第2話 遠い十角

 ぼやけた視界に木の色が滲む。景色がゆっくりと、少しずつ明瞭になっていく。やがて色彩は像を結び、高校の図書室になった。

 学校の創設時代から置かれているであろう、表紙が色褪せた古い本。読書好きの生徒や図書委員がリクエストし、学校に認められて購入された新しい本。

 それらがきちんと分類され、あるいはごっちゃにされて入れられている書架が立ち並ぶ。書架と書架の合間には、柔らかな陽光が射していた。日に照らされて明るみとなっている空間には、砂利に混じった透明な砂粒のように光る埃が浮いている。

 世界の片隅のようで、でも、心休まる場所だ。

 そうか。これは、追想か。

 この夢を見るのは初めてではない。今までにも十回くらいは図書室の夢を見た。もう夢の中で夢だと気付けるくらいだ。慣れてしまっている部分もあったが、今回はその夢見に新たな感動が差し挟まれた。

 青春への思慕。凄烈なまでの痛みを伴うそれに、心を締め付けられる。もう二度と見ることも、物思いに耽ることも、立ち入ることすら、できない場所。高校生だった頃には特別の価値を認めていなかった場所が、今となっては青い春の残光に満ちているように感じられた。

 その光を追い掛ける。もう戻れない時間の中にあると分かっているのに。

 その光を追い掛けた。この光景を夢の中ではなく、現実で見ていた頃に。

 それは名前も知らない女の子との出逢い。もう訪れることのない彼女との語らい。


 ――


 二年生のとある日の昼休み。僕、幕好太まくこうたは図書室へ向かわなければならない用事があった。普段図書室を利用することのない僕ではあるが、四時限目の授業で図書室を利用し、その際に筆箱を忘れてきてしまったのだ。

 図書室のドアを開けて入室すると、心休まる静寂の空間がそこにはあった。昼休みの後半ならまだしも、前半は誰もが昼食を取っているから教室か中庭にいる。無人だ。

 空間を隔てる間仕切りのように並び立つ両面書架の間を抜け、テーブル下の棚から自分の筆箱を取る。

 視線をテーブルの下から上げたとき初めて、端の勉強机で読書をしている女生徒の存在に気が付いた。

 没後か否かに関わらずこの世全ての文豪が筆を折るような、筆舌に尽くしがたい美少女がそこにはいた。

 人工ですら無理と思える程に、均整の取れた容貌。首元を隠す程度の、飾らない栗色の髪。窓から降り注ぐ陽光が彼女の半身を淡く照らし、夢幻を象る名画のように存在している。

 彼女がそこにいるだけで、空間のリアリティーが失せてしまっていた。

 何物にも喩えられそうにないが、それでも無理に喩えるのなら、白亜の陶磁器だろうか。

 僕はその光景に見惚れて、物言わぬ石像のように固まっていた。

「偶然で片付けたくない偶然だね。でも、君との出逢いが私を変えてくれることはないんだけど」

 彼女は手元の本に視線を落としたまま、独白のように呟いた。その意味を飲み込めず、でも何か言葉を返さなければと焦りが生まれる。

 そう思ったのも束の間、彼女はこちらを向き言葉を続けた。

「多分、君がここに来た理由は私と同じだよ。昼休みに直ぐ筆箱を取りに来たってことは、一時限目から四時限目の間に授業で図書室を使って、忘れ物をしたってことになるから」

「はい。そうです」

 声が上擦った。緊張の度合いが尋常ではない。しかし、女の子と話すことのない日常から外れて調子に乗ったせいか、自分から言葉を接ごうと思った。

「もしかしてカルタですか?」

「うん。そうだよ」

 我が校には一月の下旬に、校内カルタ大会と号された催しがある。今日はそのイベントに誰が出るかを決める為に、図書室で予選のようなものを行ったのだ。

「あれ、楽しかった?」

「いえ。百人一首を覚えていない人ばかりなので、空気を読んで手加減せざるを得なくて、つまらなかったです」

「へえ、そう。実は私も同じなんだ」

 僕は少しだけ嬉しく思った。その嬉しさは、彼女と共通点があることから来たものだろうか。それとも理想的な美少女が、学もある人であることを知って、益々理想的に思えたからだろうか。自分でも判別できない。

「カルタ大会、出るの?」

「出ないと思います。学内のイベントって、大体はスクールカースト上位の人たちが参加したがるので、立候補者が出るかと」

「そっか。残念」

 残念。という言葉が引っ掛かった。自分に取って都合の良いように意図を汲み取るなら……

 いや、やめよう。何ともなく出た言葉かもしれないし、ただの社交辞令かもしれない。

「君は出るんですか?」

「さぁ……どうだろうね」

 彼女の表情がかげる。その瞬間に、何か強烈な未知を見たような気がした。生まれてこの方一度も見たことのない表情だった。喜びでも怒りでも哀しみでも楽しさでもない。それでも、知らない感情を知り得る言葉で表現するのなら。

 失意?

「もうこんな時間か。出よう。お昼ご飯を食べる時間がなくなっちゃうから」

「あっ、はい」

 彼女は立ち上がって扉へと歩みを進める。僕も付いていくが、彼女の足が書架の合間で止まった。彼女は振り向いて僕の顔をじっと見つめる。

「さっきから気になってたんだけど、顔赤いよ?熱あるんじゃない?」

「うっ」

 貴方と話して意識しない人なんていませんよ。と、言えない言葉を心に留めた。

「大丈夫です」

 若干狼狽うろたえつつの返答になった。

 言えるわけがない。でも言ってみたい。心に思ったことが自然と口に出てしまう呪いに掛かれば良いのに。

「う~ん?」

 彼女は悩む素振りを見せて、突然僕の額に小さな手を伸ばした。

 一瞬で頬が紅潮した。長らく女の子との触れ合いもないような僕には、刺激の強すぎる不意打ちだった。

「真っ赤……ゆでダコみたい……」

 これはまずい。

「す、すみません。やっぱり体調が優れないので保健室に行きます。さようなら!」

 先生に話すような、妙に堅苦しい挨拶を早口で告げ、脱兎のごとく逃げ去る。

「そう。じゃあね」

 逃げ去る僕に、辛うじて別れの挨拶が追い付いた。


 ――


 翌日。四時限目が終わるや否や、僕は用もないのに図書室へと足を運んだ。

 彼女との再会を期待し、輝ける未来への希望を胸中にたたえ、扉の前に立つ。手の震えは止まらず、鼓動は早鐘はやがねのようだ。

 確信がある訳じゃない。どう考えても、いない可能性の方が高い。でも、頭では理解していても、心が期待をやめてくれない。一体何度期待を外せば諦めるのだろうか。

 僕は自嘲気味に笑ってドアを開いた。

 案の定、図書室は無人だった。

「そうだよな」

 少しずつ、折れていく。

 足を踏み入れてドアを閉めると、小さなセカイに独りきり。世界と分かたれた箱庭に沈黙が降り立つ。

 少しずつ、よどんでいく。

 何かが変わると思った。運命だと信じたかった。現実はこうだ。僕の進む道には、ただその折々の偶然が転がっているだけで、俗に運命と呼ばれる奇跡などない。

 少しずつ、諦めていく。

 期待することの愚かしさを理解してしまう。あと何度までなら、僕は未来を放棄せずに、希望的な観測にすがれるのだろう。

「何してんだ……僕は……」

 無意味で、馬鹿馬鹿しい。いないと分かっていても一人で来て、一人で失望する。虚無感以上に残酷な何かを抱いて、僕は図書室を後にした。

 以来、二度と図書室に立ち入ることはなかった。


 ――


「はっ……!…………はっ………はぁ……」

 僕にとって二週目の三月の最終日。その朝は、両手の指では足りないほど繰り返す悪夢から始まった。

「またこの夢か……」

 愚かしいことに、今でも続きがあるような気がしているのだ。更に次の日の昼休みに行けば、彼女との再会も有り得たのではないかと、性懲りもなく信じている部分があった。

 いい加減にしろよ。悲しくなるだけだろうが。

 心が塞ぎそうになって、それでも、現状に希望を見出だした。そうだ。僕は神に選ばれたのだ。

 神。厳密には神を名乗る、朝加紅葉あさかもみじなる存在。

 そして、コンフリクト。感情の極北きょくほくたる力。朝加紅葉に選ばれた十人だけが得られるその力は、人間が持つ十の要素を形にしたものだ。

 十の要素とは、愛、守護、永遠、公平、正義、悪、言葉、後悔、空白、憧憬。僕は『愛』のコンフリクトだ。

 そう。僕はコンフリクトとして魔法みたいな力を得た。運命と呼ぶならこれ以上ない現象が目の前に、いや、零距離で存在しているのだ。

 過去と心臓を繋ぐ鎖がゆるむ。

 絶望するにはまだ早い。

 立ち上がってカーテンを開いた。朝の太陽には未だに慣れないものの、それに希望の光を見た。

 ふと、コンフリクトを使ってみようと思った。

 光の射し込む窓に左手を当て、感情の詮を開ける。火焔の形を借りた憎悪がたぎり、暗幕のように光を閉ざした。

 その暗幕に右手を当て、希望の糸を手繰り寄せる。漆黒の火焔は霧散し、黒い粒子が散り、それらもやがて空気中に溶けていった。

 未来への絶望と、未来への希望が入り交じった力。不幸を認めながらも、幸福を諦めない心。

矛盾コンフリクト……か……」

 そう。矛盾と言えば、愛の反対は本当に憎しみなのだろうか。城崎と話したあの夕暮れは、愛の反対が憎しみだと確信していた。しかしあれから一月ひとつきが経って、そう断言するのにはちょっとした障害物があるのに気付いていた。

 愛されないことと憎まれることは等号で結ばれない。大体の場合において、愛されないことは関心を持たれないことだ。

 マザー・テレサが言ったように、「愛の反対は憎しみではなく無関心」なのではないだろうか。仮にその論理を正しいとしよう。

 現に僕は今、誰からも愛されてはいないが、誰からも憎まれていない。誰しもが僕に対しては無関心だ。

 では僕は誰かを愛しているか?いや、愛と呼べる感情はない。僕から誰しもに対してもまた無関心なのだ。セカイの内側には愛する人がいない。 こちらから愛さなければ、この状態は崩せないだろう。

 次に愛の反対は憎しみだと仮定する。

 実体験ではなく一般論で、愛は裏返ると憎しみになる。もっと分かりやすく言えば、愛は裏切られると憎しみになる。

 男女のカップルがいたとする。男性は女性を深く愛していたが、ある日女性から「元カレの方が良かった。だからよりを戻すことにした。ごめん」と一方的に別れを告げられる。そのとき男性の女性に対する愛情は、たちまち憎悪に変化するだろう。この場合まかり間違っても、愛する気持ちが無関心に変化することはない。

 こういう風に考えてみると、「愛の反対は無関心であり、憎しみでもある」というのが適切なのではないだろうか。

 では……僕はどうすればいいのだろうか?

 答えを考える前に朝食を済ませてしまおうと思って、階下かいかへ降りることにした。

 いや、時間的にはブランチか。


 ――


 遅めの朝食であり、同時に早めの昼食でもあるカップラーメンを平らげた後、徒歩一分の近場にある古びた神社を訪れることにした。

 意味があっての参拝ではない。心象を現実に出力したような寂れた景色に、体も置いてみようという、ただそれだけの思い付きだ。

 風雨にさらされ、所々剥げた丹塗にぬりの鳥居を潜る。落ち葉と枯れ枝の積もる石段を登っていくと、足下の葉がガサガサと音を立てた。

 石段を登りきると、拝殿へと続く緩やかな上り坂が続いている。左右を木々が挟み、枝葉が道のりの直上をまばらに覆い隠していた。晴れた日なら心地よい木洩れ日が差し込むが、生憎と今日は曇り空で暗いだけだった。

 侘しい景色だ。白秋という言葉の意味を辞書のページから引っ張り上げてみたら、こんな感じだろう。

 打ち捨てられた神社のように見えるが、今でも一応人の手は入っているらしい。去年の十二月末にふらりと訪れたときは、石段もその先の上り坂も綺麗に掃かれていた。どうやら一年に四回程度は誰かが清掃しているようだが、今はその時期を外しているようだ。

 強い風が吹き、思わず目を細めた。木々が揺れ、ざわめきに包まれる。

 その強風に記憶が刺激され、頃の出来事を思い出した。

 中学生だった頃の話だ。今日のような強風の吹く中を自転車に乗って帰宅していると、新聞紙が飛んで来て顔面に張り付いた。鈍行なので一時停止もたやすく、危なげなく転倒を免れたが、その珍妙な出来事に一人苦笑したのを覚えている。

 まるでドラマのワンシーンのようだった。

 そんな、かつての珍妙な出来事を思い出した折も折、ループのような繰り返しが僕に襲いかかった。

「ぶっ!」

 風に乗って飛ばされてきた封筒が、真正面から顔面に激突した。再び飛ばされる前に、地面に落ちたそれを急いで拾い上げる。

 白い封筒だ。糊付けもされていて、汚れた様子もない。

 何気なく裏返す。

 数秒、驚きで動きが止まる。

「おいおい……」

 宛名には『愛のコンフリクトへ』と記されていた。目をこすってみてもやっぱり文字は変わらない。

 辺りを見回してみるが、人がいるような様子はない。考えるだけ無駄だが、何者かが僕に向かって投げたとかそんな感じではない。

 風に乗って飛ばされてきた。それ以上でも以下でもない。

 直ぐにでも開けて読みたいところだったが、いかんせんこの強風では手紙が飛ばされそうで怖かったので、取り敢えず家に帰ることを決めた。

 二十歩先に祀られる神に背を向け、来た道を戻って行く。僕にとっての最優先は、愛されない人を救わない無能より、目の前にある変化だ。


 ――


 愛のコンフリクトへ


 突然のお手紙失礼します。私は『言葉』のコンフリクトであり、朝加紅葉の妹、朝加青葉あさかあおばと申します。

 いきなり本題と言うのも趣がありませんが、そのあたりを考えて雑談を交える程のコミュ力もないのです。どうかお許しください。

 私の姉は人間が存続するに値しないと生き物だと考えています。そしてその判断が正しいかどうかを、コンフリクトで測ろうとしています。

 具体的には、人間を代表する十人を選んで戦わせ、その結果をそのまま人類の結末とするつもりなのです。

 人類が生き延びれば、人類は生き延びるに値する。人類が滅びれば、人類は滅びるべきだったのだ、と。

 私は姉のために姉を否定します。世界の破壊を止めたいのです。既に協力してくれる二人のコンフリクトと接触して、今は行動を共にしています。

 もしよろしければ、貴方にも協力してもらえないでしょうか。即断は難しいでしょうが、せめて会って話す機会だけでもいただけないでしょうか。

 明日。誤解のないよう分かりやすく言い直すなら、三月一日に貴方の高校へ伺います。お会いする意志があるのなら、卒業式が終わっても帰らないでください。良いお返事が聞けることを願っています。


 朝加青葉より


 ――


 帰宅後、その手紙を読み終えるといくつかの情報を得ることができた。

 ①コンフリクトを作り出した存在である朝加紅葉と、『言葉』のコンフリクトである朝加青葉が姉妹であること。

 意外と言う他ない。朝加紅葉に対して、人間とは隔絶した何かであるという印象を抱いていた。しかし『言葉』のコンフリクト曰く、姉妹という確かな血縁関係があるらしい。

 朝加紅葉は今も人間なのか、それとも何らかの要因で人間ではなくなったのか、そもそも何故そんな神様のような力を得ることができたのか。

 興味を持たない訳がなかった。

 ②に少なくとも三人いること。

 ついでに今まで会ったコンフリクトを整理すると、鳩ヶ谷はとがやさんと城崎きのさきだ。恐らくは城崎の言っていた『後悔』のコンフリクトもそうだろう。

 但し、僕がコンフリクトを使ってすらいない段階で、意図して僕に会いに来た城崎が鳩ヶ谷さんと行動を共にしていなかったことから、あの二人は味方と言い切れない。

 それとこれは勝手な憶測だが、『正義』と『悪』のコンフリクトはその名前の通りに分かれていると思う。

 ③おそらく朝加青葉は僕より一周以上多く、三月を繰り返している。

 既に二人と接触して協力関係を築くに至っているとなれば、結構前から動いていたことは間違いない。


 それにしても、『言葉』とはなんなのだろう。

 『永遠』がループで、『憧憬しょうけい』がフィクションの現実化なのは分かりやすくて良い。でも『言葉』とはなんだ。

 いまいちピンとこない。その内容が見えない。会って確かめてみるより他になさそうだ。

 そう言えば、鳩ヶ谷さんの『公平』も内容までは知らない。何ができて、何に影響するのか、一つも分からない。


 じっと待っているのもどことなく落ち着かず、夜が更けるまでに十回は手紙を読み直して、その度に唸っていた。

 そして、終わらない別れの季節は二度目の消失を果たした。


 ――


 三度目の卒業式。

 ちょっと覚えてしまった式辞を先読みして、心の中で小さく笑う。来賓だの校長だのの言葉は、いつだって生徒の胸に響かないものだが、僕の頭には残ってしまっていた。

 内容は「前を向いて生きろ」だの「君たちの未来には希望が満ち溢れている」だのと、唾棄だきしたくなるものだけど。

「在校生代表より、送辞の言葉。二年一組遠藤さんお願いします」

 コンフリクトばかりに気を取られて忘れていたが、例の交通事故で命を落とす男の子はどうしようか。今回は学校に残る必要があるので、僕は公園に行けない。

 が、まあ鳩ヶ谷さんが行くだろうし、仮に鳩ヶ谷さんが行かなかったとしても問題はない。一周目で死んだ男児が二周目では生き返っていたように、三周目で死んでも四周目で生き返るはずだ。

「続いて、卒業生代表より、答辞の言葉。三年六組竹本さんお願いします」

 では鉄塔で飛び降り自殺を図ったあの男はどうする?そもそも二周目に会いに行ったときは会えなかった。何故かそこに男の姿はなく、代わりに城崎きのさきが待ち構えていた。

 こっちが分からない。一体何があったのだろうか。城崎が何かしたのだろうか。

 もし何かあったとして確認する方法があるのか?四周目はダメもとで鉄塔に行ってみるか?

