第三章 「龍眼の巫女姫」

 シャナクーダはほらの中に消えたきり、老女以外姿が見えず、青の神セイルは心待ちに彼女を待っていた。老女が渾身の力で放り投げた蜉蝣の一片ひとひらの羽根のような赤紫とも青紫とも輝くものが、カツンカツンと岩肌を危うい様子で転がり落ちるのを目にした。彼は興を覚え、その光る物に近づき、はかなげな美しさに見とれた。

神の秘技でない限り造り得ぬように薄いアメジストの鏡であった。

 セイルは心かれ、不吉を微かに感じたがそれを無視し、可憐な薄様のアメジストを手にした。

 彼は不思議なことに何をも映さず、しかし、あらゆるものの深奥を透かし映してしまうほどに透明な紫の鏡を覗き見た。そこに彼の顔は映っていなかった。

 美しく瞳を見開き、何か云いたげに彼を見つめるシャナクーダの白顔があった。セイルは息を飲み、その類いまれな美貌ときらめく黄昏色アメジストの瞳に声が出なかった。そしてそれはシャナクーダも同じこと。セイルの人為をも越えた容貌の秀麗さに心の鐘が打ち鳴った。二人は初めてそのおもてを目をぐねて見合わせたのだった。

 「どうしたものか……いつもそうなのだ……私はどうしてもこの瞳の色に惹き付けられて止まない……」

 鏡を持つ指に力が籠もり、セイルは苦痛に目元を歪め、うめいた。セイルを中心に、まるで木の実の殻を割るように空間が裂け、彼の引き裂かれていく半身が見る間に醜く青黒い鱗に覆われ、完全に両極のさがに分かれた。虚ろに瞳を泳がし、もはや鏡面さえも見ておらぬ。セイルの美しい半顔はけ反り、あお向けに倒れ込んだ。反対に、すべての邪性を帯びた凍りつくような恐怖神の半身は、鏡に吸い込まれるようにうねり、歪み、紫の鏡面の中へ無理矢理分けいるように押し入った。鏡はその手に持つあるじを失い、落下する。薄氷はくひょうを踏む音を立て、真っ二つに割れた。

 そして、そこには元のシャナクーダが力なくうずくまっていた。シャナクーダは瞳を押さえていた。目を開けるのが恐ろしかったのだ。しかし、それはその邪悪な半身を目にしたせいではない。今そこに半身をもぎ取られ、息絶えたセイルの横たわる哀れな姿を見たくないせいであった。

 シャナクーダはすべてを見、そして悟り、鏡となった自分を後悔した。肩を震わせ、初めて理解した愛の味の遅かったことを後悔した。彼女はセイルに初めて会見まみえた時に、既に恋に墜ちていたことに気付いたのだった。

 手を這わせ、片身のセイルを抱き締めた。その半顔に接吻くちづけし、頬を押し当て、愛しい男の名を呼んだ。何度も。

 「セイル、わたしは愚かでした……分かっていたというのに、目をらしていました。愛しています……あなたの求めたただの女として……わたしを一人にしないで下さい……」

 しかし、神であり不死身であるはずの青の神は、たった一人の愛する女のもたらしたことの矢に傷つき、今はその罠によって命を絶った。

 シャナクーダは巫女姫としての役割をついえたが、代わりに永遠とわの愛を失い、涙にむせぶばかり。

 事の次第をすべて洞の入り口に隠れ見ていた老女が、気味の良さそうに高笑う。

 「さぁ、これで積年の仇を晴らしたぞよ。老妾の顔の傷の痛みを思い知ったかえ! 青の神」

 その言葉を聞いたシャナクーダの心が燃えた。ほむらを上げ、喉のひりつく怒りを覚え、龍眼の魔力を備えた眼光を険しく老女に向けて放った。炯眼は威光を放ち、矢となって老女の愚かな胸を射抜いた。老女の愚魂ぐこんあがなったとしても、シャナクーダのやり場のない憤怒は収まらなかった。

 腕の中のセイルの青い肌は色褪せ、瑞々みずみずしかったアクアマリンの血色が、今は掠れた枯れ葉色となっていた。彼女は彼を背負い、蹌踉よろめきつつ、その亡骸なきがらを抱えて最初に禊を行った神殿へ、道なき道を辿って行った。

