少女、龍を屠りて国を救うの段

神田 るふ

少女、龍を屠りて国を救うの段

 後漢の和帝の時代の話である。


 陰網は目の前にある“食材”を暗い目で見つめていた。

 朝晩の冷え込みが衣服を通して伝わりはじめた十月の末、陰網はずり落ちかける襟巻を時折締め直しながら、中庭の中心に据えられている台座の上に乗せられたものを小一時間も眺め続けていた。

 昨夜の大嵐の置き土産である水溜りや雨だれが、王城の中庭の其処彼処で朝日を眩く反射していたが、美しい朝焼けに対して陰網の両目と溜息は重く冷たい。

 彼は和帝の后である陰氏の父親であり、その功をもって後漢の功臣である特進の地位にあった。誰もが羨む地位にあり、実際、その栄華を謳歌していた彼が久方ぶりに溜息などついている。

 陰網の目下の悩み。

 それはこの珍妙な食材を如何にして主君である和帝へ献上するかということであった。

「何か思いつきましたかな」

 陰網が振り返ると、其処に宦官の鄭衆が一人立っていた。

 既に男性の機能を失くした鄭衆の、女性のように白く細い顔が朝焼けの光の中にほんのりとうかんでいる。

 昨日の晩、轟音共に屋根を突き破って落ちてきたわけのわからぬ生き物に皆が声を失っていた中、陰網はするすると皇帝の前に進み出、上奏した。

「これは古より伝わる龍でございます。帝の徳がこの吉祥の証を呼び寄せたのです。まことにめでたいことであります」

 和帝はにこやかに頷くと、陰網の手を取り語りかけた。

「では如何にしてこの徳を国中に広めるべきであろうか」

「我が君、これなる龍を臣下にふるまいましょうぞ。臣を通じて我が君の徳の高さを万民に伝え広めるのがよろしいかと」

 和帝は、穏やかな首肯でその申し出に答えた。

「それにしても斯様な生き物、いや、生き物という区分に入るかどうかはわかりませんが……どのように調理すべきでしょうな」

 昨夜は沈黙したままだった鄭衆だったが、今朝はずいぶんとよくしゃべる。

 思わず陰網は苦い顔を浮かべた。

「秋とはいえ、日中は暑くなりまする。肉も長くは持ちますまい。お早目に取り掛かれくだされ。……ああ、そうそう」

 わかっておるわ、と返答しようとした陰網に鄭衆が艶やかな笑みを浮かべて言葉をつづけた。

「班昭なら何か存じて居るかもしれません。ただ、『漢書』の編纂で忙しそうでしたが……」

 

「相すまぬが、そのような記述は見たことがない。龍が出たり死んだことはあるが、食べたことがあるなどとは……」

 床に拡げられた数巻の木簡から目を上げることなく、班昭はあっさりと返答した。

 既になかなか歳が進んでいるはずなのに、彼女の美しい容姿は妙齢の女性そのままであった。知識欲と好奇心が彼女の老いを押しとどめているのだろうか。

 それとも、兄である班固から託された使命が彼女の命を若々しく蘇らせているのだろうか。

 文武両断だった班固はその才を買われ漢の正史『漢書』の編纂に携わっていた。だが、政争に巻き込まれ失脚、失意のうちに獄死した。彼を死に追いやったのは他でもない、和帝と鄭衆である。だが、『漢書』の完成を望む和帝の求めに応じ、兄に勝るとも劣らない学識を持っていた班昭は参内を決意した。美しい容姿ではあるが、兄を殺した相手に仕え正史編纂という国家事業を引き継ぐという気概は並大抵ではない。男以上に肝が据わった女傑である。

