さよなら、世界。おやすみ、神様

加藤博士

第1話 暗がりのセカイ


 十三階段を上るように青春が終わった。

 「ただいまより平成三十年度卒業式を開始致します」

 三月の一日。卒業式。僕、幕好太まくこうたの高校生活が終了する。

 喜びも怒りも楽しみもない。捨てる手段のない哀しみが、脆弱な心に満ちて引かない。

 恋も愛もない三年間の記憶。いや高校の間だけではない。今までずっと、だ。

 青春時代。本来は甘く、ほろ苦い思い出に満たされるべきその道を、一人で歩いてしまった。

 終わっている。死ぬまでずっとこうだ。

 校長による餞の言葉が全く耳に入ってこない。感動によるものではない涙が込み上げる。涙ぐむ姿はさぞや卒業式に相応だろう。

 来賓による祝辞が述べられる。

 「君たちには、輝ける青春の思い出を胸に」

 『青春』という言葉に反応して目線を壇上へと上げた。

 「高く羽ばたいて貰いたい」

 輝かしい思い出などない。ないんだ。そんなものは。

 「未来は希望に満ち溢れています」

 曇った心が益々翳る。やり場のない悲しみが込みあげてくる。

 未来に希望なんて有りはしない。ずっと独りで生きていく僕には。

 「以上の言葉を以て、ご卒業の挨拶に換えさせていただきます」

 一寸先は闇。卒業後のことなど考えたくはない。僕はもう何も考えたくないんだ。

 


 卒業式はあっさりと終わった。こんなものだろう。

 最後のホームルームが終わり、感動と涙とが渦巻く教室で、僕は如何にも卒業式の日らしい泣き笑いの表情を作っていた。

 「あと一年くらい、いたいなあ」

 などと、積年の悲哀を秘めた言葉を級友に掛ける。

 「何年あろうと同じこと言ってるだろお前」

 御座なりながらも真理を突いた発言に、泣き笑いの仮面が亀裂を生じる。

 友達はいる。今僕が話す彼も、大切な友達の一人だ。もう会えないのだと思うと、どうにかなりそうなくらい寂しい。けれど彼らは、僕と同じ程の寂しさを感じてはいない。

 僕にとって最も親しい者との関係性は『友達』だ。故に僕は彼らのことが人生で最も大切だが、彼らからしてみれば僕は最も大切ではない。彼らにとって最も大切な人とは、彼らの、それぞれの『恋人』だ。

 これから僕は彼らと疎遠になっていく。やがて僕は彼らの人生にとって、いらないものになるだろう。僕個人が彼らにとって掛けがえのない人だと認識されることはない。

 一人一人が人生の主人公なんて嘘なのだ。彼らの物語において僕は端役であり、僕がいなくなっても彼らの物語は滞りなく進行する。

 彼ら彼女らが目に涙を浮かべながら卒業を惜しむ姿を、同じ教室にいるのに、ずっと遠い場所で見詰めている。

 僕は、僕も、僕を。誰か、誰でもいい。愛してほしい。

 


 一人きりの帰り道は寒い。

 幸せな人々の心中を反映したかのように、空が青く澄んでいる。涼気を孕んだ風が生傷に沁みて傷んだ。普段は心地よい景色すら哀しみを助長してやまない。

 もう二度と訪れることはない学舎を去った今、見馴れた景色が、この三年間のように後ろへと流れていく。僕が一歩進む度に、景色が一歩下がりそれまでの視界が変わる。それでも終わりは見えない。その無限が、苦痛に満ちた人生を思わせる。

 一歩ずつ歩むその度に、呼吸が荒くなる。足が、肩が、体が、震えている。

 逃げ出すように駆け出した。逃れようのない現実に対する、意味のない抵抗。

 「うっ………ぁ………あぁ………」

 心が悲しみで湖のように満たされて。やがて耐えきれずに涙となって溢れる。

 悪夢を遠ざけたい一心で、無へと目掛けて駆ける。絶望が悠々と追い付く遅さで僕は逃走を続けた。酸素を欠いた身体が益々遅く、重くなっていく。

 足は鉛。思考は深海のようで。

 遂にどこにも逃げられないまま現実の只中に止まった。息が苦しい。絶叫のような頭痛に襲われる。心の傷と比べてしまえば何てことのない軽症だが。

 逃走が潰えた地点で、足許に下ろしていた視線を前に戻すと、視界に奇妙なものが映り込んだ。

 視界の右側に広がるだだっ広い畑の端、控え目に聳え立つ鉄塔の頂上に男が立っている。一般人が上るにはおよそ自殺以外の意図を持たないであろう鉄塔に。

 再び駆け出した。体は困憊し、しかし激しい心の動きに引っ張られていく。

 鉄塔の下に辿り着いて頂上を仰ぐと、男と目が合った。正確には遠すぎて目が合っているか定かでないが、彼が僕を視認しているのは確かだ。

 僕は急ぎながらも慎重に、滑って落下しないよう梯子を握り締めて昇る。男は僕が昇りきるまで無言で待っていた。

 鉄塔を昇りきり、僕は男と対峙した。

 容貌と風体から察する限り四十代か五十代だろうか。低身長で、髪は半ば禿げ上がり、やや肥満体だ。そして何より、深い憂悶を湛えた表情に強いシンパシーを感じた。

 「何の用だ」

 僕は返答に窮した。理由という程の理由がない。寸秒口籠もり、曖昧な真実を口に出した。

 「あなたと、話がしたい」

 「俺と話を?一体何のだ?」

 「そのですね……自殺しようとする程の理由とか、気持ちが知りたいんです」

 男は奇異なものを見る視線を僕に向けた。当然だが、まるで意味が分からないといった様子だ。

 「訳が分からない。冷やかしなら消えろ。人の自殺を興味本位で邪魔するな」

 普段の僕ならばこの時点で引いただろう。僕は人と話すのが苦手だ。まして怒りを買ったとあらば直ぐに引く。

 だが今日は違う。こんなにも絶望的な心持ちでは、恐怖という感情を失って当たり前だ。

 「僕はきっと、あなたと同じです。不幸で、どうしようもない人生だから」

 その瞬間に男が怒りを顕にした。

 「同じだと?ふざけるなよ!お前みたいな未来ある人間が何に絶望してるっつうんだ!薄幸ぶってんじゃねえぞ!自殺する理由が聞きたいなら教えてやるよ!俺はな、今まで生きてきて誰からも愛されなかった!数少ない友達も皆結婚して幸せな家庭を築いてる中、俺だけが……俺だけが……何の意味もなく生きて……命磨り減らして意味のない仕事で一生を削って……うっ……削ってるん………ぐっう……だよ………うっぐうううううううううううううああああああ!」

