現約聖書と黒の外典のエトランゼ

籘真千歳

1-1

 僕はきっと、此処ここにはない。

 近頃はふと気がつけば、そんなことばかり考えている。

 いつの頃からだったのか、特に多くなったのは桜の季節だったような気がする。

 例えば――学校のチャイムが鳴ってから朝のホームルームが始まるまでの、ほんの少しの後ろめたさと、いつもの退屈の中の微かな緊張感と、潮時を覚えて自分の席に着くまでのわずかな時間に花咲くクラスメイトの言の葉に、淡い色の高揚感が浮かぶような瞬間が、そう。

 例えば――昼休みに、馴染みのクラスメイトと隣り合ってそれぞれの弁当や購買部のパンを口にしつつ、毎日教師たちの顔色を窺いながら当たり障りのない選曲ばかりをしている放送部が、柄にもなくアップテンポのジャズを流すのを聴いて、その一段のセンスの悪さを水色の種にして話の広がるままにまかせ、しまいには互いの音楽の好みの偏りが浮き彫りになってバツの悪い思いをし、友人と互いに顔を見合わせて思わず苦笑いをした瞬間が、そう。

 そんなとき、僕の頭の片隅には必ず、こんな疑問が浮かんでいる。僕はなぜこの子と仲良くなったのだっけ。僕はどうしてこの曲が好きなんだっけ。僕はなんで毎日この学校へ来ているのだっけ。

 それはつまり僕という総体に対する不信感で、簡単に言えば、僕は誰かに言われるままに〝八尾やお伊織いおり〟という、一人のどこにでもいるような高校生を演じさせられているだけなのではないか、という疑いが心の中からいつも消えないということだ。

 朝、登校して教室に入る瞬間まで、僕は八尾伊織という名前を意識していない。あてがわれた席に着くのが先か、友人に声を掛けられるのが先か。毎朝順番は違うけれども、いずれにせよ僕がその名前を自分のものと意識するのは、そうして八尾伊織という高校生の立ち位置や人間関係が、頭の中より先に外から押しつけられて、ようやくそれからだ。

 自分が、誰かの書いた脚本通りに動いているだけの役者であるような――もしそうだとしたら、僕が何かをする理由は、僕の中にはないことになるのだろう。僕が何かをしたとき、その理由、動機を知っているのは、僕を拘束する脚本を書いた誰かの頭の中だけだ。しがない三文役者の僕は、脚本の書き手の意図をせいいっぱい空想してみるくらいが関の山で、だから僕は瞬間、瞬間の自分の判断や行動に、いちいち疑問を感じることが多くなる。むしろ、そうして〝八尾伊織〟を演じる僕の性格や人格が、脚本上の架空の人物に近づくように矯正されつつあるのかもしれない。

 もし僕が〝八尾伊織〟の身代わりロボットだったら、話は簡単だ。僕はきっと、「今日は学校へ行きたくない」とモノグサにも考えた本物の八尾伊織に、昨日までの記憶をそっくりコピーされて、代わりに学校へ来ているのだ。記憶は同じだし、周囲から不審な目で見られないよう、ロボットであることを忘れさせられているのだとしたら、それなりに辻褄は合う。

 だけれども残念ながら、どうやら僕の身体はちゃんと生身であるようだ。なぜかといえば、今日の放課後の掃除当番で、相も変わらずうわの空だった僕は、錆びで表面の塗装が剥げていた机の留め具の角で、うっかり指を切ってしまったからである。

 そのとき、僕の左の薬指を輪切りにするように浅く横切った傷からは、確かに赤く、生々しい色の血が滲み出ていた。今も、ひろの貼ってくれたばんそうこうには、もうすっかりくすんでしまったけれども、まだ赤色が滲んでいる。

 怪我をしたらちゃんと血が出るくらいリアルに造られたロボットである可能性こそ、完全には否定できないけれども、それはあまり考えられないと僕は思う。もしそうなのだとすれば、きっと多くの生徒が学校へ来なくなってしまうのではないかと思うからだ。

 想像してみるといい。三十人のクラスメイトが全員、本物の代わりに退屈な勉強をするために、朝に本物の人間から記憶をコピーされたロボットばかりだったとしたら。気味が悪いというありきたりな感想を抱く以前に、それなら学校なんて管理の面倒な施設の運営を、大人たちはきっととっくに放り出していることだろう。だって、意味がない。

 だから、不謹慎に嘆かわしくもあるが、どうやら僕は確かに〝八尾伊織〟という十五歳の高校生――中高一貫のこの学校では四年生――であるらしい。その事実を、少なくとも怪我をして確かめてしまった今日一日の間は、脳裏で逞しく根を張ったままの悩ましい自分への不信感とともに、抑え込んで受け入れるしかないようだ。

 ただ、そんな僕であっても、これだけは此処ここに今いる僕の意思の証拠だ、と断言できることが、ひとつだけある。

 いや、僕の意思そのものとか、だから僕には意思がある証拠なんて言い方は、下手をするとやっぱり歯車仕掛けかもしれない僕には、烏滸おこがましいのかもしれない。もっと慎ましく、丁寧に、慎重に言葉を選ぶのなら、それは〝表れ〟だと思う。

 簡潔に言うと、僕は毎日、放課後に絵を描いている。

 場所は、校舎に二つある美術系の専用教室の、あまり授業では使われていない七階の第二芸術室の方だ。この教室ではダンスの授業も行われるので、四方の壁のうち北と西の二面の壁に大きな鏡が掛けれていて、南側は一面のガラス張りになっている。入り口は東側の壁に廊下へ続くありふれた引き戸があって、あとは西の鏡の脇に非常階段へ出るための重い鉄扉があるだけだ。今はその扉に畳まれたイーゼルが十個ほど立てかけられていて、防災の観点から軽率なことに、事実上の開かずの扉にされている。