「校歌斉唱。在校生、卒業生、教師一同、起立」

 適当に口パクで合わせながら、思考を続ける。

 意味ないよな。コンフリクトの十人以外はループ前の記憶を引き継げない。二周目に起こった何かを四周目に確認しようとしても、一周目の繰り返しになるだけだ。

 記憶を引き継いでいるのに同じことを繰り返すのは、コンフリクトの行動じゃない。

 気付けば卒業式は終わっていた。一周目と同じで、実に呆気ない。長くやってほしい訳ではないが、午前中に終わってしまうのはあまりにも淡泊ではないだろうか。

 一周目は絶望で、二周目は驚愕で、何かを考える余裕などなかったが、三周目にもなると慣れたものだ。


 *


 最後のホームルーム。

 進路と受験と国公立以外のことが頭にない担任の話が終わった。そして委員長が、カンパで購入された花束を担任に渡す。

 そのイベントに心にもない拍手を贈っていた、そのとき。

 明らかな異質が最終日の学舎まなびや来攻らいこうした。

 それは中学生の時分、何度も空想した非日常。テロリストが学校を占拠するという、ある意味で僕の憧憬。

 武装した男がドアを蹴破り、生徒達に銃口を向ける。

「全員手を挙げろ」

 女子生徒が悲鳴を挙げる。隣の教室からも似たような音と声が聞こえ、校舎全体に拡がっていく。

 その男には見覚えがあった。そうだ。

「なんで……」

 思わず漏らした呟きに反応して、クラスメイト達が僕の方を見る。

 もまた僕を見る。その眼差しには、かつての諦念にわずかの意欲が混じっていた。

「お前が幕好太だな」

 今度はこちらが驚く番だった。

「何故、名前を知ってるんですか?」

「聞いてるからだよ、城崎から。お前には手を出すなと、そう言われている」

 城崎に……。

「ちょっと待ってください。今三月一日ですよ?城崎に協力してるなら、前回のループの記憶がないと無理です」

 ループ後にループ前の記憶を引き継げるのはコンフリクトだけだ。コンフリクトでない人間は、必ずループ前と同じ行動をしていなければおかしい。

「記憶を編集する魔法とやらを使ったそうだ。だから少なくとも前回の記憶ならある。城崎に事情を聞き、仲間になると約束したところからな」

『憧憬』の一側面たる羨望によって生み出された魔法。それは空想上の異能力を現実にすると、彼は言った。

 彼がどの作品のどの能力を具象化したのかは不明だ。けれど記憶を操作する能力が登場する作品を、パッと思い付くだけで三つは知っている。

「幕。さっきから何の話をしてるんだ。知り合いなのか?」

「お前は黙ってろ」

 男が状況に割り込もうとした担任の言葉を、銃口で黙らせた。次喋れば撃つという、誰の目にも明らかな脅しだ。

「じゃあ、前々回のループで僕と会ったことを覚えていますか?」

「いや……記憶にない。俺は前回のループで言う三月一日に城崎と出会い、そこからの記憶を保持しているだけだ。それ以前に会っていたとしても、俺には分からない」

「そうですか……」

 あの会話は僕の記憶にしか残されていない。僕は彼の絶望を知っているが、逆はないのだ。

「ところでこれは、何の目的があるんですか?」

 クラスメイト達が目をみはる。これは今起こっている事件の核心を知ることができるかもしれない質問だ。

「それは『守護』の」

「そこまでだ!」

 非日常に更なる闖入者ちんにゅうしゃが現れる。

 三人だ。男が一人と女が二人。三人とも僕と同年代程度だろう。三人組ということは、もしや『言葉』のコンフリクトとその協力者か?

「『守護』のコンフリクト、寒河江明日也さがえあすやだな」

「ああ。お前は?」

「現実にくずおれた人間」

 寒河江という男は色白の好男子だ。髪型は整えられていて、やや痩せ形の高身長。すこぶるモテそうな印象だ。サッカー部のクラスメイトを彷彿とさせる。

「そっちのお前は?」

 銃口が寒河江の左隣にいる女に向けられる。

「『永遠』のコンフリクト、京条きょうじょう柚子ゆず

 京条と名乗った彼女はJK然とした風体だ。やや茶髪に染められたロングヘアーは腰元まで届いており、少なくとも我が校では校則に引っ掛かる程度の化粧をしている。言うなれば彼女は、女子高生と聞いて浮かぶイメージを体現していた。

「そっちは?」

 今度は反対側。寒河江の右隣に銃口が向けられる。

「私は『言葉』のコンフリクト、朝加青葉あさかあおばです」

 彼女は良くも悪くも普通といった印象だ。外見に特別の頓着はないらしく、どこにも飾った感じがない。過去に道端ですれ違っていたとしても分からないような平凡さだ。

 けれど、どこか懐かしいような、暖かい声だった。

 加えて印象に残りやすいポイントを挙げるとしたら、鳩ヶ谷さんとは異なり、アンダーではない普通のポニーテールだ。

 そう言えば、朝加紅葉もポニーテールだったような気がする。記憶が不明瞭な上に、あの空間に召喚されたとき冷静でなかったので、自信はないけれど。

 ともかく、ビンゴだった。彼らは手紙にあった三人で間違いない。

「銃を下ろして、降伏しろ。悪いようにはしない」

 寒河江が臆した様子もなく、降伏を勧める。

「なあお前。恋人はいるか?」

 男は寒河江に銃口を向けつつ、状況にそぐわないことを尋ねた。寒河江は訝しげな表情で、隣の京条を見てから頷いた。

「ああ、いる」

「なら死ね!」

 前兆なく放たれた悪意が耳をろうする。しかし弾丸は寒河江に命中した瞬間に先端が潰れ、床に落下した。

「なっ……!」

 銃弾が効いていない。

 『守護』のコンフリクト……!

「無駄だ。そんなものじゃ俺は殺せない」

「じゃあこうしようか」

 男は席の最前列にいる女生徒の襟首を掴んで引き寄せ、こめかみに銃口を突きつけた。

 丁度最初に悲鳴を上げた彼女だ。しかし今度は悲鳴を上げていない。いや、上げられないのだ。体が震え、歯の根が合っていない。

 「人間は本当に恐怖したとき、声を発することができなくなる」と、どこかで聞いた文言を思い出した。

「止せ!」

「多分お前が暴力に頼れば、俺なんて簡単に負ける。ただの人間がコンフリクトに勝てるわけねえからな。でもお前が近付くまでに引き金を引くくらいなら出来る」

「くっ……」

 寒河江は歯噛みした。人質の安全を考えて、強引に捩じ伏せる手段が取れないのだろう。

 僕にはそれが理解できなかった。いや、正確に言うならば、分かるけれど共感できないのだ。

 見ず知らずの他人の命。生きようが死のうが関係ないはずなのに。

 少なくとも絶対に守りたいと思うのはその恋人だけではないのか。

「ねえ明日也。一応言っておくけど、私の『永遠』なら一回死んだ人も生き返るよ?」

 何故か不満げな表情を浮かべながら京条が言った。寒河江は目を白黒させながら彼女を見る。

 確かにそうだ。

『永遠』のコンフリクトは人の死をもなかったことにする。

 今人質にされている女生徒が死んでも、犠牲にはならない。一週目に車に跳ねられて命を落とした男の子が、二週目で何の代償もなく復活していたように。

「だから、今追い詰められてるのはお前の方。分かる?ただの人間」

 敵意を孕ませた声だった。

 鳩ヶ谷さんのそれと似ているようで、全く異なる声色。彼女が氷だとしたら、京条は棘だった。

「本当にそうか?コンフリクトが殺した人間は生き返らないだろ?」


『コンフリクトが動かない限り半永久的にこの状況が続く』


 鳩ヶ谷さんの言葉が頭をよぎった。

 裏を返せば、コンフリクトが動けば状況は変わる。

 なるほど。コンフリクトでない人間はループする限り同じ行動を繰り返すが、コンフリクトだけは結果を変えられる。

 だから、コンフリクトが殺した人間は次のループで生き返らない。

「でもお前はコンフリクトじゃない」

 京条が眼光鋭く否定の言葉を放つ。それは『永遠』の定めた絶対のルールなのだと、分からせるように。

 男は彼女にとって、閉じられた楽園に無断で入り込んだ外敵だったのだろう。

「そうだ。だが、『コンフリクトが殺す』という文言はどこまでが適用範囲なのか、確認したことがあるか?」

「どういう意味?」

 真意を測りかねた京条が、眉をひそめる。

「1、コンフリクトが直接手を下す場合。」

 男は銃を持っていない方の手で人指し指を立てた。

「2、コンフリクトが他者を介して殺させた場合」

 続けて中指が立てられる。

「3、コンフリクトの行動が意図せず、誰かの死に繋がった場合。一体どこまでが、コンフリクトが殺したことになるのか、知っているのか?という意味だ」

 三本目の指を立て、男は口端を吊り上げた。

 三人の表情に動揺が現れた。

「そう。今俺は『憧憬』のコンフリクトである城崎夕きのさきゆうの指示で動いている。コンフリクトによる力でループ抜けを行った上でな」

 城崎側が優勢になりつつある。今回の場合、城崎と男の関連性はかなり強い。もし他者を介しても『コンフリクトが殺した』と判定されるのであれば、あの女生徒が人質として機能する。

「だから、今追い詰められているのはお前らの方なんだよ。理解できたか?」

 寒河江達の表情から焦りが見て取れる。

「……それ何の意味があるんだ?」

 出し抜けに男が問い掛けた。誰に向けての、どういう意味なのかさっぱり分からない。

 当然その場にいる全員の頭の中に疑問符が浮かぶ。男は小さく舌打ちして、小声で「しくじったな」と呟いた。

 誰かと通話しているのか……?

 確かに先月――日付上での意味ではなく一周前という意味で――コンフリクトの存在を知ったばかりの男にしては事情に詳しすぎる。

 城崎か、あるいはコンフリクトの誰かが後ろにいて、今も男に指示を送っているのだろう。

「まあいい。おい寒河江」

 男はからの左手を服のポケットに突っ込み、ナイフを取り出して寒河江の足元にほうった。

「今から六十秒数える。自分が死ぬか、コイツが死ぬか選べ」

 思わず「何の意味があるんだ?」と言いかけて、その台詞がつい先程男が発した疑問と同じであることに気付く。

 流石にその二択は答えが分かりきっている。自分と他人。主観で判断するとき、命の優先順位は既に決まっている。

「お……俺は……」

 寒河江が目に見えて狼狽えている。呼吸が速く大きくなっており、心の葛藤が透けて見えるようだった。

「ちょっと明日也!迷う余地なんてないでしょ!」

 京条が叫ぶ。

「迷う余地ならある!だって俺だけはコンフリクトに殺されても生き返るんだから!」

「え……?」

 思わず喫驚の声を漏らしてしまったが、誰の耳にも届いてはいないようだった。

 寒河江だけは死んでも生き返る?

「でも!今、明日也が死んだら絶対にアイツは私達のことも殺すよ!『守護』のコンフリクトがないと私達は、ただの暴力に対抗できない!」

「でも……!」

 寒河江が人質となっている女生徒を見た。女生徒は目に涙を浮かべ、声にならない声を振り絞って懸命に助けを乞う。

「助け……て、お願い……なんでも……するから……」

 寒河江が戦慄わななく手でナイフを拾い上げた。

「俺は……」

「おい」

 深海のような呪詛と冷徹を含んだ声が、自らの喉からこぼれた。

「何を考えている?君が守るべきは恋人だろ?人が守るべきは愛する誰かだけだろ?どうして恋人がいる自分の命を、見ず知らずの他人の下に見るんだ」

「お前は……?」

「愛のコンフリクト。幕好太」

 僕はこのとき初めて、自らを照れもてらいも臆面もなく、しかし確かに矜持を持って紹介した。

「状況は分かってない。でもこれだけは言える。僕は君の行動が全く理解できない。恋人より大切なものなんて、この世に存在しない。何故君は彼女の願いを軽く見る?そもそも恋人がいる時点で君一人の命ではないのに、どうして勝手に自分の生死を決める?」

「そう……だった、昔は。柚子以外どうだっていいって、そう思ってた。今だって柚子が一番大切なのは変わらない。でももう、それ以外は死んでも構わないなんて思えない」

「分からない。全く分からない。どう考えたって比べるまでもないはずだろ」

「それは……多分、さっきお前が言った通り、状況を知らないからだ。俺は死んでも生き返るんだよ」

「どういう……意味なんだ?」

「それが私のコンフリクトだから」

 永遠のコンフリクトである京条が口を開いた。

「私の『永遠』は、のコンフリクトなの。終わらせないための、幸せを続けるためのコンフリクト」

「それがどう関係する?」

「俺、末期のスキルス胃ガンなんだ。だから、四月に死ぬんだよ」

 予期せぬ告白に驚き、白痴のように口を開けたまま動けなくなる。

「そう。私のコンフリクトは明日也あってのもの。死なないで欲しいって願ったから、生まれたもの。だから、明日也だけは誰に殺されても、殺したのがコンフリクトであっても、絶対に生き返る」

「……そうか。そういうことか。だから三月がループするのか……!」

 鳩ヶ谷さんにループの理由を訊ねたときの記憶が甦る。


『その理由は……いや、やっぱりやめておく。それは永遠のコンフリクト本人が語るべきことだから』


 これは……確かに本人の口から語られるべき事情だ。他人が無造作に触れてはならない、閉ざされたセカイだった。

「だから、死んでしまうかもしれない人より、確実に死なない俺が死んだ方がいいだろ?」

「でも!そうしたら残された私たちはどうなるの⁉そのまま銃で撃たれて終わりでしょ!?」

「なら!見捨てろって……そう言いたいのか?」

「見捨ててよ。ねえ、思い出して明日也。明日也だって元々私のためだけに生きてたんでしょ?なら、私を守ってよ……関係ないその他大勢なんかじゃなくて、私だけを守ってよ……」

 京条の双眸が涙にうるむ。ナイフが寒河江の手から滑り落ち、床に跳ねて無機質な音が響いた。

「ねえ……助けてよ」

 女生徒が半ば結末を悟りながらも、助けを求める。だが、寒河江は項垂れたまま、たった一言呟いた。

「ごめん」

 そうだろうな。それが正しい。そうであるべきだ。

 愛より大切なものなど、この世にない。そして僕には、何もない。

 男は無言で引き金に指を掛けた。もうとっくに六十秒は超過している。良く待ってくれた方だ。

「おい寒河江。顔を上げろ。目に焼き付けろ。これがお前の選択だ。これがお前の回答だ。身近で愛する者でなければ、赤の他人ならば、死んでも気にしない存在だという、お前の正体だ」