 男は顔を絶望に歪ませ滂沱と涙を流した。

 心の芯に突き刺さる不幸を目の当たりにして、僕は同じ痛みを覚えた。

 その不遇も、その孤独も、その絶望も、僕に中にあるものだ。

 「僕にも、分かります」

 「だからお前に何が分かるん…………」

 男の表情が憤慨から驚愕へと変じた。その変化の理由が分からず戸惑っていると、頬に一筋の水が垂れた。俄か雨かと思い空を仰ぐも、やはり憎らしい程晴れやかだ。

 遅れて理解した。これは男に対する共感が生んだ、自覚のない涙であることを。

 「お前は……一体……?」

 「僕も、同じなんです。今まで誰かに愛されたことなんてない。異性になんて相手にもされない。一生こうなんだ。生涯不幸なまま生きて、死ぬのが分かりきってる」

 「何言ってるんだお前。多分まだ高校生だろ?未来なんて」

 「ない」

 「適当だろそんなの」

 「だったら貴方は!自分が高校生の頃に将来は幸せになれると思っていましたか?今自分は不幸で絶望的でどうしようもない状況なのに未来は打って変わって幸福に満ち溢れていると何の証拠もなく信じていましたか?そんなわけない!そんなわけないだろうが!」

 「………………お前が不幸なのは分かった。なら今ここで死ぬか?」

 「え………?」

 予期せぬ提案に狼狽を隠せない。

 今、死ぬ?

 確かに、未来に希望がないのならここで死ぬのが当然だ。生きる意味も、生きる価値もない。でも、本当に?もう諦めるのか?あと何十年とあれば、幸せになれる可能性が一%くらいは有るんじゃないのか?

 未来がないと言ってのけたのに、これは矛盾してるじゃないか。

 「僕は……僕は……」

 男は最後に嘲弄の意を含めた微笑を浮かべて、吐き捨てた。

 「結局諦めてないんだよお前。もういい。自殺場所は変えるが、邪魔はするなよ」

 


 僕は家に帰り着いた。

 誰にも干渉されない部屋に籠り、ベッドに全体重を委ねて未来を考える。

 寂寥に押し潰されないように、無駄に音量を大きくしてテレビを点けた。

 あの男は、もう死んだだろうな。あの男は僕の未来だ。僕も同じ道を歩いている。

 不幸なまま死んだ。不幸になるために生まれてきて、不幸なまま死んでいった。そんな風に生きて死ぬ人間が実在するのだ。

 「なんて……救いのない世界だ……」

 こんな世界は間違っている。多数が幸福を享受する一方で、暗澹とした人生を送る少数がいる。ふざけるな。僕達は何も悪いことなんてしていないのに。

 「速報です。一時間程前T県U市で六歳の男児が乗用車に轢かれ、死亡する事故が発生しました」

 付けっぱなしのテレビから反応せずにはいられない地名が聞こえた。僕が今日まで通っていた高校がある市ではないか。

 画面に事故現場の光景が映し出される。血痕、野次馬、ブルーシート、根本から折れた電柱、フロントガラスが蜘蛛の巣状に割れた車。

 その光景で何よりも興味を引かれたのは、場所だ。何度も見た景色。間違いなく、三年間一人きりで登下校した通学路だ。

 こんなに近くで人が死ぬなんて。

 この男児には未来があったはずなのに。流石に六歳で世界に絶望することはないだろう。この男児はどこにでもいる普通の人みたいに、幸せに生きられる筈だったのだ。

 これはどうすればいいのだろう。どう心を動かすのが正解なのだろう。

 未来ある男児の死を悼めばいいのだろうか。それとも幸せになれる人間が、幸せになる前に死んだことを喜べばいいのだろうか。

 どちらも難しい。有り得なくはないが、有り得ないと言いたいくらい難しい。僕は見知らぬ他人の為に胸を痛めるような博愛主義者ではないし、他人の死でシャーデンフロイデを喚起することもできない。

 何故なら、男児の死は僕にとってセカイの外側での出来事だからだ。

 人は自分に見える範囲を、世界の範囲と誤認して生きている。そのセカイは得てして、自分と、家族と、親しい友人数名だけで成り立っている。

 セカイの外側で起きたことに対して興味は持っても、他人以上の振る舞いはしない。

 薄情なのだろうか。人間なら誰しもが当て嵌まる性質で、その性質は自分も例外としないだけではないのか。

 いや、やはり、どうでもいい。他人の死で、当事者ならざる僕が心を動かすことに、決定的な意味を見出だせない。

 しかし自分に重ね合わせるなら話は違ってくる。

 不幸なまま生きて不幸なまま死んだ男と、幸せになれる筈だったのに幸せになる前に死んでしまった男児。

 結局は死ぬのだから、人生に価値はない、なんて思えたらどれ程楽だっただろうか。生まれたからには幸せになりたいと思うのは、当然のことなんだ。

 誰もが当然のように思うことだ。

 誰もが当然のように叶えることだ。

 なのに、僕だけが叶えられていない。幸せではない。こんなにも強く思っているのに、一向に叶えられることはない。

 僕のセカイで僕だけが不幸なんだ。

 心の重さが体の重さに直結したように、眠気を感じて眼を閉じた。普段運動なんてしないのに、いきなり体を動かしすぎた。疲弊した体が睡眠を欲している。

 最後に、寝ている間に世界が滅亡することを祈って、意識を手離した。

 