 しかし、陰網は端麗な彼女の容姿を眺めにわざわざ王城の書庫まで来たわけではない。

「何でもかまわぬ。何か龍に絡む話はないか?」

「龍の話ならいくらでもあるが、察するに陰網殿の求めるような話はない」

「先ほど、龍が死んだという話があったではないか。死んだ後の龍はどうなったのだ。食べられたりしたのではないか」

「書かれていないから、何とも言いようが無い」

 そのような押し問答が何度も行われたが、班昭はとりつくしまもない。

陰網が肩を落としながら、ずれてしまった襟巻の位置を正しつつ図書館を出ていこうとした時だった。

 班昭が、はじめて顔を上げた。

「待て。龍を殺した者の話ならある。殺した者のことも知っている。その者なら、何か知っているのではないか」

「龍を殺す、だと?」

 秋の冷たい風が班昭の部屋に入り込み、陰網は思わず襟巻に首をうずめた。


 屠龍の術というものがある。

 文字通り、龍を屠る術のことである。

 道教の教えでは、無用の長物の比喩であった。

 それは、龍を殺す術があっても、肝心の龍がいないからだ。

 だが、この術は何故か古の代から連綿と伝えられてきた。

 そして、術を持った者たちが龍を退治したという伝説も長く語り継がれてきた。

 その当代の龍退治の継承者が班昭の求めに応じて洛陽にある彼女の屋敷に到着したのは、龍が落ちてきてから三日後のことであった。

 不思議な女である。

 目の前で麦粥をはむはむと口に運ぶ少女を眺めながら班昭は素直にそう思った。

 龍を殺すという術を身に着けているのだから、さぞかし、屈強な大男がやってくると思っていた。だが、現れたのは質素な単衣に革製の外套を身にまとっただけの華奢な少女だった。さすがに、班昭はかつがれたかと肩を落とした。

 だが、少女は全く動じることなく、会うなり班昭に問いかけた。

「天門志の編纂をされておられるとか。夏王朝では日蝕が起こると悪龍を払う儀が執り行われていたことをご存知ですか?」

 思わず、班昭は身を乗り出した。

「仲康帝の時代の記述が残っているはずです。天文官に就いていた義氏と和氏は将棋に夢中になりすぎて儀式を忘れてしまい殺されてしまった、と」

 御付の者に麦粥と温かい汁を出すように言いつけると、班昭は自室の書庫に飛びこみ、夏の時代の記録に目を通し始めた。果たして、少女が言っていた記述が見つかった。

 戻った班昭が少女に古代の天文にかかわる記述をいくつか問いただすと、麦粥を食べる手を休めることなく、少女は打てば響く鐘のようにすらすらと答えていく。

 久しぶりに話に夢中になっていた班昭だったが、ふと、少女の腰に目が行った。

「気になりますか」

 食べ終えた麦粥の代わりに卓に置かれた家鴨を煮出した汁を口に運びながら、少女が唐突に話しかけてきた。

「ああ、気になる。その腰に差したものはなんだ」

「小剣です。応龍の羽からつくられたものです」

 応龍とは漢族最初の皇帝である黄帝が乗騎したと言われている龍のことだ。

 応龍には鳥の翼があり、中原を平定した黄帝は応龍に跨って昇天したと伝えられている。

「応龍が天に登った時、羽ばたいた翼から抜け落ちた羽の羽軸から造られました。龍を殺すための剣なのです」

 龍という言葉が出てきたところで、彼女の話と佇まいに夢中になっていた班昭はようやく彼女を呼び寄せた件を思い出した。

「その龍のことなのだが、お前は龍を捌いたことはあるか?龍を食べたことは?」

「食べたことはありませんが、捌くことはできます。肉は捨て置きますが、龍の骨、舌、目、鱗、その他諸々は道士や医師に分け与えております。いずれも人間にとって妙薬になりますゆえ。しかし、何故、龍を食べるなどと申されます」

 班昭は三日前の出来事から少女が呼ばれた経緯を端的に説明した。

「最近、我が国が天災と蛮族との戦争で疲弊していることは承知しているだろう。特に、今の陰氏が皇后になってからは特にだ。帝はたいへん心を痛められておられる。龍をふるまうことで今一度陛下の徳を世に知らしめ、民心を安定させたいのだ。やってくれぬか」