 あとは何もない。

 この学校の校舎は、複合超高層ビルの下寄りの階にあって、つまりは高層ビルの一部を間借りしている。ちょっと珍しい形態ではあるけれども、これがもし大学なら、講堂がビルにあるのは珍しくない。中・高等部ではちょっと他に知らないけれども、この学校は私学であるし、十二歳の時に入学してからずっとここにいるので、もう慣れてしまった。

 校舎が高層ビルの一部でも、中身はきっと他の学校とそんなに変わらない。学年ごと、クラスごとの教室に、いくつかの特別教室、それにフルコートの体育館、あとは上のビジネス施設と共用の、ビルから半分張り出した運動場。たぶん、他の中学や高校と比べて、それほど見劣りしない構成だろう。

 第二芸術室は、それらの教室の一番上のフロアの南西の隅にある。だから、一面がガラス張りになった南側の端から外の方を向くと、空と眼下の街並みだけが視界いっぱいに広がる。それ以外のものは、一切見えない。

 初めてこの教室を訪れたとき僕は、まるで空にぽつんと浮かんだ「袋小路ゆきどまり」のようだと思った。ここより後ろに世界はない、だからここは世界の端っこで、ここからは僕たちの住む街、小さな世界を一望することができる。

 自分が今、世界の端に立っているという感覚は、それ以来僕を魅了して止まず、抗いがたい依存性で僕を酔わせ続けている。ドラッグの効き目は個人差が大きいのだそうだけれども、僕にとってこの教室は、相性が良すぎる薬のようなものなのだろう。

 だから僕は、放課後になると必ずここへ来て、勝手にイーゼルとパイプ椅子を引き出し、美術準備室から許可をもらって拝借している二十五号、四十二インチの電化デジタルキャンパスに向かって絵を描いている。

 でも、描いているのは風景画ではない。ここの景色と雰囲気は好きだけれども、僕が絵を描きたいと思ったのは、この教室があったからではないからだ。

 あるいは「八尾伊織が毎日放課後に第二芸術室で熱心に絵を描く」という習慣的な行為すら、誰かの書いた脚本で設定されただけの、偽物の自己同一性感アイデンティティなのかもしれないけれども、脚本家を持ってしても〝絵を描く〟という行為までは設定できても、それによって「どんな絵が出力アウトプツトされるか」は束縛できないはずだ。

 例えば風景画ランドスケープ? または人物画フィギユア? それとも抽象画アブストラクト? そのどれか、という僕の趣向が仮に誰かによって設定され、決められていたとしても。その人が僕は肖像画を描くことを知っていたとしても。誰を描くのかまで知っていようとも。

 実際にどんな絵がキャンパスの上に浮かび上がってくるのかまでは、知りようもない。

 絵は、描き手の感性や技術に、圧倒的にたくさんの偶然を乗算かげざんして出来上がる、人智には予測不能の奇跡の産物だ。それがどんな駄作であろうとも、美術的価値がゼロに等しかったとしても、同じ絵は二枚と描かれることはない。同じような絵を描こうとすることはできるし、絵の模写もできるけれども、その絵にはもう、元の絵を試行錯誤、手探りで描き出した、キャンパスには収まりきらないほどの多様な可能性と感性を失ってしまっている。

 それが、所詮は表音文字で数十、無駄に数の多い表意文字でもわずか数千から数万程度のごく狭いバリエーションしか道具パーツとして持ち得ない文芸作品との違いだ。文芸作品は、書き手がどんなに汗水を流し、血反吐を吐くほどの情熱を傾けて書き綴ったとしても、キーボードとモニタすらあれば小学生でも数時間でまったく劣化なく書き写せる程度の多様性しか持ち得ない。読み手は、小学生が粗末なワードプロセッサで書き写した模造品と、作者のオリジナルの原稿との違いに気づくことはできない。最近は機械読み取りソフトの性能も向上しているから、そうしたスキャナ装置を使えばテキスト化と複写などほんの十数分もかからない。十年かけた大作であろうと、ランチタイムの間に三冊は複写が終わる。だから、「チンパンジーだってタイプライターを与えればいつかはシェイクスピアを書ける」などという不埒な冗談が成立する。

 絵はそうはいかない。たとえ、横一文字に青い線を引くだけであっても、同じ線は二本とない。新たな線を描くたびに筆先の形は変わるし、塗料の色も刻一刻と微妙に変化していく。なにより、その線を引いたときに指先に微かに伝わる描き手の感情や迷いは、キャンパスの上でいとも簡単に暴露されてしまう。

 そのあたりは、文芸作品では直筆の原稿が記念品程度の価値しか持たず、わざわざ直筆原稿の方を読むことに意味を見いだす人が少ないのに比べ、絵画ではオリジナルが重宝されて写真や模写では得られない感動を求める人が多いことからもわかる。文芸作品の価値とは直筆ではなく、文字というデジタルで綴られたソフトウェアの方にあるのだ。

 だから、八尾伊織という誰かを僕に演じさせている脚本家がもし本当にどこかにいたとしたら、彼にはシェイクスピアの戯曲を僕に書かせることなんて造作もないことだけれども、ひとたび何かの「絵画」を描かせようとしようものなら、出来上がる絵は絶対に彼の思い通りにはならない。

 つまり、そこにだけ誰にも律し侵しがたい、僕だけの意思が〝表れ〟て、この世界に形となって残ることになる。

 学生としての全ての行動や友人関係に至るまで、実は誰かの意のままに過ぎず、自分は八尾伊織という高校生の空蝉ぬけがらなのではないかという疑問を心の芯からぬぐい去ることができない僕にとって、それゆえに「絵を描く」という行為が、この世界に垂らされたたった一本の救済の蜘蛛の糸にも思えるのだ。絵を描いている間だけは、僕は確かに「る」。そう実感できるし、僕が明日いなくなってしまっても、僕が描いたものは残って、見る人に僕の意思が実在したことを証してくれる。

