2怪奇 雲

 高く高くどこまでも澄み渡る空を燕が滑る。白い雲も悠然と構えている。木漏れ日が蝉の体をてらてら照らす。快晴だった。


「あー今日も良い天気ィー……」


 桐枝きりえは職を失ってからというもの毎日のように窓から外を眺めていた。その目は絶望で死んでいる――というわけでは別になく、自分の今後を考えることから単純に逃げていただけであった。しかし貯金にももうあまり余裕がない。流石にそろそろ次の職について考えなければと考えていた。

 ――そして彼女にはもう1つ、考えていることがあった。

 

「なんだろ、あれ」


 空に浮かぶ白い雲、その中に流れることなく停滞し続ける雲が1つだけあった。そしてその一部分が細長く、日毎に少しずつ、桐枝の住むアパートの方角に向かって伸びているようだった。彼女の脳内にこの現象を説明できるものはない。そのため、他にやることもなく職探しを放り出し時間なら腐るほどある時間に腐らされている彼女は、丸一日図書館に籠ってそれが分かりそうな専門書や図鑑、また、それと少しでも関連のありそうな漫画昔買っていた少女漫画の続きを読み漁った。しかしどうにもそれらしい記載はない。結局、桐枝が知識として持ち帰ったのは“天気”と“気象”の違いだけであった。




「近付いて来てる……よねぇ、やっぱ」


 ――2日後。快晴。雲はそことアパート、それぞれの間の丁度半分くらいのところまで伸びていた。昨日も今日も、この不可解な現象に気を取られていた怠惰な昼夜逆転生活を送っていたせいで、職探しもままならなかった。また、この2日でわかったことだが、どうやらこの雲は彼女以外の人間には見えていないらしい。桐枝がコンビニに行く際、たまたますれ違った男性園児に声をかけたが、彼は首を傾げるばかりだったので間違いないだろう。

 私にしか見えない白い雲かぁ、幸せでも運んできてくれてるのかな――などと思いながらニヤつく桐枝。

 伸びた雲の先端は、よく見ると僅かに枝分かれをしていた――




 ――5日後、――――快晴。桐枝は焦っていた。仕事が見つからないことに対してではなく、雲がもう数日後には桐枝の住む部屋まで届くであろうという距離まで接近していたからだ。はじめのうちは不気味さも危機感もなく、不思議現象程度で済ませていた彼女だが、ここまでくると今更ながら恐怖を感じるようになっていた。また、距離が近くなるにつれて、それがなんとなくアパート側に伸びているのではなく、明らかにこの部屋を目指しているということがわかったのもより一層恐ろしかった。


「と、とにかくうちを離れなきゃ――」


 頼れる友人がいない訳じゃない。細かい事情を話さずとも1週間くらいは泊めてくれるだろう。でもその間この雲は? 時間が解決してくれるとは思えない。私が帰ってくるのをずっと待ち構えているかもしれないし、友人宅の方へそのの矛先を変えるかもしれない。後者だったら最悪だ――

 結局桐枝はそこで怯えて過ごすしかなかった。夜になると白雲は見えなくなる。だが、闇に紛れている間も淡々とこちらに向かって伸びてきているのではないかと思うと、とてもまともには眠れなかった。

 その先端は5つに分かれ――伸びた雲は、どことなく人の腕のようだった。




 ――8日後の夜。連日の不眠により蓄積された眠気が彼女を一斉に襲った。



 目が覚めると桐枝は雲の上にいた。


「え? えぇ!?」


 掌のように広がった白い雲、その中央に桐枝は座り込んでおり、彼女の背後には腕に当たる部分が空に向かって伸びていた。腕の根元には大きな雲が佇んでいる。何度も窓から見た景色の通りだった。


「ウソ、雲の上……乗ってる? 夢?」


 恐る恐る身を乗り出して地上を覗く。彼女の家とおぼしきアパートが手で隠れる位の大きさに見えた。頬をつねることはしなかった。空気の味や夏の日差しと熱気、風で靡く髪の感触が明らかに夢の中のそれとは違ったからだ。