 ひたすらに闇が広がる霞がかった世界。視認出来るのは中空に浮いている巨大な天秤と、暗黒に佇む一人の女のみ。

 「君には何を犠牲にしてもいいと思える望みがあるか」

 彼女は神仏のような荘厳さを帯びた口調で問い掛けてきた。

 僕には問いの意図が分からない。しかし何かを試されているという予覚がある。問いの意図を察するために、佇む女の表情を窺う。

 女の瞳は深淵だった。見えない。何を見ているのかも分からない。目が合っている筈なのに、異なる次元から睥睨されているような心持ちがした。

 僕は問いの意図を解さないままに、思いを偽らず吐露する。

 「ああ、あるよ。誰か、誰でもいい。誰か一人に愛して欲しい」

 女は続けて問いを投げ掛けてきた。

 「間もなく世界が滅ぶと仮定して、君に世界を救う力があったら救うか、否か」

 果たしてそれは妄言なのか、それとも予言なのか。世界の存亡など、誰か一人の意志でどうこうなるものではない。

 しかし、答えは決まっている。

 「僕が幸せなら救う。不幸なら滅ぼす。だから僕は世界を救わない」

 そう。救うでもなく、滅ぼすでもない。

 救わない。

 何故なら、僕はまだ諦めていないのだから。

 「良い答えだ、幕好太。君は世界の存亡を見定めるに値する人間性を有する。コンフリクトとなるのに充分な資質だ」

 世界の存亡……コンフリクト……?

 「コンフリクトとは形而上にある心を形而下に具象化したもの。故に君のコンフリクトは『愛』だ」

 


 三月の二日。

 奇妙な夢を見た。

 見知らぬ女と問答をした。内容も一字一句余さず覚えている。

 その内容も奇怪ながら、女の異質さが気になった。と言うのも、人間とは一線を画した雰囲気を纏っていたことと、その年齢がさっぱり分からないことだ。同い年くらいのような、でも老齢の女性でもあったような。記憶は明瞭なのにも関わらず、そこだけが分からない。

 突然に悲しみを思い出した。奇怪な夢に気を取られて寸秒だけ失念していた。自分の境遇を再認識して、またも心が塞がる。

 卓上カレンダーを見ると昨日、即ち三月の一日に『あと零日』と記されている。これは卒業までのカウントだ。一つ先輩の卒業式から自分の卒業式までの三六五日をカウントしていた。そして、昨日カウントが終わった。

 ふと脳内に恐ろしげな案が過った。マーカーペンを持って三月の二日に新たな書き込みを加える。

 マイナス一日。

 卒業しても一歩も前に進めない。青春時代に全てを忘れて来たが故に、世界に取り残された者の退廃的な営み。

 笑いすら洩れなかった。こんな暗がりのセカイでどうやって生きて行けと言うのだ。



 マイナス三十日。即ち三月の最終日。明日からは、出会いと別れの季節で言うと、出会いの方の季節が始まる。間もなく来たる新生活に怖じ気を感じた。

 それが生存に必要な身体活動であるかのように、一秒も途切れることなく心が苦痛を感じている。

 世界を呪いながら、心が死んで行くのを実感した。暗がりの中で一ヶ月を過ごした。地獄のような日々だ。これまでも、そしてこれからも、こんな日々が続くのだ。

 卒業式の帰り道に出会った男を思い出した。剰りにも陰惨な人生に耐えきれず、死を選んだ男の気持ちがよく分かる。

 暗がりのセカイ。その更に片隅の暗い部屋で僕は閉じ籠っている。この一ヶ月間カーテンも窓も開けていない。暗闇に慣れたがその光を受け付けない。硝子一枚隔てた向こう側には幸せ者だけに吸える空気があるのみ。

 「神様……」

 架空の存在に救いを求める。実在しても僕を愛するはずがないのに。

 「私に祈るか。さらば応えよう」

 外から僕の悲鳴に答える声が聴こえた。

 幻聴だろうか。心を病んで遂に幻想を生み出してしまったのか。

 己の正気を疑いながら、己の狂気を恐れながら、カーテンを開けた。刹那、陽光に身を灼かれる吸血鬼のように苦悶の声を洩らした。文字通り陽射しが身体を射抜く。

 窓が消え去り、澱んだ空気と爽やかな外気が入り交じった直後、世界が消えたかのような静けさと無の感触を感じた。

 辛うじて眼を見開くと、そこは一面の暗黒だった。上方に空がない。前方に庭がない。後方に自室がない。下方に床も地面もない。

 巨大な天秤が聳えて、宙空には女がいる。

 「ここ……は……」

 「会うのは二度目だが、改めて自己を紹介しよう。私は朝加紅葉あさかもみじだ」

 「神……だって……」

 「如何にも。私は人の持つ十の要素の内、何れか一つを極端に獲得した人間を選んだ」

 十の要素……?

 不確かな地面に立ったまま、女の言葉を一方的に聞く。理解が追い付かないから返答も叶わない。

 「人の持つ十の要素とは即ち、愛、守護、永遠、公平、正義、悪、言葉、後悔、空白、憧憬。一般的に人はこれら十の要素を組み合わせて、想念を形成する。君は愛が誰よりも強い。既に感情の臨界へと至る程に」

 「愛されたいと思う気持ちなら、世界で誰よりも強い自信があるよ」

 「認めよう。その点に関して言えば、全人類を含めた世界と、君個人の視野を限界とするセカイを同一に語ってよい」

 『世界』と『セカイ』。唐突に放り込まれた微妙な言葉の差異を、僕は理解出来ていた。

 世界は広い。文化圏の違い、言語の違い、価値観の違い。様々な違いを全く分類せず、全人類を入れた全体集合が『世界』だ。

 一方、一人の人間が世界であると誤認している狭い範囲。およそ、自分と家族と親しい友人数名で形成される小さな集合が『セカイ』だ。

 「君は、神に選ばれた人間だ。他の九人も同様である」

 「選んで何をしたい?何をさせたい?」

 「君達は思うがまま行動すればそれで良い。その結果が私の求める答えだ」

 「君達……か……」

 他の九人と言っていた。その人達は状況を理解しているのか。それとも僕同様に何も分からぬまま異空間に放り込まれたのだろうか。

 「君に力を与えよう。正確に言うならば、君自身が持つ感情を分かりやすく力に変えよう」

 「感情を力に変える?」

 「心とは形而上にあるもの。その、感情、信念、願望を形而下に具象化する」

 「したら、どうなる?」

 「君の目で確かめることだ。この力を私はコンフリクトと呼称する」

 「コンフリクト……」

 「最後に一つだけ伝えておこう。この戦いでは発狂を禁止する。過酷な運命に精神を病んでも、正気を失い現実から目を背けることは許さない」

 物騒な言葉を最後に女は消えた。

 気付くと世界も元に戻り、僕は勝手知ったる部屋に立っていた。

 これから何かが変わるのだろうか。いや、変わらない。これはきっと悪い夢だ。変わってほしい僕の心が生み出した夢。現実を直視出来ない僕の心。

 『過酷な運命に精神を病んでも、正気を失い現実から目を背けることは許さない』

 まるでそれは間違いだと言わんばかりの言葉だった。

 僕は何かが可笑しくて、独りで嗤った。

 