「でも、そうならちょっと嫉妬しちゃうな」

 それまでじっと僕の話に耳を澄ませて、相づちだけ打っていた彼女は、子猫のような独特の悪戯っぽい眼差しで僕の顔を見上げて言った。

 そう、絵を描いている放課後の時間の半分程度、僕はひとりではない。さっきまでの話に沿うのであれば絵はひとりきりで描くのが望ましい。実際そのために僕は美術部の部室になっている第一芸術室ではなく、辺鄙な場所にある第二芸術室まで毎日足を伸ばしている。

 だというのに、彼女は毎日ここへやってきては、僕が絵を描いているのを、飽きもせずじっと眺めているのである。それもあろうことか、僕の膝の上に小さなお尻で横向きに腰掛けて、キャンパスと僕の身体の間に割り込ませて。

 猫は人間が真面目に何かに打ち込んでいるときほどスキンシップを求めてくるものだけれど、彼女はまさにそれだ。

 なぜ、と僕が問うと、彼女は中等部も三年生になれば普通はできなくなってしまうような無邪気な笑みを浮かべながら、電化筆デジタイザを握る僕の手を押しのけてキャンパスに広げた右手で触れ、そっと撫でる。

「だって、だったら静物画でも風景画でもなんでもいいわけじゃない? なのに、伊織んが描くのって、この女の子だけなんだもの」

 彼女があらためて「なんでそんなに熱心に絵を描くの」と尋ねてきたから、さっきまでの話をしたのだけれども、確かにそうすると次は「じゃあなんで肖像画なのか」という疑問が返ってくるのは当然かもしれない。

「僕にはこの子しか描けないから」

「だから、部長さんからいくら勧誘されても、いつまでも美術部に入らないの?」

「そうだね。林檎とか洋梨とか、石膏像とか描いている自分って、ちょっと想像できないかな。それに、美術部は油彩の人が多いから――」

「伊織んだって、油絵に挑戦してみればいいじゃない」

 僕は両腕の真ん中にちょこんと収まっている彼女から視線をそらし、小さく唸ってしまった。当たり前のことをあらためて問いただされるというのは、思いの外、頭の中の錆びた部分を酷使する。

「ううん、やっぱり僕は水彩画がいいな。ほら、油彩画って、色をパレットの上で作って、それを塗り重ねていくでしょ。それで、隣り合った色との組み合わせを試行錯誤して、満足がいくまで何度でも上から塗り替えるのだけれど――」

 僕が言葉に詰まる間も、膝の上の彼女は大きな白いリボンでハーフアップにした髪を微かに揺らしながら、もの楽しげに上目遣いで僕の顔を見つめている。

「水彩画はさ、紙に塗料が染み入ったときに、初めて色が〝出来〟るんだ。だから、実際に塗ってみるまで、どんな色になるのか誰にもわからない。前に塗った色と、後から塗った色が溶け合って、パレットの上で探しているうちは想像もつかなかった色が見えてくる。僕はたぶん、その感覚が好きなんだと思う」

「色をどんどん混ぜていくと、最後には真っ黒になっちゃうんじゃないの?」

 減色法という、理科あたりで誰でも一度は習っていそうな常識だ。

「そうだね。だから普通、水彩画は油彩みたいに何年もかけて描くことはない」

 油彩の場合、色を塗り重ねればいくらでも明るい色をキャンパスの上に取り戻すことができる。だから、何十年もかけて修正を繰り返してもいつまでも納得がいかなくて完成しなかったり、画家が己の半生を費やした超大作なんてものも生まれる。

 けれど、水彩画では、下地の紙よりも明るい色は決して描けない。紙に色を乗せれば、それは必ず紙本来の白よりも暗い色になる。色を重ねれば重ねるほどに、どうやっても最果ての黒へ近づいていく。

 油彩が耐久レースなら、水彩画はチキンレースみたいなものかもしれない。油彩は、描き手の心が折れない限り、レーシングコースを周回するように何度でも同じ色でやり直して納得がいくまで書き直すことが出来る。一方、水彩は最終的に紙一面が真っ黒になるという限界が常に見えていて、アクセルとブレーキはあってもバックギアはない。理想の停止位置をひとたび行きすぎてしまったら、やり直しはもうできない。

「でも、伊織んはこの絵だけを、もう長いことずっと描いているじゃない?」

「ああ、それはね――」

 無垢な疑問に、僕は少しだけ意地悪な笑みが顔に浮かぶのを抑えきれなかった。

「こうするんだよ」

 僕は電子キャンパスの脇からタッチ操作でメニューを呼び出し、表れたスライダーを軽く左へ滑らせた。

 とたん、少女の絵はまるで霧がかかったように淡い色合いへ変わる。

「あ、ズルだ。今、ズルしたでしょ?」

 小さな手の人差し指を突き出して、子どもの悪戯を見咎めたように千尋は言ったけれども、なにせ僕の膝の上、それも僕より頭ひとつ半も小さな身体でそんな仕草をされても、やっぱり子猫みたいな愛らしさが増すばかりだ。本人も、たぶんそれがわかってやっている。

「ズルっていえばズルかな。アナログの紙と筆だと、この手は使えないしね」

 なんのことはない、描画ソフトウェアの機能で絵全体の明度を調整しただけなのだけれども、これがあるからこそ、デジタルの水彩画は伝統的なアナログ画ではできない色や表現を突き詰めていくことができる。

 毎日、僕はいつも少しだけこうして絵全体の明度を少しだけ上げ、全体の色合いを明るくしてから絵の続きを描いているのだ。さすがに消去やコントラストみたいな露骨な機能を使うとすぐに絵全体のバランスが崩れてしまうのだけれども、明度の調整機能だけはデジタル水彩と極めて相性がいい。こうすれば、何百、何千と筆を重ね、無数の色を溶かし合っても、絵が暗い色へ落ちていくことはない。だから、色を重ねるほどに豊かな色彩を表現できる水彩でありながら、油彩のように自分の納得がいくまで何度でも色を重ねていくことが出来る。