「どうしよう――」


 ――地上はどんどん遠のいていく。伸びた腕が今度は縮んでいるようで、既に彼女の家は豆粒ほどの大きさしかなかった。そして先ほどまでは距離があり過ぎて気が付かなかったが、その腕を飲み込む白い雲の根元、そこにぽっかりと巨大な穴が空いていた。穴の中は真っ暗で真っ黒で、この清々しい夏の景色にはおよそ似つかわしくない、極めて不自然なものだった。しかしそんなことがわかったところで出来ることは何もない。桐枝は膝を抱えて途方に暮れていた。



 ――どれほどの時間が経っただろうか、もうその暗黒はすぐそこで口を開けて待ち構えていた。桐枝の顔は青ざめるのを通り越して真っ白で、もうどうしようもないほどに震えていた。着ていたシャツは冷汗と脂汗でぐしょぐしょ、呼吸もままならなかった。穴は蠢いているわけでも囁いているわけでもなかったが、単にその異質さ以上の恐怖を彼女から引き摺り出していた。

 桐枝の頭が穴に呑まれ始めた時、彼女は堪らずその身を空へと投げ出した。






「いー天気ねぇー……」


 自宅の窓からぼんやりと空を見つめるナナ。右手に持った麦茶のグラスが日差しを受けてきらきらと輝いている。時折氷が鳴らす小気味良い音をBGMにして、彼女は

夏の爽やかな朝を舌で転がしていた。

 買い物にでも行こうか、でも外は暑そうだし、二度寝して少し陽が落ちてから――などと考えていると、


 ――ドォン。


 何かが地面に叩きつけられたような音が響き、その直後に小さな悲鳴があがった。思わずそちらの方に目を向けると――


「……」


 窓とカーテンを閉め、手にしていた麦茶を一気に飲み干すと、ベッドに力なく横たわる。けたたましく鳴るサイレンと群衆の声を子守歌に、穏やかではない眠りにつくのだった。



 ――目が覚ますともう日が暮れていた。夕食の用意のため近所のスーパーへと向かうナナ。道中空を見上げると、オレンジ色の空を雲が穏やかに流れていく。しかしその中で、まるで微動だにしない雲が1つだけ浮かんでいた。


「……」


 一旦足を止めてそれを訝しげに見つめるが、すぐに流れてきた別の雲に隠されてしまう。


「……綿菓子って売ってたかしら」


 陰でクスクス嗤われているようで不愉快だったナナは、負け惜しみのようなものを言うと再びスーパーへ向かって歩き出すのだった。




 ――翌朝、この日も快晴だった。カーテンの隙間から零れた日差しがナナの瞼の上でちらちらと踊り、覚醒を促す。


「ん……」


 上体を起こし大きく背伸びをするとそのまま数秒間沈黙。その後のそのそとベッドから這い出し、冷蔵庫の中を漁る。そして蜜柑ゼリーとプチトマト、チーズ1欠けを見つけると、ベッドに腰かけ朝食代わりに口へと放り込んでいく。

 食パン買うの忘れてた――太腿に垂れたゼリーの汁をタンクトップの裾で拭きながらそんなことを思っていると、ふと昨日の夕方のことを思い出した。カーテンを開けてみると、やはり昨日と全く同じ場所に動いていない雲がある。


「ふぅん……」


 カーテンを閉じた。




 ――あれから11日後。相も変わらず天気は快晴。ナナは雲の上にいた。


「さて、どうしましょうか」


 目が覚めた時には既にそこにおり、寝起きであったため多少驚きはしたものの、そろそろ白雲が何かのはその挙動からわかっていたため、現状を把握するのに時間はかからなかった。――ただ、具体的な対処法は何も考えていなかった。仕方がないので、せめてこの状況を楽しもうと雲の下を覗き込んだ。

 あ、あれが私の住む寮だ。あの川があそこにあるってことはあっちがよく行くスーパーで、あの辺に見えるのが昔住んでいたところかな。懐かしい。今見ると意外と小さい――と、始めは新鮮で良かったのだが、すぐに飽きてしまった。

 もう雲は随分と高いところまで来ている。


「2度寝でもしてやろうかしら――」


 汗で額に張り付いた髪を指で払い、仰向けに寝そべる。すると、眩しい日差しの隙間から、不自然な黒い穴が雲に空いているのを視界に捉える。禍々しいとは言わないが、まるで上から貼り付けたような、全くこの景観にそぐわない極めて異質なものだった。