 寒河江が色を失う。無力さへの憤りと、自らへの軽蔑が見て取れた。

 男の言葉は寒河江に覿面てきめんだった。いや、これは僕の勘だが、この言葉は男のものではなく城崎のものだ。

 男が引き金を引く――その寸前。

退け。偽善者」

 五人目が現れ、寒河江を押し退けて銃を持つ男の前に立った。

 男だ。やはり同い年くらいの。黒髪で、毛が固そうな印象を受ける。顔立ちはやや強面で厳めしい。そして、精悍せいかん以上に何かを宿した目だ。

「誰だ?」

「『正義』のコンフリクト、杖口玄兎つえぐちげんと

「で、どうするつもりだ?」

「問答の余地もない。殺す」

「どうやって?」

 ――何か来る。生存本能か、あるいはコンフリクトにのみ感じ取れる予覚か。

『正義』の前兆まえきざしが、杖口の手に有った。

「死ね」

 空間が凍り付き、その氷塊にひびが入った。ように感じられた。

 瞬間、男は糸が切れたかの様に、女生徒を巻き込む形で前に倒れた。

「おい?」

 僕は男に近付き、体を仰向けにして脈を取った。

「…………死んでる」

「俺のコンフリクトは『正義』。悪と認識した人間を、一言いちごんで殺す力だ」

 ワンテンポ遅れ、死の恐怖から解放された女生徒の悲鳴が上がった。その直後、悲鳴に呼応するかのように銃声が鳴り響いた。

 一個上の階からだ。

 杖口が教室を飛び出し、寒河江たち三人も続く。僕は一瞬男の死体に視線をやったが、直ぐに彼らの後を追った。

 僕は階段を駆け上がりながら、先頭を走る彼に向かって叫んだ。

「待て!『正義』のコンフリクト!」

 杖口はあと二段で二階に辿り着くという所で足を止め、振り返った。僕は同様に立ち止まった三人の脇を通り、踊り場に立って杖口を見上げる。

「何だ?手短に済ませろ」

 救命を急ぐ意思から来る威圧が、五割増しの重力となって階下かいかまでを押さえ付ける。そのプレッシャーに恐々としながらも、杖口を睨んだ。

「殺すつもりか?」

「そうだ。無辜むこの人間を害する悪は排除する」

「悪人にも事情がある。さっき君が殺した男だって、悪人になりたくてなった訳じゃない。社会が、世界が、善良な人を悪人にしたんだ」

「善良……俺はそう思わないが、百歩譲ってそこは認めよう。だがそれに何の関係がある?」

「え……?」

「理由が何であれ、人を害する人間は悪だ。そうせざるを得ない事情があったとしても、それが誰かを損なっていい理由にはならない。故に、殺す。悪人でなくても、悪人の振る舞いをすれば殺す」

「そんなの……正義じゃないだろ……」

「お前、『悪』の反対が何か分かるか?」

「……?……『正義』じゃないのか?」

「確かにそうだ。だが『正義』以外にもう一つ、『悪』の対義語がある。『善』だ。では何故、俺は『善』ではなく『正義』なのか、お前に分かるか?」

「いや……」

「俺の行動が偽善だからだ。本物の善人なら、事情ある悪人に手を差し伸べる。事情なき根っからの悪人でも改心を促す。だが、俺は偽善だ。悪に対して、排除以外の行動ができない。事情がどうであれ悪人から人々を救う方法を、それしか知らない。それ以外では、何も救えない。間に合わない。一人の悪人を改心させようと努力するその瞬間にも、別の悪人が人を害している。殺さなければ、収拾がつかない。厳密には殺害という手段でも全く間に合っていない。俺が無意味に善人の真似事をしている間にも、新たに悪人は生まれてしまう。悪は、殺すしかない」

「君……それで、そんな信念で、心から『正義』を名乗れるのか?」

「言った筈だ。俺は善人ではない。ただ正しいだけの、『正義』のコンフリクトだ。正義は偽善を容認する。するしかない。悪人でないのに悪人の振る舞いをする者が『悪』と判定されるように、善人でなくとも正しい行動をしていれば『正義』だ」

「優しさを持つ人間じゃなくて、倫理観のある人間を君は『正義』と呼んでる。そうじゃないだろ……もっと人の気持ちを考えろよ!杖口!」

 僕は人間らしい理由で世界を滅ぼしたいと願っている。

 だが彼は人間離れした信念を貫いて世界を救おうとしている。

 人間らしい悪と、人間らしからぬ正義。

 こんな世界だから生まれ落ちた矛盾コンフリクトだ。

「お前こそ、俺の気持ちを考えたのか?考えられる訳もない。俺がこの瞬間をどれだけ希求ききゅうしてきたかも知らないお前には。おい、幕好太。お前の願いは何だ?」

「なんだいきなり。僕は……」

 この問いに「世界を壊したい」と答えて、無事でいられるだろうか。

 杖口のコンフリクトは悪と認識した人間の殺害だ。『不幸な誰かの味方』ではなく、『世界にとっての敵』だと宣言すれば、その瞬間に正義の剣は降り下ろされるだろう。

 だから、最終ではなく根本こんぽんを答えることにした。

「僕は、誰か一人を愛して、誰か一人に愛してほしい。これが僕の願いだ」

 以前朝加紅葉に望みを問われたときと、ほぼ同じで、しかしわずかに異なる回答だ。

 僕はあのとき「誰か一人に愛してほしい」としか言わなかった。けれど寒河江を見て少し考えが変わった。言いたくなった。言わなければいけないと思った。

『愛』のコンフリクトとして『ただ愛されるだけではなく、愛し続けることを忘れない』と言うべきだ。それが僕なのだから。

「そうか。それは良かったな。叶いやすい願いで」

「……は?」

 一瞬、言われたことを理解できなかった。この願いは、死ぬ程にはだむしる切望だ。

「ふざけるなよ杖口。叶えやすい程度の願いなら、僕はコンフリクトになんてなっていない!」

「いいや!お前のそれは叶えやすい願いだ!程度の差はあれ!『愛』という感情は、一般の理解の範疇だ!だが『正義』は理解などされない!俺は今だからこそ、悪を排除する『正義』のコンフリクトとして在れる!だがその以前は違った!この世界にヒーローという職業はない!高校生にもなって『悪人を倒して綺麗な世界を作りたい』という子供じみた絵空事を語る人間が、どういう目で見られてきたか分かるか?どんな風に生きてきたかお前に分かるか?どう願っても、何度望んでも、俺はどうしようもなく無力で凡庸な片生かたなりの一人に過ぎなかった。だが俺は今、ようやく口だけではない『正義』となった。この覚悟を阻むなら、必ず排してそこを通る」

 世界の裏側にも届くような、揺るがぬ信念がそこにはあった。けれど、怖じることなどあり得ない。

「理解なんてできない。君の味わった無力と苦痛を経験していない僕は、間違っても『分かる』なんて言っちゃいけないんだと思う。でも……それでも、僕だって惨苦さんく半生はんせいだ。生中なまなかな意思でここまで来たわけじゃない。君に劣らない覚悟で、君を阻む」

 確信がある。どれ程感情をぶつけても、平行線は乱れない。どれだけ長い時間を掛けても、彼と理解し合う未来はない。まして時間のない現状では。

「止めておけ。お前では俺に勝てない」

 六段上から睥睨へいげいする杖口に対し、負けじと睨み返す。

 彼が勢い良く階段を駆け下り、一瞬遅れて僕も階段を駆け上がる。彼我の距離が拳の届く所までせばまると同時に、杖口の鳩尾みぞおちに向けて右ストレートを放つ。

 が、あっさりと右に躱され、的確に心臓を狙った彼の拳が体に入った。

「ぐッ……!」

 無論僕に喧嘩の経験などない。殴ったのも殴られたのもこれが初めてだ。

 かつてない激痛が全身を駆ける。しかし、意地で何とか悲鳴も転倒もこらえた。

 一撃で仕留め切れなかった杖口は驚きながらも冷静に、僕の後ろ側へと回り込んで襟首を掴んだ。

 まずい。と分かっていても体が追い付かない。何の抵抗も出来ずに六段下の踊り場に叩きつけられる。

「がッ!……ふッぐッ……!」

 受け身も取れず強かに背中を打ち、呼吸ができなくなる。

 杖口は二階を振り向き、教室に向かおうとする。その右脚に手を伸ばし、満身の力で掴んだ。

「何故そこまでして……!」

「僕は……君を、行かせるわけには……!」

 あの日、鉄塔で男が流した涙を覚えている。男がこぼした言葉を覚えている。

 あの男は僕の未来だ。僕もあの男と同じ道を辿っている。あの男を殺したということは、僕を殺したということと変わらない。

 そしてこれ以上、不幸な人間を殺させない。不幸だから、こうする以外なかった人達を殺させる訳には。

「……いかない!」

 を焦がす熱量が踊り場に荒れ狂う。燃え上がる夜色よるいろの焔が五体から噴き上がり、床と壁とを黒く染め上げた。

「ぐッ……何だこれは」

 手を振りほどき、杖口が距離を取る。僕は肩で息をしながら立ち上がり、己の眼光で彼の双眸を射抜く。

「君は……絶対に……」

「待て」

 杖口が片手で僕を制した。

「お前のことは、鳩ヶ谷から聞いていた」

「え?」

 鳩ヶ谷さん?

 予想外の名前に面食らう。

「公園で、死ぬ筈だった男児をお前が救ったと言っていた。お前だって、正しく在りたいと思ってるんじゃないか?」

「それは……別に、助けたくて助けた訳じゃ……」

 あの男の子を救ったのは、結局何だったのだろう。心から男の子を思ってのものではない。何かしら見返りを狙ってのものでもない。

 自分に酔いたかったからか……?。

「なら、何だ?」

「あれは……」

 納得のいく答えは出せない。「何となく」と言ってしまえば、その通りでそれまでだ。しかし、その基底にあった感情を問われれば……

「…………」

 答えは出ない。僕と彼以外にとって無意味な時間が過ぎていく。

 その沈黙を破ったのは朝加さんだった。

「あ、あの……お二人とも、人質を助けようと思ってるのは、一致してると、思うんですよ。だからその……警察に引き渡すのか、それとも杖口さんのコンフリクトを使うのかどうかとか、そういう犯人の方々の処遇は、また後で、考えるとして、一旦解決しませんか?人質になっている人たちが可哀想です」

「そう……だな。さっきの銃声も気になる。話は棚上げにしよう。幕」

「えっ?あ……ああ。分かった」

 何だ。この違和感。違う。もっと別の感覚。安心感?とも少し違う。逆らわず耳を傾けたくなるというか……本来心を許す誰か、とても近しい人でなければ触れられない心の最奥に触れられた感覚。

「なら、行くぞ」

 杖口が先行し、僕が続き、更に寒河江、京条、朝加さんが続く。二階の、特に騒然としている教室を見付け、杖口が躊躇うことなく入っていった。

 そこにあった光景は想像の真逆であった。

 銃を持った男性が一人の女生徒に銃口を向けている。しかし男性の手は震え、相対あいたいする女生徒の表情には動揺も余裕も怒りも優しさも見られない。

 ただ、何かに落胆したような表情を浮かべ、銃口の前に無防備な体をさらしている。

「なんなんだお前は……死ぬのが怖くねえのか!」

「意外と、怖くない。いくら『生きるのが楽しくない。死ぬのが怖くない』って思ってても、いざ死が目の前に降りてきたら死にたくないって思うものかと思ってた。でも全然そんなことない。このまま死んで、何日か意識だけ残っても、生き返りたいなんて思えなさそう」

 そう語る女生徒に、誰もが人外を見るように立ち尽くすばかりだった。ただ、僕だけは全く別の理由で驚愕していた。

 ループを始めとした非日常によって喚起された高揚が、更なる運命によって、どうしようもなく激しさを増す。

 もうここに、現実なんてない。

 誰しもにとって端役だという劣等感が吹き飛ばされ、自分が物語の中の、大事で大切な登場人物であるかのように錯覚すらしている。

「君……は、あのときの」

 上手く言葉が出てこない。僕を見た女生徒が目を丸くする。

「驚いた。また会えるなんて、思ってなかった」

「おい幕。知り合いなのか?」

「いや……知り合いとも言えないかもしれない。名前も知らないし」

 杖口の問い掛けに微妙な答えを返す。しかなかった。

「そうだね。まずは自己紹介をしないと。私は『空白』のコンフリクト、長月ながつき実奈みな。一年前の図書室ぶりです。幕先輩」

 今日あった全ての出来事が、瞬く間に脳髄の端に退かされていく。感動という言葉が世界中から失われたなら、きっと僕はこの場面で代替するだろう。

「ひ……久し振り……」

 しかし、だからと言って何か特別な言葉を返せるわけでもなかった。迷ったあげく平々凡々とした再会の挨拶になってしまったことを、心の内壁が焦げ付くほど悔やんだ。

「おい……何なんだお前ら!クソッ!こんなの聞いてねえぞ!どうすればいい!?……は……?いやでも…………チックショウ!これしかねえのかよ!」

 男性が、不自然に大きなインカムのマイクを掴んで叫ぶ。

「お前一体誰と話してる?」

 杖口が尋ねた。

「はっ……いいぜ!冥土の土産に教えてやる。俺達に指示を下してるのは『憧憬』のコンフリクト、城崎夕だ!じゃ、逝けや!」

 男性が乱暴に上着を外すと、体に巻き付けられたダイナマイトが露わになった。たちまち生徒達が悲鳴を上げる。

「止せ!」

 叫び、手を伸ばす。が、間に合わない。

「死ね!」

 杖口が独断の断罪を行う。男性は同時に事切れ倒れるが、その親指はスイッチを半ば以上押し込んでいる。

 ――間に合わない。

 果たしてアルフレッド・ノーベルの意図しない形で、ダイナマイトは爆ぜた。

 ゴウという音が炸裂し、視界が真っ赤な炎に包まれる。その刹那、爆裂を追い越す速度で、三条の光芒こうぼうが自らの右手から放たれた。

 これは……。

 爆発にされ、窓ガラスが一斉に割れる。

「熱っ……!」

 と、その爆炎を喰らいながらも、事態の異常さに気付く。何故、目に火が入っているにも拘らず、熱湯を浴びた程度の感覚でマトモに立っていられるのだ。

 炎が失せると後には黒煙が残った。血と灰と蛋白質たんぱくしつの焼ける臭いが広がっている。僕は思わず顔をしかめ、袖で鼻を覆った。

 やがて割れた窓から煙が掃けていき、徐々に教室内の状況が明らかになっていく。薄くなった煙のベールから惨状が透けて見えた。机も椅子も原型を留めているものは一つとしてなく、生徒の屍が無数に倒れ、赤々とした血が流れ出ている。

「長月さん!無事か⁉」

「平気。無傷です」

 長月さんに近付き様子を見ると、確かに申告通りの完膚かんぷだった。

 しかしそれは単純に怪我がないというレベルではない。制服に血も煤も付いていないのだ。彼女一人がダイナマイトの爆ぜる前の教室にいるかのように、完璧なままだった。

「幕先輩。血が……」

 長月さんが僕の頬に手を伸ばす。火傷やら余熱やらのせいではなく、確実に心の沸騰で顔が赤く染まる。

「い……いや。大丈夫。掠り傷だから。でも、掠り傷で済むのもおかしいよね」

 そもそも窓ガラスも壁も吹き飛んでいるのに、床と天井だけ無事なのもおかしい。崩落しているのが自然なはずだ。

「これは……貴方のコンフリクトですか?色白の男の人」

 長月さんが寒河江を見て小首を傾げる。その寒河江は、多少衣服に損傷が見受けられた。

「ああ。俺だよ。俺のコンフリクトは『守護』。……人を、守る力だ」

「人ね……」

 思わず心の声が洩れる。

「何か言いたいことでもあるのか?幕」

「いや……続けてくれ」

「えっと、でも変ですよね。人によって怪我の程度が違います」

 確かに奇妙だった。起爆点との距離と、重軽傷の具合がズレている。

「その……『守護』の発動は、俺がどう思ってるかだからな。守りたいって思ってる相手ほど、効果が強くなるんだ」

 僕が生きているということは、多分僕に対しても発動したのだろう。だが僕は、寒河江にとって何も好ましい言動をしていない。

 その対象に含まれるのは、納得がいかなかった。

「また……私以外」

 京条さんの呟きが、壊れた教室によく通った。

 みんな、黙り込む。

 そんな数秒の沈黙を経て、寒河江が口を開いた。

「でも、このコンフリクトが最大限発揮されるのは柚子に対してだけなんだ。贔屓ひいきは嫌なんだけど、こればっかりは……」

 形式的に長月さんに向かって話してはいるが、京条さんに対しての弁明なのが透けて見えていた。

 腹が立つな。

「なら、何で私だけじゃなくて青葉とそこの女まで」

 そのとき、机の退かされる音に京条の言葉が遮られた。杖口だ。

「君……その怪我……」

 杖口は額から流血していた。手の肌もわずかながらただれている。しかしその負傷を意に介した様子もなく、原型のない机の下からインカムを拾い上げ、耳に近づけた。

「城崎。お前は確実に殺す」

「遠からずその時は来るでしょう。ですがまだ早い。それに、私の手番は終わっていません」

 先程まで普通の、一対一の通話を用途としていたインカムが、スピーカー通話に変わっていた。周囲の人間にも会話が聞こえている。

「何だと?」

「現在貴方のいる学校とは別に、もう一校丸ごと生徒を人質に取っています」

「お前……!」

「今から六十秒数えます。御自分が死ぬか、一学校の全生徒が死ぬか選んでください」

「後者だ。俺は少数を犠牲に多数を救う。お前を生かしておけばこれからも犠牲者は増え続ける。ここで数百人を生かすより、自分を生かしてお前を殺した方がより多くを救える」

