白胡麻と君のいない隣

区院

白胡麻と君のいない隣



 ハンバーガーのバンズについている白胡麻になりたいので、今日はもう帰ります。


 そう言って退社したらどうなるだろう。退社時間を過ぎた今、そんなことを考える。


 昔から妄想癖があったが、就職してから妄想の内容におかしさが増して来たように思う。学生時代はもっと、いきなり美少年が告白してくるとか、突然お金持ちの男性にプロポーズされるとか、いや、もうこれ以上はやめておこう。

 パソコンのキーボードを叩く手が速まる。大きな声では言えないが、妄想の世界は楽しい。恥ずかしいから言えないが、大好きだ。妄想の世界に溺れているだけで脳味噌がとろけるような幸福感を得ることができる。


 こうやって突飛な妄想をしていると自然と鼓動が速くなって、馬鹿馬鹿しい空想さえ実現しそうな気がして手が止まらない。


 かつては手が速まるたびに、隣の席の1つ年上の先輩、大橋幸助さんに訝しげな視線を向けられていた。彼の切れ長の瞳が、「うるさい静かにやれ」と言っていた。その度に「後でコーヒー奢りますから。ちょっと高いやつ」と私が言うと、大橋さんは「じゃあ3本な」と微笑みながら長い指を三本立てた。これがいつもの日課だった。


 短く息を吐いて肩を回す。軽く目眩がしたせいで薄暗くなった視界の端にある、隣の席にちらりと目をやった。

 首をひねったその刹那、肩を叩かれる。


「竹山ぁ、晩飯にするぞ。つーか暑いな。クーラー付けようよ。もう7月だってのによぉ」

 

 静寂に包まれたオフィスに、間延びした声が響いた。この語尾を伸ばす特徴的な喋り方をするのは彼しかいない。


「大橋さん。お疲れ様です」


 小さく頭を下げると、大橋さんが笑いながら紙コップを差し出してきた。


「ほぉら、恵んでやるよ」


 受け取った紙コップの湯気からは味噌の匂いがする。腹の虫が小さく鳴いた。


 うちの会社恒例、残業時間の味噌汁タイムだ。デスクの一番下の引き出しに大量にストックしてあるインスタント味噌汁を、割箸でかき混ぜ紙コップで飲む。入社してから3年、折れそうな心を何度もこの味噌汁に救われてきた。


「飯食おうぜぇ、あっちのソファで」という彼の言葉に頷き、私達はオフィスの一角にある、パーテーションで区切られた狭い飲食スペースのソファに腰かける。


「あ、さっきコンビニで色々買ってきたけどいるかぁ?おにぎりとハンバーガーと……」

「全部。いただきます」

「はいはぁい。よく喰うな相変わらず」


 大橋さんが小さなビニール袋から次々と食品を取り出す。某猫型ロボットのアニメみたいな光景だな、と私は口元を隠して笑った。


 もうビニール袋の中身が少なくなってきた頃に、チーズバーガーがガラスのテーブルに置かれる。


「ほら、まずはチーズバーガーだろ」

 

 チーズバーガーは最初に食べる。食いしん坊な私の謎ルールである。さすが大橋さん、よく分かっている。


「ありがとうございます」


 腹の虫が大きく声を上げる。腹が鳴ったのを隠すかのようにわざと音を立てて、私は包みを剥がしてチーズバーガーに齧りついた。舌の上に程よいチーズと肉の塩味が広がる。美味の快感を噛み締めるように目を閉じた。


 少しした後ゆっくりと目を開いて、大橋さんに向かって一礼する。本当はもう一度ありがとうの言葉を言いたかったけれど、生憎口はチーズバーガーで支配されていた。


 顔を上げると大橋さんは笑っていなかった。いや、正確に言えば笑っていたのだけれど、八重歯を見せていたずらっ子のように笑ういつもの笑顔とは違い、慈愛という言葉を体現したような優しい笑みだった。私は少し早めに咀嚼して、口の中のチーズと肉を飲み込んだ。


「……あと、これもなぁ」


 私が口の中を空にするのを待っていたかのように、大橋さんはビニール袋から何かを取り出した。


「…………あ」


 取り出されてテーブルに置かれたのは、缶コーヒーだった。


「これ、普通のコーヒーよりちょっと高いんだなぁ。いつもお前が買ってたから知らなかったわ」


 大橋さんはビニール袋からもう2本同じものを取り出す。

 テーブルには3本、缶コーヒーが並んだ。

 あの頃と全く同じ光景が、久々に目の前に現れた。


 大橋さんは目線を床に逸らした後、意を決したかのように私の方へ向き直って告げる。


大橋、実家に帰るらしい。青森だとよ」


 チーズバーガーのバンズについている白胡麻が、数個床に零れ落ちた。、フルネームで言うと大橋俊二さんの口調が珍しく間延びしていなくて、何だか胸の辺りに霧がかかったような心地がする。口の端についたパンくずを指で取って、私は口を開く。