「造作もないことです。調理の方法は心得ております」

 さらりとそう答えると、少女は家鴨の汁を飲み干した。


 翌日、班昭に伴われ、少女は陰網と面会した。

 陰網は具合が悪いのか、襟巻をより深く巻いている。顔半分は襟巻の中にすっぽり隠れてしまっていた。

 陰網との面会を終えた班昭と少女は食材の確認のため宮中の食糧庫へと向かった。

 龍は箱の中に塩漬けにされて保管されていた。

「肉が新鮮なら膾や鮓もできたのですが、この暖かさゆえ少々肉が傷んでおります。羹にしましょう」

「羹か。それはいい。帝はもちろん、陰網も喜ぶことだろう。何しろ、秋に入ってからずっと風邪をひいているのだ」

「なるほど。病い、ですか。それは何よりの良薬となるでしょう」

 少女の棗のような大きな瞳が、三日月のように細く弧を描いた。


 それから三日後のこと。

 宮廷では盛大な月見の宴が開かれていた。

 龍の羹が下賜されると聞いていた群臣たちは帝の徳をそれぞれ称えあいながら、その珍しい逸品が運ばれてくるのを心待ちにしていた。

 沸き立つ諸臣を眺めながら、班昭はキビから醸された黄土のように黄色い酒を酒杯に注ぎ入れた。黄金の波で唇を濡らしながら、班昭は周囲を見渡す。喜色満面な群臣たちの中で陰網だけが黙然と座っている。未だ具合が悪いのか、顔半分を襟巻の中に埋めたままだ。少女の姿は見えない。厨房に入り込んでいるのだろうか。

 この二日間、少女は班昭の屋敷に寝泊まりしながら宮中の厨房に篭りきっていた。

 羹を馳走できる段階になったと少女が班昭に告げたのは、一昨日の昼過ぎの刻だった。

 すぐさま使いを走らせたところ、鄭衆は瞬く間に宴会の場を整えた。

 夜も更け、月が煌々と輝きを放ち始めた時、青銅製の銅鑼が三度鳴らされた。鄭衆が現れる合図である。一同が居住まいを正す間もなく、音もなくするすると奥から進み出てきた鄭衆が自らの席に着いた。席は皇帝の玉座の左の席。向かって右には陰網が項垂れつつ座している。

 鄭衆が穏やかに頷くのを見た陰網が、数度、手を打ち鳴らした。

 乾いた音が消え去るのと同時に、深皿を手にした侍従たちが宴席の場に現れ、めいめい臣下たちの席に置いていく。

 温かな湯気の奥に、分厚く切られた肉と根菜、刻まれた青菜が褐色の汁に浸かっていた。

 生姜と大蒜をたっぷりと利かせているのか、湯気の中に鼻を突きいれているだけで胃が刺激され、口中によだれがとめどなく溢れてくる。

 早く箸を伸ばしたいが、宴会場の中央最奥にある、御簾で隠された玉座に未だ皇帝の気配はない。一同はご馳走を目前に置かれた犬のようによだれと食欲を我慢する他なかった。

 しかし、鄭衆のみは端然とした佇まいを崩さず、群臣たちに朗々とした声で呼びかけた。

「お集まりの方々に、紹介したい者がおります。今宵の料理を用意した者です」

 程なくして、侍従に付き添われて現れた少女が鄭衆の眼前で深々とお辞儀をした。

 宴席の場だというのに外套を脱がず、美しくはあるがあか抜けていない少女に一同が訝しげな視線を送る。だが、当の鄭衆は全く意に介した様子がない。

「この度の馳走の用意、大義であった。陛下と一同に代わり、この鄭衆が厚く礼を申すぞ。特別な計らいとして陛下がまずそなたに羹をお渡しになるそうだ」

「その儀には及びませぬ。やつがれは熱い肉は好みませぬ。是非とも膾をいただきたく」

「膾、だと。龍の肉のか。だが、肉はすべて使ってしまったそうではないか」

「ありますとも。目の前に、新しい龍の肉が」

 ゆっくりと、少女が立ち上がった。先ほどまでの食欲とよだれは、既に一同から消え去っている。

「旱、魃、争、乱、病、苦、死、滅。留まることのない、この国の歪み、人の嘆き、心の軋み……やつがれはそれを正しに参ったのです。龍を調理するためでも、龍を食べにきたのでもありません。……やつがれは、龍を殺しに来たのです」