「寒河江さんと京条さんの揉め具合が莫迦ばからしくなる程の即断ですね。ええ。決断だと評価します」

「覚悟しておけ。お前は必ず殺す」

「確かにそうなるでしょうが、インカムを壊そうと振り上げた腕を一度下ろしてください」

 杖口の動きが止まる。まるで彼の動きが見えているかのような制止だった。

「何故俺の行動が分かる⁉」

ただの人間観察です。本気で集中すれば誰にでも分かる程度のものですよ。実際の会話で、そこまで気を張る人間がいないというだけで」

「杖口」

 僕は杖口と城崎の会話に割り込んだ。

「変わってくれ」

「だが」

「良いでしょう。幕さんの言わんとすることは分かっています」

「……ほら」

 僕は彼からインカムを受け取った。

「城崎。君、僕と初めて会った場所を覚えてるか?」

「覚えていますよ」

「君はそこで会った自殺志願の男を仲間にして利用した。間違いないな?」

「ええ」

「死ぬと分かっていながら、死地に送ったのか?」

「はい。必要な犠牲でした。本人の諒解りょうかいを得てはいませんが」

「それは、ただの殺人だろ」

「失礼を承知で申し上げますが、それは今更というものです。そもそも世界を滅ぼそうという企みからして悪人の所業なのです。真っ当な遣り方など有り得ない。貴方の考える誠実な糾弾など行わない。私は、世界を滅ぼす魔王なのです」

「なら……せめて僕が悼む。彼の名前を教えてくれ」

「構いませんよ。あの男の名は、佐々木ささき高晴たかはるです。高く晴れたと書いて高晴です」

 佐々木高晴。その生涯、その絶望、その諦観、その無念。絶対に忘れない。幸せな全人類に理解させなければならない。お前たちの幸せの裏に、救い様のない悲劇があったのだと。

「次に、京条さんに変わってください」

「……分かった」

 京条にインカムを手渡す。そのとき、少し指が触れた。ただそれだけのことを、わざわざ意識する自分から目を背けるように、佐々木の無念に想いを馳せた。

「…………………確かめる?…………私が?…………協力しないけど」

「「「「「?」」」」」

 スピーカー通話が一対一の通話に戻っている。会話の内容が分からない。

「明日也。何も聞かずに付いてきて」

「えっ……分かった」

 京条が寒河江を伴って教室を出ていく。後には惨劇と、四人のコンフリクトが残った。

「どうする?杖口」

「生徒達を率いて脱出する。ここ以外は全員人質のままだからな」

「そうだな。一階からか?」

「そうしよう。君達もそれでいいか?」

「はい。付いていくしかありませんから」

「私も……その、役に立つことはないですけど、それで、いいです……」

 反射的に「それでいいんですよ」と言いたくなった。先程から朝加さんの言葉を聞く度に妙な感覚を覚える。

「……行こうか」

 杖口が教室を出るのに続き、そのまま廊下を通り階段を下りていく。踊り場に差し掛かると、派手に床が焦げている。

「これ何かあったんですか?」

「色々ね……」

「床抜けないかちょっと心配でした」

「自分でもあそこまで燃えてるとは思ってなかったよ」

「自分ってことは、幕先輩がやったんですか……」

「おい」

 杖口の脚が止まる。

「どうし……」

 長月さんとの話に夢中になっていた僕の頭だが、意外にもすぐに異常を飲み込んでくれた。

「なんで、まだ下があるんだ?」

 この校舎に地下などない。しかし現に一階の筈の現在地より下へと続く階段があった。

「見てください。あそこ。踊り場が焦げてます」

 長月さんの指差した先には五秒前に通り過ぎた、焦げた踊り場があった。

 杖口が不可思議な空間に足を踏み入れる。一瞬躊躇うが後に続き階段を下りる。炙られた階段を通り抜け、階下に到達すると、まだ下りの階段が存在していた。

 そしてやはり、下には黒焦げの床が見えている。

「なんだ……コレ……」

「『永遠』のコンフリクトだと思います。時間をループさせられるなら、空間もできるんじゃないかって考えてました。多分何か聞かれたくない話があって、校舎にいる人間を外へ出さないようにしてるんだと思います」

 長月さんが冷静に答える。

「京条さんのコンフリクトを知ってるの?」

「触りだけ鳩ヶ谷さんから聞きました」

 鳩ヶ谷さんと長月さんは既に会っていた。というのも一大情報のように思えたが、それよりも何よりも、長月さんの理解力に驚きを隠せない。

「凄い……本人から何の説明も受けてないのに、僕たちに理解が追い付いてる」

「一人でずっと考えてましたから。どのコンフリクトがどんな能力なのかって。一番退屈じゃないのが、それだったんです」

『一番退屈じゃない』という部分が引っ掛かった。語気を強めてこそいないものの、内包するかげの大きさが垣間見えるような言葉だった。

「ちょっと待て。なら俺達はどうすればいい?」

「先に人質だけ解放すればいいんじゃないか」

「私はちょっと反対です。今生徒たちを救出しても、脱出できない状態に混乱すると思います」

 実際自分たちも、『永遠』のコンフリクトが原因であるという、ひとまず納得のいく予測があるから冷静でいられるのだ。

 もしもその発想に至らなかったなら、動転していたのは疑いようがない。コンフリクトを知らない一般人なら、なおさらパニック状態に陥るだろう。

「それもそっか。じゃあ寒河江達が戻ってくるまで待とう」

「やむを得ないな」

「でも変じゃないか?時間のループはコンフリクトに対して効かないのに、空間のループは僕達に対しても有効って」

「あ、あの……その理由は多分、分かります。三月のループがコンフリクトに対しても有効だと、戦いの展開がないから制限されてるって、言ってました」

「制限されてるって、朝加紅葉……さんに?」

「は……はい」

「朝加紅葉さんって介入もするんですか?」

「場合によってはするらしいです……。柚子さんが戦いを放棄して、寒河江さんと一緒に県外へ逃げようとしたとき、止められたって言ってました……」

「そっか。そう言えば、僕も発狂を禁止するみたいなこと言われたっけ」

「それと……お姉ちゃんの話が出たついでに、皆さんの答えも聞いておきたいのですが……」

「答え?」

「その……手紙に書いた件です。私たちの仲間になっていただけるのかどうかという……」

「あっ」

「今の『あっ』は忘れてたの『あっ』ですよね?」

 朝加さんの目が湿度を高める。

「……ごめんなさい。忘れてました」

「いえ……仕方ないと思います……色々ありましたから」

 朝加さんは失念の理由を読み違えていた。手紙に関することを記憶の端に追いやった原因は、城崎靡下きかの集団による襲撃ではない。

 実際は長月さんとの再会がもたらした感激が、それ以外の予定と思考と平静とを全て吹き飛ばしたのだった。

「杖口さんにもお訊きします。私たちの仲間になっていただけませんか?あっ……一応補足しておくと、寒河江さんと柚子さんは既に協力すると言ってくれました」

「俺は協力しよう」

「!?」

 即断……!?

「ちょっと待て。君さっき、寒河江に向かって偽善者って言ったよな?」

「だから何だ。俺も偽善であることに変わりはない」

「でも違いはあるだろ!どう考えても寒河江は、自分の手が届く範囲のセカイしか守ろうとしてない!世界をうれう君とは志が違いすぎて話にならない!」

「関係ない。利害が一致していればそれでいい」

「っ……」

 そうか。これが偽善か。

 鳩ヶ谷さんとの決定的な差違。彼女は『目的が同じでも志が違うから、ボクたちは分かり合えない』と言った。

 しかし杖口はその隔絶かくぜつを気に止めない。過程を軽視し、結果にこそ重きを置く。

 信念を貫く潔癖さではなく、理想を目指す泥臭さこそが、彼のコンフリクトとしての在り方。

「私はお断りします」

「え……?」

 長月さんが、世界を救う側に回らない?

「それは、世界を滅ぼす側に付くという自白か?」

 杖口がその真意を問う。

「いいえ。私には何もないんです。世界を救う、あるいは滅ぼす程の、強い感情がありません。話を小さくしても同じです。普通の人が願ったり欲したりするであろう望みもありません。本当の本当に全てが、そうしないと死ぬから仕方なくという、睡眠欲レベルの些末。私は生きていない。死んでいないだけ。生きるために呼吸するんじゃなくて、呼吸するために生きるような毎日。だから……私を構成する要素に情熱なんてないから、仲間にはなれません」

「…………」

 絶句だった。長月実奈という少女を、何か事情があるにせよ、そう極端な異常性はないと信じて疑わなかった。

 しかし、その心理はコンフリクトとして選ばれるに相当する、極端そのものだった。

「私は『空白』のコンフリクト、長月実奈。願望も信念もない私にできることなんてない。私は、コンフリクトという言葉を知っていて、ループに伴う記憶の消失を受けないという、ただそれだけのコンフリクト。できることも、やりたいこともありません」

「……でも、諦めちゃいけない」

 朝加さんの『言葉』が深く響く。

「まだこれから先、願いが見つかるかもしれない。だから、何でもいいから、一緒に来てくれませんか?」

「思ってはきました。今まで、ずっと、私にも人並みの願いが生まれることを。けれど見つからなかった」

「これから、見付けていこう?私たちと一緒に」

「……私にも、命を懸けるくらいの願いが見付かりますか?」

「その……約束はできない、けれど……私は、全力で貴女と一緒に探すって、約束します」

 長月さんの瞳に、世界への恋が見えたような気がした。

 未来への希望。望まない今から脱却できるという期待。

 それがかつての、いや、今の自分と重なったように見えた既視感だけは振り払った。

「私は、まだ諦めてないんです。諦めきれないんです。これまでは駄目だったけど、これから先に私を変えてくれる何かとの出逢いが有るんじゃないかって、そう思ってるんです……だから、今のところ、一応は協力します」

「ありがとう……長月さん」

 何だか目頭が熱くなり、目の周りの筋肉に力を入れる。おかしい。不自然な程に、朝加さんの言葉が胸に刺さる。

「だから、ちょっと遅れちゃいましたけど、名前をお聞きしてもいいですか?」

「あっ……そうだった。まだ自己紹介してなかったですね……。私は朝加青葉。『言葉』のコンフリクトです」

 このタイミングで僕は、手紙を読み終えた直後の疑問を思い出した。

「そうだった。『言葉』ってどんなコンフリクトなのか訊こうと思ってたんです。教えてもらえませんか?」

「えっと……簡単に言うと、『言葉』を真っ直ぐ歪むことなく伝えるコンフリクトです。どもりながらでも、相手が心を閉ざしていても、どれだけ遠く離れていてもです」

「さっきからずっと、朝加さんの言葉に心を動かされてたのはそれが……あっ…………もしかして、あの手紙って!」

「はい。私のコンフリクトで届けたものです。宛名さえ書けば、適当に飛ばしても風に運ばれて届くんです」

「なるほど。でも手紙ではこう、グッと来る感じがありませんでしたね」

「多分、私の価値観のせいです。文字では感情が込めきれないって、思っているので……変ですかね?」

「変って程でもないと思います。僕は口に出しても文字に起こしても変わらないと思いますけど、直接伝えた方が感情を伝えやすいっていうのは分かります」

「そうですか……やっぱりそれくらいが普通ですよね。

 その『言葉』は、ヴァーミリオンの色素を固めた立方体へ、氷柱状に凍った血を打ち込むように、深く重く心臓に突き刺さり、絶望をみ込ませていく。

 もはや胸が締め付けられるという次元にない。苦痛がダイレクトに貫通し、鬱特有の脳が萎縮する感覚に襲われる。

 苦痛を感じているのは僕だけではないらしく、長月さんが片手で頭を抑え、杖口も顔をしかめている。

「あっ……ごめんなさい!そういうつもりじゃなかったんですけど、このコンフリクトちょっと不便なんですよね……」

 ここだ。間違いなくこの部分に、朝加青葉が『言葉』のコンフリクトたる由縁がある。

「ところで、俺も自己紹介をしていなかったな。俺は『正義』のコンフリクト、杖口玄兎だ」

「『正義』のコンフリクトとは、悪人を殺す力ですか?」

 長月さんが尋ねた。

「……何故分かる?」

「貴方が先ほど自爆したあの男に『死ね』と言った途端、爆発とは関係なく倒れたのでそうかなと。それに『正義』という意味と状況も符号しますから」

「完答だ。俺のコンフリクトは今君が言った通りのもので間違いない。確かに凄まじい理解力だな。思えば、ダイナマイトのダメージを低減させたのが寒河江だとも気付いていたか」

「あれは京条さんが無傷なのに不機嫌だったのと、寒河江さんも軽症自体に驚いてはいなかったから、『自分だけを守ってくれない恋人に対する不満』だったのかなと思ったんです」

 驚きを通り越して笑いがこぼれた。

「いやもう、さっき城崎が言ってた人間観察の域でしょ」

「いえ、自分で言うのすっごく恥ずかしいんですけど、これは観察力でも理解力でもなくて、感受性なんだと思います。高過ぎて『空白』に対する皮肉としか思えないくらいの」

「長月さん……」

「話までループしちゃいそうなので止めましょう。それより、幕先輩のコンフリクトも知りたいです」

 この流れは予期していた。一人一人コンフリクトを明かしていったのだから、当然自分にも回ってくるのは分かっていた。

「僕のコンフリクトは『愛』。愛し愛されて強くなる力。そして不幸な人間の無念を晴らす力」

 愛し愛されて強くなるというのは間違っていないはずだ。元からこうだろうという予想はあったし、

 そして後半については意図して誤魔化している。幸せな人間を殺すときに発揮される『憎悪』にまで言及すると、やはり先程と同様に杖口から処刑される恐れがあった。

 かなりゲスいやり口だが、二人に話す機会があれば損得を考えて明かそう。

「愛して強くなる……」

 長月さんがボソリと呟いた言葉に心臓が跳ね上がった。

 後半以上に、今は前半にこそ触れてほしくない理由があった。そしてこれは、出来るなら言わずに居続けたいものだった。

「ほ、他に何か質問とかある?」

 強引だが話の流れを変える。

「そうですね。誰がいつコンフリクトになって、誰と会ったことがあるのか教えてほしいです。私だけ時系列がよく分かっていないので」

 意図せず自分も気になる話題に移った。僕自身ループに巻き込まれたのが遅かったため、誰と誰がどういう関係にあって、どういう関係になったのか、よく知らない。

「えっと……それなら多分私から話した方が良いと思います。私が……一人目のコンフリクトなので……」

「朝加さんが?」

「はい。姉が人間を試す上で、最初にコンフリクトとして選んだのが私なんです」

 ……道理ではあるか。

「まず……私がコンフリクトになった三月を一周目とします。まだループはしてない、普通の時間軸です。その一周目の内に、私と城崎君、寒河江君と柚子さんがコンフリクトに選ばれました」

 一気に四人。多いような少ないような。

「私は『言葉』のコンフリクトで城崎君に連絡を取りましたが……残念ながら、協力は断られてしまいました……」

「当然だ。あの男は、俺や君から最も縁遠い、明確な敵だ」

 杖口が断固とした口調で断言した。

「でもいつか……いえ、なんでもありません。そして二週目に、鳩ヶ谷さんがコンフリクトになったそうです。私は鳩ヶ谷さんより先に、寒河江君、京条さんと会う約束をしていたので、まず二人に合流しました」

 一方的ながら一周目から連絡の取れる状態だった二人の方が、直接会うタイミングが早いのは当然だろう。

「その後、鳩ヶ谷さんとも会って協力をお願いしましたが、彼女は……応じてくれませんでした」

 横目で杖口を窺うと、彼は眉根を寄せていた。

 彼にとって鳩ヶ谷さんはどういう人物で、彼女が世界を滅ぼそうとすることに、どういう想いを抱いているのだろう。

 それがとても気になった。

「三周目……は確か杖口さんがコンフリクトになったときですよね?」

「そうだ。一切の事情は、元々知り合いだった鳩ヶ谷から聞いた。朝加さんの手紙は届いていたが、言えない理由から会いにはいかなかった。申し訳ない」

『言えない理由』以上に『元々知り合いだった』という部分に不穏を感じた。が、さほど気に止める程のものでもないだろうと見送った。

「いえ……大丈夫です」

 無視されていい気はしないだろう。朝加さんはそういう表情をしていたし、『言葉』のせいで「大丈夫です」というのが少し嘘なのも分かってしまった。

「本当に申し訳ないと思っている」

 杖口が罪悪感に耐えきれなくなったのか、重ねて謝罪をして深々と頭を下げた。

「いえそんな……誰にだって事情はあると思いますし、こんなのは……よくあることで、私が慣れてないだけです」

 つい先ほどの、剥き出しの感情が込められた『言葉』に心を揺さぶられたときに得た確信が、より強い確信に変わる。

 朝加さんもまた、過去に、あるいは現在にまで、極端で特別な何かを抱えた人間なのだと。

「話を戻しますね。四週目……長月さんと、幕さんがコンフリクトとして選ばれました」

「「四週目だったんだ」」

 ハモった!今長月さんとハモった!

