カイキのナナ

斜めに斜斜

1怪奇 蛆

「う……ン、そろそろ眼鏡変えなきゃいけないかなぁ」


 肩を落とし、目を擦りながら街灯の少ない路地を歩く、啓子はため息をついた。



 医療事務をしている啓子けいこは一日中パソコンに向かっていることが殆ど。慢性的な眼精疲労に悩まされていた。

 今日は入力途中の来院患者一覧が終業間際にエラー落ち。カルテを元に復旧を終えたのは午後11時過ぎ。いつにもまして目を酷使してしまっていたのだった。


 夜とはいえ季節は夏。じっとりとした湿気を多分に含んだ暑さが、啓子の体力を奪っていく。もはや彼女に真っ直ぐ家に帰る気力は残っていなかった。途中でやや寂れたファミレスに寄り、不味くはないパフェをつついてお腹を満たす。ぐったりしながらスマホを弄り、啓子は回復を待った。


 ――テーブルの隅の方にいた1匹の蠅が、そんな彼女を黙って見ていた。


 気が付けばあっという間に0時。明日も仕事だ――名残惜しくもクーラーの効いた店内に別れを告げ、粘つく熱気に歓迎されながら啓子は再び帰路についたのだった。



 そんな啓子の霞んだ視界に妙なものが映りこんだ。


 どツっ、びたっ――ずるり――


 何やら白いカタマリが這っている。鈍い音を立てながら正面からこちらに向かってきている。


「――エ……何?」


 どちっ、ベタッ――ずずずず――どたっ――


 長さ3メートル程、太さは人の胴の倍程度だろうか。非常に緩慢な動作で近づいてきた。啓子には何が何だかわからなかった。恐怖で動けないわけでも腰が抜けたわけでもなく、現状を理解できずに呆然とただ突っ立っている。


 啓子が我に返ったのは“ソレ”がほんの数メートル先に到達した頃だった。幸い動きは鈍い、引き返そう――啓子が走り出そうと身構えたその瞬間、その巨体は大きく折れると手前の曲がり角を行き、少しずつ夜の闇に呑まれていった。啓子はそれを黙って見ていたが、その時その霞んだ目でその側面に、ぼんやりと黒っぽい模様があるのを確認した。

 そしてその間、啓子はそこから強烈な視線を感じていた。


 白いモノが行ってしまうのを見届けた後、啓子は漸く自分が体験したことを客観的に理解した。それと同時にどっと吹き出る冷や汗。啓子は腰を抜かし、暫くその場を離れることが出来なかった。


 ――結局アレは何だったんだろう。

 啓子は布団を敷きながら自分の持っている知識と今日の出来事を照らし合わせてみたが、該当するものはなかった。元々疲弊していた啓子、その日はもう考えることを放棄し、明日へまわして速やかに眠りについた。



 その晩、窓の隙間から部屋を這い、抜ける、2つの小さな白いモノ。

 朝になっても啓子の世界は夜のままだった。






 ――すっかり遅くなっちゃった。


 香苗は週に1度、図書室の戸締りをしてから帰っている。本来なら20時前には帰れるのだが、今日は他の学年で読書感想文の宿題が出されたらしく、時間になっても帰らない生徒が大勢いた。そのため現在、香苗は碌な明かりもない夜道を歩く破目になっている。


「なんで私が当番の日に限って……」


 高校に入って最初の委員決め、あまりもので選ばれた図書委員だったが、香苗は元々本を読むことが好きな方であり、それなりに楽しんでいた。しかし、そんな香苗もこのような目に遭っては流石に不満気であった。



 ――――――ッッゥン!!


 そんな彼女の耳元を突然掠める不愉快な羽音。視界の隅を1匹の蠅がぎった。


「やっ……ああ、――ッもう!!」


 香苗の手が空を切った。蠅は香苗の頭の周りを挑発するかのように鬱陶しく飛び回り続けている。

 そうして1人と1匹がじゃれ合っていると、ふと空気が変わり、周囲に生臭い香りが漂い始めた。それに気付いた香苗が手を振り回すのを止めると、蠅もどこかへ飛び去っていった。すると、