 けたたましいアラームに睡眠を妨害されて一瞬で気分が悪くなる。尤も気分が良いときなど、中学生の時分まで遡らなければないのだが。

 ん?

 遅れて不思議に思う。僕はアラームをセットしていないはずだ。もう高校には通っていないのだから。

 のそりとベッドから起き上がり、裸足のまま床に足を付ける。冷んやりとしたフローリングが、足裏を逆撫でした。目覚まし時計のスイッチを押して、鳴る筈のないアラームを止める。

 目覚まし時計を確認してみるが故障の様子は見られない。首を傾げ、まあいいかと注目を止めて、部屋を見回したとき、はっきりとした異常が視界に飛び込んできた。

 「っ……はあっ!?」

 卓上カレンダーに書き込まれたカウントが、『あと零日』で止まっている。

 馬鹿な。そんな馬鹿な。どうしてこんなことが。

 でもまだ分からない。異常が確認出来たのは僕の部屋だけだ。この程度の悪戯なら僕にも出来る。きっとそういう類いのものだ。

 僕は部屋を飛び出した。

 

 「ただいまより平成三十年度卒業式を開始致します」

 僕はもう着る筈のない制服に身を包んで卒業式に参加していた。

 何のドッキリだ。これは。

 脳内でそんなことを考えて、それは有り得ないと否定する。僕のためにこんな大掛かりなドッキリを仕掛ける人間なんていない。それならばまだ、本当にループしている方が現実的だ。

 世界の繰り返し。ループ。これ以上ない形で非日常が姿を現した。

 しかし何故ここからなのだ。こんなところからやり直しても僕の人生は変わらない。退廃した三月の中に、幸せになれるかもしれない分岐点なんてない。

 悪夢だ。この世界は僕を苦しめるためだけに回っているようだ。

 校長の言葉を聞き流し、来賓の言葉を聞き流す。青春の思い出がどうとかいう話を聞いて、一ヶ月前感じた哀しみをリプレイのように今日も感じた。

 僕は二回目の卒業式が終わるまで、ずっと世界を呪い続けた。

 


 幸せ者だけを祝福する青空の下、冬の名残を孕んだ風に吹かれた。

 何かを忘れているような気がして、幸せがない記憶の層を懸命に探す。

 何か、コンフリクトがどうこうみたいな話とは違う何かを忘れている。何だ?

 一ヶ月前の今日。何かを思った筈だった。人生を考えてしまうような何かを。

 あの日見たニュースが脳裡に過った。今日これから僕の通学路で死ぬことになる男児だ。

 僕が帰り着いたより後の出来事なら、その事故現場で待っていれば当事者になれる。行動の意味は後で考えればいいだろう。

 行くか。

 


 通学路の中途にある公園でスマホをいじりながら事故の瞬間を待つ。あのニュースは何回か目にしたから事故の概要は記憶している。

 公園で遊んでいた男児が、車道に転がっていったサッカーボールを追い掛けて車に跳ねられた。

 そして、今僕のいる公園では六人の男児が遊んでいる。あの中の誰かが事故に合うのだ。

 無邪気にはしゃぎ回る少年たちを濁った瞳で眺めながら、かつて自分にもあんな風に笑っていた時期があることを思い出す。

 小学生時代は幸せだった。他愛ない話。放課後友達と遊んだ時間。人生のピークがあのときだ。きっと僕は、例の事故で命を落とす男児のように、あのとき死んでおくべきだった。

 出入口付近のベンチに座っている僕の方にサッカーボールが転がってきた。誰も遮らなければ、そのまま公園を出て車道へと転がっていくコースだ。

 止めれば男児は助かる。止めなければ男児は死ぬ。他者の命を左右する選択が僕の目の前にある。

 選択を急かさぬ無風。先端の尖った陽射し。スローモーションに見える世界。

 僕は立ち上がって、サッカーボールを止めて、緩く蹴り返して男児たちへと返してやった。

 「ありがとー!」

 屈託のない笑顔でお礼を言う男児に、ぎこちない笑みを返しながら手を振った。男児は直ぐに仲間の輪へと戻り、遊びを再開する。

 他者の命を救った。この善行にどれ程の意味があるのだろうか。しかし、こういうのも悪くないかもしれない。命を救い、その活躍を誰にも知られないなんて、漫画かアニメに出てくるヒーローのようだ。

 「ねえ。お前」

 善行の余韻が氷のような声に絶ち切られた。

 後ろを振り向くとそこには、同い年くらいと思われる女性がいた。髪型はアンダーポニーテールで、つり目が印象的だ。

 「何……かな?」

 女の子と話すのが久々で緊張していることを自覚した。

 「あの子」

 彼女が指差した方向には僕が救った男児がいた。

 「あの子がどうかしたんですか?」

 「今日車に轢かれて死ぬはずだった」

 「なっ……!どうしてそれを」

 「やっぱりお前も知ってたんだ。ということはお前が十人目のコンフリクト?」

 「いや……十人目かどうかは知らないけど、コンフリクトではある……と思います」

 「思う?」

 「自分でも良く分かってなくて。一方的にコンフリクトに選ばれたって言われただけなので」

 「そう。なら教える」

 彼女はそういうとブランコに腰を下ろした。僕までブランコに座ってしまうと、互いの氏素性も知らない二人が並ぶ間の抜けた絵面になりそうだったので、ブランコの支柱に寄り掛かった。