 彼女の方を見ると、笑っていた。僕もまた笑みを浮かべる。こんなことでも僕にとっては、舞い上がりそうなくらい嬉しいことだ。

「えっと、私は四週目のすぐ、一日ついたちの朝に鳩ヶ谷さんに会って事情を聞きました。それが初めてコンフリクトに会ったときで、あっ、違いますね。コンフリクトになる前に一度会っているので、初めては幕先輩です」

 初めては幕先輩です。初めては幕先輩です……。

 止めろ僕。今世界で一番キモいぞ。

「僕も大体同じかな。鳩ヶ谷さんに事情を聞いた」

 今までの話から分かったことがが一つある。鳩ヶ谷さんは、誰かが情報的に孤立しないよう立ち回っているらしいということだ。

 ……やっぱり優しい人なんだろうな。

「あと、同じ日に、城崎にも会った」

「なっ……お前、直接会ったのか!?」

 なんだその反応。驚くようなことでもないだろうに。

 いやそうか。さっきのインカム越しでの会話から察するに、杖口と城崎は一度も顔を合わせていないのだろう。

「いやでも、断ったぞ?」

「……そうか」

 もしや城崎と直接会ったのは自分と『後悔』のコンフリクトだけなのだろうか。

 いや、断定はできない。ここにいるコンフリクトでは僕だけでも、鳩ヶ谷さんは会っているかもしれない。彼女は多くのコンフリクトとコンタクトを取っているし、二人は『世界を滅ぼす』という目的が同じだ。

「そして、今。五週目です……。私たち三人は、手紙を送った二人と会うためにこの学校を訪れたのですが……来てみればテロリストに占拠されていました。私たちはまず幕さんのいる教室に入ったのですが、人質を取られて動けずにいました」

「そこに俺が割り込んでテロリストの一人を殺した」

「はい……そして私たちは二階に上がり、長月さんの教室へ入って、そこからは長月さんも見た通りの流れです」

「あの踊り場は何があったんですか?」

「俺と幕が戦った結果だ。テロリストを殺すべきか殺さないべきかで反目はんもくした」

「そんな軽く……」

 思わず率直な感想が口から出た。

 端的が過ぎるだろ。

「あの……どうして誰一人『後悔』のコンフリクトと会っていな」

 爆鳴。

 床が崩れ、いや、天井も崩れている。

 浮遊感。

 壊れた天井から青空が覗いて。

 反射的に解放した光で、自分を含めた四人を包み込んだ。


 ――


「明日也。何も聞かずに付いてきて」

「えっ……分かった」

 柚子は城崎と何かを話した後、突如として背を向け歩き出した。その後ろ姿に、なにか不穏な気配がある。

 嫌な予感がするな……

 言われるまま校舎を出ると、まだ冬を残した寒風かんぷうに吹かれた。

「どうしたんだ?」

 身を縮ませながら柚子に訊ねる。

 振り返った柚子の目は狂気に染まっていた。底が見えないという意味では同じでも、朝加紅葉とは決定的に違う、感情に猛る瞳だった。

「ねえ明日也。私のこと愛してる?」

「もちろん。愛してるよ」

 唐突だとは思わなかった。柚子と恋人になって以降、毎日のように聞かれ、答えたやり取りだ。いや、ようにではなく、事実毎日だし、一日に一回限りというものでもなかった。

「なら、私と今校舎の中にいる人たち全員、片方しか助けられないとしたらどっちを助ける?」

「……試すって、俺のことをか」

「答えて」

「そんなの……選べるわけないだろ。どっちも大切だ」

「ふざけないで!だってアイツらは、セカイの外側にいる無関係な他人でしょ!」

「ッ……!」

 あまりに、苦しい言葉だった。過去の自分が今の自分を苦しめる。

「だって、明日也がそう言ったんだよ?」

 けれど逃げてはならない。過去の過ちの責任は自分にある。だからそれを清算する役割から目を背けてはいけない。

「なのになんで、明日也がそれを否定するの?なんで……こうなるの?こうなるのが嫌だったから、私は『永遠』のコンフリクトになったんだよ?」

「俺だって……守りたかったから『守護』のコンフリクトになったんだ」

「思い出してよ、明日也。守りたかったって誰を?」

「……」

「関係ない大勢じゃなくて、私を守りたかったからなんじゃないの?」

「その通りだよ。確かに俺は、柚子のために『守護』のコンフリクトになった」

「なら……思い出してよ。あのときと同じことを言ってよ」

 俺は目を閉じ、長めに息を吸い込んで『あのとき』を回想する。かつての消せない過ちを。柚子をこんな風に変えてしまった、自分自身の歪曲を。


 ――


「セカイ系って言葉、知ってる?」

 シミ一つない天井、白一色の四壁しへき、リノリウムの床。清潔なベッドに、完璧な抗菌を施されたアメニティグッズ。無菌室と言わないまでも、一般の病院ができる衛生の限界に形作られた病室。

 俺の肌はその病室に溶け込みそうなくらい病的に白く、問い掛けた声も自分で思っていた以上に覇気がない。口を開いたのも久々だから、声の出し方というものを覚えていなかった。

「……知らないけど」

 京条さんの反応は冷淡だった。それもそうだろう。彼女は学校のプリントや連絡を届けに来ただけの訪問者だ。僕を想う見舞い客ではない。

 貧乏くじを引かされて可哀想に。

「物語の一種だよ。自分とその近くの人間関係、つまりは小さなセカイで、大きな世界の命運が決まってしまうような話のこと。僕はこれが好きなんだ」

「……ねえ、寒河江。なんか学校に来てた頃と雰囲気違くない?一人称も俺だったでしょ?」

「驚いた。僕なんかのことを覚えててくれたんだ」

 心のどこかで「京条さんに引かれようが嫌われようが、もう話すことなんてないからいいや」という不実ふじつがあったが、余計なことは言わない方が良いかもしれない。

 いや。

 彼女が僕のことを、「イタいやつ」「キモいやつ」と、彼女の友達に言い触らしたところで、僕がそこに戻らない以上はやっぱり無傷だ。関係のないことだ。

 セカイの外側で起きる出来事だ。

「それでね。独り善がりとか、子供じみてるって言われるかもしれないかもしれないけど、ロマンチックだと思うんだ。狭いセカイで、大きな世界を揺り動かせるっていうのは」

「分かんないから。そんなこと言われたって。多分、アンタに付き合えるほど、特別な人生じゃないから」

 目を逸らしながら彼女は言った。

 意外だった。てっきり京条さんは僕の話に興味なんてなくて、「へえ」とか「そう」とか、相槌しか打たないものと思っていた。

 けれど久々の会話で、まともな反応をくれることが嬉しかった。だからもう少し図に乗って、距離感の分からない世間知らずのままでいることにした。

「そうだよね。きっと普通のことなんて言ってない。そしてこれから言うことも普通じゃないんだと思う」

「……なに?」

「僕はセカイの内側にひとりぼっちなんだ。誰とも分かり合えず、誰とも理解し合えず、誰かを守ることもなく、誰からも守られることなく、独りのまま生きてきて、独りのままもうすぐ死ぬ」

 京条さんが一歩後退あとずさる。完璧に引かれたな。

 終わった。ならもう、諦めよう。

 だから、せめて最後に一つだけ遺そう。この醜い世界で、たった一つ美しい最後の日の夕景を想いながら、寒河江明日也という人生の結論を。

「世界なんて滅べばいいのに」

 僕は世界中の、誰よりも、この言葉に呪いを込められる。

 ああ。ある意味で、セカイ系じみてるな……。

「……本当は、別のことが言いたかったんだけど、まあ、いいや」

 世界の滅亡を願っているのは間違いない。けれど心臓の中央にある願いは、これじゃない。

「教えて」

「え?」

「教えてよ。その本当が、なんなのか」

 終わったと思った人生が、もう少しだけ続く。たちの悪い奇蹟か、そう見える錯覚か。

「京条さんに、僕の生きる理由になってほしい」

 か細い希望と、か弱い期待。数秒かもしれない延命に全てを賭けて、本当を出し尽くす。

 願い。本気で、本当。叶うのなら、死んでもいいと思えるような幸福の最大。

「っ……意味が、分かんないからっ!」

 彼女は苦し気な表情を浮かべ、乱暴に扉を閉めて病室から逃げ出した。

 走り去る音も直ぐに聴こえなくなり、また白とうろだけの病室に戻る。

 失恋ではない。死だ。

 心が止まった。心に従順でない心臓だけが動き続けている。

 もう、何もかも残っていない。遺せない。残らない。

 射し込む夕陽を遮るための力すら起こり得ない。止まったまま。心は死んだまま、真っ白の掛け布団に意識が融けて消えていく。


 ――


 翌日。遺書をしたためることにした。

 別に、京条さんにフラれたことが最大の原因ではない。

 僕の人生は元からどうしようもなくて、でも、これまでの苦しみすべてに報うような奇跡を諦めきれなかった。だから、あと一歩の崖っぷちで悪あがきを続けていた。

 けれど、それもついえた。結局エンディングまで、僕に手を差し伸べてくれる人はいなかった。

「………………こんな、世界は」

 白く、狭く、小さく閉じた部屋。僕以外に、人はいない。一人も。こんなちっぽけな箱が僕のすべて。

 世界から切り離されたような空間。ここには一つもない幸せが、ここ以外には無限にある。このセカイの外側にある、当たり前の世界には、今日も明日もその先も、息絶えるまで無意識かつ最高に幸せな人々が暮らしている。

 幸せな人たちがたくさんいる。なのに、不幸を強いられる人間もいる。

 不幸な僕だけが、ただ独りいるだけのセカイだ。

「………………」

 こんな世界を終わらせたい。けれど、終わらせるだけの力なんてなくて。

 僕の命が終わりを迎えても、この世界はずっと続いていく。あくまでも、徹底的に、僕を中心にしては回っていない世界だ。

 考えてみたって、できることなんて一つもない。ただ、世界を壊す爆弾は落とせなくても、僕がここにいたという呪いだけは残したい。

 重苦しい息を吐き出し、力ない手でペンを掴んだ。

 頭に一葉の写真を思い浮かべる。父と母が共同で使っている寝室の、ナイトテーブルに飾られている写真だ。

 小学五年生くらいの僕が、両親と手を繋ぎ笑っている。確か、当時の僕が『普段は行けない遠くの場所』と思っていた公園で撮ったものだ。

 僕が死んだ後、両親はあの写真を見てどう思うだろうか。

 現実にはいないし、もう二度と会うこともできないけれど、写真の向こうでは無邪気に僕が笑っているのだ。

 どんな気持ちになるのだろう。

 楽しみだった。

 それを想像するだけで、笑みがこぼれる。ちょうど写真とは正反対の、悪意に歪んだ笑みだ。

 さあ。書こう。

 ゴミのような親にされた仕打ちを。彼らに対する恨みを。気付かなかった虐待を。もう消えない傷を。甘えられなかった幼少期を。『愛された感覚』という、一生ものの必須要件を与えられなかった生涯を。

 別に不満のなかった小学校の生活を。正直幸せだった中学生の生活を。自分の人生が書かれた脚本が、なんの救いもない悲劇だと気付いて以降の地獄を。

 誰かに守られることはもちろん、誰かを守ることもなく、守りたいと思える誰かもいなかった。一度でもそんな経験があったなら、たった十八年でもまだ笑って終われた。

 呪いを書こう。この遺書を読んだ誰かの心臓に、毒を打ち込むのだ。この絶叫が、長く強く頭に残って消えない、そんな一生を言祝ことほごう。

 曇り空から注ぐのは、月明かりに劣る光量。

 暗い病室にただ独り、僕は笑っている。ただどうしても、思うことをやめられない。

 もう、本当にこれで、すべて終わりなのか。

 笑う。強がりとかじゃない。けれど、やっぱり、涙は止まらない。


 ――


 終わりを確信したあの日から二日が経った。もう遺書も書き終わった。悔いのない人生であるはずがない。できることもないだけだ。

 良くない癖で、過去の失敗を頭の中で再生してしまう。今もまた、京条さんのことを考えていた。

 死んではいるが、頭は動いている。偽りの鼓動に、ものを考えるだけの空転。

 やっぱり、あり得なかったんだ。

 僕が救われるなんて。とか、それもあるけど、そうじゃなくてそれ以前。

 常識的にないのだ。いきなり告白以上とか。でも、それ以外に手立てもないんだ。重くても、そうする以外救われようがない。

 でも、それすらも駄目なのだ。

 分かっている。誰が好き好んで、赤の他人に人生を貢献するだろう。求めるには自分の中に何もなく、求められるには時間も機会も足りない。

 足りない?いや、ない。不足ではなく皆無。

 もう、救いようがない。

 寿命を削って筋肉の動きにするような緩慢さで、顔の向きを変じる。

 些か暗い。スカイブルーを押し退けた紺が窓外そうがいを支配していた。

 既に日は沈んだ。朝は二度とやってこない。

 寝台に体温を残して立ち上がる。窓を開き、窓枠に手を掛けた。薄暮ですら眼下がおぼつかない高み。日暮れを越えた今ならなおさら。

 風が吹いている。

 ああ。寒いな……。

 もう、歯を食いしばる力もない。重力に体の自由を渡すと、上半身が傾いでいく。

「…………」

 さよなら、世界。

「待って!」

 反射的に、窓枠を掴む手の力が復活する。

 期待はない。ただ自殺を邪魔したその人物に対する怒りがあるだけ。命を大きく見過ぎた誰かに、愚かだと言ってやるだけだ。

 ゆっくりと、背後を振り向く。

 ショートカットの茶髪。つぶらな瞳に、色艶のある唇。短く折ったスカート。僕のよく知る制服。最後の一押しを果たした彼女が、そこにはいた。

「京条さん……?」

 僕の自殺は彼女にとって意味のない死である。という事実に、反するような表情だった。

「なんの用かな?」

「このまま……このまま死なせちゃいけないと思った。はっきりと分かってないけど」

「でも、あの日。僕の生きる理由になってくれなかった。あの瞬間に、もう全部終わったんだよ」

 突き放す。いや、元々離れていたことを伝えているだけ。圧倒的な距離を間に置いたまま、彼女を遠目に見る。

「私も生きる理由になってくれる人なんていなかった。初めから、自分にはどうしようもない所から。でも、あの日、初めて誰かに望まれた」


『京条さんに、僕の生きる理由になってほしい』


 確かに言った。けれど、だから何だ。

「でも意味が分からないって」

「それはその、反射的に言っちゃっただけで……ホントは分かってた」

「……分かるわけない。だって、京条さんは普通の、幸せな人だから」

 京条さんが一歩歩み寄る。

「来ないでくれ」

「私、家族がいないんだ」

「え……?」

「私が生まれる前に離婚した。どっちも親権を押し付けようとした。捨てられた。だから、一人で生きていくって決めた」

 少し僕が弱くなった。その傷を知っている人間に、大袈裟な痛がりは通じない。

 そして同時に、心臓が動き始めた。彼女なら、もしかして。

「よく生きてこれたね」

 自分で言って、つまらない感想だと思う。

「ただ生きてきただけだよ。本当に、ただ生きてきただけ。生きるのに必死っていうか、生きることに終始してきた。楽しくないし、面白くもない。形式の上とか戸籍の上ならともかく、友達も恋人も家族もいない。とても人生としては採点されないような十八年だったよ」