「ま、これがデジタル水彩に僕がこだわる理由の一つ」

 水彩で、しかもデジタルでなくては、自分の描きたい絵が描けないとわかっているから、美術部には入れないのだ。

 部活動に入ってしまったら、たとえ好きな手法で好きな絵を描かせてもらえるのだとしても、最終的な作品の完成にはやはり手に触れられる、物理的で、伝統的な布のキャンパスか紙での出力を求められる。デジタルデータで描いてプリンタで印刷したものなど、今の時代はまだ芸術の成果としては認められない。少なくとも普通科のいち高校生のうちには。

 これから時代とともにデジタル美術が普及していくとはわかっていても、大人たちにはまだそれを安易に容認することは難しいのだ。中には「今の若い描き手はすぐに電気と機械でなんとかしようとするが、私の時代は鉛筆と紙さえあればどこでも絵が描けたんだ」なんて本気で豪語して陰で失笑されている美術界の重鎮までいる始末で、彼のような人がそろって鬼籍にでも入らない限り、僕みたいな描き方の学生風情が、しかも大人の思い通りの未成年を育むためにある学校の中での正式な部活動で、好き勝手を許されるはずがない。たとえ部長や顧問が許してくれても、他の部員の手前もあるから、迷惑をかけることは避けられないだろう。

「でも、デジタル絵ならタブレット端末だけあれば教室でも描けるんじゃないの?」

「そうなんだけども……学校指定の十インチのタブレットだと絵全体を見渡して描けないからどうしても窮屈だし、色深度がたった二十四ビットだと水彩画には、ちょっとね。グラデの縞模様が見えちゃったりするんだ」

「だから美術部の先生にお願いして、わざわざ六十四ビットの電化キャンパスを借りてるのね」

「そういうこと。あと、できるだけ同じ場所で描かないと、同じ色でも光の関係で微妙に違って見えちゃったりするものだからね」

「じゃあ、絵を描くときには私が伊織んの膝の上に座るのも大事なことなのね。そうしないといつも通りじゃないもの」

 思わず首を傾げそうになってしまった途端、千尋の両手が伸びてきて、顎の左右を押さえて強引に頷かされてしまった。

「……はい、少しは、たぶん」

「よし」

 僕から力尽くで心にもない肯定の言葉を引き出した膝の上の暴君少女は、腕を組んで満足げに頷いている。その身振りの勢いでバランスを崩し、背中の方へひっくり返りそうになったのは、まあ彼女ならご愛敬というものだろう。

「ありがと」

 ペンを持ったままの右腕で支えてあげると、珍しくしおらしげに礼を言われた。

「いえいえ、お姫様」

 まさにお姫様だっこの格好になってしまったのでそう戯けてみせると、千尋も調子に乗って、

「うむ、良きに計らえ」

 すっかり僕の腕に寄りかかりながら満足げに頷いている。

「千尋、それじゃお姫様じゃなくてお殿様だよ」

「え、じゃあどんなのがお姫様っぽいの? 『よよよよ……』って泣けばいい?」

「さあ。僕に聞かれても……会ったことないし、本物のお姫様なんて」

「目の前にいるじゃない」

 凄い。この子今、真顔で、素で、しれっと言った。

「千尋姫、ねぇ。ちょっとお転婆が過ぎやしませんか」

「じゃあこんな感じかな、『ああ伊織ん、どうしてあなたは伊織んなの?』」

「それって、若様が一目惚れして別なお姫様に夢中になる話じゃなかったけ?」

「いいのよ。だって伊織んはいつか私の魅力の虜になって、絵の中の女の子ことなんて『白鳥ではなく烏だった』って気がつくんだから」

 ああ、自分はロザラインではなくてジュリエットの方だと言いたいわけだ。だとすると、最初の「嫉妬する」というのが誰のことなのかと言えば――

「千尋、もしかして、僕がこの絵の女の子に恋をしてると思ってる?」

「……違うの?」

 目を丸くして首を傾げる千尋に、僕は苦笑して「違うよ」と答える。

「さっき、僕が絵を描くのは自分の意思がここにあるって実感が得たいから、っていったでしょ。僕はね、この女の子のことをまったく知らないんだ」

 僕は銀髪碧眼の少女が静かに佇む絵のキャンパスを撫でながら、思い切って打ち明ける。

「この絵の女の子は、伊織んの空想の中にしかいないってこと?」

「ううん、たぶんこの子をどこかで見たことはあるんだよ。だけど、どこでどうやって出会ったのか、それともすれ違っただけのか、全然思い出せないんだ」

 髪と目の色はまず日本人のそれではない。顔立ちからしても、きっとロシアか東欧の方の出身だろうと僕は思っている。テレビで見るロシアのフィギュア・スケートの選手とよく似た雰囲気だからだ。

 当然、そんなに印象の強い、しかも年の近い少女と出会ったことがあるのなら、忘れてしまうとは到底思えないのだけれども、なぜか僕には容姿以外、彼女のことをいっさい思い出せない。

 物心つく前に紹介された親戚などに対する記憶と少し似ている。再会したとき、向こうは覚えていてもこちらはどうもピンとこないときと、同じような感じだ。

 だけど、僕の生まれ育った場所は、時代から取り残されたような古い雰囲気が残る山奥の田舎で、この学校の中等部に入学するまで、僕はそこから一歩も外に出たことがなかった。だから、こんな国際色豊かな少女と幼い頃に出会っていたとは考えづらい。

