべて、理由があってその結果だ。神様には理由も無ければ、見えもしない。つまり神様は科学ではない。ということだな。」
「そうだ。見えないもの、否定できないものは、科学ではない。そんなものをいくら追ったところで、意味はない。」
ポパーの反証可能性には問題もあるが、人に説明する時には役立つ。
科学的なものと、そうではないもの。
「そうか、確かにそうだな。私も生まれたときから神を信じ、祈ることが習慣となっていたが、確かに、そうだ。ならばこの世は、世界というものもまた、科学で説明がつく、そうだな?」
「マルセルは本当に思考が柔軟だな。尊敬する。」
「違うんだ。私は感動しているんだ。もともと、私は異端に近い考えを持っていて……。」
そこで言い淀むマルセル。
僕は大きく頷いてやる。
深呼吸をするマルセルの顔は、不安に影を濃くしていた。
「…………もし、もしだ。神を完全な存在だとするならば、私たちは神と関わってはいけない、と常々思っていた。だって、人は不完全だ。不完全なものが、完全なものと関わったら、濁ってしまうだろう?」
なるほど。
そもそもマルセルは論理的な人間だったということらしい。
これはデカルト辺りから読ませてもきっとすんなりと理解するだろう。
「もともと科学は好きだった。花を育てるのが好きで、肥料の探求にはかなりの時間を……なんだ、私が花を好きだとおかしいか?」
「いや、いいよ。家の庭も好きに使って良い、現代の肥料はすごいぞ。」
「むぅ。なんか馬鹿にされている気がするな。」
そんなお堅い話をしながらも、終始、マルセルは面白かった。
自動ドアを見、幽霊に怯えるマルセル。
市井の女性が履くミニスカートを破廉恥だと言って顔を赤くし、その代わりピアスには興味深々、あげく値の張る店で長時間居座り、僕は店員の視線に堪えられずプレゼントまで買わされた。
中でも彼女が一番目を輝かせたのは本屋だ。
本屋には僕も一家言ある。
まず、岩浪文庫が揃ってない本屋は本屋ではない。
あと、書棚に並ぶ背表紙をさっと見れば、そこの店員に学があるかどうかは一目瞭然だ。
この本を買うなら当然、これも買うでしょ?
的な意図がある本屋は素晴らしい。
僕らはまた地下鉄に乗って、ちょっと遠い本屋まで足を運んだ。
すでに夕暮れ、自然科学から社会科学、人文科学の知識をあれこれレストランで教えていたら、平気で五時間くらい経ってしまった。
住宅街では奇異な存在のマルセルも、街に出ればちょっとやんちゃで派手な若い女。
非難がましい視線は薄れ、むしろ羨望の眼差しが増える。
「おい、マルセル、買いたい本があれば遠慮なく言え。本のためなら出費は惜しまない。」
「本当にいいのか?」
「今度おっぱいを揉ませてくれればそれでいい。」
あぶない。
僕はおっぱいキャラなのだ。
とりあえず場当たり的におっぱいセクハラを挟まないと僕が僕でなくなる。
マルセルの純な知的好奇心というか、そういうものにほだされてあやうく彼女の爆乳の存在を忘れるところだった。
マルセルは歯ぎしりするようにして悩みながら、「……一秒、いくらだ?」と交渉を始める。
一秒当たりというところに、彼女の貞操観念の高さがうかがえる。
いや、そもそも安易に体を売ろうとする時点で間違っている気もするが。
通貨の概念というか、相場はすでにある程度把握している。
一般的なサラリーマンの年収と、ちょっとスーパーを覗けば感覚は掴めるのだ。
彼女曰く、本は激安、らしい。
僕は本もプレゼントする気だったが、面白いので彼女に乗ってやる。
「そうだな、まあ一揉み一万円としよう。」
「ぎょえ!!」
マルセルが変な声を出す。
「……栄介の月の稼ぎは五万……一時間働いて千円が相場と聞いた。つまり一秒胸を触らせるだけで十時間の労働に値する……この小さな本はおよそ五百円。だが、まて、貞操を金に換算するなど……いや、地球は見たところ、どうにも貞操の価値は低い……これは当たり前の取引なのか……。」
マルセルの世界では労働の概念が薄い。
奴隷、封建領主、自給自足。
現代における労働を把握するためには、遡って人権についても教えなければならなかった。
が、それはさほど難しくない。
そもそもマルセルは文章が読めるし、人権というのは直感的に理解しやすいものだ。
「いや、でも体を売る女も確かにいて……そうか、まずはここを聞かねば……。」
マルセルは髪色とおなじぐらい頬を染めて、僕を緑の瞳で睨みつける。
唇はわななき、売り物の本を折り曲げてしまいそうなぐらい手に力が入っている。
「地球、日本、では……女が……その、……自らの……か、からだを、売ることは、あ、ありゅ、あるのか?」
「まあ、あるな。」
「そうか、いつの時代も、いやどの世界も人は同じということか……それで、だ、……およおよよ、およそ、い、いくらになる?」
「ピンキリだけどなあ、まあ、九十分で三万、いや四万くらいかな。」
僕は指を折って提示する。
と、マルセルは反転し、僕に背を向けてぶつぶつ何かを言い出した。
が、丸聞こえだ。
というか結構大きな声だ。
「正直、高いのか低いのか、よくわからない。ただ、相対的に栄介が破格の条件を提示していることは分かる。栄介は道行く女性のむ、胸ばかり見ていたから、きっと相当胸が好きなのだ……。」
そうしてまた僕の方を振り向くマルセル。
今度は何を思ったのか、本を品出ししている女性の書店員をびっと指差し、叫ぶ。
「た、例えばだっ!あの女の胸を一秒揉むとして、お前はいったいいくら払うっ!」
ぎょっとしたその書店員は、僕の顔とマルセルの顔を見比べて、胸を隠しそそくさと逃げていく。
痴話げんかか何かと思ったのか。
奥からちょっと偉い感じの、スーツを着た男の人がこちらを監視し始めた。
しかし、僕はマルセルに負けじと声を張り上げる。
おっぱい査定はセクハラだが、僕のポリシーでもあるので曲げられない。
「乳首の状態が見えないとなんともいえないが、まあプルルン市場で千円といったところだ……あれはありふれたおっぱいだが、飽きがこないので彼女にするには悪くない。」
「なん……だと……っ!」
マルセルはまた僕に背をむけ、「ちょっと嬉しい……」と、自分の胸を持ち上げている。
僕は汗で透けているピンクのブラ紐を凝視している。
僕はブラ紐を崇め奉っている。
おっぱいのことを日夜考え続けた企業が、おっぱいを守り、おっぱいの負荷から女性を守り、おっぱいを美しくみせるためだけに開発に開発を重ねた、汗とおっぱいの結晶だ。
そんな僕の熱い視線にも気づかず、マルセルは再度こちらに振り向き、掌を僕の眼前に突きつける。
「な、ならば五秒、五秒でどうだ。」
「五万、か。まあそれぐらい造作もない。ちなみに我が姉上、銀子姉さんの貧乳おっぱいの価値は秒単位百万だ。そして僕はすでに数千万単位で姉上に借金している。」
その暴露に、マルセルは本を思い切り床に叩きつけた。
「な、な、な、納得いかねぇえええええええええええっ!」
「お前、結構自分のおっぱいに自信持ってるのな。いいことだ。」
マルセルの荒々しい言葉遣いに、僕はちょっとだけ親近感を覚えたのだった。
おっぱい狂騒曲 @sadameshi
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