 仮令たとえその白い金蓮きんれんの素足から血が流れようと。

 仮令その透かした象牙の肌が陽に焼け、赤くかさつきひび割れようと。

 仮令その闇に照らされた黒髪が砂埃を被り、色褪せようと。

 シャナクーダは“反魂かえりみたまの儀式"を行うために荒野を休まず歩き続け、自分を痛め付けることも顧みなかった。それがせめてもの心の安らぎであったから……

 青い衣は裾切れ、褪せた青い片身かたみむくろを担ぎ、一心不乱に歩き続ける見窄みすぼらしい女を見て、荒野に住み着く民草は気味悪がり、石飛礫つぶてを打ち付けた。彼女の顔に血が滴っても、だれも庇おうともしなかった。彼女は一向ひたすら神殿を目指した。

 青の神に連れ去られた距離の分だけ彼女は歩き続け、ようやく突き崩されず、都市の郊外にぽつねんと建てられ放置された神殿の前に立った。段違いに足を掛けたとき、体がその場所を覚えていることを悟った。

 真っすぐに奥まった禊の間へと行き、彼女はセイルの糜爛びらんした半身を水の中に浸した。骸はゆらゆらと水底みなぞこに沈み、シャナクーダはその時になって初めて半分救われた心持ちになった。水の中でセイルの肌の色が元の鮮やかさを取り戻し始めたように感じたから。

 彼女はみぎわひざまずき、

 「セイル……“死"があなたを連れ去ることが出来ても、あなたを引き留めておく権利はない筈です。半身を奪ったのはわたしであり、それは“死"に因ってでなく、ただ“死"はハイエナのように横からあなたの魂をさらっていっただけなのですから……」

 清水きよみずの中に彼女も身を沈め、体を清めた。清水の中で彼女は再びその美しさを取り戻し、水下すいかの恋人の体に手を当て、呪歌を唱えた。



  渡り申せ 細筋の

  またぎ申せ 八尋やひろの川を

  笹の小船は水面みなもの下に

  帰路は草場に見えなくなった

  泣きに申せ 依りたま

  が返りたま 招き寄せ

  見えぬ道なら草を払いて

  汝が身に続く標を辿れ



 水面がさざめき立ち、飛沫しぶきを上げて断ち分かれ、暗い深淵を底に見せ、水下に横たわるセイルを飲み込んだ。それをシャナクーダは透かさず追い、断ち割れた暗いひずみへ身を滑り込ませた。するりと吸い込まれ、辺りは懐かしい闇の中。

 真の黒の中、彼女に再びあの感覚が蘇ってくる。瞳は闇に溶け込み、元からなかったかのよう。しかし、それは昔の闇ではなく、死臭の漂う悪意ある漆黒であった。

 躊躇ためらいもなく彼女は足を前に差し出し、ずいと歩を進めた。視覚ある者の常に抱く不安は彼女にはなく、闇の中に平坦な道が続くことを、彼女は何の疑いもなく信じ切った。

 彼女の黍の葉の青い衣が辺りを耿々こうこうと照らすわけではないが、微かに発光し、まるで闇夜に浮かぶ一匹の蛍のようであった。

 ただ真っすぐに進み行くと、忘却レーテの門に辿り着き、その門前に構える青い狗頭人身くとうじんしんの門番に、シャナクーダは告げた。

 「青の神、セイルがここに参られている筈……わたしは不当な死を受けた彼を迎えに参じたのです。彼をわたしに引き渡して下さい」

 狗頭の男はその細い顔をきりきりとシャナクーダに向け、

 「彼は死を受けた。死すべき正当な理由にて。人の子よ、死は運命さだめに応じてくだり来る。そなたの求める男は死すべき運命にあったのだ。我にこの門の戸をくる任務は命ぜられてはおらぬ。幾度門戸もんこを叩こうが、こちらから開くわけにはいかぬのだ」

 それっきりむっつりと黙りこくり、前を見据える。赤い斑紋が青狗あおいぬの目の縁を覆い、無言の怒りを発しているよう。しかし、シャナクーダにそれ以上何を云うわけでもなかったので、青狗を無視して彼女は屈み込み、忘却の門の鍵穴から向こうを覗き見た。