「テレビや写真の中の人じゃないの?」

「たぶん、違うと思う。見た目だけじゃなくて、その――」

 妙に生々しい存在感、と口にしようとして、辛うじて飲み込んだ。

 僕はきっと、椅子に腰掛けたところを斜めから見たこの絵の構図だけではなく、その気になれば三百六十度、上から見下ろしても下から見上げても、自由自在なカットで彼女を描くことが出来るはずだ。そういう自信がある。

 白いワンピースを着て椅子に腰掛けたところを選んで描いているのは、彼女の醸し出す雰囲気にその構図が一番似合っているからで、逆に言えば僕の空想が割って入る余地は、そうした彼女の所作ぐらいしかない。容姿なら、たとえ一糸まとわぬ姿であろうとも、目を閉じればこの手で触れたことがあるかのように、きっと髪から漂う花のような香りまで、一分の曖昧さすらなく思い起こせてしまうからだ。

「まあ、とにかく、彼女のことは僕しか知らないのに、僕は彼女のことを思い出せない。もし、さっき言ったように僕が誰かの操り人形や、身代わりロボットだとしたら、持ち主や制作者はそんな曖昧で意味のない記憶を、わざわざ僕の頭の中に組み込まないと思うんだよね」

「自分が誰かの代わりの偽物じゃないかとか、自分の記憶が誰かに捏造されているんじゃないかって考えちゃって夜も眠れない心配性の伊織んは、いるはずのないこの女の子の絵を描いている間はほっと安心できる、ってことね?」

「うん、まあだいたいそう。僕が仮に誰かの偽物でも、本物にはこの絵が描けないだろうと思うんだ。だから、僕がここに今いて、今日ここに確かに存在した証拠になるはず、そう思うんだよ」

 相も変わらずお姫様だっこで僕の右腕に背中を預けたまま、僕の絵の進行を妨害し続けている千尋は、何か考え込むように目を閉じて、小さく唸りながら頭を右へ、左へ揺らしている。そのたびにハーフアップの髪を結ぶ大きなリボンもひょこひょこと揺れるので、本当に子猫の耳のようだった。

「やっぱり、伊織んは洋弓アーチェリー部に入ればいいと思うよ」

「さっきまでは美術部って言ってたのに……」

 本当に気まぐれなお姫様である。

「身体を動かさないから、青春の情欲を持てあまして悶々と変なことを考えちゃうんだよ、きっと」

 言うに事欠いて「情欲」と来た。千尋の可愛らしい容姿に惑わされていると、初対面の相手はきっとこういう明け透けな物言いにびっくりすることだろう。

「洋弓部はダメだってば……もう、二度とあそこの敷居はまたげないよ」

「そんなことないよ、それは伊織んが勝手に敬遠してるだけでしょ。キャプテンはいつでも待ってるっていってくれたじゃない?」

 一応断っておくと、僕は運動音痴だ。体育全般の成績は酷いものである。洋弓は他のスポーツとはまた少し違うけれども、体育会系であることに変わりはない。

「インターハイにでも出た先輩に勝ったのに、あのときなんで入部しなかったの?」

「勝ってなんていないよ、あんなの。先輩に申し訳ない」

 四年生になって間もなく、つまり今年の春に、クラスメイトの付き添いで洋弓部を見学したことがある。そのとき、例によって千尋も同行していた。

 弓道や洋弓には「俵撃ち」という、目の前の的に向かって弓を放ってする簡単な練習があるのだが、先輩方の指導の下、体験入部という形でクラスメイトが特別にこれをやらせてもらえることになった。

 そのときのクラスメイトの腕前は酷いもので、初心者だから下手なのは仕方ないのだが、端から見ても才能に恵まれていないとひと目でわかるほどだった。放った矢が俵から外れてとんでもないところに刺さることもあったし、矢は次々と曲がって使い物にならなくなるしで、周囲を囲んだ部員たちからいい笑いものにされていた。

 僕は付き添いと言うことで、射場の隅でそれをじっと見守っていた。しかし、先輩だけならまだしも、一年や二年、つまり中等部の後輩たちにまで級友がコケ降ろされているのを目の当たりにして、僕は少し頭に血が上って――つまり、少々前後不覚、感情的になって、つい自分もやらせて欲しいと申し出てしまった。しかもよりにもよって、練習用に置かれていた中では一番力のいる三十六ポンドの、それも左利き用の弓を選らんで、俵の前に立ったのである。

 当然、その場の全員が、初めてで三十六ポンドの弓なんてまともに引けるわけがない、そう考えていたと思う。だけど、僕が一本、二本と撃ち込んでいくうちに、誰もが言葉を失っていった。

 それは、僕の撃ち方が極端な変型だったからだ。普通、和弓でも洋弓でも、弓は垂直に立てて使う。構えるまでの作法には色々あるけれども、狙いをつけるときは必ず弓は垂直になる。その方が遠くまで、かつまっすぐ飛ぶし、弓自体もそれを扱う技術も、それに合わせて洗練されている。なのに、僕は弓を横に構えて撃ったのだ。

 それは、映画のギャングが横向きに拳銃を構えるのと同じ、あってはならない邪道だ。だけど、僕が放った矢はどんどん俵の中心に集まっていく。やがて、矢同士が触れあって危険になったので、キャプテンが試しに射場の的に向かって撃ってみるようにと促してくれた。

 初めは一番近い十メートルから、十五メートル、三十メートル、そして学校内の射場では一番遠い六十メートルまで。さすがに初めて握った、ろくに調整もされていない他人の弓で一発必中とはいかなかったけれども、短い距離のときに弓の癖がだんだんわかってきていたので、的が遠くなるほど的の中心に矢が集まるという、奇妙な結果になった。

 そのとき、けっして僕を意識していたのではなかったのだと思うのだけれど、たまたま、それまで輪に加わっていなかった、ひとつ上の五年生の先輩のひとりが、僕と同じリズムで六十メートルの的を撃っていた。