 その言葉を、『強い』と感じた。それだけの人生だったのだと、理解できた。

 幽かな月明かりが、彼女の表情に表れる翳をより濃く浮き彫りにする。

「どうしてそれで生きて来れたんだ。どうして……」

「……さあ?」

「えっ?」

 そもそも疑問を持つことに疑問を持たれているらしい。知らない国の知らない地域の天気を尋ねられたかのように、彼女は僕の問いを『自分のもの』としては受け取らなかった。

「考えたことがない……かな。バカだったのか、思考停止してたのか、分かんない」

「……それはきっと、京条さんが強いからだよ」

 僕の人生は余命なんてなくたって、絶望に足りた。けれど彼女にとってはそうでなかった。どうあれやっていける程度のものだったのだ。

 人生に対する価値観が違う。

 僕はこのとき、少なからず失望した。

「そうだね。私には取り柄とかないけど、こんな人生で生きてきたっていう実績は、確かに私を作ってるよ」

「じゃあやっぱり、君と僕は他人だ。分かり合えない」

「そうじゃない」

 また一歩彼女が近付いた。

 強い拒絶を、強い意思で塗りつぶされていく。

「一人で生きていけるくらい強い私でも、本当は誰かと繋がりたいって思ってるらしいの」

 その瞳に同情なんてなかった。急場凌ぎの取り繕いなんてなかった。

 寂しさと、温かさと、強い期待が入り交じって光っていた。

「初めてなの。こんなこと人に話すの。ずっと自分の感情を、自分で処理する一生だと思ってたのに」

「京条……さん」

「あっ……これ、本当に無理かも。色々駄目みたい」

 ぐしゃりと、恐らくは十八年間の堰が壊れてしまって、中に押し止めていた情動があふれ出したのだろう。張り詰めた表情が崩れ、大粒の涙がこぼれた。

「ね……ぇ」

 突然彼女は駆け出し、僕の体を強く抱き締めた。

「えっ……?」

「ごめん。しばらくこうさせて」

 冷静さが吹っ飛び、思考を停止する常識も脇に退けて、ただ反射的に彼女の体を抱き締め返した。

 長らく忘れていた、人の温もりだった。

 これが、人との繋がりなのだと、実感した。

「ねえ、京条さん」

「ぐすっ……なに?」

「京条さんに、僕の生きる理由になってほしい」

 紛れもなく、寒河江明日也の、人生最後の告白だ。それがどういう結果になるかに関わらず。

「……でも、すぐ、私の前からいなくなる」

「それは……」

 余命三か月。四月のどこかで僕は死に、二度と目覚めない。

 どうせ今日死んでやるつもりだったから忘れていたが、生きる理由を得た途端、タイムリミットが立ち塞がった。

「私は私の寿命が尽きるまで生きるつもりなんだよ?きっと、三か月の幸せは、残りの七十年以上を地獄にする。途中で終わる幸せなんて、ない方がいい」

「僕は…………いや、俺だって!最後の瞬間まで京条さんと一緒にいたい!やっと、守りたい人が、できたのに……」

 なんで、こんなにも、上手くいかないんだ。

 やっと誰かのものに、なれたのに。俺には、彼女の心を守れない。

「だから……やめよう?お互い、辛くなるだけだよ」

 京条さんが俺の背中に回していた腕を離す。けれど、俺は彼女を強く抱き締めたまま離さない。

「離してよ」

「嫌だ」

「離して!」

「嫌だ!」

 やっぱり、俺は重いのかもしれない。気付いていなかったけど、道を踏み外す前から、こういう性格だったのかもしれない。

 だとしても、どっちでもいい。

 今は絶対、この手を離さない。

「ねえ……寒河江」

「嫌だ」

「そうじゃなくて、後ろ!ていうか周り!」

「えっ……?………………え?」

 景色が変わっていた。辺り一面に、月明かりすら射さない闇が広がっている。どこまでも黒だけの、不可思議な空間。その宙に一人の女が浮かんでいる。巨大な天秤を背にして。

「なん…………だ……これ」

 密着したままの僕らを、空中に立つ女性が見下ろしている。

「君達には何を犠牲にしてもいいと思える望みがあるか」

「……」

 名残惜しくも一度抱擁を解き、彼女と顔を見合わせる。そして、この場の支配者を見上げ、寒河江明日也が得た答えを、堂々と口にする。

「京条さんを守りたい。京条さんだけを守れる力がほしい」

「ここはどこだ」とか「貴女は誰なのか」とか、そんな当たり前のリアクションは自然と省かれた。この普通ではない状況に縋ろうと思った。

「京条柚子。君はどうだ?」

「いつまでも変わらない、ずっと終わらない幸せが欲しい」

 女は続けて問いを投げ掛けてきた。

 「間もなく世界が滅ぶと仮定して、君に世界を救う力があったら救うか、否か」

「俺が救いたいのは、自分と京条さんだけだ。このセカイ以外は、いらない」

「私も世界なんて、どうだっていい。世界から何も受け取らなかったわけじゃないけど、始めから大切なものを失っていたし、ほんの少し与えられたものだって、すぐになくなった。私の周りに変わらなかったものなんて、一つもなかった。だから私は、世界を滅ぼすなんてしないけど、救いもしないよ」

「良い答えだ、寒河江明日也、そして、京条柚子。君達は世界の存亡を見定めるに値する人間性を有する。コンフリクトとなるのに充分な資質だ」

 何を言っているのかは分からなかった。ただ、言葉の意味は分からなくても、それが真実であり、何かを変えてくれるものであるような気がした。

 「コンフリクトとは形而上にある心を形而下に具象化したもの。故に、寒河江明日也、君のコンフリクトは『守護』だ。そして、京条柚子、君のコンフリクトは『永遠』だ」

『守護』と『永遠』。僕と彼女の、感情にして、信念にして、願望。

「然るべき時に、コンフリクトは君達の心より、外側に発現する」

「待ってくれ!俺たちは本当にそれで救われるのか!?」

「それは私にも分からない。まだ答えどころか、問いすら出されていない。三月を待つことだ」

 景色がぼうと薄らぐ。目を覚ますように、あるいは眠りに落ちるように、空間が散っていく。

「君達は思うがまま行動すればそれで良い。その結果が私の求める答えだ」

 そう言って彼女は、天秤と黒一色を伴って消えた。後には、月光の射し込む病室だけが残る。

「…………ねえ、今のって」

 京条さんが訝るように、僕の目を見る。

「分からない……何も」

 ついさっきのこととは言え、それが現実だと証明してくれるものが何一つなかった。

「もし、本当なら」

 あの女性と、彼女がくれる力が、何もかもを救ってくれると縋っている。けれど、あくまで、仮定くらいにしないと、現実的な話にならない。

 京条さんは納得してくれないだろう。

「最後まで、一緒にいてくれますか?」

 このとき初めて、青い春の中にいる高校生のように、胸の音が大きくなった。息が苦しい。けれど、呼吸の仕方を思い出したように、空気が爽やかだった。視界も明るい。世界が、綺麗だった。

 今までの告白は、愛を告げるものではなく、救いを乞うものだった。けれど、今この瞬間は、世界中に叫んだって恥ずかしくない、純粋に好きな人を恋う想いの告白だ。

 そんな気色が伝わったのだろうか、それとも、彼女も同じ気持ちを抱いたのだろか。京条さんの瞳に、憧れていた全てを見た。

「はい。喜んで」

 桜の花のように、彼女はわらった。


 ――


 以来、柚子はセカイの内側の存在となった。

 彼女は毎日この病室を訪れてくれている。そして可能な限り、長く傍にいてくれる。一部の例外を除いて、面会時間の全てを使ってくれる。

 僕が逆の立場でもそうしただろうし、こうでなくては寂しいなんて考えている。しかしそれはそうとして、僕の中の常識的な部分が申し訳なさを感じていた。

 だから、「疲れない?無理しなくていいよ?」だなんて言ったこともある。ちなみに「一日でも会えない方が無理」と即答された。幸せすぎて、自分が誰なのか分からなくなりそうだ。

 しかし、今は『一部の例外』だ。この後訪れる全く別の見舞い客のために、彼女は席を空けている。

 別に特別なことじゃない。病室に来て当然の人物。母親と父親だ。

 病室のドアがノックされた。俺は「どうぞ」と短く返事をする。

「明日也、調子はどうだ?」

 父が尋ねた。

「……最高だよ」

 少し返事に迷った。俺の人生の元凶は、今目の前にいる二人だ。彼らの前で、少しでも幸せそうにすることが、自分に許せなかったのだ。『お前らのせいでこんなにも不幸なのだ』と、思い続けてきたから。

「うん……正直幸せだよ」

「何かいいことでもあったの?」

 母親が不思議そうに尋ねた。独りきりの病室で、見舞い客もいない筈なのに、幸せな出来事が起こるのが疑問なのだろう。

「俺その質問、ホント嫌いなんだよ」

「えっどうして?」

「良く考えろよ。何かの出来事がなくても、幸せか不幸せかのどっちかの状態ではあるんだよ。いちいちアホなこと聞くんじゃねえよ。お前俺が沈んでるとき何回『何かあったの?』って聞いてきたよ。そんな何か特別なことがなくても、ずっと常に不幸だし死にたいって思ってきたんだよ」

「…………」

「あとさ『丈夫な体に産んであげられなくてごめんね』とか言ったよな?あれホントふざけてるからな。たとえ普通に八十年生きられる体だったとしても、お前らのせいで自殺してたから結局寿命変わんねえよ」

「おい明日也。言い過ぎだ」

「十八年の憤懣ふんまんなんだから、どう考えても言い足りねえよ。なあ、俺はさ、落ち込んでるとき、その落ち込んでる理由の通りに慰めてもらったこと一回もないんだよ。分かってもらえないんだな。他人なんだなって強く実感できたよ。ありがとう、お母さん」

「明日也!」

「テメエもだよクソ野郎!お前に何かしてもらった覚えが全くないんだよ。例を出すから良く聞け。家畜は食事だけ与えられる。ペットは食事と愛情を与えられる。人間の子供は、食事と愛情と生きていく術を与えられる。お前が俺にしたのは、金稼いで食わせるだけ。家畜だよ。扱いが家畜なんだよ。それで『親としての役目を全うしてます』って顔して生きてんだよテメエは」

「…………」

「そもそもろくに話した記憶もないしな。本当にやってること他人だよな。いや、ただの他人なら良かったわ。血の繋がった家族なのにそれしかしないから、最悪なんだ。お前がいたから、死のうと思った。ありがとう、お父さん」

 うずたかく鬱積し、凝縮された怒りと恨み。澱みなくスラスラとそれらを語れるのは、つい最近これまでの感情を文章にまとめる機会があったからだ。

 そう。これは、遺書の一節だ。

「…………俺が消えれば、満足か?」

「は?いなくなって、それでどうにかなると思ってんのか?」

「そうだよな……」

「だけどな。言わなかった俺も悪いんだよ。お前らが親失格だった以上に、俺も子供失格だったんだよ」

「いやそんなことは……」

「一回も甘えなかったからな。自分の感情を全部自分で抱えたからな」

 そもそも『甘えていい』という感覚があれば、『愛されている』と思えるだけの月日があれば、こうはならなかったのだから、結局はどう考えても親が悪い。

 でも、俺がこんなに悲しいのは、きっと、それだけじゃ納得できないからなんだろう。

「ああ……なんか、初めて顔見たな」

「どういう意味だ?」

「俺はお前らを見限った。だから今まで一回も、本心で話したことがなかった。やっと、初めて、顔見た気がするよ」

「なあ、明日也。俺たちが変わろうとして、俺たちはやり直せるのか?あと数ヵ月しか、なくても」

 俺は満面の笑みを浮かべた。

「そこは気にしなくていい。全然問題ない」

「そうか……。明日也、今まで悪いことをした。改める。だから、改めて、これからよろしく頼む」

「明日也、本当にごめんね。分かってあげられなくて。いっぱい苦しませっちゃったんだね。私も頑張るから。最後くらいは親として生きるから」

「ああ……。うん。やっぱな、独りで抱えると重くて重くて死にそうだったけど、言ったら気が楽になった」

 言って楽になって解決する話でもない。結局のところ、『俺には柚子がいる』という覆りようのない幸せが、それ以外の問題を軽くしているだけなのだ。

 まだ、この二人の間に生まれたことを恨んでいる。けれど、いつか、そう思っている自分をこそ、恨みたくなる時が来るのかもしれない。

「これからよろしく、お母さん、お父さん」

 未来は、明るかった。


 ――


「そう……良かったね」

 家族と和解したことを柚子に伝えると、彼女は目を伏せた。なんだろう。いつかのように、表情がくらんでいる。

「どうかした?」

「私の家族はさ、仲直りしようって言って戻れるような感じじゃないの。だから、いやそうじゃなくて」

 柚子が俺の袖を掴む。縋るように。まるで、いきなり告白同然のことをしたときの俺だ。

「明日也には、私の隣以外に居場所なんてなくていい」

「ぁ……うん。分からなくはない。でも俺が柚子より何かを優先することは、絶対にないから安心してくれ」

「普通の恋人って、『一緒にいなくてもダメってわけじゃないけど、それでも一緒にいたい』って思うものでしょ。でも私は『一緒にいなきゃダメだから、絶対に一緒にいたい』って関係じゃないと嫌」

 彼女は、まるでそれに裏切られ続けてきたかのように、必要に迫られない関係性を許そうとはしなかった。もしかしたら、俺はもう裏切っているのかもしれない。

「なあ、もし柚子が望むなら、今一緒に死んでもいい。それもある意味『永遠』なんじゃないか?」

「絶対嫌」

「そう……なのか?」

「死んだら、そこで終わりだよ。『永遠』なんてない」

 確かに、彼女の言っていることは正しかった。そして、俺の言っていることは間違っていた。

 短い人生というものに慣れすぎて、死生観が歪んだのだろう。

「じゃあ、どうすればいい?」

「約束して。いつまでも、何があっても、絶対に私の隣にいてくれるって」

 その誓いは自分にとって、甘美で、綺麗で、当たり前だった。

 そして、ここまで誰かに求められる感覚が、暖かった。

 だから、どうか彼女にも、その温かさを返せるだけの人間になりたいと思った。

「誓うよ。俺は、ずっと柚子の隣に居続ける。必ず君を守り続ける」

 自分がこのセリフを言うことに、あらゆる変化を実感する。もう本当に、死ぬだけのセカイにはいないのだと。

「絶対だよ?」

「絶対だ」

「もし破ったら、ずっと閉じ込めて、私だけのものにするからね」

「うん。いいよ」

 柚子が寝台に座ったままの俺を抱き締める。彼女と出会うまで知らなかった、幸せという言葉の意味を、肌で感じる。

「ねえ、明日也」

 柚子が抱き締めるのを少し緩くして、俺の顔に彼女の顔を近付けた。

 そのまま、数秒視線だけで愛を交わす。受け入れる意思があることは、お互いに分かっていた。

 俺はゆっくりと彼女に口吻けした。

 胸の内に、じんわりと熱が生まれる。もう生者らしい弾力を失っていたはずの心臓が、うるさい程に動いている。

 夢中で、これ以上ない世界にい続けた。

 どれくらいの間そうしていたか、まったく分からない。

 日が落ちても昇っても、いつまでだってそうしていられたけれど、やがて、どちらからともなく唇を離し、見つめ合った。

「愛してる、柚子」

「私もだよ。明日也」


 ――


 二月の下旬のある日。俺は一つの変化に気付いた。いやもっと前から感じてはいたけど、よりはっきり気付くのを待った。

「柚子、髪伸ばしてるの?」

「うん。そうだよ。明日也、ロングヘアーの方が好きなんでしょ?」

 それくらい俺のことが好きなんだ。と分かってしまい、笑みが抑えられない。

「よく……知ってたね」

「うん。こればっかりは、彼女に感謝かな」

「彼女?」

「ああいや、何でもない。こっちの話。というかこの話、三月まで取っておくつもりだったのにな」

 もちろん一か月や三か月で、そこまで髪が伸びるわけがない。彼女は、終わらない三月のことを言っているのだと、すぐに分かった

「そりゃ、気付くよ。毎日会ってるんだから」

「毎日会ってるから、ゆっくりとした変化には気付かないものなんじゃないかな?」

「あー。言われてみれば、そうかも。じゃあ。好きだから、かな」

「もう……」

 柚子が顔を赤らめる。可愛い。本当に、世界一可愛いと思う。

「明日也も顔赤いよ?」

「やっぱりまだ、恥ずかしくて」

「照れながらでも言ってくれて嬉しいよ。明日也。私も大好き」

 心が破裂しそうなくらい、幸せで満たされる。彼女がいるから、俺はこの世界に生きていられる。

 だから、いつの日か、『愛してる』と堂々と言えるような男になりたい。

 そう、強く思った。


 ――


 そして三月の終わりに、運命は始まった。


 ――


「私以外いらないって言って。私だけを守るって言ってよ」

 柚子の瞳が、孤独に塗り潰されている。

 俺が、間違えたから?いや、でも、柚子にとっての間違いだとしても、俺にとっては間違いじゃない。

「俺は杖口とは違う。世界のすべてを救おうなんて考えていない。ただの、どこにでもいる普通の高校生だから。ただ、かつての俺と同じように絶望する誰かを、手の届く範囲にいる誰かを、守りたいんだ」