 屠龍の術、照覧あれ。


 少女の身体から外套がすらりと床に落ちた。

 その手には既に応龍の羽軸から鍛えられた小剣が握られている。

 一同が息をのむよりも早く、少女が疾風のように身を反転させた

 月光を照り返し清々と輝いた白い剣が、美しい三日月の弧と光を中空に描いたかと思うと、雷撃のような閃光となって突き出された。


 白光が、陰網の喉元を貫いた。


 はらはらと、裂かれた襟巻が陰網の足元を舞う。

 席上の全員の目が陰網の喉に注がれ、叫びと悲鳴が其処彼処から上がった。

 少女の白刃が貫いていたもの、襟巻の奥に隠されていたもの。

 それは、五色の光を鈍く放つ玉だった。

 少女が手首をくるりと回し、陰網の喉から玉ごと剣を抜きさる。

 陰網の身体がずるりと床に崩れ落ちたかと思うと、やがて四肢からずぶずぶと黒い靄が立ち上がった。夜風が瘴気と襟巻の切れ端を払った先には、陰網の衣服が残っているのみであった。

 呼吸をする音すら絶えてしまった宴席の場に、少女が小剣を鞘に収める音が涼やかに響いた。

 鄭衆は満足げ頷き、衛士を数名呼び寄せたかと思うと、何事かを短く囁いた。

 衛士たちの甲冑の音が廊下の奥に消えるのを待っていたかのように、宴席にようやく言葉が戻ってきた。

 その場に鄭衆と班昭、そして少女の姿は無かった。


「では、鄭衆殿は最初から事態の成り行きを予見しておられたのか。何ともお人が悪い」

「相すまぬ。ただ、最も信頼のおける、しかも、学識の高いそなたすらも欺く必要があったのだ。理解してくだされ」

 宴会場の喧騒も届かぬ鄭衆の私室で、班昭と少女は香りのいいお茶を飲みながら鄭衆と向かいあっていた。

「この屠龍の術を身に着けた少女が首尾よく見つかった挙句、三日と待たずにやってきたのは少々引っかかっていた。鄭衆殿は随分前からこの少女を探索し、事の成行きを見計らって呼び寄せたのだな。何時からだ?」

「流石は班昭殿、かないませぬな。屠龍の術の伝承者を探し始めたのは陰氏が皇后になられてからのこと。身を入れたのは今年の秋ごろからでしょう」

「すると……陰氏が黒幕なのか。秋と言えば……」

 鄭衆の代わりに、麦粥を口に運びながら少女がこくりと頷いた。

「然り。陰氏は魑魅魍魎を友とする術に長けていたのです。国内外の憂いは陰氏が呼び寄せた龍や魔物が起こしたもの。やつがれは彼女が召喚した怪異を鎮めて回っていました。先日、宮殿に落ちてきた龍はやつがれがとり逃した一匹です」

「進退窮まった陰皇后は自分の父親の身体を憑代として龍を呼び出したのです。帝が油断したところで陰網に化けた龍を使って暗殺させる手筈だった。本来なら、今宵の宴は最初に帝が陰網に羹を下賜するはずでしたが、この機会を狙っていたのでしょうね」

 二人とも呼吸がぴったりである。まるで旧知の間柄のようだ。

「陰氏は既に皇子を生んでおります。帝を亡き者にし、外戚として権力を振るうつもりだったのでしょう。私の手の者が陰氏の元に行っております。程なく、全てカタがつくと思われますが……さて」

 鄭衆が少女の方へ改めて向き合った。

「そなたには感謝の言葉しかない。如何様にも褒美は尽くす。何を望むのかね?」

 少女が、空になったお椀を静かに差し出した。

「麦粥のお代わりを。そして、西方への通行許可証を頂きたく。もはや、中原には龍がおりませんので」


 その後、班昭はその夜の出来事を書き記したが、『後漢書』では陰后が呪術を用いたため廃され、父の陰網が罪を得て殺されたとだけ記された。

 龍のくだりの話は『述異記』に断片として残るのみである。

 少女は西風と共に西方に去った。

 中原に、その名を覚えている者は、無い。

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