4 リーエンリッテのお人形

 我が身に呪いが降りかかった時、これでやっと人間になれると思った。たとえ半分は魚でも、半分だけは人間になれるって。

 リーエンリッテは綺麗で可憐なご令嬢だった。お父様が目をかけるうるわしの伯爵令嬢。そういうものになるようにと望まれて育った。

 そしていつの日か、うつくしい彼女は幸せになるのです。めでたしめでたし。

 わたくしはそういう物語は好きではなかったけれど、それもそれで仕方ないかと、なにかと投げやりに生きていた。

 なにせリーエンリッテという名前の、わたくしは綺麗なお人形。

 だから悪魔に呪われて人魚になってしまったとき、少しだけ安堵したし嬉しかったし、せいせいするなと気分がよかった。

 だのにすぐさま人魚の尾ひれはとりあげられて、わたくしよりも綺麗で可憐でうるわしかったはずの子どもの足が、ぎらつく鱗でおおわれた。

 馬鹿な事をと、今でも思う。おかげでわたくしの将来のみならず、彼の将来もきっと傷物で、わたくしは人魚の尾ひれを失って、またリーエンリッテと呼ばれてしまう、お人形に逆戻りではないか! そう憤ったのだった。

 静かに怒りながらもわたくしは、人魚をバスタブに召し籠めて飼う事にした。いっとうお気に入りの、猫足の白い器に水をはって。

 そこまで用意してようやっと、わたくしは人魚の為には綺麗な浴室も必要である事に気がついた。ちょうどその頃、呪い損ないのリーエンリッテの身の上を、これまたややこしい事情を持つ公爵家が競り落としたのに喜々として乗じたのは、つまりそういう単純な理由と利点とが、わたくしにもあったから。

 仮初めの公爵夫人の名を頂戴し、わたくしの所有物である人魚を連れて嫁入りした先では、満足のいく浴室が手に入った。夫は派手に大金を転がす才がある……という養子入りの理由のとおり、合理的な人間だった。公爵家の正統な継承者であるその義妹は、中継ぎの彼が頭を抱えるくらい、ふわふわか弱い砂糖菓子だった。あれではいくら社交界を渡り歩くのがお上手でも、公爵閣下が頭を抱えるのも頷ける。

 わたくしは、彼らに公爵夫人と呼ばれた時間を、今でもなかなかに好ましかったと思っている。

 お金の計算は刺繍やお茶会よりも好きという事に気づけたし、わたくしは浴室で人魚を飼っていられたし、人魚はそれまでよりずっとご機嫌だったし。あの子の生来のうつくしさが、わたくしから引き剥がした悪魔の呪いを被るにあたり、どこかいびつに損なわれたのは残念だったけれど。それでも魔法に打ち込む彼の才が世にあかされるにつれて、あの子が摩耗していた事に、歯止めがかかった事は事実だったので。

 そしてリーエンリッテのお人形は、公爵夫人として人魚姫を飼って、それなりに幸せでありました。めでたしめでたし。――とは、残念ながら終わらない。

 悪魔の悪行はとどまらず、聖堂のお歴々は狩り上手で、わたくしの人魚は嘘つきだった。わたくしの浴室から人魚は狩られて奪われて、猫足の白いバスタブには、ぷかぷかあひるが泳ぎ浮くばかり。なにせ人魚が――わたくしの所有物だったあの子がいなくなって、寂しくってかなしくって、バスタブも浴室も、みんな義妹にやってしまったのだ。だってわたくしの人魚がいない以上、彼のための浴室なんて、見ている事すら悲しくなる。

 人魚がいなくなった以上、公爵家にいても意味はない。浴室であひるを飼いだした義妹のいとけなさに、これ以上ないほど頭を抱えていた夫に離縁を提案し、わたくしは修道院に駆け込んだ。義理の兄妹として振る舞ったとはいえ、彼らはもとは遠縁の従兄妹である。あまりに素早い再婚も、先妻の振る舞い次第では、醜聞になり得る事もない。

義妹との政略結婚という切り札を完璧に切った夫は、そういう次第でわたくしと、打算まみれの友情の誼を結んだ。いくらわたくしが世俗から離れるとはいっても、後ろ盾は必要だ。お互いに益もあり、お互いに損もなく、本当に結構な事である。「ねえさま、それでお式はいつに?」とか「気づいてないふりはそろそろやめてやった方が」とか、長々手紙を寄越してくるのは鬱陶しいけれど。

 かくしてわたくしの手元からは、煩わしいもの、大切なもの、何もかもが綺麗に精算された。

 今は修道院で静かに暮らしつつ、お布施と献金と贖宥状の代金とをうまく帳簿上でやりくりして、綺麗な寄付金に仕立てている。ついでに余ったお金も処分している。帳簿は綺麗に、修道院は潔白に、わたくしとしてもなかなかやりがいのある仕事だった。

 時折、人魚ではなくなった、あの子の噂話も聞こえてくる。先の朔の日には聖堂の魔法使い達と組んで、悪魔と盛大に戦いぬいたとの事だった。

 ――わたくしはきちんと知っている。もしもわたくしがあの子と恋でも交わしたら、あの子がわたくしを大切にしてくれるだろう事も。あるいはあの子が今もなお、わたくしの忠実な魔法使いであり続けたがっている事も。

 なんて気に入らない結末!

 終わらなければ、始まれないと、わたくしは思う。拾い拾われの恩に蝕まれた関係を捨てなければと。呪いの身代わり、命の肩代わり、犠牲の精神は繰り返される。そんな筋書きは望まない。

 ……だから早く、気づいてほしい。あなたは公爵夫人の人魚姫でも、伯爵令嬢の魔法使いでももはやない。神の花嫁の恋人にも、なるのはなかなか難しいと思う。それでもわたくしは気づいてほしい。それだけが、やっとお人形じゃないリーエンリッテとして生きている、わたくしの精一杯の恋なのだ。

 それでもただただ、待つだけというのは気にくわない。なのでわたくしは今月も、悪魔に金貨を売り渡す。あの子の無事をお金で買うのだ。人魚姫の浴室に費やす季節ごとの予算を得るべく、書類と帳簿と資料を片手にかつての夫と激論を交わしあった日々の経験は、こうしていまもわたくしたちの、立派な糧となっている。汚い所業でもなんでもいい、こういう愛だって必要だ。おかげさまで悪魔は喜劇にご満悦だし、あの子は無傷で戦功を得るし、功績はなにかと便利に使えるのだ!

 なにもかも歪な御伽噺も、いずれ成就するかもしれない。そんな夢だって見てしまえる。なにせ例の悪魔は存外、喜劇が好きで悲劇が嫌いで、世間話を愛していて、話がわかる相手なので。

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公爵夫人の人魚姫 篠崎琴子 @lir

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