「とりあえず、アレに近づくのを待ちましょうか――」




 どれ程の時間が経っただろうか。穴はナナの頭上すぐそば、思いっきり跳べばなんとか指先が触れるかもしれない――というところまで来ていた。穴はびりびりとでもひしひしとでもなく、ただ無機質に無機質で膨大な恐怖を携え、“この中に入ったらただでは済まないぞ――”と主張しているようであった。彼女でなかったら恐怖で息もまともに出来なかったであろう。

 額で輝いていた汗がつるりと流れ、左目に入る。ナナは思わず顔をしかめる――が、次の瞬間はっとしたかと思うとそれをぬぐい、にやりと笑みを浮かべ――


「嗚呼――成程。理解したわ。その妙なも、このあいだの飛び降りが貴方の仕業だってことも。そして――」


 頭から暗黒に呑まれていく。


「――この世界のことも」


 彼女の全身が穴の中へと消えていった。






 快晴、青い空、白い雲、弧を描き飛んでいく2匹の燕。見下ろせば生い茂る緑に、冴えた色の向日葵がよく映える。まだ甲高かんだかい少年の声と金属バットの突き抜けるような音が、ニイニイゼミの鳴声で上書きされていく。そしてそれを切り裂いていく飛行機のエンジン音――

 気付くとナナは、ベランダの手すりに腰をかけていた。


「うお、っとっとっと」


 慌てて手すりを両手でがっしりと掴む。複雑に剥がれたその塗装――見覚えのあるそれは、間違いなく自宅のものだった。落ちないように慎重に片足ずつ降り、改めて空を仰ぐ。そこでは全ての雲が等しく流れていた。

 部屋に入ると時計の針は9時を回ったところだった。汗を吸ってまとわりついてくるタンクトップが鬱陶しいので、真っすぐに浴室へ向かう。シャワーで汗を流すと、日に焼けた肌がヒリヒリと痛い。シミになったらどうしてくれるのよ――と、憤った。

 風呂上がり、乾いた喉に冷たい麦茶が注がれていく。ああ、五臓六腑に染み渡るってのはこういうことなんだろうな――ナナはこの時になってようやく、帰って来られ気がしたのだった。


 冷蔵庫の中身を確認した彼女は、朝食を喫茶店で摂ることに決めた。朝からろくでもない目に遭ったため、ヤケ食いも兼ねてだ。甘めに味付けされたフレンチトーストと、それと相性抜群の濃厚でやや苦みのあるココア。ケーキセットにしてチーズタルトもいってしまおうか、いやフォンダンショコラも捨て難い――などと考えながら靴を履き、外へ出る。すると丁度同じフロアに住む噂好きのおばさんと鉢合わせた。


「あら、おはようナナちゃん! お出かけかしら?」


「ええ、ちょっと食事に」


「あらいいわね~! うちなんか今朝も素麺よ。 お父さんたら毎年夏になるとそればっかり食べたがって困っちゃうわ。 そのクセすぐバテてぐったりするんだから――あ、そうそう、このあいだのコのこと聞いた?」


「このあいだのコ――ですか?」


 マシンガントークだ。


「ホラ、近くのアパートの、から飛び降りた女のコ! そのコが意識を取り戻したんですって! 4階からっていうからダメかと思ったけど、ホッとしたわ~。まあまだあちこち骨折してるから暫く入院してなきゃいけないみたいだけど――。それと、別に自殺未遂じゃなかったそうよ? 当時のことを聴くと『空から落ちた』だとかなんとか、記憶が混乱してるのか訳の分からないことを言うそうだけど、特別思い詰めてるような感じでもないらしいし、まあ洗濯物でも干そうとして足を滑らせたんじゃないかって話よ――」




 行きつけの喫茶店まではまだもう少し歩かなければならない。ナナのお腹がぐうぐうと食事を要求してくる。


「お腹空いたな……」


 天気は快晴――お腹をさすりながら俯きがちで歩くナナの背中は蜃気楼の中へと溶けていった。

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カイキのナナ 斜めに斜斜 @Shoot_obliquely

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