 その向こうに半身のまま横たわるセイルを見出だし、

 「セイル……迎えに参りました。起きてわたしと共に地上へ戻りましょう。標に黍の葉を撒いておきます。必ずわたしを追って来て下さい……」

 細く沈み込み、地を這うような低い声が鍵穴から漏れ聞こえる。

 「シャナクーダ……何故にここまで降り立ったのか……? 何故死した私を追ってここまでやって来たのか……?」

 しかし、シャナクーダはその問いに答えず、衣の裾を千切ちぎり、鍵穴に差し込み落とした。

 「セイルよ、これが見えますか?」

 「見える……」

 「必ずわたしを追って来て下さい」

 シャナクーダは立ち上がり、裾をほぐし、青白く仄かに光を放つそれを地に撒いた。青狗の男が呟く。

 「人の子よ、振り返ってはならぬ。振り返り、そなたの求むる男を見てはならぬ……」

 彼女はそのまま通り過ぎ、闇の中に消えた。点々と続く仄かな青い燐光を残して。

 シャナクーダの心は既に決まっていた。それはセイルの死した時から。彼女は巫女姫であったことを心から悔やんでいた。

 暗闇の中、背後の物音に耳を研ぎ澄ましつつ、歩を進める。一歩一歩地上が近づくに連れ、彼女は不安になり、振り向きたい衝動に駆られた。だが、前方に水色の揺らめく一点の光を見た時、彼女は這いずる音と荒い息遣いを聞いた。

 「シャナクーダ……手を貸してはくれぬか……」

 彼女は顔を前に向けたまま、屈み、低く延ばされる彼の手を後ろ手に掴んだ。とても軽い……彼女でも簡単に彼の体を引くことが出来るほどに。何度もつまずく気配があり、シャナクーダは恐る恐る尋ねた。

 「痛むのですか?」

 「とても痛い……」

 彼女は自分の心を今ではすべて解っていた。セイルのいらえを聞くや否や、彼女は躊躇ためらいもなく、両眼を指で突いた。生ぬるい血が飛沫き、しかし、背筋を走る痛みさえ、次に彼女の背後から囁きかけられた声に因って和らいだ。

 「いもよ……すべてそなたのせいではない……これは……そなたの瞳にかれ、手に取り、顔を覗いた私の宿命だったのだ……今まで私はそのために命を失ったことなどなかった……血すら流したこともなかった……そなたが最初で最後となるだろう……」

 「今は……どのような御姿なのですか」

 「半分吸い取られたままだ……吾が妻よ、前を見て歩めよ……決して私の醜い姿を見てくれるな……」

 「あなたはまだわたしのことを妻と云われるのですね」

 シャナクーダは振り向いた。しかし、彼女の目は既に失われ、何ひとつ見えはしなかった。そのことを知らぬセイルは恐れおののき、残された片手で我が身を隠し、

 「そなたは私との誓いをまたも破るというのか……!? そなたは私に二度の死を受けよと云うのか?」

 「いいえっ……!」

 シャナクーダはセイルを抱き締め、

 「わたしには既にあなたの姿は見えぬのです。最早わたしは“目あき"の巫女姫ではなくなったのです。この手でこの忌まわしい目を潰したのです」

 セイルの息を飲む声が聞こえ、彼の両の手が彼女の頬を包み込み、

 「シャナクーダ……そなたは私のことを何と呼ぶつもりか……?」

 まるで彼方の水色の光が二人に近づいて来るように拡がる。シャナクーダは目を閉じたまま手探りにセイルのかんばせに手を伸ばし、その両頬を包み込んだ。

 「つまと呼びます……」

 それから二人は青の神の城に戻り、さらに年月としつきが過ぎ去り、シャナクーダは人としての命を全うした。結局シャナクーダが目を潰したとても彼女の生きている間、セイルの邪性は封じ込められ現れることはなかった。

 セイルは老い朽ちたシャナクーダのむくろから光輝なる魂を取り出し、死の手に渡る前にそれを自分の体の中に取り込んだ。

 セイルの魂とシャナクーダの魂は交じり合い融和し、区別がつかなくなった。彼が骸に接吻くちづけし息を吹き込むと、シャナクーダの体は見る間に瑞々みずみずしく生まれ変わり、あの頃の若き巫女姫の姿に戻った。その美しさを永遠とわに保つ神のごとく。うっすらと目を開き、忘れかけた黄昏色アメジストの瞳をセイルの美々しい青いかんばせに向け、ほころぶ笑みを浮かべて彼の微笑に答えた。

 「吾が夫よ……永久とこしえにあなたと共におりましょう……」




 これはフラウという地の、今は滅び亡き国の伝説。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫の鏡 藍上央理 @aiueourioxo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