「そう……」

 彼女は顔を伏せ、両手でインカムを握り締めた。

「分かってくれ。もちろん柚子が最優先だ。何より誰より真っ先に柚子を守る。ただ、他にも俺に救えるものがあるのなら」

「うるさい。聞きたくない」

 柚子が俺の願いを遮った。

 なんで。どうして。分かってくれないんだ。

「ねえ、明日也。私以外守る相手がいなくなれば、私だけを守ってくれるよね?」

「何を言って」

「こういうことだよ」

 柚子の指が、インカムのボタンを押す。瞬間、不自然な程大きなそれの、もう一つの機能が牙を剥いた。

 爆音。地響きのように地面を揺らし、校舎が崩れ落ちた。

 瞬く間だった。後に残ったのは、残骸の丘も燻る煙。そして、所々で燃えている炎だけだ。

「なんで……どうして!?」

「ねえ、明日也。私、もう戻れないところまで来ちゃった。一緒に、地獄まで落ちよう?」

「…………」

 どこで間違えたのだろう。せっかく手にいれた、生きる意味だったのに。どこで……。どこで……。

「もともと私がいなきゃダメだったんでしょ?だからさ……もう他の全部は諦めてよ。私がいなきゃダメで、私だけを見てくれる明日也に戻ってよ」

 違う。今の俺は間違ってなんていない。かつての俺が歪んでいたのだ。

「柚子……俺は」

 徐々に晴れていく黒煙の中に、何かが浮いているのに気付いた。

「なんだ……あれ」

 瓦礫の上に、白く光る球が浮遊している。かなり大きい。人間四人くらいは包めそうな大きさだ。

 球はゆっくりと下りてくる。やがて瓦礫に着地すると、それはめくれていく。そして中から、四人のコンフリクトが現れた。

「良かった……」

 思わず安堵の声を漏らす。

 幕好太。朝加青葉。杖口玄兎。長月実奈。全員が無事だった。


 ――


 光の翼を畳みながら溜め息を吐く。こういう使い方は望んでいない。僕は愛する誰かのためだけに、力を使いたいのだ。

 これではまるで、のコンフリクトだ。

「何故俺まで助けた?」

 杖口が僕に尋ねる。

「悔しいけど、君は本物だよ。どんな悪人も君に殺されるなら、未練は残るとしても、納得して死ねる。だから、もし僕が世界の敵になるのだとしたら、君に倒してほしい」

 心からの言葉だ。彼の、人間を辞めてまで信念を貫く意思は、薄汚れた俗人を見過ぎた僕の目に、清く気高く映ったのだ。

「……分かった」

 納得したという表情ではなさそうだった。彼に友情を期待するのは無理なのかもしれない。

 別に期待していたわけでもないけれど。

「良かった!皆無事か!?」

 寒河江が駆け寄る。

「寒河江。これは何だ。何が起こった」

「これは……」

 杖口の険のある言い方に対し、寒河江が言い淀む。

「何故『永遠』のコンフリクトで俺達が閉じ込められ、その直後校舎が爆破される?お前等は、城崎とグルなのか?」

「違う!そうじゃない!これは……」

「因みに」

 寒河江の言葉が城崎の声によって遮られる。

 京条は何も操作をしていないにも拘らず、独りでにスピーカー通話へと切り替わったインカムから、城崎の声が流れ始めた。

「『後悔』のコンフリクトたる浮村幸彦うきむらゆきひこ曰く、『どこまでがコンフリクトが殺したことになるのか?』という問題の答えは、直接コンフリクトが手を下した場合のみであると判明しています。先の例ですが、私の命令で非コンフリクトが女生徒を殺害しても、女生徒は次回のループで復活します。しかし今回の爆破は紛れもなく、『永遠』のコンフリクトたる京条柚子の手によって行われたものであり、犠牲となった大勢の生徒の命は回帰しません」

「京条。今の話は本当か?」

 杖口が京条を睨む。

「だって……だって私は悪くない!」

 彼女はインカムを地面に叩き付けた。部品が壊れて散らばる。

 その声を、その音を、怖いと感じた。女性が感情的になったときというのは、どうしてこんなにも怖いのだろう。

「質問に答えろ。爆破の引き金を引いたのは、お前か?」

「杖口やめてくれ、今回のことは」

「お前は黙っていろ寒河江。俺は京条に質問している。どうなんだ?」

 その問いには命が懸かっている。悪と認識した相手を、『死ね』の一言で殺すコンフリクト。十中八九、このままでは京条が死ぬ。

 どうする?僕に何かできることはないか?

 ……あれ?なんで僕が、そこまでして彼女を庇おうとするんだ?

 僕は、幸せな誰かを殺したいんじゃなかったのか?

「…………私が」

「あの!」

 初めて朝加さんが、大きな声で自分を主張した。

「き……城崎君の、狙いは、私たちの分裂です。今戦ったら、彼の……思うツボです」

 確かに一連の出来事は、明らかにそれが狙いだった。

「それに、ダイナマイトの爆発で無傷だったように、京条は寒河江のコンフリクトで守られてる。だから京条をどうこうするとしたら、その前に寒河江を倒さなきゃいけない。でも君は寒河江に対してコンフリクトを使えない。そうだろ?」

 思い付きで喋っている。『正義』のコンフリクトが『守護』のコンフリクトを貫通する可能性とかは、全く考えていない。

 ただ、最後の一文だけは、確信と自信があった。

「何故そう思った?」

「教室に入ってきたとき、君は寒河江のことを偽善者と呼んだ。そう、偽善だ。悪じゃない。君は寒河江を悪人だと認識できていない」

 杖口は言った。『人を害する人間は悪だ』と。けれど、自分の気持ちを基準に人の命に順位を付ける人間を、彼は悪人と認識しない。

 他人を見捨て恋人を救うか、恋人を見捨て他人を救うかの場面で、迷いなく前者を選ぶ凡人を、彼は悪と判断しない。

 それは悪ではなく普通の感情であると、この男は納得するだろう。

 きっと、きっとだ。

「……物事には順序がある。今、寒河江を倒す手段は俺の手になく、あったとしても、『守護』と『永遠』を抹消するのは利敵行為になる。事実、敵の狙いもそれであったように。故に、城崎を殺すまでは生かしておく。だが勘違いするな。ここでお前らを見逃す第一理由は、朝加青葉の説得に心動かされたからでも、敵の思惑に乗るのを避けたからでも、今俺がお前らに挑んでも勝てる確証がないからでもない。それが世界を救う選択としてだからだ」

 そして彼は一同に背を向け、瓦礫の丘から飛び降り、歩き去っていった。

「朝加さん、幕。ありがとう」

 寒河江が頭を下げた。

「えっと……どういたしまして」

「感謝なんて受け取らない。僕はただ事実を言っただけだ」

「ああ……分かった」

「で、君は実際これからどうするつもりなんだ?」

 寒河江は一度京条を振り向き、もう一度僕を見た。

「これから、考えていくよ」

「そうか」

 やはり敵になりそうだ。僕がこのままで、彼らがそのままなら。

「とりあえず、今は生存者を救いたい。手伝ってもらえるか?」

「もちろんです」と朝加さんが答える。長月さんも「構いませんよ」と答えた。

 僕にもこれといって断る理由はなく、どころか、とても強い受ける理由がある。長月さんがやるなら、僕もやる。やらないわけがない。

「いいよ。僕もやる」

「ありがとう。みんな」

 寒河江が再び頭を下げた。

「私は帰る」

 京条は苛立ちを隠そうともしない。校舎の残骸に背を向け、杖口が消えたのとは反対の出口へと歩く。どうやら本気らしい。

「柚子!」

 寒河江が彼女の名を呼ぶ。

 彼女は振り返らずに、棘のある声音で言った。

「私のことを考えてないなら、呼び止めないで」

 本当に彼女の姿が見えなくなるまで、僕たちは立ち尽くしているだけだった。

 寒河江はただ、「やろう」と言って、瓦礫を退かし始める。

『追いかけてあげれば?』とは、言わなかった。

「私たちも……」

 朝加さんが促す。

「そうですね」


 *


 知っている人、友達と呼べる程度の人、好きではなかった担任。そんな人たちの死体があるだけだった。

 幸せな人間が嫌いだから、喜ばしいとは思う。ただ、思うものが、全くないわけではなかった。知っている誰かが、同時に何人も、こんなにあっさり死ぬことに、酷く現実感がなかった。

 自分はショックを受けているのだろうか。あまり受け入れられない。いいや、多分、興味なんてないのだろう。

 しばらく、友達の亡骸を前に固まってそんなことを考えていた。

 そんな僕の姿が、傍からどう映ったのかは想像に難くない。

「幕さん。その……」

 朝加さんが僕の後ろに立ち、こちらが気の毒になるような表情を浮かべている。

「どうかしましたか?」

「その……なんて言葉を掛けていいのか分かりません」

「いえ。お気持ちだけで充分です。大丈夫ですから。それに、あんまり気にしてないんですよ。本当に」

「そうなんですか?」

「うん。驚きで受け入れてはないけど、悲しむって感じじゃないんです。性格悪いですよね」

「あの……失礼な質問を許してください」

「いいよ。どうぞ」

「幕さんは、クラスメイトからいじめられていたり……交遊がなかったりしましたか?」

「いや……そういうんじゃないです」

「なら、どうして……?」

「結局は他人だからです。高校の友達なんて卒業したら、それこそこの日以降、他人に変わる。会わない相手と仲が良いままなんてありえない。そんなに長く続く関係があるとしたら、恋人だけです。友達なんて、簡単に終われます」

「そんな風にはとても思えません。でも……そういうものなのかな」

 朝加さんは異文化に触れたような、意外そうな顔をしていた。

「まあ僕の意見ですよ。元から友達少ない上に、

「それっ……て」

「あっ」

 期せずして、朝加さんが言ったことと少なからず似た言い回しになった。

「やっぱり……幕さんもコンフリクトなんですね……」

 指している内容はまったく違うだろう。けれど、普通から離れた感性があるということは、それだけで特別で、コンフリクトであることの証明だ。

 その特別を受け入れられるかどうかは別として、相手もまた自分と同じように特別だと感じることはできる。

 それが嬉しいのは、僕だけだろうか。

「私も思いませんよ。友達の亡骸を見ても、何も感じません。興味がないんだと思います」

 長月さんが言った。

 近いのに、遠い。いや、近くも遠くもない。それは感情なのに、感情と呼べるものじゃなかった。透き通るような透明、ですらない。あるのに、ない。

 こんな、心があるのか。

「どうして?って……聞いてもいいのかな?」

 朝加さんは、長月さんの言葉に興味を持ったようだった。

「普通の人は、自分と関わりのない他人が死んだことを知っても、特に何も感じない。興味がないから。なんです」

「そんな……ことって」

 言っている意味は理解できる。けれど、絶対に共感することはないだろう。あまりにも、ありえない。

 彼女は目に映るものに、なんの順序も付けていない。石も、瓦礫も、空気も、人も、すべてに等しく、関心がない。

 人をして、ここまでの無関心がありえるのか?

「こんな私でも、何かになれますか?」

「それは……」

 朝加さんが口ごもる。彼女の本質が虚ろであることを知れば知るほど、それが不可能に思えてきてしまうのだろう。

 でも、僕は、違くて。

「なれるよ。だってこれだけ激情に囲まれて、そのままでなんていさせない」

「人に影響を受けないから、こんな風になってるんですよ」

「でも『諦めきれない』って言ってたこと、忘れてないよ。忘れてなんてあげない。長月さんにだって、それくらい強く求める気持ちがある。だから僕は君を、他と比べて遜色ない、一人のコンフリクトだと思ってる」

「気持ちだけあっても、その対象がなかったら、意味なんてないのに」

「…………」

 もう何も思い付かなかった。彼女の言い分は、彼女の中でも、僕の中でも正しかった。

「やっぱり、私は変えられませんよ」

「……それでも、僕は諦めないから」

 欲しいものが手に入らないどころか、欲しいものすら見付からない彼女に、普通の感情を知ってほしい。

 長月さんに笑ってほしい。泣いてほしい。怒ってほしい。

 叶うなら、そのきっかけが僕であったなら。

「そう言ってもらえるのは、複雑ですね」

 複雑とはどういうことなのだろう。僕の気持ちが嬉しいか、鬱陶しいかのどちらかだけなら分かる。けれどその二つは、どう頑張ってみても同時に存在できそうになかった。

「そういえば、ついさっきのはともかく、テロリストが自爆したときも、私のこと守ってくれましたよね。幕先輩」

「っ……」

「どういうことだ?」

 死体と瓦礫の山を漁っても、もう流石に生存者はなさそうだと理解したのか、寒河江が顔を上げて尋ねた。

「う……。うん。実は、長月さんと朝加さんに対してコンフリクトを使ってた」

 できれば言わないでいたかった。

 寒河江が命の優先順位を迷ったとき、『人が守るべきは愛する誰かだけだろ?』と詰めた手前、言い辛かったからだ。

 しかしこれは、自分の中で矛盾していない。僕が誰を守ろうと自由だ。

 問題はその先。まだ言っていないこと。僕はこの場にいる全員に対して一つの事実を隠した。

 それを言ったとき、不快か敵意か軽蔑かの眼差しを向けられることを恐れたからだ。そして何より、

「なあ……ちなみにさ」

 寒河江と目が合う。これから自らが傷付くことを、半ば悟ったような面持ちだった。

 心臓が縮む。その表情に、続く言葉を理解してしまう。それは、それだけは困る。

「いや、なんでもない」

「……」

 彼は言いかけた言葉を撤回した。少し、心臓が弛む。冷や汗をかいた。

 何故、聞かなかったのだろうか。僕に気を使った?それとも自分がその答えを聞きたくなかったから?

 真意は分からない。けれど何か、惨めな気分になった。こんな気分になったのは、以来か。

「もし今回、幕先輩と寒河江さんが守ってくれなかったら、私や朝加さん、あと杖口さんも死んでいたかもしれませんね」

 思いもよらず薄氷はくひょうの上を歩いていた。

 のだが、それ以上に、慄然とする。今彼女の言った『死んでいたかも』には、まったく重みがなかった。


『このまま死んで、何日か意識だけ残っても、生き返りたいなんて思えなさそう』


 長月さんが銃口を向けられて尚、なんの動揺もなく素直に発した、嘲りなき冷笑を思い起こす。

 というか、そこに一番の戦慄があるのは勿論、もう一つ驚くべきことがある。

「さっき、僕たちに理解が追い付いてるって言ったの、訂正するよ。追い越してる」

 僕含め全員のコンフリクトを見抜き、それがなかったらどうかという未来までも見えている。

「……どうも。ついでに、もう一つ気付いたことがあるのですが」

「何?」

「あれです」

 彼女の指差した先は、瓦礫の一つだった。ただそれが他の残骸と違うのは、扇状の赤い幾何学模様が描かれていることだ。恐らく魔方陣のような円が割れたものだろう。

「屋上部分の瓦礫だとは思いますけど、落書きにしては緻密すぎますよね」

「確かに……」

 興味本位で近付いてみる。しゃがんで確認すると、ほとんどが読めない文字だった。しかし中央に大きく書かれた『K』だけは読み取れた。

 城崎のイニシャルか?いや、あの男が無意味な自己顕示をするとは思えない。

「触っても大丈夫かな?これ」

「まあ最悪俺の『守護』があるから大丈夫だろ」

「……そうか」

「き……気を付けてくださいね?」

 赤い文字に触れる。指で模様をなぞったり、文字をこすったりしてみるが、何の変化も見られない。

「何も起こらないな」

「手の込んだ落書きか?」

「私はなんとなく違う気がします」

「まあ僕もただの落書きとは思えないな。だからと言って何の予想もできないけど……。どうする皆?一応まだ見てく?」

「いや、俺はもういい」

「私も……もういいです。これ以上ここにいるのは……少し辛いかもしれません」

「私ももういいです。もう得られるものはなさそうなので」

「僕も賛成だね。じゃあ帰ろう」

「あ、そうだ。最後に、一つ聞いておきたいことがある」

 寒河江が僕を見る。

「幕。お前は、どっち側なんだ?」

「どちらとも言えない。まだ、これからだから」

「なら今はとりあえず仲間だよな?」

「そうだな」

「じゃあ、これからよろしく」

 彼は右手を出した。仕方なく握手を交わす。この瞬間目を合わせたとき、思った。もし生理的嫌悪という言葉を、一生で一度しか使えないのなら、ここで使うだろう。

 抱えて歩いていくべきものを捨ててしまって、それを何とも思っていない。漠然とそんな風な評価を、彼に下した。

「じゃあ今度こそ帰ろう」

 寒河江が言って、長月さんと朝加さんも校門へと向かって歩き始める。

 この場所への感慨なんてないけれど、最後にもう一度、なんとなく後ろを振り返ってその景色を眺める。

 洗ったような空の下。瓦礫の中で、担任へ贈ったカーネーションが、献花のように咲いていた。


 ――

 

 巣立ちを祝うには素晴らしい、晴れた空だ。公園に爽やかな風が通り抜け、喜ぶように鳥がさえずる。

 綺麗なことも、そうじゃないことも、今日なら許せそうと思うのだろう。ボク以外は。

「結局……来なかったな」

 元より幕好太に何かを期待していたわけではなかった。人間なんてこの程度だ。

『公平』のコンフリクトとして、ただの一人でも、あの男の子を助ける。コンフリクトの関与しない死亡は、次のループでなかったことになる。無意味なことかもしれない。

 けれど、そう分かっていても、見捨てようとは思えない。

 人は矛盾というかもしれない。これから七十億人を殺そうとしているボクが、死ぬはずの男の子一人を助けようとしているのは、傍から見れば狂人の思想だろう。

 けれどボクの中では確かに正しくて。

 みんなが一斉に、何の区別も特別扱いもなく死ねば、それは『公平』な世界だ。

「お久し振りです。鳩ヶ谷さん」

 それは、ボクにとって初めてのループで聞いた声。へりくだるような声音の中に、害意を隠した男。

 背後を振り返る。

「何の用?城崎」

『憧憬』のコンフリクト、城崎夕がそこに立っていた。

「前置きは省いて結論からお話しします。私と協力しませんか?」

「しない。一周目も言った通り、世界を滅ぼす理由が違いすぎる」

「ですが、『正義』のコンフリクトたる杖口さんは、信条の齟齬を無視して朝加さん達との協力を是としましたよ」

「っ……!」

 流石に、最後まで杖口が彼女らと会わないなんてことは無理だったか。

 本当は会ってほしくなかった。朝加さんと協力するのならまだ良い。

 けれど、寒河江と京条だけは、絶対に嫌だった。あんな連中と、行動を共にしてほしくはなかった。

 だからあいつがコンフリクトになったとき、『朝加さん達とは会わないでほしい』と言ったのに。

「勿論それは『世界を救う側』が全員結集することを意味するので、妨害して御破算にさせました。貴女の願い通りにです」

「…………だから見返りに協力しろって言いたいの?」

「いいえ。頼まれてもいないことを勝手に叶えて、見返りを要求したりはしません。この話を出したのは、小異を捨てて大同に就くことの一例とする為です」

「ボクとお前の違いは、小さくなんてない」

「存じています。しかし先のことわざですが、少し話に続きがあるのです」

「続き?」

「はい。原文に忠実に訳すと『小異を残して大同に就く』なのです。つまり正確に意味を取るなら、分かり合えない部分があるならそこは分かり合えなくても良い。一瞬間協力して、再び別れてもよいのです」