 気にしすぎだろうか。

 「改めて、ボクは鳩ヶ谷冬雪はとがやふゆゆき。冬に降る雪で冬雪」

 ループに気付いたときにも匹敵する衝撃を受けた。

 一人称がボク……だと。

 「幕好太。好むに太いで好太です」

 「珍しい名字」

 「よく言われます」

 鳩ヶ谷さんは無愛敬な表情だ。

 一般的に人は初対面の相手には笑顔で会話するもののはずだが、彼女には人から好かれようという意志が見られない。

 「まず、コンフリクトの意味は知ってる?」 

 「意味は知ってます。心を形にしたものだって神が言ってました」

 『神が言ってました』と言うフレーズの珍妙さが尋常ではなく、他の言い回しが無かったものかと心中で反省した。幸いにも彼女は気にした様子がない。

 「そう。心を形にしたもの。コンフリクトを持つ人間そのものもコンフリクトって読んでるけど」

 「それは初耳です」

 「ボク達が勝手にそういう使い方をしているからね。朝加紅葉はコンフリクトを持つ人間自体の呼称を考えていなかったようだけど、それだと通りが悪いから」

 神の意図すら何気なしに越えてしまう。不敬には当たらないのだろうか。それともこれは神の落ち度なのだろうか。

 「コンフリクトはその人間の感情を表し現実のものとする。例えば『永遠』のコンフリクトだったら、今ある幸せな時間がずっと続く。みたいに」

 「今起こってるループってまさか」

 「そう。永遠のコンフリクトによるもの。世界単位で時間が巻き戻る。三月三十一日から三月一日へと。例外としてコンフリクトだけが記憶を維持したまま繰り返すから、コンフリクトが動かない限り半永久的にこの状況が続く。文字通りに」

 絶句した。この力は一人の人間に過ぎたるものだ。そんな人間が十人もいる?そして自分もその中の一人?

 「でもどうして三月がループするんですか?」

 「その理由は……いや、やっぱりやめておく。それは永遠のコンフリクト本人が語るべきことだから」

 「そうですか……」

 感情の臨界。その根源ともなれば、プライバシーの極致だろう。他人がおいそれと言いふらしていいものではないということか。

 「あと、今回のループはお前にとって二週目だろうけど、ボクにとっては三周目」

 「なっ……」

 僕も非日常に気付いていない側の人間だった?そんな意図はないはずなのに、お前は凡人だと言われたようでショックを受けた。

 「もっと早くにコンフリクトになった人間は四回とか五回は繰り返してる」

 それはつまり、僕の与り知らぬ世界……いや、周回で記憶を保持したまま自由に行動していた人間がいるということか。

 「なんか……後の人程不利じゃありません?」

 「ボクもそう思う。どうせなら同時にコンフリクトを選出するべきだった」

 「あの……一つ質問良いですか?」

 「何?」

 僕は数分前彼女がしたのと同じように、事故に遭うはずだった男児を指差した。

 「鳩ヶ谷さんはどうして二週目にあの男児を助けなかったんですか?」

 彼女は若干の驚きを見せた。

 「……よく気付くね。飲み込みが早すぎる。だから二週目で助けに来れたんだろうけど」

 「非日常を待ち望んでたから、順応が早いのは当然かもしれません」

 僕は八方塞がりの現実が非日常的な何かに打ち破られることを、心から望んでいた。人智を越えた力に驚愕はしても、狼狽えることはない。むしろ苦労せずに順応出来る。

 「それで、二週目で助けに来れたってどういう意味なんですか?」

 「だって、いきなりこんな事態に巻き込まれて余裕がなかった。お前みたいに冷静じゃなかったし、自分のことで精一杯だったから」

 「なら本当は助けたかったんですね?」

 彼女はこくりと頷いた。人を近寄らせない冷たさを纏っているのに可憐に見えてしまうのは、僕が女の子慣れしていないせいか。

 「人を助けるのは、当たり前だから」

 「優しいんですね。僕も鳩ヶ谷さんのおかげで、混乱せずに済んでますし」

 鳩ヶ谷さんの表情に朱色が差した。嬉しさか、それとも気恥ずかしさなのか。何にせよ、出逢って数分でここまで優しさを窺い知れる人間はそういない。二人称や表情程に冷たい人ではないらしい。

 「そ……それでお前のコンフリクトは何?」

 「えっと…………その……愛です」

 きっと今の自分は鳩ヶ谷さんの表情と比較にならない赤面を浮かべていることだろう。自分の心を形にしたもの、即ち最も強い感情が愛だと口にするのは気恥ずかしさがある。

 「なるほど。そうか、お前が愛か」

 「でも自分で愛ってどんなコンフリクトなのか分かっていないんですけど」

 「それならいずれ分かる。そういう場面が来れば使えるはずだから」

 「そういう場面……ですか」

 具体的にどういう場面なのか、聞いておきたかったがしつこいと思われるのは嫌なので止めた。

 「でもお前の場合は逆かもね」

 「逆?」

 「多分お前は愛なんて知らないんでしょ?」

 一分いちぶたりとも否定できなかった。愛する愛される以前に誰も僕に興味を持たなかったから、愛なんて理解の彼方なのだ。

 「どうして分かるんですか」

 「目を見れば分かる。あと手首も」

 気付かれていたとは思っておらず狼狽える。今まで手首の傷を指摘されたことは一度もなく、簡単には気付けないものだと思っていたが、触れないだけで気付かれていたのだろうか。

 「で、コンフリクトには正反対の性質を同時に備えたものや、表裏一体のものがある。だから愛の反対もそうなのかも」

 「愛の反対は憎しみではなく無関心」

 「マザー・テレサの言葉……」

 「はい。僕は、愛の反対は憎しみだと思ってますけどね」

 「ボクは無関心だと思う。人は自分のいる世界のごく一部にしか目を向けない。世界の反対側で餓死している子供がいようと、市内で男児が交通事故に遭おうと他人事みたいに気にもしない」