 ――ずず


 どこか奥の方から何かを引き摺るような音が聞こえてくる。

 耳を澄ませてみる。


 ――ずず、びたっ、ずずずずずる――


 少しずつ近くなってきている。ゆっくりとだが、確実に、……確実に、

 こちらへ向かってきている。彼女がその場を離れなかったのは、

 まだ、恐怖をわずかに好奇心が上回っていたからだ。



 ――――――――――――――――ず



 すぐに後悔した。

 香苗は近づいてきたものの正体を眼前で捉え、自らの好奇心を怨んだ。

 強い張りを感じさせ、また、鈍い光沢のある、ミルク色の巨体。

 そののっぺりとした姿はまるで巨大な蛆虫の様だった。

 さらに良く見るとうっすらと赤い筋――毛細血管だろうか――が、所々に

 枝分かれして走っている。


 引き摺る音、生っ白いカタマリ、そのどちらもが香苗を追い詰めた。


「ィ……や……」


 なになに何ヤダなにこれなんなのコレ――

 香苗は顔を強張らせるとその場で力なく座り込み、後ずさる。それに構わず少しずつ距離を詰めてくる大蛆。香苗が意識を手放しかけたその時、


 コツッ――


 彼女の右手が何かに触れた。それは大きな酒ビンで、その一部は欠けていた。

 しかし香苗はそれが何であるかを理解する前に手に取り、目の前の物体に思いっきり投げつけた。


 ――直撃、紅い血を滲ませる巨体。瞬間、それは大きくうねり、


『~~~~~~~~!!』


 絶叫した。

 正確にはその鳴声は誰にも聴こえなかったのだが、その時の動作やそこから放たれる空気の振動から、香苗には。そしてその震えに動揺した彼女は、身に迫るのたうつ巨体を躱すことが出来ず、大きく弾き飛ばされた。


 痛い――擦り傷にまみれ、脚もズキズキと鈍く痛む。しかし彼女がその場から動けなかったのは単純にその痛みによってではなく、自らが置かれているその現状が余りに非現実的で理不尽で、受け入れがたかったからであろう。思考だけが肉体より先に逃避してしまっていた。


 大蛆は既に暴れるのをやめていた。弾き飛ばされた香苗の目の前まで近づくとその体を走る赤い筋が一気に増え、太くなる。

 そしてその巨体は上体を大きく持ち上げると、香苗に向かって思いっきり振り下ろした。香苗は目を閉じ、次の瞬間を待った。


 ――響き渡る重い音。

 しかしそこに舞ったのは粉塵のみで、血や臓物の類は混じっていなかった。

 香苗の体はそこから数メートル先の、見知らぬ腕の中にあった。


「ん……」


 恐る恐る目を開けた香苗が見たのは、墨を浴びせたように深く、肩下まで真っすぐに垂れた黒髪。きりっとしているのにわずかに生気の抜けたような眼に、くっきりと整った鼻筋。カジュアルながらもややゴシック・パンクな趣きの服装がスマートな体に合った、20代前半くらいの一人の若い女性だった。


「降りられる?」

「え?……あ、はい」


 涼しげな声――。

 香苗は一瞬ぽかんとしたが、自らが抱きかかえられていることを把握するといそいそと腕から降りた。ああ、私この人に助けられたんだ――と気付いた時には既に礼を言うタイミングを逃していた。


 女が香苗から化け物の方に目をやると、丁度その白い頭で2人を薙ごうとしているところであった。彼女は右手を前に伸ばし、それが届くのを待ち構えた。女の背はやや高い方ではあったが、質量差を考えれば到底受け止められるものではなかった。


 ドッ――


 鈍い音が鳴り、弾き飛ばされる。しかし飛ばされたのは女の体ではなく、人の姿をかたどった1枚の紙であった。まるで自身が紙であることを忘れているかのように、空気の抵抗を受けることなく回転しながら飛んでいったそれは、電柱に叩きつけられると突然燃え上がり、灰も残さず消滅した。

 彼女は受け止めたその手で大蛆の頭を押し、その反動を利用して後退、距離をとった。そしてその時、蠢くソイツのを見た。

 白くツヤのある体の真ん中に、横に丸く長く伸びる、その外側を覆い、中央に向かって張り巡らされた、そしてそこから発せられる、強烈な。――それはどう見ても、横に大きく引き伸ばされた巨大な眼球そのものであった。


 うぞっ――


 女がそれに気付いた時、急激に眼の奥がごろごろと異物感を覚えた――と言うよりも、。彼女は顔をしかめ、反射的に片方の眼を手で覆った。女は巨大で平たい眼を睨んだ。睨み合った。