 だから、僕も先輩も、キャプテンだって、別に競わせるつもりはまったくなかったはずなのだけれど、どちらもいつまでも的を外さないものだから、どちらが先に外すかと皆が固唾を呑んで見守る中、ついに先輩の矢が先に外れてしまった。しかも、目も当てられないことに、先輩の弓は自前のフル装備、一方の僕はフォームの練習用で照準器サイトもクリッカーも、一本のスタビライザーすらもついていない裸弓ベア・ボウだったものだから、先輩の面子に酷く泥を塗ってしまうことになった。

 その先輩が個人種目でインターハイにも出場した五年生のエースだったことを知ったのは、明けて翌週のことだ。以来、僕はアーチェリー部の射場には一歩たりとも近づけなくなってしまった。申し訳ないのと、それ以上に恥ずかしくて仕方ないからだ。

「才能あるのに、もったいない」

「ないよ、才能なんて、まったくね。あのときは運が良かっただけ。ほら、これ見てごらん」

 僕の腕に寄りかかったままの千尋を膝の上で腰掛けなおさせてから、僕は左腕の袖を二の腕まで巻くって見せた。その肘の関節は、普通の人とは少し違う形をしていて、いっぱいまで伸ばすと微かに逆向きに反っている。

「生まれつきね、俗に言う〝猿腕〟なんだ。向いてないんだよ」

 弓の競技は才能に依存するところが他のスポーツよりも大きいが、猿腕は決定的に不利な身体要素のひとつだ。この形の腕の人は、他の人に比べて弓を強く、まっすぐに引くことが難しい。スタートラインから酷いハンデを負っているのである。猿腕に生まれたら、趣味で弓道やアーチェリーを続けるのは自由だが、競技で好成績を残すことは難しいのが現実だ。

「でも、あの横撃ちはかっこよかったし、ちゃんと当たってたじゃない?」

「あんな出鱈目な撃ち方、本番の競技でやったら危ないし、怒られちゃうよ」

「当たるならどうでもいいじゃない。それに、ならなんで伊織んはそんな変わった撃ち方ができるの?」

「家が――昔から子どもには弓を教える習わしがあってね、村の祭りで弓の腕前を披露するのが、僕の家の子の大事な役目だったんだ」

 そういえば、この話はまだ千尋にはしたことなかったっけ、と苦笑いしながら、恥ずかしい思い出話を紡ぐ。

「僕も小学生の低学年ぐらいまでずいぶん厳しく手ほどきされたんだけれども、この腕のせいでぜんぜん上達しなくてね、二つ下の妹の方はどんどん上手になるのに、悔しくて……。それで、試しに映画の真似をして、弓を横に寝かせて撃ってみたら、すごく狙いやすくて。あとは、家の下な――じゃない、お手伝いさんにこっそり教えてもらいながら、隠れて横撃ちの練習をしてたんだ。だけど、そのうちに父様と御爺様に横撃ちの練習がバレて、こっぴどく怒られて。家の中ではそれきり居心地が悪くなってしまって」

「それで、ひとり暮らしして、ついでにこの学校に入学したの?」

「ついでにってわけじゃないけれど、まあ従姉妹の子が小学校に上がったから僕の代わりができるようになったし、僕が中学に上がるのを機に、私立の学校に送り込む名目で家の古い習わしから解放してくれたのかもしれないね。僕もまだ大人同士の話はよくわからない子どもだったから、あまりはっきりと覚えていないけれども」

 だから、この学校に入学して以来、実家に戻ったことは一度もない。たまにお手伝いさんが来て身の回りの世話をしてくれるし、近所にはよくしてくれる分家のご家族がいてくれて安心だし、仕送りも十分以上にもらっているから困ってはいないが、電話も母や祖母と月一回するだけで、父の声はもう長いこと聞いていない。

「じゃあ、運命だったんだよ!」

 子猫の暴君少女は、また軽く成層圏くらいまで飛躍するくらい突拍子のないことを言う。

「ん……どういうこと?」

「だから、伊織んは猿腕に生まれたから弓が下手だったんでしょ?」

「うん、まあ――」

「それで弓が下手だったから変な撃ち方を覚えたんでしょ? で、その練習をしてたから怒られてお家にいられなくなったんでしょ? お家にいられなくなったからこの学校に来ることになったんでしょ? それで、この学校に来たから私と会えたわけじゃない?」

 一体どういう舌と言語野の構造で生まれたらこんなに早く回るのだろうと思うくらい、超高速で畳みかける疾風の五段論法を浴びせられた。

「そ、そういうことになる、のかな」

「それって、伊織んは猿腕で生まれたときから私と結婚するって運命で決まったってたってことだよ!」

「な、なるほど言われてみればそう……え、結婚までその運命にコミ!?」

「私、花嫁のスピーチでこう言うね! 『出会い? いえ、私たち生まれたときから結ばれる運命でした』って! きゃ、恥ずかしい!」

 両手で隠すほど赤くなっていない頬を見れば、楽しくてやっているのがわかる。

 なんだろ、頭の回転がいまいちで夢見がちな子は、まあ好きに妄想していればいいと思う。頭の回転が速くてリアリストな人は、勝手に堅実に生きてれば誰も文句は言わないと思う。でも、頭の回転が速いのに夢見がちという変な才能を持って生まれてしまった子の相手は、容易じゃない。

 けれど、嫌いじゃない。

 千尋は運命や決められた未来みたいな神秘的なものに憧れているところがあって、毎朝の占いは頼んでもいないのに僕の分までチェックして報告してくれる。そういうものを無邪気に感じるままに信じて受け入れられるところが、自分は誰かに操られるままなんじゃないかと無駄に悩んで、自分の意思の在処みたいなものを見苦しく探している僕とは正反対だ。