「……なるほど」

「完全な同盟は無理でも、一点利害が一致していれば、部分的な協力ができます。率直にお尋ねしますが、貴女は寒河江さんと京条さんを快く思っていませんね?」

「別に。あの二人に限らず、人間が嫌いなの」

「ではもし仮に、コンフリクトの戦いが順当に進み、世界の命運を決める最後の舞台にラスボスとして貴女が立っていたとき、相対するなら寒河江さんと杖口さんのどちらが良いと考えますか?」

「それは……杖口だけど」

「そう。杖口玄兎は、本物です。貴女も、私も、幕さんも、それを認めている。一方寒河江さんは、貴女が言うところのです」

 愛とは誰かを特別だと思うことで、特別扱いすることだ。

『愛する人間以外はどうでもいい。恋人と誰かのどちらしか選べないとき、絶対に選ばない』と言っているのと同じだ。

 愛する人がいるだけで、命を等価に見ていない。等しく尊重されるべき他の全員を、蔑ろにしている。

 そんな残酷なことを平気でできる感性がおぞましい。

 本当に、気持ち悪い。

「私は此処に告白します。私は寒河江明日也が世界の命運を担うことは業腹なのです。貴女もそうではありませんか?」

「そうかもしれない。確かにボクも、朝加紅葉の意図した戦いに相応しいのは杖口だと、そう思っているのかもしれない」

「なら」

「でも、それとこれとは別。お前の言葉は信用できない。全ては協力させるための方便で、話術なのかもしれない」

「何故今までにもタイミングはあったのに、今貴女に協力を求めに来たのか分かりますか?」

「杖口を避けたから?」

「その通りです。私は彼に悪と認識されている人間です。彼の前に姿を現せば、即座に殺されるでしょう。だから、ループが始まる以前から杖口さんと面識のあった貴女の前には、迂闊に出てこれなかった」

「なら今どうして出てきたの?」

「一つは杖口さんが今どこにいるかを知っているからです。そしてもう一つは、この言葉を信じていただくためです」

 城崎は一度言葉を切った。次に言うことが重大だという気配がある。

「もし協力していただけるのなら、私は杖口さんの前に現れ、自ら断罪されます」

 違和感がある。当たり前のことだけど、人と人の会話は基本全てがアドリブだ。しかしこの男と話していると、まるで台本でも読んでいるかのような錯覚を起こす。城崎は、次にボクの言う台詞が分かっているかのように話しているのだ。

 理路整然としてはいるが、一貫してはいない。しかし話のターニングポイントでも淀みなく話している。恐らくは、用意されていた文脈。

「……信じると思うの?」

「履行の順番を逆にします。私が死んだ後で、貴女が約束を果たしてください。これは、貴女が私を信じなくても、私が貴女を信じていれば成立する取り引きです。如何いかがですか?」

「なら、今死ねば信憑性が上がると思うけれど」

 何もない空間から刀剣を抜き放つ。そして初雪のように輝く刃を、城崎の首に当てた。

 「これは……私の『残雪に燃ゆる焔剣フランベルジュ・オブ・リメイニングスノウ』ですか」

 ボクのコンフリクトは『公平』。敵と自らの戦力を同値にする力。有り体に言うのなら、コピー能力である。

 この剣は、城崎の『憧憬』によって具現化される、フィクションの一つだ。

「確かにお前のコンフリクトではあるけど、お前の剣じゃない。お前は勇者じゃないし、英雄でもないし、ヒーローでもないし、正義の味方でもない。ただの人間の一人」

「諒解していますよ……そんなことは」

「それで、どうなの?今死ぬのは、受け入れられない?」

 首筋へ当てた剣刃を食い込ませる。薄く切れた彼の首から、紅い血が流れ落ちた。

 次の瞬間、予期せぬ方向から流れ弾が飛んで来た。それに対処するため、一度剣を消す。

「ごめんなさーい!」

 聴こえるかは分からないが「大丈夫だから」と言って、転がってきたサッカーボールを返してあげる。

 丁度、ボクと城崎の立っている位置が、車道に飛び出すボールの経路だったのだ。流石にこれまで計算通りだとは、思いたくない。

 朗らかに遊んでいる子供たちから視線を戻す。彼の首筋に刻まれた横一文字の傷が消えていた。

「残念ですが、まだやることがあります。今死ぬのは飲めません」

「……話くらいは聞いてもいいのかもしれない。内容によっては断るから。それで、ボクに何をさせたいの?」

 城崎は薄く笑い、懐から封筒を取り出した。

 それには、遺書と書かれていた。

「私が死んだ後に、遺言を伝えてほしいのです。貴女から、杖口さんに」


 ――


 運命と宿命は全く違うものだ。

 運命は出会うもので、宿命は定められたもの。硬い言い方になってしまうけど、偶然と必然くらい異なるものだ。

 何が言いたいかと言うと、僕のセカイは今日を境に、ものすごい勢いで変わりつつあるということだ。

 きっと朝加紅葉の思惑からは大きく外れているだろう。彼女は人々に恵みを降らすだけの存在ではない。そのことは理解している。

 けれど、感謝せずにはいられない。彼女が自らをそう称さなくても、神様と呼んでいたかもしれないとすら思える。

 まだ幸せとは言いたくないけど、不幸だと胸を張って言えない。ここまで絶望から離れたのは久し振りだった。

 学校で長月さん達と別れて以降ずっとフワフワ浮かれている。吹けない口笛を吹きながら歩いていく。

 調子に乗っていたからだろうか。それとも元から勘が悪くて、局所的に鈍いからだろうか。若干気付くのに遅れた。

「はあああああああああああああ!?」

 気付いた瞬間思わず叫んだ。

 佐々木高晴と会った場所。城崎夕と初めて出会った場所。視界の端に映ったその鉄塔は、天を衝くような高さの摩天楼に変わっていた。

 その天辺てっぺんに、人影が見える。あまりにも遠すぎて、案山子やマネキンだったとしても区別ができない。

 まあ、城崎だろうな。多分。

 向こうからは視認できているのだろうか?

 いや、できていなかったとしても素通りはないか……。

 その威容を見上げながらバベルに近付く。目が離せない。大きいものというのは、それだけでインパクトがある。

 その根元までたどり着き、昇っていく。初めは前回と同じように梯子を昇った。しかし途中で梯子が途切れていて、その場所の金網に足を下ろす。するとそこから螺旋階段が出現し、頂上までの道となった。

「すっげえ……」

 しかしワケは分からない。

 ただ、助かったとも思う。百メートルを超す勢いの塔を、梯子で昇っていくのは怖かった。

 天辺まで我慢しきれず、途中何度か高空からの景色をつまみ食いした。

 壮観ではあったが、都市には夜景の方が似合う。

 反対には田んぼが広がり、まばらに家が建っている。田舎は朝も夕暮れも夜も似合う。

 夕方と呼ぶには少し早い時間だ。だから狭苦しく並ぶ建物より、広がる自然の方を見ていたかった。

 城崎は、どちらを向いているのだろう。

 そんなことを考えながら螺旋階段を上がっていく。

 そして、天辺にたどり着いた。

「高いところ、好きなのか?」

 僕が背後から尋ねると、彼は都会の方角から振り返った。

「好きですよ。空に、少しだけ近付けますから」

「へえ。てっきり、人から離れられるからって答えると思ってたよ」

 城崎は一度目を丸くし、嬉しそうに笑った。無邪気な子供のような、満面の笑みだった。

「かもしれません。ところで、これを見ていただけますか?」

 そういって城崎は手鏡を取り出した。

 示された鏡に顔を映すと、痛々しい火傷があった。

「え?なんだこれ」

 大きい声が出た。思っていたより重傷だった。人通りのない道だったから良かったものの、昼間の往来だったら、道行く人が視線を遣ってきたに違いないだろう。

「傷というのは、それがあることに気付くまで痛くないものですからね。貴方なら、誰よりも分かっていると思いますが」

「…………なんでそんなことまで」

「『後悔』のコンフリクトです。彼の能力は情報に多大なアドバンテージがあるのです。丁度この後補足を入れる予定ですが」

「……そうか」

「治療して差し上げましょう。失礼します」

 彼は僕の頬に片手を伸ばした。

 つい、ぶっきらぼうにその手を払ってしまった。

 瞬間、城崎の表情がひどく悲しげなものに変わる。

「気に障って……しまいましたか?」

「ああいや、そうじゃないんだ。悪い。ほんとにごめん。そんな顔しないでくれ。ただ、こんな傷がすぐ直ってたら不審がられると思って」

「そういう事情でしたか。良かったです。ではガーゼにしておきましょう」

 彼の表情が目に見えて明るくなる。

 僕はこのとき、かつて彼に『君となら親友になれる気がするよ』と言ったことを、今更のように思い出していた。

 本心からの言葉だったのに、今では嘘を吐いたような気分になった。

 辛くなって、目を逸らした。

 治療が終わるとすぐ、僕は尋ねた。

「それで、この塔は何だ?」

「貴方を此処に呼ぶ為に、物を階段に変える魔法で作った建物です」

「っ……!」

「いいえ、違います。杖口さん達を守ったことに対する報復ではありません」

「聞く前に答えるなよ……。なら、何のために?」

「理由は三つあります」

「多いな」

「御容赦ください。一つ目に説明です。丁度幕さんが仰ろうとしたことです。杖口さんの死亡を防いだことですが、初めから貴方がそうすることを前提にした作戦でした。むしろそうしてくれなければ、破綻していたのです」

「ワケが分からない。君からすれば、生かしておくだけ戦況が辛くなる敵だろ」

「いずれ分かります。二つ目に状況把握です。現場にいた貴方には殆どが不要ですが、一部知らない展開もありますから」

「あの場に僕含め6人のコンフリクトがいたんだけど、それ以外で動きなんてあったのか?」

『愛』、『空白』、『守護』、『永遠』、『言葉』、『正義』。

 あとは、『憧憬』、『公平』、『後悔』、『悪』か。

「はい、ありました。というか私ですが。今日の昼頃、鳩ヶ谷さんと公園で会ってきたのです」

「鳩ヶ谷さんと……?」

「はい。一部助力を要請して、つつが無く承知していただけました」

「……嘘だ」

 彼女は、目的が同じでも志が違う人間と手を組んだりしない。その高潔さを、心から尊敬している。だから彼の言葉を信じられなかった。

「本当に一部ですよ。それに、相応の代償も支払った上でです。次に三つ目です」

 納得はできなかった。しかし彼にとっては、それだけで足りる説明だったのだろう。本当は、一部始終まで知りたかった。

「『後悔』のコンフリクトについて少し説明致します」

「誰も『後悔』のコンフリクトには会ってないらしいな」

「現状、『後悔』のコンフリクトと接触したのは私一人です。彼のコンフリクトは、彼一人生きているだけで絶対に敗北がないと、断言できる程強力なものです。故に私は、彼に隠伏いんぷくを指示しました。彼自身の思想もあって、その提案通りに今まで隠れ続けているという次第なのです」

「どんな能力なのかって聞いても?」

「いえ、まだお答えできません」

「そうか。じゃあ、話はこれで終わりか?」

「そうですね。伝えるべきことは全てお伝えしました。私にはまだ此処でやることがありますが、帰っていただいても問題ありません」

「やること?こんな場所で?」

「はい。あれです」

 城崎は都市の上空を行く飛行機を指差した。

「あれがどうし……」

 

 熱波で遠くの景色が揺らぐ。辺り一面に、猛烈な放出熱が漂っていた。

 城崎が拳を握り込んだまま、左腕を砲筒のように飛行機へと向ける。

熱月テルミドール

 邪悪の太陽が天を撃った。あの日、この場所で放った火の玉とは次元が違う、超威力の異能。

 極太の熱線が遥かな高空までを貫き穿つ。中途にあった飛行機は炎に飲まれ、轟音と共に爆発した。幸か不幸か、残骸は全て田んぼに落下していく。

 声が出ない。ただ、呆然とその光景を見ていることしかできなかった。

「ふむ。原作なら星を墜とせる威力ですが、矢張り四肢の一本が代償ではこの程度ですか」

「ッ……!」

 彼が左腕を振ると、袖口から黒焦げの塊が崩れ落ちた。爛れているとか焼けているとかではない。左腕全てが完全に炭化していたのだ。

「ですが問題はありません」

 彼は服に付いた塵を払った。

「えっ……?えっ?」

 事態に頭が付いていかない。

「何で?今左腕が……」

「左腕を代償とした超高威力の魔術。そして、ダメージを強さに変換する権能です」

 彼の口は獰悪に湾月を描いていた。

 未だ見ぬ巨大なそれへの畏怖が、脊椎のように体を貫通して動きを止める。

「………………強すぎる」

 何が『銃で武装するのと大差ないもの』だ。明らかに、個人ができる武装のレベルを越えている。

「普通ですよ。コンフリクトなら誰もが、一人だけで世界を動かせるのです」

 そんな力を望んだ。望んできた。叶わないなら、せめて壊せるだけの力をと。

 しかしいざ目の前で見せられると唖然とする。これが、祈りの果てなのか。

「それに良いことばかりでもありません。この権能、変換できるのはダメージだけで、痛みは残るのです」

「それっ……て」

「はい。見た目には回復していますが、今も痛みは感じています。ですが、痛みで発狂することはありません。それは朝加紅葉によって禁じられていますから」


『過酷な運命に精神を病んでも、正気を失い現実から目を背けることは許さない』


 裏を返せば、確かにそうなる。しかしそれを、本気で利用するか?

「そこまでして、どうしてこんなことを?」

 爆殺犯は、炎に包まれる機体に背を向けたまま笑っている。

「いずれ分かります。降りますよ。長居をしていると、此処に誰かが来てしまいます」

 城崎夕が階段を降りる。急いでその後に続く。

 階段を降り切ると、彼はおもむろに言った。

「夢でも悪夢でも、醒めてからの方が辛いものです。現実とは何よりも過酷なものですから」

「どういう意味だ?」

「予言か忠告。或いは、自己啓発のフリをした自虐です」

 彼はコートを翻し、「ではまた」と短く別れを告げて、去っていった。


 ――


 私は自室に戻ると、メールを確認する為にパソコンを立ち上げた。交遊関係のない私には不要な機能であるが、今だけは必要となる理由があった。

 予想していた通り、新着がある。『後悔』のコンフリクト、浮村幸彦からのメッセージである。


「いいのか?『愛』のコンフリクトは、向こうに付こうとしているぞ」


 幕さんは、光で視界が暈けてしまっている。今は、現実が見えないのだ。

 今日という日に、あの場所にいながら、佐々木高晴の名前を一度も出さなかったのが良い証拠だ。


「構いません。全ては恙無く進行しています」


 想定内ではなく、想定通り。


「負け筋をなぞっているようにしか見えないが」


 意外にも直ぐ返信が来た。


「一度幕さんにはあちら側に付いてもらわなければ、それこそ敗北は必定ひつじょうです。手順として 、一度これは踏まなくてはなりません。勝利には、『憎悪』と『悪』が必要ですから」


「そう言うのなら、そうなのだろう。作戦の全貌を話す必要がないと判断したのなら、俺も聞かない」


 扱い易い人だ。いや、自身のコンフリクトが極めて強力であると理解しているが故か。


「有難う御座います」


 パソコンの電源を落とし、椅子に深く腰掛けた。窓を見る。無粋な人工光に空が翳り、星々は三等星までしか見えない。

 作戦は順調。

『憎悪』へと至る布石は敷いた。予断は禁物だが、恐らくは期待通りに結実するだろう。しかしもう一つ、より難度の高い『悪』が残っている。

 何としても、現界させなくてはならない。

 私は道徳へ挑戦する者。人生への諦観を背負い、人間への軽蔑を示す者。

「今度こそ、必ず貴方へと至りましょう。『悪』のコンフリクト、杖口水鏡」

 期待外れの夜空を見上げながら、誰にともなく宣言した。

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さよなら、世界。おやすみ、神様 加藤博士 @katouhakase

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