「“にらめっこ”じゃあ決着つきそうにもない――」


 そういうと女は首を傾けながらジーンズのポケットをもぞもぞと、いかにもかったるそうに漁り、そこからイエローの液体の詰まった小瓶――マニキュアと思われるものを取り出した。それを使って右手の小指と薬指の爪、そのたった2枚を染め上げると、何かを確認するかのように力を込めて掌を握り、大きく広げ、その2本をぴったりと閉じて、それ以外の指を再度握りしめた。くっついた2本の指はどこか鋭利さを感じさせ、先端ではイエローが妖しく光り、まるでそれ自体が小さな小刀のようだった。そして不思議なことに、必要最小限にしか塗られていないはずの爪の先からは、いつまでもマニキュアがポタポタとしたたり続けていた。


 大蛆、否――その大眼球おおめだまはゆっくりと、女に近付いてくる。そして先ほど香苗にそうしたように、頭を大きく持ち上げ、女に向かって振り下ろそうとした。


 刹那、女は意外なほどに素早くその懐に飛び込むと、大眼球の首元(と、表現して良いものか)に向かって2本の指を横一文字に振りぬいた。その黄色い一閃は、次の瞬間には赤色に変わり――2度目の無音の絶叫が鳴り響いた。


「今何時だと思ってるの」


 今度はのたうつ暇さえ、その哀れな眼球には与えられなかった。女は右膝を曲げて前のめりに身を沈めると、夜を裂かんばかりの勢いで、右腕を垂直に振り上げた。


「――」


 先程よりも深く沈んだ指先が縦に走ると、その白い巨体を黙らせた。逆十字の如き傷跡を晒すように横たわる。

 指先から飛び散るイエローが月に届きそうだった。



「……終わったん、ですか?」

「……ええ」


 チュパ――

 女はマニキュアのついた指を咥えると唇でそれを拭い、舐めとった。

 香苗は塀に身を寄せたまま、一部始終を見ていた。現実感がまるでないものの、彼女の言葉に一応の安堵を覚え、小さなため息をついた。


「何だったんですか、あれ」

「さあ。いいんじゃない?よくわからないものはなんだって“バケモノ”で」


 大眼球は早くも腐りだし、形を崩し始めていた。不快な臭いが辺り一面に立ち込める。


 もぞ――


 何かが動いたような気がする――。香苗はその影に目を向けると、潰れたハンドボール大のソイツが2匹と、やや大きさにバラツキのあるものの、テニスボール大のソイツが6匹、もぞもぞと絡まっていた。


「ヒッ……」


 香苗は小さく悲鳴を上げ、仰け反った。


「あら、まだいたの。――こんなに集めて、いったい何をそんなに見たかったのかしら」


 女はそれを見下ろすと脚をあげ、――まとめて踏みつぶした。


「…………!!」


 香苗はもう、声も出なかった。



「あの……うちここです」

「ん、そう。……歩ける?」

「はい、もう平気ですから――――あっ、ナナさん、あの、――ありがとうございました」

「うん、まあ……気を付けてね」


 脚を痛めていた香苗は女――墨紙片すみしべナナ――に家までおぶってもらい、その時交わした言葉からその名を知った。本当のところ脚の痛みは殆ど引いていたのだが、とても1人で帰る気にはなれなかった。もっとも、ナナの方もそれを察した上で気が付かないフリをしていた。

 

 玄関をくぐる香苗を見届けたナナは、すぐそばの街灯を見上げた。右目を閉じて、そこに群がる虫たちを眺める。左目を閉じて、不規則に点滅する薄汚れた光を見る。そのどちらの光景も正常に視界に収めることが出来ていた。ナナは安心したように息を吐き出すと、踵を返して家路につくのだった。



 帰宅するなりベッドにうつ伏せで倒れ込む。メイクは少し仮眠をとってから落とそう――そう思いながら夢の世界に片足を突っ込み始めたナナを引きとめたのは、甲高い悲鳴と――――ずるり、びたり、という懐かしくもなんともない聞き覚えのある音だった。

 

「そういえば、偶数いるのが自然だったな――」


 ずるりと起き上がったナナ。玄関でくたびれたスニーカーに履き替えると、目を擦りながら再び夜の闇へと消えていった。

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