 僕には、千尋が眩しい。顔も可愛いし、少しフェミニンなセンスも似合っていると思う。三年生の中ではいつも一際目立っているし、その分それなりに敵もいるはずだけれども、少々の軋轢ぐらいものともしない意志の強さを持っている。

 でも、僕が心を惹かれるのはそういう誰が見ても好感を得られる特徴ではなくて、僕の心の弱い部分にまるであつらえたようにぴったりとはまる、彼女の生き方みたいなものが、余りにも眩しく見えるからだ。

 こんな恵まれた出会いは、残りの人生はおろか、あと何度生まれ変わってもそうそうないんじゃないかとまで、僕には思える。だから――

「僕も千尋のことが好きだよ、知っている人の中で一番ね。だけれども――」

「じゃあ結婚しよう!」

「今ものすごく大事な接続詞だけを狙い澄まして強引にスルーしたよね!?」

 二人きりのときだけでなく、一緒にいるといつもこんな感じになるので、クラスメイトの皆からはすっかり「八尾伊織にはひとつ年下の美少女通い妻がいる」なんて思われてしまっている。別に悪い気はしないし、まわりの友人たちは僕の隣にいつも千尋がいることにもう慣れてしまっているから、今さら口で取り繕う気もしないのだけれど、僕と千尋の間には無視できない大きな障害が、ひとつだけ横たわっている。

「千尋、今は何歳?」

「十五だよ」

「日本では十六歳未満の女の子は結婚できません」

「えーっ」

 盛大に肩を落としてがっかりした振りをしているが、ここまでいつものやりとりなので、筋書きの決まった漫才みたいなものだ。

「じゃあ私が十六歳になったら結婚ね! 午前零時に!」

 そんな深夜に婚姻届を持ってこられてもお役所の人が困るのではなかろうか。

「誕生日は?」

「二月二十四日」

「来年じゃん、まだ半年以上あるよ」

「うう……」

 と、こうして年齢を盾にして求婚話を有耶無耶にするまでがいつもの流れなのだけれども、逆に言えばこのかわし方は来年の二月までしか通用しないということだ。

 もちろん千尋だって冗談のつもりだろうから、そのときになっても無茶なことにはならないとは思うけれども、千尋が十六歳になった途端にこの日課みたいなやり取りがタブーになってしまうというのも、なんだか余所余所しくて寂しい。

 だから、近いうちに別なかわし方を考えておかなくてはならない。次はせめて十八歳、千尋がこの学校を卒業するくらいまで先延ばしに出来るような、何か新しい理由を。それはきっと年上で、かつ後から気持ちを告げた僕の方にある責任だ。

「もしかして……伊織んさ、この絵が出来上がるまでは、誰も好きにならないとか、思ってない?」

 僕の胸にぴったりと頭を寄せて、まるで僕の心臓の音の些細な乱れも聞き逃すまいとするかのようにしながら、千尋は恐る恐るといった様子で尋ねてくる。

「ううん、考えたこともなかったかな。なんでそんなこと聞くの?」

「なんとなく……なんかね、この絵が出来上がったら、伊織んがどこかいっちゃうような気がする」

 平静を装っていたけれども、そのとき確かに僕の心臓は大きく跳ねたし、それは千尋にも気づかれてしまっただろう。

 この絵が完成した後の自分が何をしているかなんて、今まで一度も考えたことがなかったかもしれない。放課後になったらいつもここへ来て、たいていは千尋も一緒にいて、絵の続きを描く毎日に、僕はすっかり慣れきってしまっていた。

 今は、絵を描くことで自分が本当はいないのではないかという不安から自分を守っている。でも、絵が完成してしまったら、その後は? 

 この絵は描き終える瞬間まで確かに僕の絵で、僕の意思の〝表れ〟で、僕がここにいる証拠だ。でも、もうこの絵に手を加えるところがなくなって、その次の日に完成したこの絵を眺めたとき、僕はこの絵が確かに自分の描いたものだと言い張れるだろうか。自分で描いた、と誰かに思わされているのでは、という不安を、僕は拭いきれるのだろうか。

 あるいは、この絵のモデルの少女の正体がわかってしまったら? 僕はこの空想の少女に恋愛感情を抱いたことはないと断言できるし、確かにすごい美人だけれども、実際に出会ったとしても途端に千尋より好きになるとは思えない。でも、出会う前と出会った後で、僕は同じままの僕でいられるのだろうか。今の僕は、この少女が実在しないという前提を元に、自分の病的な不安を辛うじて紛らわせているというのに。

「それは――」

 その瞬間は、絶対に言葉に詰まってはいけなかった。嘘でもいいから「ノー」と言えば良かったのだ。でも、千尋の鮮烈な言の葉は確かに僕の脳の中心を射貫いて、僕の意識はその矢傷へ気を取られて一瞬、自分の内側へ向いてしまった。

 我に返ったときには、千尋の小さな唇が取り繕う言葉を探していた僕の口を塞いでしまっていた。

 これで、もう何度目のキスだっただろう。初めてのキスはどこでだっけ。何度しても、粘膜の触れない、まるで色づく前の果実のような、幼くて未熟なキスのままだ。その先は僕が本当に許さないことを千尋は知っている、今日まで僕はそう思っていた。

 人工呼吸にも劣る、ほんの少し口の中の息を交換するだけの口づけが終わって、ほんのりと染まった頬の上の、猫のような丸い瞳の光が、僕の両目を網膜まで貫く。

「ねえ、私は伊織んだけは、誰にも渡さないよ。この絵の中の子が他の誰かを欲しいって言うのなら、伊織ん以外の全員をあげる。でも、伊織んだけはあげはない。あげるくらいなら――」

 ――壊すよ。飲み込まれたその言葉が、音以外の何かで僕の鼓膜を揺らす。そして俯いた千尋は、それと一緒に飲み込んだ息を吐き出すまでのわずかな間の後にゆっくりと顔を上げる。その瞳に宿る色を見て、さっき言葉に詰まったことが取り返しのつかない過ちだったことに、僕はようやく気がついた。

