第三章 「龍眼の巫女姫」
シャナクーダは
神の秘技でない限り造り得ぬように薄いアメジストの鏡であった。
セイルは心
彼は不思議なことに何をも映さず、しかし、あらゆるものの深奥を透かし映してしまうほどに透明な紫の鏡を覗き見た。そこに彼の顔は映っていなかった。
美しく瞳を見開き、何か云いたげに彼を見つめるシャナクーダの白顔があった。セイルは息を飲み、その類い
「どうしたものか……いつもそうなのだ……私はどうしてもこの瞳の色に惹き付けられて止まない……」
鏡を持つ指に力が籠もり、セイルは苦痛に目元を歪め、
そして、そこには元のシャナクーダが力なく
シャナクーダはすべてを見、そして悟り、鏡となった自分を後悔した。肩を震わせ、初めて理解した愛の味の遅かったことを後悔した。彼女はセイルに初めて
手を這わせ、片身のセイルを抱き締めた。その半顔に
「セイル、わたしは愚かでした……分かっていたというのに、目を
しかし、神であり不死身であるはずの青の神は、たった一人の愛する女の
シャナクーダは巫女姫としての役割を
事の次第をすべて洞の入り口に隠れ見ていた老女が、気味の良さそうに高笑う。
「さぁ、これで積年の仇を晴らしたぞよ。老妾の顔の傷の痛みを思い知ったかえ! 青の神」
その言葉を聞いたシャナクーダの心が燃えた。
腕の中のセイルの青い肌は
仮令その透かした象牙の肌が陽に焼け、赤くかさつき
仮令その闇に照らされた黒髪が砂埃を被り、色褪せようと。
シャナクーダは“
青い衣は裾切れ、褪せた青い
青の神に連れ去られた距離の分だけ彼女は歩き続け、
真っすぐに奥まった禊の間へと行き、彼女はセイルの
彼女は
「セイル……“死"があなたを連れ去ることが出来ても、あなたを引き留めておく権利はない筈です。半身を奪ったのはわたしであり、それは“死"に因ってでなく、ただ“死"はハイエナのように横からあなたの魂を
渡り申せ 細筋の
笹の小船は
帰路は草場に見えなくなった
泣き
見えぬ道なら草を払いて
汝が身に続く標を辿れ
水面がさざめき立ち、
真の黒の中、彼女に再びあの感覚が蘇ってくる。瞳は闇に溶け込み、元からなかったかのよう。しかし、それは昔の闇ではなく、死臭の漂う悪意ある漆黒であった。
彼女の黍の葉の青い衣が辺りを
ただ真っすぐに進み行くと、
「青の神、セイルがここに参られている筈……わたしは不当な死を受けた彼を迎えに参じたのです。彼をわたしに引き渡して下さい」
狗頭の男はその細い顔をきりきりとシャナクーダに向け、
「彼は死を受けた。死すべき正当な理由にて。人の子よ、死は
それっきりむっつりと黙りこくり、前を見据える。赤い斑紋が
その向こうに半身のまま横たわるセイルを見出だし、
「セイル……迎えに参りました。起きてわたしと共に地上へ戻りましょう。標に黍の葉を撒いておきます。必ずわたしを追って来て下さい……」
細く沈み込み、地を這うような低い声が鍵穴から漏れ聞こえる。
「シャナクーダ……何故にここまで降り立ったのか……? 何故死した私を追ってここまでやって来たのか……?」
しかし、シャナクーダはその問いに答えず、衣の裾を
「セイルよ、これが見えますか?」
「見える……」
「必ずわたしを追って来て下さい」
シャナクーダは立ち上がり、裾を
「人の子よ、振り返ってはならぬ。振り返り、そなたの求むる男を見てはならぬ……」
彼女はそのまま通り過ぎ、闇の中に消えた。点々と続く仄かな青い燐光を残して。
シャナクーダの心は既に決まっていた。それはセイルの死した時から。彼女は巫女姫であったことを心から悔やんでいた。
暗闇の中、背後の物音に耳を研ぎ澄ましつつ、歩を進める。一歩一歩地上が近づくに連れ、彼女は不安になり、振り向きたい衝動に駆られた。だが、前方に水色の揺らめく一点の光を見た時、彼女は這いずる音と荒い息遣いを聞いた。
「シャナクーダ……手を貸してはくれぬか……」
彼女は顔を前に向けたまま、屈み、低く延ばされる彼の手を後ろ手に掴んだ。とても軽い……彼女でも簡単に彼の体を引くことが出来るほどに。何度も
「痛むのですか?」
「とても痛い……」
彼女は自分の心を今ではすべて解っていた。セイルの
「
「今は……どのような御姿なのですか」
「半分吸い取られたままだ……吾が妻よ、前を見て歩めよ……決して私の醜い姿を見てくれるな……」
「あなたはまだわたしのことを妻と云われるのですね」
シャナクーダは振り向いた。しかし、彼女の目は既に失われ、何ひとつ見えはしなかった。そのことを知らぬセイルは恐れ
「そなたは私との誓いをまたも破るというのか……!? そなたは私に二度の死を受けよと云うのか?」
「いいえっ……!」
シャナクーダはセイルを抱き締め、
「わたしには既にあなたの姿は見えぬのです。最早わたしは“目あき"の巫女姫ではなくなったのです。この手でこの忌まわしい目を潰したのです」
セイルの息を飲む声が聞こえ、彼の両の手が彼女の頬を包み込み、
「シャナクーダ……そなたは私のことを何と呼ぶつもりか……?」
まるで彼方の水色の光が二人に近づいて来るように拡がる。シャナクーダは目を閉じたまま手探りにセイルの
「
それから二人は青の神の城に戻り、さらに
セイルは老い朽ちたシャナクーダの
セイルの魂とシャナクーダの魂は交じり合い融和し、区別がつかなくなった。彼が骸に
「吾が夫よ……
これはフラウという地の、今は滅び亡き国の伝説。
紫の鏡 藍上央理 @aiueourioxo
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