ひとりと海の輝ける星々

明日key

ひとりと海の輝ける星々

 私が原始の記憶を思い出したのは、辛いことのあったままの傷心で、水族館で深海魚を見たときだ。

 あなたと交わした原始の約束。

 いても立ってもいられず、約束の場所へ私は赴いた。

 時間は真夜中に差し掛かり、私は海辺へと出向く。ボートを借りて、沖へ出た。

 まるで静かな闇夜を浸すこの海で、私は輝ける星々を見た。海の中に星がないことは、夜空を見上げるまでもなく明らかだが。幻想する気持ちを抑えられない。

 なぜ私が原始の記憶を持っていたか。

 一般的に人一人がどうやっても二人にならない以上、本来なら記憶は世代を隔て断絶する。

 だがカンブリア爆発よりもはるか昔、私とあなたは同じ魂をそれぞれに持ち、その身体を分裂させた。そして、いかなる場合でも魂を受け継ぐという強い本能を持ったから、私は記憶に残していたのだ。

 前史の、言葉の形すらない約束を反芻しつつ、海面から深みを覗く。海の星とも形容できる煌めきがあった。

 しばらくの後。光の粒が浮上する。

 懐いた愛しいもののように、それらは私のもとに近づいてくる。

 はるか昔、私とあなたは生態の高みを目指した。私はいまその頂にいて、あなたは進化の不可逆的な分かれで足を止め、これ以上進むことを諦めたのだろう。

 目の前に見える海月(うみのつき)、くらげのむれ。蒼くて淡く白い光の数々。常世の感情を静謐な気持ちにさせてくれる。

「待ってたよ」

 その言葉はとても優しく響いた。声にも言葉にもなっていなかったが、私にはあなたの声が聞こえた。

「ただいま」

「おかえり」

 ほのかに明るく静かな夜の姿となった海で、私たちはささやかな再会を感じた。

「君がうらやましい、生物の高みについたのだから」

 そのことに関して言いにくかった。たとえ、生物の高みにいても、私はとても折れそうな存在で、明日死んだら闇に葬られる存在だから。

「ありがとう、でも私はあなたがうらやましい」

「なんで?」

 海の中で泳ぐ星々が、囁く声色で、私の耳の奥に沈み込んでくる。

「あなたは」

 空を見上げるまでもないほど自明なこと。

「あなたは、海の星々になったから」

 海面に落ちる星の影よりも、あなたはとても輝いていた。あなたは悠久のときをどれだけ生きてきたか。

 空の星々が幾星霜と輝き続けてきた。あなたも私に再び出逢うために、どれだけ生きてきたことだろう。

「そのような表現ができる君がうらやましい」

 それは私を褒めたのだろうか。それとも自嘲を込めて言ったのだろうか。

 だけど、あなたはとても嬉しそうだったから。

「僕をそのように表現してくれてありがとう」

 涙ぐんで、海面に波紋が広がる。

「どうしたの?」

「私は一人、人間はみんな一人ぼっち」

 それに比べて。

「あなたはいつもあなたたち、決して一人でなく常に星々のすべてでひとつの銀河をなしている」

 あなたは全体になれる。だけど、私はいつだって何かの一部に過ぎない一人ぼっち。

「詩的だね」

「人間もあなたのように生きられたらよかったのに」

 不安の心を無防備に晒したさまで、私は心を預けるようにあなたに言った。

「大丈夫だよ」

 変わらずあなたは、私にとても優しくしてくれる。

「君は一人ぼっちかもしれない。だけど……」

 水面から覗くあなたが、悲しい心のように、か細い光の明滅を繰り返す。

「君は君の生き方をすればいい。その生き方を肯定するのは君自身の言葉だ。僕を海の星々を表現してくれたように」

 でも不安は払拭できない。

「私は私の生き方を肯定できるのかな」

 私には自信がなかった。だけど、そんなことは関係ないと知る言葉を次に与えてくれた。

「君は一人になり、一人でここまで来た。君の人生は素晴らしいことを僕は知っている。その人生は君の言葉で省みることができる」

 その言葉は私の言葉以上に、私を癒やしてくれた。淡いあなたの優しき光が、心の中にともったように私は穏やかな気持ちになった。

 ありがとう。

「僕と君とはここでお別れだ、僕はこのまま僕の時間を生き続ける。君がいい人生を送ることを願いつつ」

 海の星々が光る、強く光っているには違いないけれど、思いやる気持ちの共鳴のように光の波紋は揺れ、優してそして弱かった。

「僕は幸せじゃなかった。でも、君の言葉で幸せになれた。きっとその幸せは永遠に続く。星のように」

 私は海面にそっと手を触れた。あなたの場所に手は届かない。だけど、あなたの心には触れることができた。

「君とまた出会えてよかった」

 海の星が瞬きながら離れていく。

「ありがとう、そして、さようなら」

 心の安らぐ声とともに、星々は最後の光を放ちながら、海の底へと沈んでいった。


 しばらく星々が消え入る余韻に浸っていた。

 海の地平に白い光が走る。

 海の星々も、空の煌めきも消え、朝が訪れた。

 人は常に何かの一部で、大きいくせにとてもちっぽけで、高みで孤独を感じている矛盾をはらんだ生き物。

 私は私を幸せにする希望を見つけた。

 あなたを幸せにすることができたように。

 人は自分を幸せにすることができる。そういうものだと私は思うようになれた。

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