 「実際他人事だからじゃないですかね。人が悲しんだり泣いたり出来るのは家族や友人の不幸だけで、それと同じように他人を想うのは無理だと思います」

 僕は知らずに地雷を踏み抜いてしまったらしいと、言い終わってから気付いた。無愛敬な彼女の無表情が、憤怒を帯びたものに変わっていた。

 「そう。ボクは、お前みたいなクズが嫌い」

 軽蔑と憤慨を露にした突然の言葉に、思考が凍りついた。

 「どうして人を思いやれないの?他人も自分も変わらない一人の人間なのに」

 僕はこの瞬間に彼女が何のコンフリクトであるかを理解した。

 「無茶ですよ。感情を動かすのは当事者だけです。無関係な人間にまで当人達と同じ思いでいろなんて無理に決まってます」

 「生まれる国やタイミングが違えば理不尽に死んでいたのはお前なんだよ。今お前が生きているのはただの偶然なのだとしても、自分には関係のないこと?」

 「それは……」

 論理的かは判断に迷うが、倫理的な思想であることは確かだろう。他者を思いやる優しさがなければ、絶対に有り得ない広い視野だ。鳩ヶ谷さんは世界とセカイを全く同一のものとして扱おうとしている。

 僕にはそれが、一人の人間にとって限界を越えているようにも見えた。

 「この世界は剰りにも不平等なんだよ。生まれつきや、時の運だけで格差が生まれる。何よりその格差を正そうとするどころか、気付きもせずに生きるクズが多すぎる」

 付いていけない。正しすぎて理解出来ない。

 「さっきの男児の例で言うなら、目の前で死にかけている人間がいたら結局は助ける。もうすぐ死ぬことになる人間がいることを知っていても、同様に助ける。でも、飢餓で死の間際にある人間が地球の反対側にいると知っていても助けようとはしない。目の前に困っている人間がいたら助けずにはいられないなんて、目の前にさえいなければどうでもいいってことと変わらない。本当に、返吐が出るような偽善。お前もこの世界も偽善に溢れている」

 一部の汚れもない清廉さ。それ故に彼女は世界の誤りを容認出来ないのだ。

 「君は真っ直ぐすぎる」

 「こうでなかったらボクじゃない」

 存在理由。

 もし僕が何かの間違いで彼女のような博愛主義者になったなら、それはもう僕ではない別人だろう。僕は誰か一人を愛し愛されたいと想うからこそ僕なのだ。

 同様に彼女が博愛主義者でなかったなら、それはもう彼女ではないのだ。

 「なら、君のコンフリクトは……」

 「そう。ボクは公平のコンフリクト」

 このとき僕は、感情の臨界に至った者のみコンフリクトを手にすることを改めて知った。

 「貴女の望みは何ですか?」

 「世界の破壊」

 「なっ……」

 「もう絶対に公平にはなれない世界と人間を、全員殺して全てを均す。それがせめてもの公平だから」

 「それは……悪平等でしょう」

 「そうなんだろうね。でももう、そうするしかない」

 正しすぎて歪んでいるようにしか見えなかった。彼女の目に映る世界はそんなにも間違っているのか。

 「僕も世界を壊したい。人間を絶滅させたい」

 「どうして?」

 「勿論君の理由とは全く違います。比べることすらおこがましい低俗な信念です。ただ、僕は幸せな人間が憎い。誰にも愛されないならこんな世界は滅ぼしてしまいたい」

 「愛されない……」

 「でもまだ諦めきれないっていうか、誰かに愛される可能性があるかもしれないのに滅ぼすのはちょっと抵抗があります」

 自分でも中途半端で優柔不断だと思う。立場を確たるものにすれば、彼女のように真っ直ぐ信念を貫けるのに。

 「ならお前の思う通りにすればいい。でも、自分の想いを低俗なものと言うのは止めた方がいい。自分が正しいと思っているなら、それを卑下せずに貫くのがコンフリクトだから」

 矛盾しているような気がした。彼女の価値観では、僕の信念は間違いであるはずなのにそれを尊重しようとしている。

 「……………………」

 彼女の人間性が少しだけ分からなくなった。

 「じゃあボクはこれで」

 彼女はもう用はないという表情で立ち去ろうとした。僕はまだ鳩ヶ谷冬雪という人間を理解しきれていないのに。

 「あの!」

 僕は五、六年忘れていた勇気を出して叫んだ。きっともう二度とやってこないであろう感情に身を委ねて。

 「もし僕が世界を滅ぼすことを決意したら、一緒に滅ぼしてくれますか?」

 ある意味告白だ。いや、好意を伝える意味での告白でもあるのかもしれない。彼女のような人間と共に世界と戦えたなら、濁った瞳も輝くに違いない。

 「それは無理。目的が同じでも志が違うから、ボクたちは分かり合えない」

 ガラスのナイフが心に突き刺さった。重さはなくとも確かな苦しさがある。

 少しだけ、期待していた。こんな風に非日常の中で初めて出会った彼女との運命を。

 鳩ヶ谷さんは無言の僕を一瞥して去っていく。その背中はどこか寂しげに見えた。或いは、それは僕自身の心が感じるものなのかもしれない。 

 


 卒業式の日に公園で悄然と佇む元高校生が一人。傍から見ればどんなに悲しい光景だろうか。

 彼女の座っていたブランコに腰を下ろそうかとも考えたが、剰りに未練がましくて憚られた。

 ふと何かを忘れていることを思い出した。感情なら沢山失くしてきたが、これは単純に出来事を忘却している感覚だ。

 然程悩まずに答えへと辿り着いた。鉄塔で会った自殺志願の男のことだ。今頃あの鉄塔の根元には死体があるのだろうか。

 無邪気に走り回る少年達の声が賑やかす公園に似つかわしくない思考だ。

 公園を出る。直ぐに此処が事故現場になるはずだったことを思い出した。人の命を救ったことなどもう記憶の彼方だ。

 隠しきれない溜め息が独りのセカイに洩れた。

 


 鉄塔までの距離が十メートルを切った辺りから頂上に立つ人間を、人間と視認出来た。僕は太陽を睨むように目を眇めて接近を続ける。

 近付くにつれてその人物が一周目で出会った男とは異なる人物であると分かった。

 鉄塔の根元に至ると異様な光景であることを理解した。落ちれば即死の高みで、鉄の崖に背を向けている。

 僕は再び鉄の梯子を伝って頂へと上り詰めた。

 舞台は同一。されど相対するは別人。

 小柄な男だ。飾り気のないストレートの黒髪、生真面目さを感じさせる黒縁の眼鏡。服装は鼠色のコートに、色落ちもダメージもないジーンズ。制服ではないのに模範生という言葉が浮かぶ程、堅苦しさのある風采だった。

