3 リーエンリッテのお姫様

 俺がリーエンリッテの人魚姫になったのは、あの子が公爵夫人になる、たった一年前の事だった。

 リーエンリッテの父伯爵が、驚異の部屋を作ろうと取引をした相手が、悪名高い悪魔だった事が不運のはじまり。

 いくら世間で評判だからって、竜の鱗だの、小さな鏡の宮殿だの、西果てから取り寄せた奇石だの、珍奇な品々を集めて飾り立てようというのが間違ってたんだ。

「そんなに珍しやかなものがほしければ、娘の人魚でも飾ればいい!」

 悪魔はそう高らかに笑ったのだとか、なんだとか。憐れ伯爵は駆け引きに失敗し、娘を呪われてしまいましたとさ。おしまい。

 ――と、なればそれはそれで悲劇的な結末だったんだろうけど、俺はそんな締めくくりを認める気はなかったので、この話はめでたしめでたしで終わらせる。

 そうです。伯爵令嬢は彼女に心酔する才ある魔法使いの弟子の力を借りて、見事呪いをはねのけたのです。というか、俺が呪いをあの子から取り上げた。年の頃は近かったし、色彩も通じるところがあったから、そういう相似性を見立てに使った。あの子にかかった呪いを引き寄せ、彼女は人魚たるべしと定められた、悪魔の古い呪文のすべてを、俺は我が身に纏ったのだった。こうしてリーエンリッテを悲劇から救った、少年人魚はこの世に生まれ落ちたわけだ。

 同時に令嬢はお払い箱。一度は呪われた娘の引き取り手はない。かわいそうにね。

 だけど、あの子は強い子だった。呪われてもなお、凜然可憐に前を向く、その姿勢を崩さなかった。俺からすればそのさまは、やっぱり変わらず気高かったんだよ。

 さて、中継ぎの公爵とはいえ、良家の当主への嫁入りが決まったリーエンリッテは、彼女に宛てられた呪いを引き受けた、俺と俺のすまいのバスタブだけ引き連れて婚家へ入った。父親が用意しようとした、嫁入り道具は全て拒んで。

「わたくしがお父様からいただくものなんて、もうなにもないもの!」

 真っ赤な頬の花嫁の顔を、俺は今でもよく憶えている。なにもかも面白くないなって思った事もね。

 それでも、リーエンリッテ。あなたが義妹を可愛がって、公爵夫人としてあの家で暮らして、俺を浴室のバスタブで飼ってくれていた日々については、俺はわりと好きだったよ。

 才能、競争、研究……そういうめまぐるしい言葉と一緒に、魔術を、賞賛を、利用される事を憶えるとか、そういうのよりずっとね。

 とはいえそういう暮らしぶりも、長くは続かなかったけど。

 かの悪名高い悪魔の、呪いを退けた魔法使いを、悪魔と相争ってひさしい聖堂は、どうにかこうにか抱えたがった。弟子、の一語はその時どこかへ外された。

 まさかあいつらの崇める神に、跪かされるんじゃとか、最初は内心焦ったけれど、奴らとしてはなにかしら信仰心があればそれでいいらしい。俺にとっての神様は相変わらずリーエンリッテで、公爵夫人は俺をきちんと飼ってくれていたのだから、なんの問題も最初からなかった。ちなみにかの因縁の悪魔は、神などいないと豪語してひさしいらしい。

 とうとう公爵家の浴室にまで押しかけられて、俺は狩り出されて、今度は聖堂の水槽へ。おかげで「常にお側近くにいなければ、呪いを肩代わりできません」だなんて……即興で騙った理由もご破算。あんまりだ。

 挙句の果てに俺はリーエンリッテがお嬢様、って可愛がった今の公爵夫人には、嘘つきだとか罵られるし、結局なんだかんだあって、義妹と再婚したリーエンリッテの旦那には、同情の目で見られるし。ほんとたまったもんじゃないよね。なにもかも最低で最悪で、きらきらしていてわりと気に入っていた足すら、人間の物に戻さざるを得なかった。人魚のままだとなにかと不都合があったのは、正直否定しないけど。

 それでも、リーエンリッテ。伯爵令嬢だったあなたも、公爵夫人だったあなたも、もういない。「帰る実家なんてない、離縁された公爵夫人ですもの」。俺に騙されていたのだと知ってもなお、そう言って彼女は聖堂が擁する、女子修道院に入って暮らしている。

 聖堂所属の魔法使い達と組んで、悪魔の悪行の結果を収拾している俺としては、それでもいいのかなとも思う。修道院に居てくれれば、俺の多少の功名も彼女の耳に入るのだし、やりとりをするにも楽だった。

 ――それでも、たった三年でリーエンリッテと縁を切り、その後たった三ヶ月で再婚したばかりの公爵夫妻が、近頃手紙で尋ねる事がある。いわく「ねえさまとの逢瀬はどうなの」「そもそも彼女をまだ頷かせていないのか」。まったく、余計なお世話だった。

 愛の恋だの結婚だの、そういう関係性をしつらえなくたって、俺はいつまでも彼女の人魚姫でいるつもりだった。それだけはっきりしていれば、充分じゃないか。いくらリーエンリッテから、離縁と再婚を機によいお友達、みたいな言葉を貰ったからって、奴らは俺と仲の良いお友達ってわけでもない。目に見える関係性も必要だとか勧めてくるあたり、本当、欲深いなあの夫婦。

 リーエンリッテ。俺をお姫様って呼んだ、酔狂で気高いご令嬢。

 悪魔の呪いの肩代わりなんて、当時見習いだった俺からすれば、実に命知らずな事だった。けれど彼女がまた困ったら、俺はやっぱりあんな風に、彼女を助けてしまうだろう。彼女に尽くしてしまうだろう。リーエンリッテがひとりきりの、俺のご令嬢である限り。

 むかしむかしあるところに、いっとう愛らしい女の子がおりました。

 彼女のかたわらにはいつだって、彼女に仕える魔法使いがおりました。時には彼女に飼われた人魚姫もね。俺の矮小な恋が実ったとしたって実らないとしたって、そういう御伽噺だって、それはそれでうつくしいじゃないか。だからこれ以上、結末は変わらない。それでいい。

 なにせぬかるんだ水溜まりに座り込んで、震えるばかりだった憐れな捨て子を……俺にとってはきよらできれいで、そしていっとう気高い彼女は、躊躇わず拾い上げてくれたので。

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