「あ、の、せめて挨拶とか、できませんかね?」


 自分でも声が震えているのが分かった。


「……残念だけどあいつ、もう誰にも会いたくないってさ。無理ねぇよ。俺達会社の人間と会ったら、余計辛かったことを思い出しちまうからな」


 ギュッとチーズバーガーを持っていない方の手を握りしめる。「もう誰にも会いたくない」という彼の言葉が重く心にのしかかった。

 あんなに一緒に頑張って来たのに、何でも話し合える仲だと思っていたのに、尊敬していた先輩だったのに、私はもう、会えないのか。


 私は、彼の思い出したくない記憶の一部になってしまったのか。


 その事実が眼前に突き付けられて初めて、心の宝箱にしまってあった幸助さんとの思い出が、走馬灯のように脳内を巡った。


「俊二さん」

「……やっと前みたいに名前で呼んだなぁ、咲ちゃん。幸助が辞めてからずっと『大橋さん』だったのに」


 俊二さんの言葉に私は少し俯いた。


 幸助さん、俊二さん、そして私、咲ちゃん。私達は会社の先輩後輩の間柄では珍しいが、仕事の時以外は下の名前で呼び合っていた。恋人でも友達でも家族でもなかったけれど、それほど親しい間柄だった。


 幸助さんが馬車馬のように働かされて、うつ病と診断されて会社を去ってから、この会社で大橋の苗字は俊二さんだけになった。


 だからもう、下の名前で呼ぶ必要はない。そう思った。そう思っていたかった。

 本当は、幸助さんがあんなに追い詰められていたのに気が付けなかった自分には、もう彼の名を呼ぶ資格さえないと思っていたのだ。名前を呼ぶことでさえ、どこか怖かったのだ。


「いつも、3本でしたよね。コーヒー」


 自分の声は驚くほど細かった。それでも口が止まらない。


「私がコーヒーを買って、俊二さんが味噌汁作って、幸助さんはいつもお弁当買ってきてくれた。でも、幸助さん優しいから、お弁当半分残して私にくれるんですよね、いつも」

 

 私が人の何倍も食べることを知ってから、幸助さんはいつも晩御飯の半分近くをくれた。「俺、小食なんだよね」と微笑む幸助さんの表情が、差し出された唐揚げ弁当が、笑ったときにできる皺の1つ1つが、目の前にあるかのように鮮明に蘇る。

 

 弁当を分けてもらうようになってからしばらくが経った頃、いつものように3人で遅めの晩御飯を食べようとしたある時、幸助さんは泣いていた。いや、本当に涙を流していたわけではない。生気のしない真っ黒な顔で、疲れたように笑っていた。私はそれが泣いているように見えた。


 落ち込んだ私や俊二さんをいつも元気づけてくれる、あの幸助さんが。半ば驚いた私は何があったかは触れないように、幸助さんに白胡麻の付いたチーズバーガーを差し出した。

 

 幸助さんはその日、弁当を残さず一人で食べた。私のチーズバーガーも全部食べた。


 幸助さんは別に小食なわけではないことを、今まで分けてくれた半分の弁当は食いしん坊な私への気遣いだったことを、その日私は知った。

 

「馬鹿だよ。あいつ、人に弁当分けることが優しさだと思ってんだもん」

 

 俊二さんが吐き捨てるように言った。


「そんなんで自分が体調壊してさぁ、辞める寸前も俺らが落ち込んでたら『食べなきゃ元気でねーぞ』って、そんなの」


 その先は何も言わなかった。

 全身を飲み込むような静寂の中、ただ、私たちは俯いている。消えた彼の面影を思い返して、沈黙している。

 少し唾を飲み込んで、息を吐く。瞼に熱いものが込み上げてくるのを必死に堪えた。


 ふと、床に落ちた白胡麻を見つめる。


 例えハンバーガーの上にのっている胡麻のひとつが落ちようと誰も気に留めない。それが潰れようが何だろうが、ほとんどの人は知ったこっちゃない。


 そうだ、私達はすでに胡麻なのだ。この会社という名のハンバーガーの上にのせられた、小さな小さな胡麻。


 胡麻がどんなにハンバーガーに貢献しても、どんなに他の胡麻たちから尊敬されていても、どんなに、どんなに優しい心の持ち主でも。

 落ちた後は、もう。


「すみません、お手洗い行ってきます」


 早口でそう告げ、立ち上がる。


「あぁ、いってらっしゃい」


 子供をあやすかのように温かい声に、余計に瞼が熱くなった。


 トイレまでの道を大股歩きで進む。足元の何かを切り裂くようにとにかく足を進めた。


 いっそ本当に胡麻ならこんなに苦しまなかったのだろうか。幸助さんも、俊二さんも、私も。

 私の脳内に妄想の種が生み出される。手足なんかない、雫型の胡麻になる妄想が駆け巡る。

 けれどもう、妄想の世界に浸ってタイピングの音が五月蠅くなる私を叱る人はいない。私の隣のデスクにはいない。


 もういないのだ。


 目の前にあるのに掴めないようなもどかしさと、悲しみを深くさせる思い出の数々が心に纏わりついて離れない。

 

 幸助さんが小食ではないことを知ったあの日以降も、彼は自分の弁当を私に分けてくれた。


「俺、最近胃の調子が悪くてさ」


 そう言って差し出された弁当には、ご飯もおかずも半分以上残っていた。


 胃の調子が悪いというあの言葉は本当だったのだろうか。そんな疑問も、今はもう遠くにあって確かめるすべすらない。

 

 廊下の窓から吹き込む夏風がうっとおしくて、私は窓を閉める。

 窓に映った私の頬には一筋の涙が線を描いていたけれど、これは夜色の風が目に染みた所為にさせてほしい。


 

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