 しかし、小柄ながら僕と同年代か歳上であることを悟る。言葉を交わさずとも、その瞳に宿る狂気を、己が懐く感情と同じものだと理解した。

 「初めまして、幕好太さん。私は憧憬のコンフリクト、城崎夕きのさきゆうと申します」

 男なのに私という一人称であることは気にならなかった。彼もコンフリクトであるその事実こそが最も重要で、頭脳のリソースを宛てがうべき事柄だ。

 「愛のコンフリクト、幕好太だ」

 愛を司る者を自称するのはやはり顔から火が出そうな程恥ずかしい。

 「はい。存じています」

 「どうして知っている?」

 「後悔のコンフリクトから貴方のことを知らされていたので」

 「後悔?」

 「後悔のコンフリクトについては、後々本人から自己紹介をする心算らしいので敢えて伏せますが、どうかご容赦ください」

 「まあ……いいけど」

 「有難う御座います」

 彼は慇懃な態度で了承の返事を受け取ると、一つ咳払いをした。

 「私のコンフリクト、憧憬は二つの要素を兼ね備えています。一つは羨望。ああなりたい、羨ましいと思う対象と同じこと、乃至近しいことが出来ます。例えば炎を操る魔法使いであったなら」

 彼が掌を天に掲げると直径一メートルはある炎の球が生まれた。それは彗星の如く直線を描いて太陽を目指し、やがて青空の彼方へ消えた。

 僕はその光景を、唖然とした表情を浮かべて見ていることしか出来なかった。

 「私の知る限りでのアニメ、漫画、ライトノベルでの能力の大半を現実のものとして使用出来ます。つまり私は魔法を使えます」

 「チートすぎる」

 「いいえ。羨望の対象となるものに、過ぎたる武力はありません。銃で武装するのと大差ないものと再認識してください。コンフリクト相手ではアドバンテージと言える程のものではありませんから」

 「コンフリクトは全員がそんな強さなのか」

 「コンフリクトにも相性や性質が有りますから単純に強弱を比べることは出来ませんが、戦闘面に於いて秀でているコンフリクトが多いのは事実です」

 人間の心を具象化したコンフリクトが複雑でないはずがないのは尤もだ。しかし自分にも彼のような魔法が使えるとは思えない。

 「尚、羨ましいと思うシチュエーション自体にも効果を発揮します」

 「シチュエーション自体?」

 「具体例を挙げると、女の子を守って戦う状況などです。その状況下では徒手でライオンを倒せます」

 「案外普通の男の子らしいシチュエーションに憧れているんだな」

 「貴方にもこの憧れはある筈ですよ?」

 勿論ある。僕がこんな人生を送っていなかったとしても同じようにそのシチュエーションに憧れた筈だ。女の子を守って戦う妄想をせずに大人になった男などいないと言っても過言ではない。

 「もう一つは嫉妬です」

 唐突に投げ込まれた物騒な単語に唾を飲み込む。

 「七大罪にも含まれる欲得です。程度の差は有れど人であれば誰しもが持ち得る感情かと」

 「そうだな。僕も生きてきて何度も経験した」

 今自分が置かれている境遇。今まで辿ってきた道。それらを思い出すと心穏やかではいられない。怒りと嘆きが込み上げ表情を歪ませる。

 自分も彼等のようになりたいと思うのが羨望なら、彼等を自分達と同じようにしたいと思うのが嫉妬だ。

 羨むのではなく嫉むことは僕にとって日常だ。生きていて当たり前のように見掛ける光景に、嫉視の対象が溢れ返っている。通学路のカップル。校舎で談笑しながら歩く男女。帰路で仲睦まじく手を繋ぐ恋人達。

 幸せではないが故に日常生活と切り離しようのない当然の感情。それが嫉妬なのだ。

 城崎は惨めさに打ちひしがれた僕の表情を見て、微かに口の端を吊り上げた。その目に窺えるのは憐憫と共感と、期待……だろうか。

 「私にはない幸福を持つ人間を相手取るときのみコンフリクトをも凌駕する力を得ます」

 「つまり幸せな人間と戦うときだけ強くなるということか」

 「その解釈で問題ありません。以上が私のコンフリクトです。何か質問はありますか?」

 「そうだな。その能力はどうやって自覚したんだ?」

 「先ず羨望の能力はコンフリクトに選ばれた瞬間から使えました。そして嫉妬の能力は幸せな人間を目にしたとき、殺せると確信した正にその瞬間です」

 『そういう場面が来れば使えるはずだから』

 鳩ヶ谷さんの言葉と城崎の経験が一致している。したがって自分もまた、発動条件を満たす状況に置かれればコンフリクトを扱えると考えていいのだろう。

 「なるほど。ならそういう場面を待っていればそれで良いわけか」

 「はい。他に質問はありますか?」

 「いや、ない」

 「では下りましょうか」

 僕と彼は梯子を伝って鉄塔を降りた。

 「帰る方向はあちらですか?」

 城崎が僕の家がある方角を指差した。

 「そうだよ」

 「私も同じ方向です。歩きながら少し話をしましょう」

 「ああ」

 意外な展開だ。このまま別れる流れになると思っていた。

 小川沿いを二人で歩く。三年間独りで登下校した道を二人で歩くことに強烈な違和感を覚えた。しかし高揚感はない。

 一人きりの通学路は僕にとってトラウマのようなものだ。思い起こせば心が塞がり、歩いていれば精神を病む。

 在学中に一度でも良いから女の子と歩きたかった。

 「ところで」

 城崎が立ち止まってしゃがみ、道脇に生えている草の茎を折った。

 「あなたはこれを何と言いますか?」

 細長い紫の花弁が五本付いた草を、彼は持ち上げた。

 「雑草?」

 「そうでしょうね。ですが雑草という名前の草はありません。ちなみにこれはホトケノザと呼ばれる植物です」

 「へえ。よく知ってるな」

 「私は植物全ての名前を知っています。故に私には雑草の概念がなく、植物の知識を持たない人間とは異なる視座で植物を語れるのです」

 その話は、他愛ない雑談にしては含蓄があるように思えた。彼の意図するところを理解するべく耳を傾ける。

 「同様に、世界の醜悪さを知るものは、幸せな人間と異なる視座で世界を語れるのです」

 「幸せな人間には世界の真理が見えていない、と」

 「その通りです。言うまでもなく、幸せな人間は自分の置かれている環境だけを見て幸せと語り、世界が輝いていると感じる。しかし我々にとってはそうでない。不幸だから世界の醜さを知っている。それが彼ら彼女らには見えていないことも知っている」