 もう遅い。たぶん、今さら僕が何かその場しのぎのことを言おうものなら、千尋は何度でも僕の口を塞ぐだろう。そう思わせるくらい力強い視線で僕の両目を串刺しにしたまま、千尋は脚の付け根近くまでプリーツ・スカートをたくし上げ、僕の膝の上で小さな身体を器用に折りたたむ。

 すらりと伸びる白い脚が太腿まで露わになって、真昼の太陽のように丸い左の膝頭が僕の顎の下を通り過ぎていった。

「さっき、伊織んが絵を描く理由を教えてくれて、それで私、気づいたんだけど。何か自分だけのものを残していないと不安になるって、だからこの子の絵を描いてるんだって……それって、絵じゃなくてもいいんでしょ。絵ならひとりでもできるから、とりあえずそうしているだけで。でも、私と二人なら、もっと簡単で、当たり前で、普通にできることって、あるじゃない?」

 僕の腰に跨がる形になった千尋は、少し震える声で囁く。僕は千尋の顔から目をそらすことができない。僕の首は、後ろに回された千尋の両腕の中に、すっかり捕まってしまっていたからだ。

「赤ちゃん、つくろうよ」

 三度目の正直とでもいうのだろうか。今度こそ、ただの思いつきではない。脅迫と紙一重の、提案という服を纏った、強制。

「千尋。椅子の上じゃ、危ないよ」

「いいの。危ないこと、するんだから」

 声はまだ微かに震えているのに、瞳には迷いの色がない。千尋の目にはきっと僕だけが映っていて、僕の目にももう千尋しか見えない。白い少女の佇むキャンパスは千尋の頭の向こう側で、それはもう地球の裏側よりも僕たちから遠くなっていた。

 互いの吐息が混じり合って、代わりに言葉は形をなくしていく。もう建前も、ずっと保ってきた微妙な距離感も、校則も、法律すらも、僕と千尋の間に割り込むには余りにも無力と化している。

 千尋に火をつけてしまったのは、紛れもなく僕の方だ。こんなことにはならないようにずっと気をつけてきたというのに、さっきの一瞬で、言葉を濁らせてしまったあのほんのわずかの瞬間だけで、全ては台無しになってしまった。だから、これから起きることはすべて、僕の責任だ。誰かが僕たちのすることを咎めようとするのなら、その責めと報いは僕がひとりで負わなくてはいけない。

 たとえ、それが僕の全生涯を費やしてもなお償えないのだとしても、僕にも、千尋にも、もう後戻りはできない。もう遅いのだ、僕が思っていたよりもずっと早くその時が訪れてしまったのだとしても、僕たちにはもう遅すぎた。

 だから、僕は手探りでペンをキャンパスの淵に置いて、代わりに千尋の背中に流れるセミロングの綺麗な髪の間に指を通した。

「どうなっても知らない――」

「いいよ、どうなっても」

「なんて、言わないよ。もう、ね」

 はっとしたように見えた千尋の顔は、すぐに甘い色に染まって、ゆっくりと瞳を閉じていく。

 彼女の背丈には不釣り合いなほど豊かな胸に僕はゆっくり右手を伸ばし、学年色の緑のタイを抜き取りながら、左手で細い肩を掴まえ、顔を寄せていく――。

 トン……トン……トントン……。

 その音は、僕たちの心臓の鼓動のリズムを見透かしたように響いて、今にも唇同士が触れあいそうになっていた僕たちを金縛りにかけた。

 ついには露骨な咳払いまで聞こえてくるに至って千尋は目を開き、僕たちの魔法に強引に割り込んできた無粋者を、僕の肩越しに忌々しげに睨み付けた。

 振り返ると、いつの間にか半開きになっていた入り口に、痩身の生徒が腕組みをして寄りかかっていた。

「すまない。話が一段落するまで待つつもりだったんだが、長くなりそうだったのでね」

 苦笑しながら、手でドアをノックする仕草をして見せる。そんな芝居がかった動作も、あいかわらずよく似合う人だった。

「これはこれは――あま先輩。わざわざ先輩自らお越し頂くなんて、付け睫毛かマニキュアでもここにお忘れになられまして?」

「生憎そういうものの必要を感じたことがなくてね、小野君。すまないが、今日は俺の方が先約だ。正確には俺はただのオツカイだが――八尾伊織君、君が先生との約束を反故にするとは思えないが、時計を見るのも忘れるほど絵の中の少女に夢中になっていたのかな? それとも、目の前の生身の子のほうかい?」

 僕は自分の左手首に目を走らせ、それから教室に備え付けの時計も確認してはっとなる。最後に時計を見たときはまだ三時半だったのに、今はもう四時を二十分も回っている。窓の外の日差しも、だいぶ斜めに傾いていた。

 慌てて椅子から腰を浮かそうとし、それから千尋がまだ跨がったままだったことを思い出す。だが僕がどけるまでもなく、千尋は体重をどこでなくしたかのように僕の上から軽やかに床に降り立ち、平然とした素振りでスカートの裾を整えていた。

「私、あの人大嫌いよ」

 天海先輩に見せつけるように露骨な耳打ちをしてから、僕の手からタイを受け取って天海先輩のいる入り口に向かい歩き出す。

 天海先輩は二つ下の後輩のためにわざわざ道を譲ったのだが、千尋はさも当然かのようにその目の前を通り過ぎて、廊下へ出て行った。二人がすれ違った瞬間、天海先輩なにか小声で呟いて、千尋はそれを聞き咎めて一瞬だけ足を止めたように見えたが、僕の見間違いだったかもしれない。

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現約聖書と黒の外典のエトランゼ 籘真千歳 @tomachitose

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