 僕という一人の人間はこの世界を生きて、人が示し合わせたかのように目を背けた本性を思案し続けてきた。思案の過程で発見した視界の違い、即ちセカイと世界の違いに通じる論理を彼は語っているのだ。

 僕は城崎の半生を微かに理解すると同時に、その道程の険しさと傷付きながらも歩み続けた彼の心中を忖度し、親近感を覚えた。

 やはり、と言うべきか。幸せになれない人間は一定数存在するのだ。それが僕の生きる世界で、彼らのいないセカイだ。

 「僕たちには世界を語る資格があるはずだ」

 「ええ。私達だからこそ選ばれたのです」

 神様に選ばれた人。その選出基準は人の持つ要素の純度。僕も城崎も鳩ヶ谷さんも、世界の中にあって純度を増し、人間という鑢に削られて形を整えられた。ともするとナイフのように尖っているかもしれないが。

 「こんなことを話せる人がいるなんて思ってなかったよ」

 「友達はいないのですか?」

 「いや友達はいるよ。でも日常会話の話題なんて、流行りのゲームはどうだとか、昨日の番組がどうだとかだからさ。こんな風に本質的なことを話せるのが嬉しいんだ」

 「貴方は、胸襟を開いて話すことも出来ないような人間を友達と認めるのですか?」

 「……ああ、そうだよ。それでも友達は友達だ」

 「その点に関して、貴方とは価値観がずれているようですね。私にもその程度の交遊関係は有りますが、友達はいません」

 心から分かり合えないのなら友達とは呼ばない、なんて、そんなの。

 彼は、僕よりも遥かに人間関係に誠実で、狂おしい程に正直だった。

 「…………僕は、君となら親友になれる気がするよ」

 彼は何も答えなかった。それから暫く僕と城崎の間に沈黙が降り立った。自然以外の何者も声を発しないまま時間だけが過ぎて行く。

 気付けば陽は傾き、憎々しい青は薄らいで、橙と黒が空を席巻する。美しくも惨たらしい色彩を眺めながら、城崎の存在を強く意識した。一人では身も心も灰になりそうなもの悲しい情景であっても、一人でなければ直視できる。

 ん……?

 いやおかしい。そんなわけがない。一人だろうとそうでなかろうと、夕焼けなんて愛されていなければ見れないはずだ。

 ああ……致命的に間違えていた。

 「幕さん」

 「なんだ」

 無言の時間は終わり、求めていた会話が再開された。

 「私と共に世界を滅ぼしませんか?」

 僕は少なからず動揺した。彼の言葉は僕が初めて出逢ったコンフリクトに言ったそれと、酷く似ていたからだ。

 返答に窮し、破られた沈黙が再び姿を見せた。迷いのある心だ。世界を滅ぼす選択肢は、自分の行く末が救いのない暗黒であることを確信しなければ選べない。幸せになれる可能性を残したまま人類ものとも命を捨てるのは剰りにも軽率と言えた。

 「僕は……まだ人生を諦めていない。それにな、諦めたとしてもその誘いは断るよ」

 「どういう意味ですか?」

 「負け組の馴れ合いは堕落する」

 正義を志し、希望に歩み、幸せを目指して共に手を取り合うなら強くなれるだろう。だが、負け組は変わらない。どころか中途半端な仲間意識で弱くなるだけだ。

 「仲間にはならない」

 僕の隣には恋人のように片時も離れることなく孤独があった。それを手離してハリボテの友情で妥協しようとしても何も意味がない。何も残らない。

 「これが」

 堪えきれない激情が心から噴き出し、嗔意しんいの焔が躯を焼く。不幸は酸素。憐憫はガソリン。憎悪は炎。

 気付けば漆黒の火炎が僕を包んでいた。

 「それが貴方のコンフリクト……?フッ、フハハハハハハハハハハ!何だそれは!何たる悪意!何たる怨恨!愛のコンフリクト?それは!紛れもない憎悪だ!」

 「ああ。そうだ。これが、僕のコンフリクトだ。これが、憎悪だ」

 愛の反対は憎しみなのだ。

 「断言しましょう。貴方は必ずや世界を殺す死神となる。その証明を次の三月でしましょう」

 含みのある言い分に不穏な気配を察知した。しかし「何を企む?」と訊いたところで答えを知ることはできないだろう。

 「では、今日はここまでで。またお会いしましょう」

 「ああ」

 彼は僕と道を違えて歩き去って行く。迷いなく突き進む彼の背中が見えなくなるまで、僕はこの場から動かなかった。

 

 

 夜は更けて。ベランダに一人、風呂上がりでは風邪を引きそうな涼風に吹かれながら夜空を眺める。

 長い一日だった。激動の一日と呼称してもいい一日だった。三月のループ、鳩ヶ谷さんとの出会い、城崎との語らい。人生という物語において重要な場面をたった一日で幾つも通った。 しかし何故だろう。運命の気配をあまり感じなかった。

 物語が静かに、そして遅々として進行しているから気付けていないだけなのか。それとも実際に進んでなどいないのか。漠然とした不安を抱えながらも、そのことに一種の変化を自覚する。人生を半ば諦めていたから不安はなかった。期待も希望もなければ不安を抱くことはないのだ。

 真黒の空は一日目と二日目の境が近付いて来ていることを報せている。部屋に戻ってベッドに倒れ込むと瞬きの間に瞼が重くなった。

 終わらない世界と始まる物語。その始まりが、終わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る